- 作者:栗山 正博
- 発売日: 2007/08/17
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現代の日本の歴史は、創作された真実を伝えても、現実に起きた事実を伝えない。
・ ・ ・
日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている、はウソである。
・ ・ ・
戦後・現代の日本は、戦前・戦時中の日本を正しく評価せず全てが悪・犯罪として切り捨てている。
・ ・ ・
日本で代表的な人種差別反対派・親ユダヤ派・反戦平和主義者は昭和天皇であった。
親ユダヤ派、東条英機、板垣征四郎、松井石根、松岡洋右。
・ ・ ・
在米ユダヤ協会は、ソ連で逃げ道を遮断されたユダヤ人難民を救うべくユダヤ難民救援会を組織し、同協会の保証を条件としてアメリカ政府の許可を受け、ウォルター・プラウンド社(後にトーマス・クック社に合併)を通じて、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社、JTB)に日本への輸送協力を依頼した。
松岡洋右外相は、人道上の見地から、ユダヤ人難民の日本への緊急・早期入国を、「法律がない」為に大臣の独断権限で超法規処置として認めた。
ジャパン・ツーリスト・ビューローは、ユダヤ人難民約1万5,000人をウラジオストックから日本海経由で敦賀に輸送した。
・ ・ ・
日本政府は、国内へ押し寄せるユダヤ人難民の数が多い為に受け入れを拒んだ。
外務省は、ユダヤ人難民を日本に入国させるとナチス・ドイツとの関係を悪化させるとして反対した。
根井三郎は、「日本の領事が出した通行許可書を持っているのに、入国の許可を与えないのは、日本の外交機関が発給した公文書の威信をそこなうことになる」と抗議した。
大迫辰雄は、「本国から拒否されている以上、船に乗せるべきではない。(略) まして彼らはユダヤ人です。助けなかったとしても、他国から責められることはないでしょう。ただ……(略) 私は、彼らを、救いたいです」と答えた。
・ ・ ・
ユダヤ人難民を、暖かく受け入れたのは陸軍、憲兵隊で、生活の面倒を見たのは市民達で、右翼・右派、犯罪者、反ユダヤ派・人種差別主義者、陰謀論者などから守ったのは警察・特高であった。
陸軍、憲兵隊を動かしていたのは、東条英機陸相兼対満事務局総裁であった。
・ ・ ・
ナチス・ドイツはユダヤ人難民を逃がさない為に日本への入国を阻止すべく外圧をかけたが、東条英機陸相と松岡洋右外相らの非協力でユダヤ人難民を取り逃がした。
・ ・ ・
ユダヤ人達は、同胞をナチス・ドイツのホロコーストから助けてくれた東条英機、松岡洋右(病死)、板垣征四郎、松井石根らを見捨て、国際法で戦争犯罪者としてリンチ的縛り首で惨殺されるのを止めもせず、死者の尊厳が冒涜され、死という安らかな眠りが破壊され、魂=祭神が靖国神社から追放されるのを傍観している。
・ ・ ・
昔の日本人は、現代の日本人とは違って死を覚悟して、命を捨てて、瞬間瞬間の今を、正しいと信じて、精一杯に生きていた。
・ ・ ・
ウィキペディア
大迫 辰雄(1917年〈大正6年〉- 2003年〈平成15年〉)は、日本交通公社職員。千葉県千葉市出身。第2次世界大戦中の日本において、ユダヤ人を安全に亡命させるために尽力した人物の一人。
概要
