⚔37)─4・K─徳川家康の三河一向一揆鎮圧。仏教の暴力化に対する徳川幕府の宗教弾圧。~No.162 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昔の日本の国柄は、論語儒教的政治権力(御恩、忠君、滅私奉公)と日本仏教的宗教権威(慈悲、利他)と神話神道天皇のご威光(大御心、御稜威)の三竦みによる鼎立体制であった。
 日本民族の「和心」は、神話神道天皇のご威光(大御心、御稜威)のみである。
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 中国と朝鮮の中華儒教は、非人道的排他的不寛容的教条差別主義として、偏見で日本国・日本民族を文化度のない教養のない野蛮人=蛮族と軽蔑し差別し迫害していた。
 孔子儒教と言っても、日本の論語儒教(異端儒教・私学)と中国・朝鮮の中華儒教(正統儒教・官学)は違う。
 中国と朝鮮の中華儒教は、インド仏教を一君独裁の皇帝統治を否定し破壊する革命宗教として弾圧した。
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 白人キリスト教徒商人は、中世キリスト教会やイエズス会などの修道士会の協力を得て、日本人をアフリカ人同様に奴隷として世界中に売り飛ばして大金を稼いでいた。
 当時の日本人は、男性の方が女性に比べて傭兵として高額で売れていた。
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 日本人を戦場で捉えて奴隷として売って大金を手にする日本の「乱取り」は、貧困層庶民文化である。
 大名・武士は領地から領民が減る事を嫌い、庶民が当然の権利として行っていた乱取りを禁止していたが止められなかった。
 昔の日本の下層階級庶民は、非人道的で怖ろしかった。
 現代の日本人は民族的な歴史力・伝統力・文化力・宗教力がないだけに、日本人の闇が理解できない。
 大名・武士による百姓・庶民への嫌悪は、「乱取り」が原因であった。
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 徳川家康は、反宗教無神論イデオロギー朱子学(官学)を統治理論とした。
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 2023年3月7日 YAHOO!JAPANニュース 婦人公論.jp「本郷和人 なぜ一向宗は「中部地方」で一大勢力になったのか?「タテ」に結びついた武家と「ヨコ」に結びついた荘園武士の激突について『どうする家康』
 三河一向一揆編が終了。その背後で激しく激突していた「タテ」と「ヨコ」の関係とは――(写真提供:PhotoAC)
 松本潤さん演じる徳川家康がいかに戦国の世を生き抜き、天下統一を成し遂げたのかを古沢良太さんの脚本で巧みに描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第9話では“イカサマ師”本多正信松山ケンイチさん)率いる一向宗側との戦いを続ける中、身近な家臣さえ信じられなくなった家康。対して、鳥居忠吉イッセー尾形さん)から「裏切られても信じきるか、疑いがある者を斬り捨てるかだ」と問われた家康は決意を固めて――といった話が展開しました。
 【絵】長島一向一揆。信長は三度にわたって長島を攻めるも、凄惨を極めた戦いで多くの一族が命を失う
 一方、歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生が気になるあのシーンをプレイバック、解説するのが本連載。第28回は「タテとヨコの関係」について。この連載を読めばドラマがさらに楽しくなること間違いなし!
