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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
島田雅彦「敗戦後の復興期、知識人のあいだでルネッサンス研究がなされ、自由にものを言い、チャレンジングな研究がなされる環境をつくろうとしましたが、上の顔色をうかがう儒教的な雰囲気がすぐに復活してしまいました」
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2019年4月号 歴史街道「西郷隆盛、吉田松陰、大塩平八郎・・・
陽明学が教えてくれる『自分の正義』を貫く生き方 長尾剛
『時の権力』に対抗し、その手にかかって死んだ──。
西郷隆盛、吉田松陰、大塩平八郎・・・。上の過ちに気づき、それによって苦しむ人を『見て見ぬ振り』はしなかった彼らは、時と場所を超え、同じ思想を学ぶ〝同門の学徒〟であった。
私欲なき3人の『反逆者』
大塩平八郎(1793~1837)。
吉田松陰(1830~1859)。
西郷隆盛(1828~1877)。
いずれも、歴史好きの方にはお馴染みの名であろう。大塩h江戸時代後期の人物。松蔭は幕末初期の人物。そして、西郷は、幕末から明治初期にかけて活躍した。
ところで、この3人、一つの大きな共通点があることにお気づきだろうか。
大塩は、弟子たちを率いて大坂で反乱を起こし、当時の大坂の街の5分の1を灰にした。松蔭は、教育者として長州で多くの弟子を育て、幕末維新の人材を育てた。西郷は薩摩の中心人物として明治政府初期の重鎮となり、近代日本の礎(いしずえ)を築いた。
一見、さほどのつながりがないように映る。だが、彼らの最期を思い返してほしい。
大塩は、幕府への反乱のかどで包囲され、自決した。松蔭は、伝馬町の獄舎に捕らえられた際に自ら反幕府の意志を告白して、結果、処刑された。西郷は、明治になってから若い士族たちのリーダーとなり、西南戦争を起こして、敗戦の果てに散った。
3人とも『時の権力』に対抗し、そして『時の権力』の手にかかって死んだのだ。
この3人は、その時代にあって、いずれもが『反逆者』だった。そのため〝権力に裁かれて〟死んだ。ここが共通点である。
だが、彼らの『反逆』には、ふつうの反逆者にあってしかるべき私利私欲は、なかった。
自ら信ずる正義に準じた結果として、やむにやまれず『時の権力』に抗し、しかして力及ばず、裁かれる立場に追いやられた。
大塩は、幕府の官僚機構の腐敗ぶりに反省をうながすべく、その方法として『天領(幕府直轄地)』の大坂で武装蜂起した。松蔭は、当時の幕府の弱腰外交に国家存続の危機を察して、自らの保身を顧(かえり)みずにそれを訴え続けた。西郷は、明治新政府お性急すぎる近代化のかげで苦汁を嘗(な)めさせられていた士族たちの想いを政府に訴えるために、西南戦争を起こした。
彼らはいずれも、『時の権力』の悪(あ)しき部分を見抜き、それによって苦しんでいる人々の姿を目の当たりにし(そして、この点がもっとも肝要なところだが)、それを『見て見ぬ振り』はしなかった。だから決起した。
たとえ、おのれより強者が相手だとしても、正義を必ず実行に移す。
3人に通じるこの姿勢。
じつは、とある『教え・思想』の根幹なのだ。この3人、同じ思想を学び、つまりは〝時と場所を超えた同門の学徒〟なのである。
その思想こそが『陽明学』だ。
上の者の過(あやま)ちを正すことが『理』
陽明学は、儒教の一学派である。
古代中国の大哲人・孔子が説いた教えである儒教。その儒教は長い年月にわたって、さまざまな解釈がなされ、さまざまな学派に枝分かれしてきた。
儒教の根幹を一つに絞(しぼ)るとしたら『孝(こう)』である。親孝行の『孝』。すなわち、下の立場にある者が上の立場の者を敬(うやま)い、従い。人々がそうした上下関係に準ずることによって、この世の秩序は平和に保たれ、人の世は円滑に営まれる。こうしたシステムを至高(しこう)の善として、これを『理』と呼ぶ。
儒教の主流学派である朱子学は、この『理』を『人智を超えた大宇宙の絶対的ルール』と捉えた。したがって朱子学では、下の者が上に逆らうことは、絶対に許さない。逆らう気持ちが生じたとしたならば、それは『理』に反する悪である。徳川幕府は、この朱子学を『官学』として、全国規模であらゆる身分の道徳教育の基本とした。支配者が、その支配の正当性の〝担保(たんぽ)〟とするのに、これほど都合のよい教えはないからだ。