1939年(昭和14年)、ドイツ軍のポーランド侵攻によって、第2次世界大戦が勃発。ナチス・ドイツが占領地にてホロコースト等のユダヤ人迫害政策を行う中、ヨーロッパのユダヤ人は西ヨーロッパへの逃げ道を失い、東欧、そしてソ連方面へと逃れた。在米ユダヤ人協会がアメリカ合衆国連邦政府の許可を受け、米ウォルター・プラウンド社(後に英トーマス・クック社に合併)を通して、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社、JTB)にユダヤ人輸送の斡旋協力を依頼する。ビューローは「人道的見地からこの任務遂行を決断」し、ユダヤ人輸送の斡旋業務を行うこととした。斡旋業務の具体例は、名簿に記載された氏名と顔写真を基に照合、本人確認作業や在米ユダヤ人協会からの一時金の給付、米国等第三国への出国手続きなどであった。ビューローは敦賀に駐在員事務所を設置、天草丸に添乗員を派遣して業務にあたった。
1940年(昭和15年)、大迫はジャパン・ツーリスト・ビューロー入社2年目にして、敦賀―ウラジオストック間を結ぶ日本海航路を担う天草丸のアシスタント・パーサー(船員)として勤務していた。20回以上日本海を往復し、船上での添乗斡旋を行った。ナチス・ドイツによる占領地域から来た2000人以上のユダヤ人が、ソ連のウラジオストクから日本の敦賀に向かうのを助けた。彼らの多くは日本から米国へと亡命した。これら難民の多くは「日本のシンドラー」ことリトアニアの日本帝國在カウナス領事代理であった杉原千畝やソ連の日本帝國在ウラジオストク総領事代理であった根井三郎によって発給されたビザを持っていた。 1941年(昭和16年)に独ソ戦が始まり、シベリア鉄道経由でのユダヤ人亡命が行われなくなるまで斡旋業務は継続された。
大迫は戦後も日本交通公社で勤務しており、1966年(昭和41年)頃には国際観光振興会(現在の国際観光振興機構、JNTO)に出向している。なお、著述家である北出明は国際観光振興会で勤務していた頃は大迫の部下であり、『日本交通公社七十年史』や大迫と彼が助けたユダヤ人難民の写真アルバムを基に、ユダヤ人のナチス占領地脱出を助けた日本人について『命のビザ、遥かなる旅路―杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(2012年、交通新聞社)を書いた。また、大迫自身も1995年(平成7年)に回想録を記している。大迫は2003年(平成15年)に死去した。
・ ・ ・
JTBグループcolors
素敵な日本人へ~命をつないだJTBの役割~
JTB職員 大迫辰雄の回想録 ユダヤ人輸送の思い出
Aug.18, 2017/グローバル、歴史、杉原千畝、命のビザ、映画
01「ユダヤ人渡米旅行の斡旋」
昭和十四年九月、ドイツ軍がポーランドに電撃作戦を敢行したため、東欧諸国、とくにポーランド在住のユダヤ人は西欧への脱出路を断たれた。そこで唯一の逃げ路であるソ連領に難民がなだれ込んだ。
その一部はシベリア経由日本及び北中支方面にも流れて来た。
在米ユダヤ協会では、悲惨な同胞を一人でも多く助け出したいと、ユダヤ難民救援会を組織し、同協会の保証を条件として、アメリカ政府の許可の下に、ウォルター・プラウンド社(後にトーマス・クック社に合併)を通じて、ビューローに斡旋の協力を依頼してきた。こうした要請にこたえたのは、時の外務大臣、松岡洋右の外交感覚であったと云われる。欧州からシベリア鉄道で、ウラジオストックまで来て、日本海を敦賀経由で日本に入り、東京、横浜から、アメリカへ送り出すまでの斡旋をしてほしいと要請された。費用は一人当たり神戸乗船者で四〇ドル、横浜乗船者は五〇ドルという契約であった。ビューローでは、敦賀・ウラジオストック間の航路に添乗員を派遣して、ユダヤ人輸送の斡旋に当った。昭和十五年九月十日、敦賀港出帆のハルピン丸を第一船として輸送を開始、独ソ戦のはじまる昭和十六年六月まで、十ヶ月にわたって、毎週一往復を運航、この間、一万五〇〇〇人に及ぶユダヤ人の輸送を実施した。この期間中、ビューロー本部では上陸地敦賀に駐在員を配置、また満州支部では満洲里案内所を強化して輸送に協力した。
