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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
満州族系清国(中国)と朝鮮の悲劇は、朱子学を唯一絶対の正統国教としてそれ以外を異端であると否定し、弾圧し、排除し、多様性と柔軟性の寛容さを放棄した事である。
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2020年5月7日・14日号 週刊文春「出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
〔近・現代篇〕 朱子学による『日本の伝統』づくり
明治政府は、天皇制と神道を中心に想像の共同体を作って、日本をネーションステート(国民国家)としてまとめようとします。
いま皇室の伝統と思われていることの多くが、明治時代になってから始められたものです。しかも神道には天皇を神格化するための理論がなかったので、朱子学(儒教)から借りてくることになります。
このテーマについて、小島毅さんが『靖国史観』や『天皇と儒教思想』などで詳しく述べられています。
1864年、長州の高杉晋作が、亡くなった同志のため下関に招魂場(しょうこんじょう)を建てました。その後、戊辰戦争で亡くなった人たちのために各地に招魂場ができます。69年に大村益次郎が発案して、東京にも招魂場(社)が九段に建てられます。
この東京招魂社が79年、西南戦争を機に太政官達({たつ}命令)で靖国神社と名前を変えました。
ここでいう英霊とは、政府軍として戦死した人たちのことです。戊辰戦争の幕府軍や、明治維新に尽力していても、後に乱を起こした西郷隆盛や江藤新平、反乱士族たちは入っていません。
楠正成の祭り上げ
英霊という言葉のもともとは、死者の魂の単なる美称に過ぎません。
靖国神社的な言葉の意味のもとをたどると、19世紀の朱子学者で尊王攘夷派だった水戸藩士、藤田東湖の漢詩に行き着くそうです。
南宋を降伏させたクビライからの再雇用のオファーを拒み刑死した文天祥を讃えて、日本にも楠正成や赤穂浪士など、主君のために殉じた志の高い人たちがいたでと歌ったものでした。『死んでもその英霊は滅んでいないで』という内容です。
君臣の道を貴び、主君のために殉じた者を賞揚するという朱子学の思想と儀礼が、靖国神社建立の源にあったわけですね。
楠正成や新田義貞を祀る神社も、明治になってから新しく作られました。神戸の湊川神社、福井の藤島神社です。いずれも戦死した地に祀られました。楠正成は、北条氏の御内人(みうちにん)で、現実には『悪党』=ビジネスに敏(さと)い人だったと現在では考えられています。しかし後世には、彼の出自はわからなくなり、『天皇のために戦って死んだ人やで』という側面がクローズアップされていました。
鎌倉幕府を討った後醍醐天皇も、『(朱子学的に)正しかったで』と賞揚されます。1911年(明治44年)には明治政府によって、後醍醐天皇の『南朝』が正統とされます(明治天皇は北朝の出身でしたが)。
年号に関しては、明治以降、一世一元の制度になっていますね。
明治天皇の時代は、『明治』、大正天皇は『大正』と、一代に一元号です。しかしそれ以前は地震や噴火といった天災など、なにか機会があると都度元号を変えていました。
この一世一元制も、中国の制度の導入です。前出の藤田東湖の父である水戸藩の朱子学者、藤田幽谷は、明の洪武帝がはじめ清も採用していた一世一元制を日本にも導入すべきと主張していました。
それを明治になって、岩倉具視が採用したのです。
ところで皇室の氏神を祀る神社と言えば、伊勢神宮ですね。
不思議なことに、明治になるまで天皇は誰一人伊勢神宮に詣でていません。今のように度々天皇が伊勢神宮への参拝するようになったのは、実は明治になってからです。
こうした皇室の新しい習慣はほかにもたくさんあります。
新しい『伝統』行事
たとえば天皇陛下が稲を植え、皇后陛下が蚕を飼うことも、近代以降の新しい伝統です。
実のところ天皇みずからのお田植えは、昭和天皇が初めてでした。それ以前の天皇は誰もしていません。
一方、皇后が蚕に桑の葉を食べさせる御給桑(ごきゅうそう)の方は明治からの『伝統』です。
1871年、昭憲皇太后(明治天皇皇后)によって『養蚕(ようさん)の伝統の復活やで』としてはじまりました。
政府や実業家が国を挙げて生糸生産を推進するキャンペーンとしての一面があったといわれますが、君主がみずから農耕を行い、その妃(きさき)が養蚕を行うという組み合わせもまた、もとを辿れば儒教の『籍田儀礼』に行き着きます。
中国では形式化しながらも代々続く皇帝の儀礼となっていました。