一方、陽明学は、朱子学に異を唱える学派である。
人の世が上下関係によって秩序を保たれること自体には、異論はない。だが、それは『有無を言わさず従わなければならないこと』なのだろうか。上の者が間違いを犯していたならば、下の者はそれに従わないことのほうが、むしろ『理』にかなっているはずだ。すなわち、たとえ下の立場であっても上の過ちに気づいたなら、その気づいたことこそが『理』である。『理』は、人智の向こうにあるルールではない。人の心の中にある正義こそが、本当に正しい上下関係を築く『理』なのだ──と。
これをして『心即理(しんそくり)』と表わす。
では、上の過ちに気づいたら、どうするか。それを正すための行動に出なければならない。上下関係を正義に則(のっと)ったものに修正しなければならない。そのための行動に出なければ『理』の実践にはならない。正義に気づいたなら、正義を知ったなら、それを実行に移さなければ、そもそもが『正義に気づいた意味』が、ない。
逆に言うなら、行動しなければ正義に気づいたことにさえ、ならない。『理』を知ることと『理』を実行することは、二つで一つなのだ。
これをして『知行合一(ちこうごういつ)』と表す。
つまりは陽明学では、正義のために下の者は、上の者の過ちを指摘し、それを正すようにうながさなければならない。その実行が表面上は『反逆』となったとしても、それが『反逆』になったとしても、それが『理』にかなうことなのだから。
陽明学は、もともと、古代中国の『宋』の時代に確立された朱子学への批判から生まれた。『明』の時代、すでに儒教の主流となっていた朱子学に対して、王陽明という天才的な儒者が提唱した。日本では、江戸時代の初期に、市井(しせい)にあって多くの庶民に慕(した)われ『近江聖人』とまで称えられた仲江藤樹(1608~1648)が、これを普及させた。
正しく生きようとする人の元に
人は集まってくる
陽明学は、誰の心の中にも『本当の正義』がある──という大前提からスタートする。
正義を知り、それを心に宿すこと。それは誰にでも、でき得るのである。社会的地位が低くとも、究極に言えば、どれほど『弱者』であったとしても、人としての心を持つ者ならば、自分の中に正義を宿せる。そして、『自分の中に正義がある』と確信できた時、人は誰でも、自分と自分の人生に自信を持てる。
正義を貫(つらぬ)けば、時によっては自らの立場が不利になることもあるやも知れない。それでも、心の中の正義を守ろうとする、すなわち『知行合一』の態度で生きようとするならば、それはじつに清々(すがすが)しい生き方になる。
なぜならば、どんな立場にあっても『自分は正しく生きているのだ』という自信が、自分に〝生きる満足〟を与えてくれるからだ。
そして、正しく生きようとする人間は、たとえ地位や財産に恵まれなくとも、自然と『良き人間関係』に恵まれるものなのだ。人間は本質において、正しいことに魅力を感じる生きものなのだから。
だから実際、仲江藤樹はもとより大塩も松蔭も西郷も、多くの人に慕われ、愛され、最期の最期まで、全てを失う時まで、その周囲に、彼を愛する人や同志だけは存在していた。孤独ではなかった。
陽明学に準ずる。つまりは『自分が信じる、自分が心の底から納得できる正義』を捨てずに生きること。それを為(な)しうる人は、むしろ寂しさを感じずに済む。たとえ上の者や周囲と対立しようとも、不正に阿(おもね)ることなく、正義の日々を堂々と生きる道を選ぶなならば、きっと、それに魅(ひ)かれて近づいてきてくれる人が現れるからだ。必ずや、その態度を好ましく感じ、頼もしく思い、支持してくれる人が、現れるからだ。そうした仲間とともに歩めば、これほど気分の爽(さわ)やかな人生はない。
斎藤一斎は、教壇に立ち続けた
もちろん、大塩や松蔭や西郷のように、あまりにもストレートに自らの正義を実践しようとすると、最後には大きな破綻を招いてしまう場合もある。現実において、正義の実践は単純な行動だけでは、なかなか成功に導けない。
ところで、この3人がそれぞれに、尊敬し〝心の師〟と仰(あお)いでいた、とある一人の陽明学者が、いる。そして、その陽明学者は、やはり少なからぬ敵に囲まれていたものの、それ以上に敬愛する弟子や同志に囲まれて、天寿を全(まっと)うした。
佐藤一斎(1772~1859)という。