・ ・ ・
外務省
外交史料 Q&A
昭和戦前期
1930年代(昭和5年~14年頃)
Question
戦前の日本における対ユダヤ人政策の基本をなしたと言われる「ユダヤ人対策要綱」に関する史料はありますか。また、同要綱に関する説明文はありますか。
Answer
1938年(昭和13年)12月6日に五相会議(首相、蔵相、外相、陸相、海相により構成された当時の最高国策決定機関)で制定された同要綱は、戦前期日本の対ユダヤ人政策の基本方針を定めたガイドラインで、当時日本の友好国であったドイツにおいてユダヤ人が迫害されている状況にあったにもかかわらず、ユダヤ人を他の外国人同様公正に取り扱うことなどが明記されています。同要綱の内容は、制定の翌日12月7日に有田八郎外相より主要在外公館に電報で伝えられました。この電報の起案文書が外務省記録「民族問題関係雑件 猶太[ユダヤ]人問題」(第5巻)に残っています。また、同要綱の解説文はワシントン・ホロコースト博物館で2000年(平成12)から翌年にかけて開催された展示会「Flight and Rescue」の図録に記述されています。
・ ・
Question
欧州で第二次世界大戦が勃発した後、多数のユダヤ人が日本に逃れてきて、神戸に滞在したという話を読んだのですが、彼らが神戸でどのように暮らしていたかがわかる史料はありますか。
Answer
戦前期の日本とユダヤ人のかかわりに関する史料は、主として外務省記録「民族問題関係雑件 猶太人問題」(猶太=ユダヤ)に綴じられています。また、同記録ファイルには、日本に逃れてきたユダヤ系避難民に関する史料も多数残っています。神戸における彼らの生活状況を詳細に報告した史料として、当時の日本郵船の神戸支店長が1941年(昭和16年)4月9日付けで、本社に送った報告書があります。
同報告書によると、当時の神戸には約1,700人にものぼるユダヤ系避難民が滞在し、そのうちおよそ1,000人は生活費にも困窮していて、在米ユダヤ人協会からの援助で1人1日1円20銭を支給されていましたが、食事や住居など厳しい暮らしを強いられていたそうです。その暮らしぶりを報告書では、「至極惨メナ生活ヲ営ミ居レリ」と、同情的に伝えています。
この報告書が現在外交史料館に残っているのは、日本郵船東京本社の船客課米国係が外務省亜米利加局第三課(旅券、査証関係を担当)の土居萬亀(どい・まんき)嘱託に送った書簡に、神戸支店長からの報告の写しを添付していたことによります。日本郵船側がこの問題を重視していた姿勢が読み取れます。
この後、ユダヤ人の多くは、外務省の判断と日本郵船の尽力により上海に渡り、第二次世界大戦後まで生き延びました。
・ ・ ・
2021年6月号 Hanada「蒟蒻問答
楊潔篪、泥棒・強盗・人殺しの論理
堤堯/久保紘之
『負けるものか』のど根性
堤 池江、松山に話を戻せば、二人に共通するのは才能やセンスもさることながら、それ以上に『なにクソ、負けてるものか』というド根性だよ。なによりそれが彼らを支えたんだ。翻って、日本の政治家にそんな負けん気があるか?