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◆「不入」について
 『どうする家康』、家康にとって苦々しい経験となる、三河一向一揆編が完結しました。
 この三河一向一揆編、ドラマ内で「不入」という言葉がしばしば使われました。これは、守護の権力、武家の権力が手出しのできない土地、という意味です。
 「一向宗から年貢を回収できないのは、その所有地に不入の権が設定されているから」という状況に対し、家康が「それはいったい誰が認めたのか」と疑問を抱きました。すると、家臣たちからは「今川義元が認め、殿の父である広忠殿がそれに倣ったからだ」という反応が戻ってきたように記憶しています。
 この家臣たちの認識が正しいのならば、もともとは現地の大名である今川家が認めたのですから、同じく現地の大名となった松平家がそれを否定しても論理的にはおかしくないはずです。京都の足利将軍家天皇家が認めた、ということになると話は別ですが。
◆「アジール」とは何か
 土地を支配する権力が未熟であるとき、支配者の力が及ばない「不入の地」はたくさんありました。ですが、こうした現地の権力が成長していくと、次第に「不入の地」は少なくなっていきました。
 なお、武家権力の浸食の対象になった土地は、たとえば神社・仏閣などの宗教的な聖域の要素を持つ場所や、市場など複数の権力が入り混じる交易場所などでした。まさに今回のドラマで登場した本證寺がこれに該当するでしょう。
 こうした土地のことを、歴史研究では「アジール」と呼びます。
 最初にアジール研究を始めたのは、皇国史観の理論的指導者、平泉澄先生でした。一方、戦後にとても大切な研究をされたのが、網野善彦先生です。
 アジール内で人間は、本来の善良な性格を発揮し、自由で平和な生活を営んだ。だが、戦国大名の権力がアジールをどんどん否定していった、と網野先生は説きました。
 この解釈が正しいとすると、当時の庶民は自由と平和を守るために、戦国大名の強大な武力と命がけで戦ったことになります。
◆網野理論に影響を受けて
 ぼくは大学に入学した時に、網野先生の『無縁・公界・楽-日本中世の自由と平和-』(1978年、平凡社)を読み、歴史研究とはこういうものか、とびっくりしました。というのも、それまでの自分は「義経鵯越の逆落とし」とか、「信玄と謙信の一騎打ち」とか、名シーンあっての日本史のほうに、夢中だったから。
 それでも周囲の学友ほどは、感嘆できませんでした。
 庶民ってそんなに強いのかな。戦国大名の権力は、いろいろなものを奪っていっただろうけれど、庶民の生活を守る、という要素ももっていたんじゃないのかな。だからこそ武田信玄上杉謙信は、今でも地元の英雄なのだろう、などと考えていました。
 しかし、今振り返れば、網野理論は、思考へ確実に影響を与えていたのだと思います。というのも、卒業論文高野山領荘園を題材にしたぼくは、当時の表現で一味和合、いわば「仏の前での平等」を意識するようになっていたのです。
◆なぜ中部地方一向宗は一大勢力になったのか
 高野山の荘園に住む武士たちは、高野山に集結し、強大な軍事権力を構築した。このとき、「仏の前での平等」という概念は、それぞれの荘園の武士たちを「ヨコ」に結びつける接着剤となる。
 彼らは主従性に基づいた「タテ」の関係で結ばれた武家勢力と戦い、敗北していった。
 紀伊国では高野山根来寺粉河寺など、真言宗寺院が強力だったので、これらが「小規模な武士たち」の結集の場となった。
 だが、一向宗の力が強かった地域もあった。数多くの「小規模な武士たち」が村落を代表するリーダーとなるためには、生産力の高い地域である必要がある。それは具体的には中部地方である。
 畿内は伝統的な寺院の力が色濃く残存しているので、一向一揆が結ばれにくい。関東は生産力が低いので、数少ない「中規模の武士」が戦国大名の家臣になっていく。
 これに対して中部地方は、「小規模で多数の武士たち」が「阿弥陀の前での平等」の概念をかかげてヨコに連携し、一大勢力となった。そして彼らは織田信長と長い期間、死闘を展開したわけです。
 信長の軍勢と一向一揆とは、在地に勢力を有する(というか、在地性を捨て去れない)武士たちが中軸となる軍事組織なのだが、かたや「タテ」、かたや「ヨコ」と異なる方向性を有していたために、適当なところで妥協することができず、有名な信長による”虐殺”という悲劇が生じることになってしまった――
 そんなことを卒論にまとめました。
◆道を外れるのは「卒論」の時点で決まっていた?