苦労の中で陽明学を学び、その学識を買われて、なんと幕府御用達の学校である『昌平黌(しょうへいこう)』の総裁に就(つ)いた。死の直前まで教壇に立ち続け、育てた弟子は3,000人と伝わっている。享年(きょうねん)88である。
大塩は、一斎を同志と慕って、大坂から熱烈なファンレター同然の手紙を一歳に書き送っている。松蔭は、天才儒学者であった佐久間象山の弟子であるが、その象山が一斎の弟子なのである。つまり松蔭の孫弟子に当たる。また、西郷は、一斎の著書から気に入った文言を抜き書きした自家製の小冊子を作り、それを常に懐に入れていた。
一斎は、なにしろ昌平黌に勤めていたわけだから、幕府すなわち『権力側』の人だった。だから、たとえば幕府の愚行であった言論弾圧の『蛮社(ばんしゃ)の獄』(1839)において弟子が幕府の毒牙にかかった時も、表だった助命運動はしなかった。大塩からのラブレターに対しても、やんわりと、大塩の過激さを諫(いさ)めている。
だが、こうした中で『教壇に立ち続け、弟子を育てること』こそが、一斎なりの『知行合一』であった。
一斎は、目の前の悪を『見て見ぬ振り』は、しなかった。彼の取った方法は『悪をしっかりと見つめたうえで、将来にその悪が繰り返されないための人材を育てる』ことだった。つまりは、悪の犠牲者の志を受け継ぎ、その灯火(ともしび)を消さないことに精力を傾けた。 一人の正義が倒れたなら10人の正義を育てる。それが、佐藤一斎の『知行合一』の形だった。
大きな悪に対して正面からぶつかることは、しない。だが、その悪に阿(おもね)らず加担せず、自分は自分の正義を、自分のできる手立てで行動に移す。それが、たとえ即効性のない小さなことに過ぎないとしても。
これこそが堅実な、そして現実的な陽明学の実践の形ではなかろうか。そして、私たちでもで消える実践の形ではなかろうか。
たとえば、学校に『イジメという不正』があったならば、学校に行かなければよい。会社に『収賄という不正』があったならば、それに加担しなければよい。そして、小さな声でよいから、たとえ匿名でもよいから、その悪を誰に訴え、仲間を探す。その仲間との絆を大切にして、将来に結びつける。
だから一斎は、人との絆を大切にし、周囲にいつも心温かかった。
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西郷が愛読し抜き書きしていた一斎の著書『言志四録(げんししろく)』はという。これは、一斎が生涯にわたって書き続けたエッセイ集『言志録』『言志後緑(こうろく)』『言志晩録(ばんろく)』『言志耊録(てつろく)』の4冊をまとめて呼んだネーミングだ。この4冊の書には、陽明学の教えから人との接し方まで、さまざまな人生のアドバイスが、綴(つづ)られている。……。
『言志四録』は、決して小難しい学問ではない。
誰にもできる陽明学の実践書なのだ。
陽明学。そして、その手ほどきを伝えてくれる『言志四録』。今、多くの人が新しい環境に旅立つ季節。私たちが、これから爽快(そうかい)な日々を送るのに、それはきっと大きな支えとなってくるものだろう」
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日本人、特に現代日本人は儒教を読めても理解する事ができない。
つまりは、論語読みの論語知らず、悪く言えば馬の耳に念仏、馬耳東風である。
朱子学は、無宗教であり反神であり、仏教やキリスト教を邪教として弾圧し、夥しい無実の人々を虐殺した。
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日本は、渡来した毒気や臭気の強い宗教・哲学・思想を、皇道・惟神の道を用い、時間を掛け、ゆっくりと悪気や毒気を抜き、人畜無害にして栄養豊富な有益なモノに作り変えて受け入れ普及させた。
その成功例が、日本仏教である。
異種・異分子による大虐殺や大崩壊を回避する為には、神聖不可侵な、神話の血筋と歴史の皇統に基づく正統な天皇制度、天皇・皇族、皇室・宮家が必要不可欠であった。
中国や朝鮮、世界を守れば、それが分かる。
隣人愛を説くキリスト教でさえ、「神の御名」によって異教徒・異端者に対する虐殺と破壊を繰り返してきた。
故に、日本の常識は世界の非常識である。
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日本には、儒教、特に朱子学は水と油で馴染まない。