久保 政治家どころか、マッカーサー憲法を戦後75年間も押し戴くほどの日本人にないんじゃないですかね。
堤 早い話が、ウイグルの人権弾圧問題に対する対応だ。100万人以上が強制収容所に入れられて拷問、思想改造、強制労働、性的虐待、強制不妊手術・・・まさにポンペイオ国務長官が表現したジェノサイド(民族抹殺計画)を中国は行っている。
対して、中国の外務省報道局長の華春瑩(かしゅんえい)は『事実に基づかない世紀の大嘘だ』と一蹴しているけど、被害者の証言はどんどん集まっている。
この国家規模の人権侵害について、EU(欧州連合)は対中制裁を発動した。アメリカ、カナダ、イギリスも歩調を合わせて対中制裁に踏み切り、中国の当局者数人に対して入国制限や資産凍結の制裁を科す。つまりはG7のメンバーが、日本を除いて、こぞって中国の暴虐に『まった!』をかけた。日本だけが慎重に構えて(?)加わらない。その理由は①中国と距離的に近い②経済的に緊密な関係にある③制裁を加える法的整備がない・・・。
久保 世界の世論が中国制裁に向かって大きく動いているのに、『法律がない』でしのげると思っているとしたら、あまりにも浅はか。安倍のダイナミックな外交から、『対話と協力』のみの小利口な外務省主導外交に戻ってしまった感がありますね。
堤 ……EUが対中制裁に出るのは天安門事件(1989年6月)以来のことだ。この事件で中国の人民軍は万を超える人民を銃殺、あるいは戦車でひき殺し、世界中が中国を非難し制裁を科した。このとき、日本だけが中国への非難を控え、早々と制裁を解き、それどころか宮澤喜一政権は天皇訪中まで演出して中国の国際社会復帰を手助けした。
この日本の援助に対する中国共産党政権の『お返し』は、徹底した反日教育と尖閣諸島は中国が領有権を持つという宣言だ。以来、尖閣周辺の日本領海への相次ぐ侵犯だ。世界は日本人をお人好しの阿呆と見たに違いない。
昨年4月に予定された習近平の国賓来日は、武漢ウイルスの感染拡大と香港の民主弾圧で延期されたけど、この2月、日本政府は『年内の実施見送り』で調整した。来年は日中国交回復50周年に当たる。その際、習近平の国賓来日問題を再検討すると仄聞(そくぶん)するけど、国賓来日なんぞトンデモナイ。またぞろ『お返し』は、日本が虚仮(こけ)にされるだけ、お馬鹿な宮澤喜一の二の舞だ。
考えてみてほしい。クラスにイジメっ子がいて、みんなで『イジメはやめろ』と止めにかかっているときに、参加しない生徒Aがいる。次にそのイジメっ子のターゲットになったとき、生徒たちは『イジメはやめろ』と助けてくれるかな。
日本は対中批判に加われ!
・ ・ ・
大迫辰雄 1917(大正6)~ 2003.6.17(平成15)
昭和期のビューローマン・ユダヤ人を救った日本人
埋葬場所: 11区 2種 32側
東京出身。大迫兵輔・照子(共に同墓)の長男。青山学院大学卒業。1939(S14)外国人観光客を日本に誘致する目的の旅行会社ジャパン・ツーリスト・ビューロー(後の日本交通公社:JTB)に入社し添乗員となる。
この頃、ナチス・ドイツに迫害されていたユダヤ人たちを救うために、リトアニア日本領事館領事代理の杉原千畝が独断で日本通過査証のビザを発給し、ナチス・ドイツ支配下の欧州からの脱出を助けた。この「命のビザ」を貰ったユダヤ人難民たちは、リトビア、モスクワ(シベリア鉄道)、ウラジミール、イルクーツク、ウラジオストクへとたどり着いており、その後、船で福井県敦賀市に入り、日本到着後は横浜、神戸港などから上海、アメリカ、カナダ、アルゼンチン、パレスチナへと脱出を試みていた。
在米ユダヤ協会では、悲惨な同胞を一人でも多く助け出したいと、ユダヤ難民救援会を組織し、同協会の保証を条件としてアメリカ政府の許可の下に、ウォルター・プラウンド社(後にトーマス・クック社に合併)を通じて、ジャパン・ツーリスト・ビューローのニューヨーク支店に斡旋の協力を依頼し、東京本社に伝わり要請に応えた。