 発想自体は悪くない。今でもそう思っています。
 同級生で同業者の家内も同意見です。なお、彼女によると、ぼくがこれまで書いた論文の中でも卒論が一番だそうで。それはそれで問題ですね。
 一方で、恩師の五味文彦先生はあまり評価してくださいませんでした。『史学雑誌』に掲載を許されたのですが、論文でなく、研究ノートとして扱われてしまいました。
 思えばそれも含めて、「卒論」の時点で、ぼくが学士院会員への道を外れていくのは決まっていたのかもしれません。もはや取り返しのつかぬことですが(苦笑)。 
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 2023年3月12日 YAHOO!JAPANニュース「家康は宗教弾圧の一環として、三河一向一揆と戦ったのか
 徳川家康。(提供:アフロ)
 大河ドラマ「どうする家康」では、三河一向一揆の場面が描かれていた。今回は、家康が宗教弾圧の一環として、三河一向一揆と戦ったのか考えることにしよう。
 そもそも一向宗とは、親鸞が開祖となった仏教の宗派の一つで、教義は阿彌陀仏の本願他力の回向によって往生すると説くものだった。親鸞が没したあと、一向宗本願寺派など10派に分かれた。一向宗は、のちに浄土真宗と称されるようになった。
 一向一揆が見られるようになったのは、1460年代のことである。一向一揆が盛んになったのは、中興の祖である本願寺第8世の蓮如(1415~99)の頃だった。蓮如は精力的に布教活動を行い、教団の規模を拡大させていった。
 一向一揆は、別に門徒(信者)だけが加担したのではない。農民、名主、地侍等々の広範な勢力が結集し、守護や大名の支配に抵抗した。特に、畿内、東海、北陸方面で一揆は勃発し、加賀守護の富樫氏は滅亡に追い込まれたほどだった。
 それゆえ、各地の守護や大名は、一向宗の動きを警戒していたのである。それは、家康も同じだった。永禄6年(1563)に三河一向一揆が勃発した。家康が対策に忙殺されたのは、ドラマのとおりである。
 三河一向一揆が勃発した理由は、①不入特権侵害説(家康が一向宗寺院が保持していた不入の特権を侵害したこと)、②流通市場介入説(家康が一向宗寺院が保持していた水運、商業などの特権を侵害したこと)という説がある。
 この一揆では、もちろん一向宗寺院が拠点となり、家康に兵を挙げたのだが、問題はそれだけではなかった。一揆勢の蜂起のどさくさに紛れて、家康の家臣だけでなく、吉良義昭、荒川義広といった三河の国衆も家康に反旗を翻したのである。
 最初は一向宗の権益が問題だったが、便乗するかのように家康の敵対する勢力までもが与同したのだ。もはや、一向一揆という枠を超えていたのである。むろん、家康は彼らを徹底的に弾圧せねば、生き残ることができなかったといえよう。
 一揆の鎮圧後、家康は一向宗の布教を禁じたが、それは宗教弾圧とは言えない。家康は一向宗と諸勢力が再び連携し、歯向ってくることを恐れたのだ。天正8年(1580)になると、大坂本願寺織田信長に降参し、一向宗の威勢が衰えた。
 その3年後、家康は一向宗の布教を許したが、その理由は彼らが挙兵しないことを確信したからだろう。家康が本気で一向宗を弾圧しようと考えたらならば、皆殺しにするなど徹底した方策で臨んだはずである。
 渡邊大門
 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校・中野校講師。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社、『戦国大名の戦さ事情』柏書房など多数。
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 2023年5月17日 YAHOO!JAPANニュース nippon.com「シリーズ「日本の仏教」 第7回:日本仏教の暴力性
 仏教本来の教えでは、暴力は完全に否定される。しかし釈迦(しゃか)が制定した戒律を収めた「律蔵」が機能しない日本の仏教界にあっては、暴力行使が容認された。こうした特異性が僧兵を生み、一向一揆を起こすことになり、第2次世界大戦では僧侶が戦争に協力することにつながっていった。
 第5回(時代や社会状況によって変容した天台宗)の解説で、日本仏教にはサンガ(ブッダの教えに従って暮らす僧侶の自治組織)が存在せず、サンガを運営していくための法律である律蔵も機能していないことを明確化してきた。この状況は日本に仏教が導入されてから現代に至るまで、およそ1300年間にわたって変わることなく続いている。