奈良時代に日本にも中国からその儀礼が輸入されて、中国の朝廷のスタイルをどんどん取り込んでいた孝謙天皇がマネしたわけですね。
その後日本では長らく途絶えていましたが、江戸時代に朱子学が広まると、上杉鷹山などの好学な大名が中国のマネをはじめて田植えを行い、近代になってそれが改めて皇室に導入されました。
江戸時代の朱子学者や、その影響を多分に受けた国学者たちの思想が、明治維新を切り開いた人たちの精神的な支柱になったことで、結果的に男尊女卑など朱子学の考えが明治の日本に広まったのですね。
同時に、天皇と皇后のイメージについては、欧米列強に早くキャッチアップしようとする時代の要請に合わせて、『洋風化』することも求められていました。
明治以前の天皇は京都の御所の奥深くで人目に触れることなく、文化を愛する公家のトップとして生活していましたね。
その天皇を大久保利通はすでに1868年(明治元年)、戊辰戦争が終わらないうちから大阪や東京への行幸に連れ出しています。
72年からは日本各地への巡幸がはじまります。数年かけて全国をくまなくまわっています。
全国で国民が生身の天皇を仰ぎ見る儀式を行うことによって、天皇の権威を『見える化』したのです。
国民の『母』としての皇后
その後、巡幸に代わって天皇の写真、『御真影』が全国の地方官庁、軍隊から学校にまで配られるようになります。
この立派なひげを蓄えた軍服姿の男らしい明治天皇の姿は、実は直接撮影されたものではなく、キヨッソーネというイタリア人画家が描いた肖像画を写真に撮ったものです。
キヨッソーネはヨーロッパの王侯貴族を描く伝統的な技法でもって、『開国・富国・強兵』の旗を振る天皇のイメージを描き上げました。
この御真影を一所懸命拝む儀式が行われることによって、『国の中心には天皇がいるんやで』と国民を教育したわけです。御真影を火事から救い出そうとして学校長が命を落とす事件まで起きました。
皇后の肖像写真もキヨッソーネが関わって制作されます。
皇后には朱子学の教える良妻賢母のイメージが割り当てられ、同時に洋装によって近代化をアピールしました。
このようなイメージ作りは欧米の国民国家ではじまったことでした。
19世紀、母親には国家を尊敬する子供を養育し、国語を覚えさせ、もって国民を創出して国家を強化する役割が期待されていました。
こうして『日本の中心に皇室があるのが日本古来から続く伝統なんやで』という考えを共有する『国民』を創設していきます。そのために欠かせないもう一つの装置、新聞が始まりを次回はみていきましょう。」
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徳川幕府は朱子学を官学としたが、在野の儒学者の間に陽明学などの諸派儒教が広がっていた。
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現代の日本国語は、明治に中華儒教(朱子学)によって作られた新言語である。
近代教育の精神は、愛の西洋キリスト教価値観ではなく徳の中華儒教価値観である。
その証拠が、英語・フランス語・ドイツ語の何れかなの西欧語が公用語にならなかったことである。
中国語が、朝鮮のように公用語にならなかったのは、日本人は昔から論語を日本国語で読んでいたからである。
公用語を違う文明・文化や宗教・習慣由来の外国語にしている国で進歩発展し富み栄えた国はない。
欧米諸言語は、源流を辿れば古代のギリシャ・ローマである。
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何故、明治新政府は朱子学(中華思想)を採用したか。
それは、明治維新を行って中央集権国家をつくった元勲達と政府高官や高級軍人が、全て低い身分の出身者だからである。
卑しい身分出身であるが故に、誰からも馬鹿にされず、命令を厳命として上意下達できよう、張り子の虎的権力に絶対的権威を張りつける為に朱子学を取り入れ天皇制度を悪用した。
朱子学によって、天皇を残して、身分・階級の上下が逆転したのである。
つまり、明治初期の日本とは、成り上がり者社会、下剋上社会、ならず者社会であった。
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日本の近代化は、天皇の気持ちを無視してをあらゆる面で利用して行われた。
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近代皇室は、イギリス国教会の主宰者にしてイギリス国家元首のイギリス王家を手本とし、ローマ教皇とアメリカ大統領との良好な関係に努めた。
近代天皇には、中華儒教に固執して時代の潮流に乗らず三流以下の中世国家に甘んずる中国や朝鮮ごとき眼中にはなかった。