'40.9.10入社二年目の時に、アシスタント・パーサーという立場で、ユダヤ人輸送のため旧ソ連・ウラジオストク-敦賀 間の輸送船ハルピン丸の乗組員に配属された。しかし、ハルピン丸は大きすぎてウラジオストックの岸壁に着壁困難ということで、代船として天草丸(日露戦争で拿捕された元ロシアの客船:2,345トン)が就航することになった。大迫は乗船してくるユダヤ人を見てビューローマンとして責任を持って日本に送り届けようと思ったという。'40.9~'41.6 片道2泊3日の荒れ狂う日本海の航路を29回往復し、6,000人にも及ぶユダヤ人を出航前・下船後の手続きや乗客の世話などを行い、ビューローマンの中心的な役割を担った(JTBはユダヤ難民を約1万5000人輸送した。またビューロー本部では上陸地敦賀に駐在員を配置、また満州支部では満洲里案内所を強化して輸送に協力した)。
大迫はどの航海とも海が荒れ、船酔いと寒さと下痢に痛めつけられたうえ、異臭に満ちた船内斡旋のつらかったことを想起し、よく耐えられたものであると述懐している。この過酷な中、食事の世話から病人の世話など献身的に寄り添い支えた。またJTBから受け取ったリストをもとに船内で確認作業に追われた。ユダヤ人は同じ名字が多く耳慣れない発音でコミュニケーシュンに苦労が多い中で名前のチェックと上陸に備えた名簿作りを行った。日本上陸の際にパスポートが必要であるが、着の身着のまま逃げて来てパスポートがない人も多く、また身分保障に必要な現金もない者も多かった。そのようなユダヤ人にはユダヤ人協会からJTBに送られてきた現金を配り対応。更に日本上陸後の宿の手配も行い、同地のビューロー駐在員が業務を引き継ぎ任務を終えた。日本にたどり着いたユダヤ人の多くは「敦賀が天国に見えた」と言っている。
大迫の行動を見たユダヤ人が「何故、民間人の貴方が親切にしてくれるのか」という質問に、「旅行者を安全に日本に届けるのが私の役目です」と答えたという。後の大迫の手記には「私たちビューローマンのこうした斡旋努力とサービスが、ユダヤ民族の数千の難民に通じたかどうかは分からないが、私たちは民間外交官の担い手として、誇りをもって一生懸命に任務を全うしたことは確かである」と回想している。後に大迫はユダヤ系の新聞に“救世主”と紹介された。
なお、多くのユダヤ人を救った天草丸は、太平洋戦争が始まると鹿児島から台湾に就航することになったが、'44.11米軍の魚雷攻撃により沈没した。またユダヤ人難民が上陸した敦賀の市街地は、戦争終結直前に米軍の空爆で8割以上が焼失。そのため入管記録や資料などの大半が失われ、ビューローがユダヤ人救済に関わった詳細は不明となっている。
戦後、米国の占領軍統括の時代に、漸く国際観光が許可になり、日本に米国を主体とした観光客が来日することになった。その際、米国と日本を結ぶ豪華客船アメリカン・プレジデント・ラインの「ウィルソン号」にJTBから乗船勤務者第一号として大迫が抜擢された。横浜ーサンフランシスコを一月かけて往復。この客船は大型(18000トン)であり、後に大迫は「天草丸とは天と地の差があり、太平洋横断は生まれて初めてではあったが、日本海の経験があったため、全然船酔い無しで任務を遂行出来たことはありがたかった。」と回想している。享年86歳。
<素敵な日本人へ ~命をつないだJTBの役割~
JTB職員 大迫辰雄の回想録 ユダヤ人輸送の思い出など>
・ ・ ・
YAHOO!JAPANニュース
JTB、「杉原ビザを持った多くのユダヤ人を輸送したビューロー」が果たした役割を特 佐藤仁 | 学術研究員・著述家
2015/12/4(金) 15:38