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朱子学は、現代日本人の儒教嗜好に食い込み影響を与えている。
その証拠が、保守派や右翼・右派による教育勅語の復活運動である。
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朱子学は、一君独裁制・放伐論・反宗教無神論から人民の正義・人民の大義を追求するマルクス主義(共産主義)との親和性が強い。
朱子学やマルクス主義(共産主義)が理想とする指導者は、血筋や身分・階級を無視し、人種・民族・部族に囚われない、能力・実力のある優秀な個人である。
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親中国派や親韓国派・親北朝鮮派は、左翼・左派のマルクス主義者(共産主義者)もいるが、その大半は無自覚に儒学・朱子学に染まった高学歴出身知的エリートの日本人である。
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日本の儒教は、異端な儒教であって、中国や朝鮮の正統な中華の儒教ではない。
中国や朝鮮の儒学者が、江戸時代の日本における儒学を下級な儒教と嫌ったのはこの為である。
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尊皇攘夷・勤皇、討幕、天皇親政の明治維新を引き起こした儒教は、陽明学であった。
その発源の陽明学者は、美濃岩村藩家老の息子で江戸・昌平黌総裁の佐藤一斎であった。
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儒教は、忠君愛国である。
陽明学の忠君とは、天皇・皇室であった。
朱子学の忠君は、時の権力者で、江戸時代は幕府と諸大名であり、明治以降は高学歴出身知的エリートによる官僚団であった。
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明治近代化における硬直した教育思想は、朱子学であった。
大正・昭和初期の日本を破滅に導いたのは、元凶は朱子学であった。
朱子学は、無宗教の国家神道をつくりその陰に隠れ、日本を支配し、大陸戦争を起こし、日本に甚大な被害を与え、古代からの日本を価値観の大半をお破滅し消滅させた。
平和の真の敵は、儒教・朱子学であって国家神道・皇室神道ではない。
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初期の江戸の町は、地獄の様な戦国時代が終わっても天下太平の平和な時代ではなかった。
戦を生き抜いた武士や主君を失った武士崩れが街中をうろつき、辻斬り、押し込み強盗、行き倒れ、間引き、捨て子、犬や獣を殺して肉を食うなどが平然と行われていた騒然たる不法地帯に近い弱肉強食の社会であった。
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江戸は、切り捨て御免は当然の権利とうそぶく傲慢な旗本奴と殺気立った町奴が肩で風を切って歩き、出会えば刀を振り回す喧嘩をし、怪我人を出す刃傷沙汰を起こしていた。
粋な江戸っ子は、武士を馬鹿にしていた。
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江戸幕府は、中国や朝鮮とは違って、弱者に優しい社会を作るべく、荒(すさ)んだ人心を鎮め、荒(あ)れた世の中を落ち着かせる為に、朱子学を利用した。
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日本の朱子学は、中国や朝鮮とは違って方便であった。
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5代将軍徳川綱吉は、戦国時代の命を軽視する殺伐たる雰囲気を消し去り、命を大事にする天下太平の世を招来する為に「朱子学」を官学として採用した。
言い方を換えれば、「毒をもって毒を制す」である。
自由奔放・自由気ままこよなく愛する人々は、社会を固定し抑圧する朱子学を強要する綱吉を「イヌ将軍」と軽蔑した。
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日本には、中国や朝鮮のような官学・朱子学による科挙(高級官吏登用試験)はなかった。