昭和天皇は、皇太子時代にイギリスを訪問しイギリス王家と国家・議会・国民との関係を学び、フランスなど諸国を巡り第一次世界大戦の戦跡に行き戦争の酷たらしさを肌身で感じ平和主義に目覚めた。
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中国や朝鮮の近代用語の7割以上が、日本製漢字である。
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近代日本の失敗は、新国家建設の国家理念に中華儒教(朱子学)を採用し、軍事力で西洋キリスト教文明の侵略から母国日本を守ろうとした事である。
中華儒教によって、大日本帝国憲法、教育勅語、軍人勅諭、修身教育そして近代的国体論などが書かれ、無宗教の国家神道が作られ靖国神社や各地の護国神社そして明治神宮などが建設され、国学が政治の表舞台から学問の世界に追いやられた。
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右翼・右派の民族主義・国粋主義は、差別主義原理主義の中華儒教である。
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滅びの美学、忠君愛国、滅私奉公、忠臣は二君に事(つか)えず、大和魂、大和撫子、良妻賢母、貞女は二夫にまみえずなどなど、日本人を精神主義で縛りつけた悪しき用語の大半が儒教の漢心であった。
和魂洋才の和魂とは、和心ではなく漢心であった。
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儒教は、禅譲と放伐である。
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もし近代国家日本に罪があるとするのならば、それは中華儒教価値観を日本に導入した排他的不寛容な儒学者や偏狭的差別主義の右翼・右派であって、天皇・皇室ではない。
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政教不可分とされた皇室祭祀・宮中祭祀の深層に、縄文時代に日本民族日本人が執り行っていた自然神・大地母神への祭祀が脈々と生きて流れている。
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日本と中国・朝鮮とは違い、日本民族日本人と漢族系中国人・朝鮮人とは別系統のアジア人であった。
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儒教は、天帝と天子の神聖を脅かす神仏を認めず、物事には明快な合理的必然性があるとして偶然や迷信や奇跡を否定し、キリスト教の愛や仏教の慈悲などで人々を救い一つにまとめようとする普遍宗教を弾圧し、信仰を捨てない信者・信徒を世に存在してはならない異常者として虐殺した。
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中華儒教とは、越えられない上下関係、身分制度、支配階級と被支配階級の思想で、天下万民の万民とは被支配階級ではなく支配階級の事である。
支配階級とは、聖人君主を出す士大夫・読書人・教養人の事である。
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江戸時代の百姓一揆や町人の打ち壊しは、朱子学社会となった明治・大正時代の労働争議や小作人争議とは本質的に違う。
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「論語読みの論語知らず」の日本人は、実現しない理想のありもしない空想の夢の中だけに生きる人間で、中華世界の現実社会を動かしてきた正統儒教が理解できない。
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明治政府が日本改造に採用したのが、廃仏毀釈の神仏分離令と国家神道の神社合祀令であった。
明治政府が目指した近代国家は、政教分離国家である。
何故なら、採用した中華儒教は反宗教思想であったからである。
強欲キリスト教に対抗できるのは、無欲な日本神道や日本仏教ではなく、強欲な中華儒教しかなかった。
よって、中華儒教がつくった国家神道は宗教ではなかった。
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近代教育が教えたのは、中華儒教の中華至上主義で、「八紘一宇」の大家族主義とは相容れない思想であった。
中華儒教は、天皇の神格性と神聖不可侵性を中国の伝統文化である天帝と天子(皇帝)の絶対関係にあてはめて教育した。