株式会社ジェイティービーは、 2015年12月5日に公開される映画「杉原千畝 スギハラチウネ」にあわせて、 杉原ビザを持ったユダヤ人たちの輸送を担当したJTBグループの前身ジャパン・ツーリスト・ビューローの役割を伝える特設Webサイト「~素敵な日本人へ~命をつないだJTBの役割」を12月1日に開設した。
12月5日に公開される映画「杉原千畝 スギハラチウネ」では、俳優の濱田岳さんが演じる当時ジャパン・ツーリスト・ビューロー職員であった大迫辰雄氏が登場し「命のリレー」の一端を担う場面がある。特設サイトでは杉原千畝氏の功績とともに、当時の時代背景や命のビザをつないだ歴史的事実やジャパン・ツーリスト・ビューローが担った役割などを紹介している。当時の時代背景や過酷を極めた日本までのルートだったウラジオストクから敦賀までの移動に関する回想録や北出明氏のインタビューなど映画だけではわからない史実をネットで紹介している。
■歴史アーカイブとしての特設サイト
当時の日本は歴史、社会、文化、政治の面でユダヤと接触することはほとんどなかったため、日本において反ユダヤ主義は一般の日本人にとっては無縁の話だった。現在のように簡単にネットやテレビで海外の情報が入る時代でなかった当時の日本の社会はユダヤの問題に関心を持たなかったし、樋口季一郎などの一部を除いて多くの日本の政治家や軍人にとってもユダヤ人やその運命は謎めいたものだっただろう。ヨーロッパからの難民としてユダヤ人が日本にやって来たことによって、日本の多くの民衆はユダヤ人と初めて直接触れ合うことになった。そしてナチスからユダヤ人を救った杉原千畝氏は「日本のシンドラー」と称され世界的にも有名だが、当時のジャパン・ツーリスト・ビューローが「民間外交の担い手」として命がけでユダヤ人を輸送していたことを知っている人は多くないだろう。
杉原ビザで日本へ来たユダヤ人たちを影で支えていた当時のジャパン・ツーリスト・ビューローの職員らの活躍ぶりを知ることによって、今まで知らなかった日本とユダヤ人の関係と歴史を確認することができる。歴史は多くのひとりひとりによって作られているのだ。ウラジオストクから約4,000人のユダヤ人が日本にやってきたそうだ。敦賀で下船したユダヤ人にとって日本はさぞかし風変りでエキゾチックな土地だったろう。
JTBの特設サイトは当時のリトアニアから日本までの旅程や社会背景、ユダヤ人輸送に携わった職員らの思いなどコンテンツが非常に充実している。このサイトだけでも歴史のアーカイブであり、当時の日本やユダヤ人に思いを馳せながら読むと非常に興味深い。次世代に語り継いでもらいたい。
佐藤仁
学術研究員・著述家
グローバルガバナンスにおけるデジタルやメディアの果たす役割に関して研究。科学技術の発展とメディアの多様化によって世界は大きく進化してきました。それらが国際秩序をどう変化させたのか、また人間の行動と文化現象はどのように変容してきたのかを解明していきたいです。国際政治学(科学技術と戦争/平和・国家と人間の安全保障)情報社会学(ホロコーストの歴史と記憶のデジタル化)。修士(国際政治学)修士(社会デザイン学)。近著「情報通信アウトルック:ICTの浸透が変える未来」(NTT出版・共著)、「情報通信アウトルック:ビッグデータが社会を変える」(同)、「徹底研究!GAFA」(洋泉社・共著)など多数。
・ ・ ・
朝日新聞
福井)難民との交流伝える資料館が開館10年
聞き手・八百板一平
2018年4月30日 3時00分
ポーランド孤児やユダヤ人難民が敦賀港に上陸した歴史を伝える資料館「人道の港敦賀ムゼウム」(敦賀市金ケ崎町)が、3月に開館から10年を迎えた。市人道の港発信室長で、館長を務める西川明徳さん(47)に、これまでの館の歩みや今後の展望を聞いた。