 律蔵が機能していないことにより、日本仏教の僧侶は、他の仏教世界では見られない独特の生活形態を取るようになった。出家する際にウパサンパダー(受戒)の儀式をおこなわない、酒を飲む、結婚して家族を持つといった行為は、律蔵によれば、すべて処罰の対象となる違法行為であるが、律蔵の存在が認知されていない日本仏教では、さほど問題とされない。せいぜいで「社会通念として好ましくない」といった批判がなされる程度である。そしてこういった日本仏教だけが持つ特性の中でも、最も重要かつ深刻な特性の1つが、「暴力の肯定」である。
 律蔵では、僧侶が他者に暴力を振るうことは絶対に禁じられている。武器を手にして争うことはもちろん、たとえ教育上の必要性によって弟子を叱責(しっせき)する場合でも、暴力を用いることは決して許されない。僧侶が軍隊の行進を見ることさえも禁じられているのである。仏教以外の宗教の中には、「邪悪な暴力行為は禁じるが、自分たちの宗教を脅かす者を排除するための正義の暴力は許される」という考え方もあるが(いわゆる聖戦思想)、仏教はそれも許さない。いかなる暴力も、ブッダの教えに背く行為として非難されるのである。
 律蔵がないために暴力を肯定
 インドで釈迦(しゃか)が創始した本来の仏教は、このように暴力を絶対的に否定していたのだが、その後の長い歴史の中で、この基本原理は崩壊し、次第に暴力を肯定する傾向が強まっていった。僧侶が暴力を振るった事例は多くの仏教国で見られるし、僧侶自身が暴力を振るわなくても、僧侶としての権威を利用して権力者に暴力行為を促すといった事例は現在でも時として見られる。しかしながらそれでも、律蔵が機能している限り、そういった行為は「律蔵に背く非仏教的な行為」として法的処罰の対象となる。律蔵があるおかげで仏教の僧侶は、暴力を肯定したいという本能的欲求から身を守ることができるのである。
 しかし日本仏教では、その律蔵が機能していない。その結果として、当然予想できることであるが、聖戦思想を利用した暴力が積極的に容認されるようになった。「仏教の教えを守るためならば僧侶が暴力を振るうことも許される」、あるいは「仏教の教えを守るために暴力的に戦うことは、進んでなすべき善い行いである」といった暴力肯定の姿勢が承認されるようになったのである。
 問題は、ここで言う「守るべき仏教の教え」というのが、決して釈迦が説いた大本の仏教ではなく、個々の僧侶が所属している宗派や教団の教えを指しているという点である。つまり彼らは、自分たちの地位や権威や利得を守るために暴力を振るうことを、正当な仏教的行為だと考えるのである。
 日本仏教の全体が律蔵のない状態で発展したのであるから、このような暴力肯定の姿勢は宗派を問わず、日本仏教界全域に広がっていった。仏教界が全体として「正義の」暴力を肯定し、仏教界を支える一般社会もその在り方に違和感を抱かない、という点にこそ、律蔵を持たない日本仏教の特異性が顕著に表れているのである。
 僧侶の軍隊が乱暴狼藉(ろうぜき)
 貴族社会と結びついて多くの既得権を得ていた奈良の仏教や真言宗天台宗は、自分たちの立場を守るために暴力を利用した。代表的な事例が、「僧兵」と呼ばれる「僧侶の軍隊」である。奈良仏教の代表的寺院である東大寺や、天台宗の中心寺院である京都の延暦寺など、多くの寺院が僧兵を抱え、天皇でさえも統制不可能なほどの無法行為を繰り返したのである。
 一方、天台宗を母胎としながら、その天台宗に反抗するかたちで登場した新興の仏教宗派は、新たに自分たちの勢力域を拡大するために暴力を用いた。代表は浄土真宗一向一揆である。宗祖の親鸞は謙虚な人物で、暴力的な言動はまったくなかったが、跡を継いだ組織運営者たちは、自分たちの組織拡大を阻害する旧仏教の勢力や権力者たちに対して強大な軍隊を組織して立ち向かった。その軍事力は強大で、15世紀から16世紀にかけての約100年間、越前、加賀、三河、近畿などで広大な地域を完全に支配し続けるほどであった。こういった勢力拡大のための暴力性は浄土真宗に限ったものではない。当時の多くの新興仏教宗派において多かれ少なかれ見られる現象であり、僧侶が暴力行為に関わることが容認されたのである。
 第2次世界大戦に協力した日本の仏教界
 その後、権力の集中が進み、徳川幕府が日本全体を統治する江戸時代になると、すべての仏教宗派が幕府の政治体制の下で安定的に棲(す)み分けるようになったため、仏教の暴力性は影を潜めた。しかし、「僧侶はいかなるかたちでも暴力に関与してはならない」という律蔵の基本原則は理解されないままであったため、周囲の社会状況が変化すれば、直ちに暴力性が表に現れるという危険な状態での鎮静化であった。