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幕府は、朱子学を激しくそして厳しく批判した山鹿素行を江戸から追放し、西国の小藩・赤穂浅野家に預けた。
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ヤクザは、主君勤めをしていないサムライを素浪人・牢人と軽蔑し、飯を与えて飼い、喧嘩が起きれば先頭に押したてて殺していた。
素浪人・牢人となった無宿サムライは、武士への復帰・再仕官はほぼなく、人と認められず、人権や諸権利もなく、惨めな最下層民的極貧生活を強いられた。
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武士・サムライといえど、「働かざる者食うべからず」であった。
武士は、現金収入を得る為に、城勤め以外の時間は百姓や町人に頭を下げて仕事を分けて貰い副業・内職をしていた。
武士は、百姓や町人よりも貧しく、高利貸しから多額の借金していた。
幕府は、武士が如何に多額の借金を抱えて苦しもうとも、借金を帳消しにする徳政令は出さなかった。
武士は、武士道や儒教で自分を殺し、自分を捨て滅私奉公に徹しきっていた。
その象徴が、切腹という滅びの美学である。
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百姓や町人でも武士になり、町奉行、勘定奉行、遠国奉行、外国奉行などに出世できた。
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現代日本人には、真の「滅びの美学」は想像できないし理解もできない。
滅びの美学を軽薄に口にする現代日本人は、信用するに値しないくだらない日本人である。
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日本の社会は、生易しい社会ではなく、非情で、冷血で、冷酷であった。
日本人の本性は、冷たく薄情であった。
日本列島の気候風土は、甘え、依存、妥協、いい加減、適当を許さず、生きるも死ぬも己が責任と、徹頭徹尾・完全無欠の自己責任を強制している。
日本人の心・精神・心理・神経は、中国人や朝鮮人とは違って気弱、ひ弱、脆弱、貧弱、臆病であった。
それ故に、精神主義に救いを求めて逃げた。
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大名やお城勤めの武士は幕府推奨の朱子学を信奉し、現場勤めの下級武士は庶民と同じ陽明学を学んだ。
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物事を曖昧にやり過ごす日本民族日本人にとって、朱子学は馴染まない儒教であった。
不寛容にして窮屈な朱子学に辟易とした知識人・教養人達は、朱子学一本を嫌い、国学や陽明学など諸学諸派を始め、そして深める事で、日本の精神・学問は多様性を高めていった。
その多様性のお陰で、江戸時代は条件付きではあったが自由奔放・豪華絢爛の庶民文化が華開いた。
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地方の百姓一揆や中央の打ち壊しが、社会の変革をもたらす人民革命や暴動・騒乱に発展しなかったのは、庶民の間に陽明学と国学が根付いていたからである。
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日本の武士道では、主君が過ちを犯していれば諌言し、もし諌言が入れられなければ死(切腹)を以て諫める、事を美学としている。
中国や朝鮮では、死を以て実行する諌言は「当て擦りの嫌み」で不忠の極みとされ、苦言が入れられなければ職を辞して郷里に帰る事こそ臣下の道とされた。
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日本の文化が、中国の皇帝・宮廷文化や朝鮮の国王・王朝文化と決定的に違うのはこの為である。
中国や朝鮮が日本と違って近代化へと発展・進歩できなかった主因は、教条的朱子学に固執したからである。
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中国や朝鮮が、日本を理解できず忌避するのはこの為である。