――「ムゼウム」とは、ポーランド語で「資料館」のことです。どんな資料館なのでしょうか。
大正時代にロシア革命などの混乱で家族を失い、敦賀に上陸したポーランド孤児たちと、第2次大戦中に外交官の杉原千畝(ちうね)氏が発給した「命のビザ」を手に、敦賀港にやって来たユダヤ人難民の人々と、敦賀の人たちとの交流の歴史を、写真や新聞記事などの資料で紹介しています。敦賀の人々は孤児や難民たちを温かく迎えました。世界に開かれた港町・敦賀の歩みを紹介しつつ、命の大切さや平和の尊さを国内外に発信しています。
――どのようにして開館したのですか。
2008年3月29日に開館しました。きっかけは、06年秋から開かれたパネル展です。市民団体が進めていた聞き取り調査などの成果をもとにしたこの展示が反響を呼び、それを引き継ぐ形で、港のそばにある緑地の休憩所にできました。
証言のほかにも貴重な資料が寄せられました。ユダヤ人難民らを乗せ、旧ソ連のウラジオストクと敦賀港を結んだ「天草丸」で、世話役を務めたジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在のJTB)の職員・大迫辰雄氏のアルバム(館では複製を展示)や、ユダヤ人難民が市内に残した時計がその一例です。
――10年間を振り返って心に残っていることは。
「命のビザ」を手に敦賀に来た元難民の方や、その家族、子孫の方々を案内したときのことです。「敦賀のことを忘れない」と語る人、涙を流しながら、展示に見入る人――。敦賀のまちと人々のことを心から大切に思うその姿に触れて、「人道の港」としての歴史を持つふるさとのまちを誇らしく思いました。
――今後の展望は。
杉原氏を題材にした映画の影響などもあって、昨年度は過去最多の約5万7千人が訪れました。また、敦賀市や岐阜県八百津町など6市町村が協力し、「杉原千畝ルート推進協議会」をつくって、海外への発信にも取り組んでいます。もちろん、地元の子どもたちの学びの場としても活用されています。
市は、明治後期から昭和初期に港のそばにあった旧敦賀港駅など四つの建物の復元を計画しています。これらの建物にムゼウムの機能を移し、充実させたうえで、2020年度中の開館を目指しています。
ポーランド孤児やユダヤ人難民の命は、敦賀の人々を含む多くの人々のつながりによって救われました。その命は、次の世代、その次の世代へと受け継がれ、未来へと続いています。国境や世代を越えて続く命のつながり。交流の歴史を学び、語り継ぐ場にしていきたいと考えています。(聞き手・八百板一平)
◇
にしかわ・あきのり 1970年、敦賀市生まれ。大学時代にドイツ言語学を学んだ。市職員として、「人道の港敦賀ムゼウム」開館のきっかけとなったパネル展などに携わる。2016年4月から、敦賀ムゼウムの館長と市人道の港発信室長を務めている。
・ ・ ・
・ ・ ・
ユダヤ人難民を、助けたのは親ユダヤ派・親ポーランド派の陸軍軍人と天皇主義者や一般市民で、助ける事に猛反対し妨害したのは人種差別主義者であった親ドイツ派・反ユダヤ派の政治家、革新官僚・軍人官僚エリート、右翼・右派らであった。
・ ・ ・
ユダヤ人難民をヒトラーから助けた戦前・戦時中の日本人と、中国共産党のジェノサイドからウイグル人・モンゴル人・チベット人を助けず見殺しにしている戦後・現代の日本人とは無関係である。
・ ・ ・
ヒトラー、ナチス・ドイツと一般ドイツ人が違うように、中国共産党員・中国軍人と一般中国人は違う。
・ ・ ・
昔の日本人と現代の日本人は、別人のような日本人である。
現代日本人は、歴史が嫌いで、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、人種・民族・宗教・文化に対する偏見が強い。