 江戸時代が終わって徳川幕府が消滅し、明治時代になると、新政府は神道の国教化を進めた。新たに発布された「神仏分離令」により、それまでは一体化したものとして扱われていた神道と仏教が切り離され、仏教は神道よりも下位に位置づけられたのである。こうして日本は天皇を中心とした神道国家になったが、その時日本の仏教界は、その新たに登場した天皇中心の神道勢力と協力体制を取った。その一番の理由は、今後外国から流入してくるキリスト教の力を恐れ、国家権力との共同戦線でこれを防ごうとしたところにある。キリスト教を排除する、という共通の目的のもとに宗教界は一体化し、日本仏教は天皇中心の国家権力の支援団体になったのである。
 やがて日本が中国や欧米諸国との戦争に突入すると、それまで影を潜めていた日本仏教の暴力性が、「天皇がアジアを統一することによって、日本中心の平和な世界を実現する」という大義名分のもとで再び姿を現すことになった。この時代に、日本仏教がどういったかたちで第2次世界大戦に協力し、僧侶自身がどれくらい戦闘に参加したかという点は、戦争が終わった後も長く曖昧にされたままであったが、最近、その実情を明らかにする研究も現れて来ている。
 戦時中、仏教界が戦争に加担することを強く批判する人たちもいたが、大方の宗派は、そのトップからして、積極的に戦争遂行に協力した。信者たちに、戦争に行くよう檄(げき)を飛ばし、武器製造のために布施を集め、天皇ブッダを同一視するような教説を広めたのである。「自分たちの正義を守るための暴力は許される」という古来の理屈がよみがえったのである。
 日本が戦争に負けて、天皇が「自分を中心として成り立っていた日本の宗教世界は崩壊した」と自分自身で宣言したことにより、日本の宗教構造は一夜にして消滅し、驚くべき速度で民主主義国家へと変貌した。この変化の中で日本仏教の暴力性も再び影を潜め、現在の日本仏教には一片の暴力性も見られない(禅宗の修行場内では今も暴力を肯定する人が存在するが)。しかし「僧侶はいかなるかたちでも暴力に関与してはならない」という基本原則はいまだ浸透していない。律蔵を持たない日本仏教が克服すべき将来の課題である。
 【Profile】
 佐々木 閑
 花園大学文学部特任教授。1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科・文学部哲学科を卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。カリフォルニア大学留学を経て花園大学教授に。定年退職後、現職。専門はインド仏教学。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版、1999年)、『インド仏教変移論』(同、2000年)、『犀の角たち』(同、2006年)、『般若心経』(NHK出版、2014年)、『大乗仏教』(同、2019年)、『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人、2021年)など。YouTubeチャンネルShizuka Sasakiで仏教解説の動画を配信中。
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 2023年5月17日17:00 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「三河一向一揆の鎮圧後、徳川家康はなぜ離反した家臣に寛大だったのか?
 徳川家康の生涯において「三大危機」のひとつにあげられる三河一向一揆。この戦いにおいて、家康の家臣のなかには、自らの信仰心から一向一揆側に与する者もあらわれ、家臣団が2分したことで家康が危機を迎える一因にもなった。だがしかし、一揆鎮圧後、家康は敵方である一揆に味方した家臣たちを赦免したという。この寛大さがのちの天下取りを支える家臣を生んだ。
松平家が真っ二つに!? 家康三大危機のひとつ
 三河国平定も目前かと思われた永禄6年(1563)9月、家康を窮地に追い込む出来事が勃発する。三河一向一揆が起こったのだ。この一揆は、家康三大危機の一つにも数えられており、21歳の家康を襲った大きな試練だった。
 一向一揆は、一向宗浄土真宗本願寺派)の門徒による一揆で、門徒には農民や非農業民、地侍や武士もいた。三河では、土呂(とろ/岡崎市)の本宗寺、野寺(のでら/安城市)の本證寺(ほんしょうじ)、佐々木(岡崎市)の上宮寺(じょうぐうじ)、針崎(はりさき/岡崎市)の勝鬘寺(しょうまんじ)など有力な本願寺の寺院が建立されていた。