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中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、非白人非キリスト教徒の日本人をアフリカ人同様に奴隷として売り買いして金儲けしていた。
バチカンのローマ・カトリック教会は、キリシタンの日本人を奴隷にする事を禁じ改宗を拒否する日本人を奴隷とする事を認めた。
それが、キリスト教の絶対神の「福音」と隣人愛の「信仰」であった。
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徳川幕府は李氏朝鮮とは違って、朱子学を唯一の正統学問として異端諸派や儒教を脅かす仏教を弾圧しなかった。
日本には、幕府が定めた官学・朱子学以外に、私学として陽明学などの諸派儒教と民族学としての国学と日本神道が存在し、学問以外に日本仏教と修験道などの自己啓発学が、多種多様に存在し、地方の地域事に多元的価値観を形成し発展させていた。
だが、そこで描かれていたのは日本国でもなければ日本民族でもなかった。
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現代日本が、日本という日本は江戸時代以前の日本ではなく明治以降の日本である。
文化伝統の、大半は明治以降のもので、江戸時代以前のものはほんの僅かに過ぎない。
例えれば、日本の城で本当の天守閣、江戸時代からの本物の木造天守閣は12だけで、残りは戦後に造られて偽物天守閣である。
時代劇が好きな現代日本人は、偽物天守閣・摸造天守閣を伝統文化として誇らしげに見上げている。
日本民族日本人は、偽物天守閣・摸造天守閣の先にある時空を越えた歴史的精神性を見つめている。
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明治までの日本には、アイデンティティとなる民族意識はなかった。
江戸時代において、日本人・日の本の民はおろか大和民族・日本民族は存在しなかった。
江戸時代の日本人がよく口にした「おらが国」とは、自分が住む「ムラ」の事である。
江戸時代の日本には、皆の衆という庶民はいたが、国民も市民もそして人民・大衆・民衆もいなかった。
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江戸時代の日本人は、夢も希望もなくその日暮らしのお気楽な人間で、日本国が日の本の国である事が理解でず、日本人が賢く優れているなどとは「これっぽっちも」思ってはいなかった。
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「欲得に素直に生きる」のが、江戸時代の日本人であった。
よって、愛国心などはなく、「命あっての物種」として戦う事を嫌って逃げ回り、戦が終わった戦場に駆けつけて放置された戦死者から金目の物はもちろん褌(ふんどし)に至るまで身包みを剥ぎ、丸裸にして大きな穴に全員を放り込んで埋めた。
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江戸時代の日本人にとって、日本国土が誰の物になろうが、日本の支配者が外国人(中国人や朝鮮人)になろうが気にはしなかった。
力が強い者・金がある者に、媚び諂い、胡麻をすっておこぼれを預かろうとするのが江戸時代の日本人であった。
そして貧乏になった元金持ちに対しては、「金の切れ目が縁の切れ目」として見捨て、嘲笑いながら見殺しにした。
それが江戸時代の庶民(百姓や町人)であった。
庶民は、ブラック社会で生きていた。
庶民は、面従腹背として御上(幕府や大名)に従い奉っていただけで、本心は軽蔑していた。
幕府や大名は庶民を恐れ、武士・サムライは庶民を信用しなかった。
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庶民は如何なる宗教も信用せず、神仏などは「困った時の神頼み」として祈り拝むものとし、信仰の為に命を犠牲にするのは常識がない馬鹿な人間がする事として嫌悪していた。
庶民にとっての神仏は、今必要な御利益をもたらす存在で、御利益を与えてくれなければ無能な神仏と軽蔑して捨てるだけの存在であった。
庶民には、宗教心や信仰心は微塵もなく、無節操に他人が信じる神仏を「御利益がありそうだ」と思って一緒になって拝む。
そこに、畏敬の念・畏怖の念はもちろん謙虚さや敬虔さなど一切存在しない。
日本人の無宗教とは、そういう事である。
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