現代日本人には、武士道精神や大和魂はおろか大和心・和心、惻隠の情さえない。
現代日本には、愚かしい武士道神話や陰湿・陰険な悪しき言霊信仰が蔓延っている。
それが、自粛警察などの同調圧力・場の空気・空気圧力で、つまらない人間の証しである。
・ ・ ・
武士道精神や大和魂、大和心・和心とは、勧善懲悪、女子供・老人や病人・障害者などの弱い者をイジメるのは男の恥、強きを挫き・弱きを助く、道理を見極め道を外れない、不遇な人や弱い立場の人への判官贔屓、などなどである。
強者に媚びず、富裕者に諂わない。
・ ・ ・
義を見てせざるは勇なきなりとして、戦争を覚悟をし、命を捨てる事を承知で人助けをした。
命欲しさに口先で行動しない「卑怯者」は、人間のクズとして嫌われた。
村八分は、そうした卑怯者に対して行われた。
・ ・ ・
昔の日本人は有言実行か不言実行であつたが、現代日本人は有言不実行か不言不実行である。
特に、人権派、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、教育者はそうと言える。
そして、マルクス主義者・共産主義者の反米派・反安保派・反米軍基地、護憲派・反自衛隊派、反戦平和団体、反天皇反日的日本人達も同類である。
彼らは、リベラル派戦後民主主義世代(団塊の世代・団塊ジュニア)とその薫陶を受けた次世代であり、高学歴の知的エリートや進歩的インテリである。
彼らは、自分だけが大事で、他人が生きようが死のうが、殺されようが気にもしない。
それは、右翼・右派・ネットウヨクでも同様である。
老害とは、彼ら全てを指す。
・ ・ ・
戦前の親ドイツ派・反ユダヤ派である政治家・外務省と現代の親中国派・媚中派である政治家・外務省は似ている。
戦前の親ドイツ派・反ユダヤ派である政治家・外務省は、ヒトラー、ナチス・ドイツのユダヤ人に対する宗教的な偏見や差別、迫害は知っていたが、ホロコーストに関しては連合国、バチカン・キリスト教会、国際赤十字社とは違って知らなかった。
現代の親中国派・媚中派である政治家・外務省は、中国共産党がおこなっているウイグル人・チベット人・モンゴル人・少数民族へのジェノサイド(民族根絶)、法輪功・キリスト教への宗教弾圧、香港民主派への政治弾圧を知りながら、批判も反対も非難もせず黙認し、貿易断絶・経済制裁などの損を承知で助けようという心・覚悟・意思もない。
全てを知る現代の親中国派・媚中派である政治家・外務省は、全てを知らなかった戦前の親ドイツ派・反ユダヤ派である政治家・外務省よりも冷血・冷酷・非情で残酷・残忍である。
・ ・ ・
反ユダヤ諸国を敵に回してもユダヤ人難民を助けた日本の思想は、世界理念としての人道主義・人権論ではなく、神武天皇が国家理念として掲げた日本独自の大家族主義である「八紘一宇」であった。
日本の公・忠優先家族主義は、中国や朝鮮の私・孝優先宗族主義とは関係ない。
・ ・ ・
日本の国益を棄損して恥じない親中国派・媚中派の巣窟は、保守の自民党とリベラルな公明党などの政権与党諸派と官僚・役人である。
・ ・ ・
天皇の歴史・日本国の歴史・日本民族の歴史とは、朝鮮とは違い、たとえ国が貧しくなり国民が貧困に喘ごうとも国家としての自主独立を守る為に、中華皇帝への臣下の礼を拒絶し、中国・中華帝国の属国・保護国を拒否する歴史であった。
中華(中国や朝鮮)を拒む為の正統性が天皇・皇室であった。
・ ・ ・
ユダヤ人難民を助けた、戦前の親ユダヤ派と親ポーランド派の多くが戦争で生きたまま焼き殺されるという悲惨な最期と遂げていた。
戦争の悲劇とは、困っている人を助けるという良い事・善行を行っても不運に見舞われ幸せになれず報われない事である。
日本民族の他人への情けには、報酬として死が待っていた。
・ ・ ・