 三河一向一揆はなぜ起こったのか。家康の家臣が上宮寺(もしくは本證寺)から兵粮(ひょうろう)を強制的に徴収したことがそもそもの発端だったとの説がある。そうではなく、本願寺教団が掌握する水運や商業などを狙い、意図的に家康側が一揆を誘発したとの見解もあった。しかし、三河統一が目の前という時になり、家康側から一揆を無理に引き起こすなどあり得るであろうか。家康は永禄3年以来、合戦に次ぐ合戦を繰り広げていた。それに永禄の飢饉も重なり、兵粮米の確保は緊急課題となっていた。そうした事を想う時、一揆は兵粮米の徴収に絡んで偶発的に起きたものと推定される。
 一揆が厄介だったのは、一部の松平一門(桜井の松平家次/まつだいらいえつぐ/や大草/おおくさ/の松平昌久/まさひさ)や家臣(渡辺守綱/わたなべもりつな/や石川康正/いしかわやすまさ、夏目吉信/なつめよしのぶ、本多正信/ほんだまさのぶ)らが、一揆方に与したことだ。『三河物語』のなかには、家康が出陣してくると、退却していく一揆方の侍の姿が何度か描かれている。敵対したとは言え、主君に槍を向けることに抵抗があったのだろう。一揆勢との本格的な戦闘は永禄7年1月から始まり、激戦が展開されるが、当初は勝負はつかず。
 だが、同年2月になると家康方が優勢となり、一揆方に厭戦(えんせん)気分が蔓延。和議の話が持ち上がる。家康は和議に乗り気ではなかったが、家臣の諌(いさめ)もあり、応じることとなった。家康が一揆参加者の赦免や、寺内の不入特権の保証を約束したために和議は成立する。が、一揆が解体すると、家康は約束を反故にした。一揆方だった本多正信や渡辺秀綱らは追放。一向宗の寺院も改宗を迫られることになる。「以前と同じようにするとの約束ではないか」と抗議の声があがると、家康は「以前は野原だったのだから、もとのように野原にせよ」と言い、堂塔を破壊した。本多正信は後に帰参することになるが、大久保忠世(おおくぼただよ)の取りなしがあったとも言う。家康には家臣に裏切られても許す寛大さがあった。
■三奉行どころか奉行人は多数存在した
 三河一向一揆という一門・家臣団の分裂という危機を乗り越えた家康は、永禄7年(1564)の夏より、東三河に本格的に侵攻していく。駿河今川氏真(いまがわうじざね)は、遠州の国衆の反乱により、家康に反撃することはできなかった。東三河は次々と家康方の手に落ち、永禄9年5月、今川方の牛久保城の牧野氏が降伏したことにより、家康による三河平定は成ったとされる(牧野氏は最後まで今川方として抵抗していた)。
 さて、三河を平定した頃の松平家の家臣団編成は「三備」と呼ばれている。東三河酒井忠次(さかいただつぐ)が頭、西三河は石川家成(いしかわいえなり)が頭となり、それぞれの地域の松平一族や国衆が配された。そして家康のもとには、本多忠勝(ほんだただかつ)・榊原康政(さかきばらやすま)・鳥居元忠(とりいもとただ)ら旗本が編成されたのである。これが「三備」と呼ばれる軍制だ。酒井・石川という譜代の重臣を東西に配したと言えよう(両家老体制)。ちなみに酒井忠次は、今川から奪った吉田城(愛知県豊橋市)の城代となっている(1565年3月)。石川家成は、一向宗であったが、浄土宗に改宗してまで、三河一向一揆の際も、家康に従おうとしたと言われる。戦を勝ち抜いていくには、しっかりとした強力な軍事力を築いていくことが必要であった。
 また、この時期には、三河三奉行という職が置かれていたとされてきた。三奉行とは、高力与左衛門尉清長(こうりきよざえもんのじょうきよなが)・本多作左衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)・天野三郎兵衛康景(あまのさぶろべえやすかげ)のことだ。彼ら3人は「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」と評されたという。温厚な高力、鬼の本多、どちらでもない天野。これは、バランスのとれた人材配置として、家康の人材登用の巧みさを象徴するものとされてきた。
 だが、三河三奉行制なるものはなかったという説が近年では有力だ。3人が永禄11年と翌年に発給した禁制は残されているのだが、その内容は「甲乙人の乱妨・狼藉」「山林・竹林の伐採」「押し買い」などを禁じるものである。これだけをもってして、三河三奉行なるものが存在したというのは、如何なものかというのだ。しかも、同じ頃には、他氏(例えば植村・天野・大須賀・鳥居・大須賀・植村・芝田氏)の連名文書も見られる。松平氏の奉行人は、高力・本多・天野の3人に限定されていなかったのだ。奉行人が多数存在したということは、家康は内政にもしっかりと目を向けていたということであろう。
 監修・文/濱田浩一郎
 (『歴史人』2023年2月号「徳川家康の真実」より)
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