日本が、中国や朝鮮と表面的に友好・善隣を装っても心底から深入りしなかったのはこの為である。
日本と中国や朝鮮との間で、モノとカネの条件・制限付きの移動はあったが、ヒトの交流・行き来はなかった。
建前上、日本国内には中国人も朝鮮人も居住していない事になっていた。
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日本には、本気になるような、宗教・信仰はもちろん哲学、思想、主義主張もなかった。
日本民族日本人にとって、宗教・信仰や哲学、思想、主義主張は、衣のように取り換え可能な程度のもので、命を賭けるほどに深入りするものではなかった。
それ故に、死と血を忌避しないキリスト教や共産主義(マルクス主義)は日本風土に合わず根付き辛かった。
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日本民族日本人には、キリスト教の殉教と永遠の命、共産主義の反宗教無神論と反対者・敵対者の大虐殺が理解できず、両者とも血に飢えた獣に見えた。
日本民族とは、死を怖れ、血を穢れ、とする民族である。
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反天皇反日的日本人は、キリスト教系か共産主義(マルクス主義)系かの何れかである。
事実、昭和天皇や皇族を殺そうとしたのがキリスト教系朝鮮人テロリストと日本人共産主義者テロリストであった。
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日本の古い基層は日本中心神話・天孫降臨神話であり、日本の心棒は天皇・皇室であった。
有名な勤皇派・尊皇派は、下級武士の大塩平八郎・吉田松陰・西郷隆盛らである。
そして、非人・エタなどの賤民、山の民・川の民・海の民などの部落民達であった。
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日本神道が取り込んだ儒教は、血を厭わず死を美徳とする武家の朱子学ではなく、勤勉と勤労を美徳とする庶民の陽明学であった。
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民族主義の根源は、市井に拡がった国学と陽明学であった。
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中国や朝鮮が近代化できなかったのは、白黒・正邪・善悪など原理原則を重視する教条的な朱子学が原因であった。
日本が近代化できたのは、朱子学や陽明学など諸学を柔軟に変形させながら、好ましいところだけ取り入れ、都合の良いところを適当に摘まみ出して利用するいい加減さ・あやふやさにあった。
つまり、中国は古代から中世を繰り返し、朝鮮は古代から一歩も出る事がなかった。
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日本は、古来の古代、インド発祥の仏教を受け入れて中世を、中国発祥の儒教や道教など諸学を受け入れて近世を、その時代ごとに完全消化して心身に取り込み、そして西洋発祥の国際法を移入して近代化に成功した。
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日本は、論語を浅く読み浅く考えて、儒教が分かった気になっていた。
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中国や朝鮮では、四書五経を深く読み深く考え儒教を理解して自説を打ち立て、自説の正統性を明らかにするべく命を賭けて激論し、勝者となれば敗者を異端として排除し、時には不寛容に弾圧した。
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中国や朝鮮の儒教は正統派であり、日本の儒教は異端派であった。
日本は、各方面・各分野に於ける異端な敗者が辿り着く・流れ着く地の果てであった。
その意味で、日本は、ローカルであってグローバルではなく、非主流であって主流でも反主流でもない。
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江戸時代の儒学は多様性に富み、官学としての朱子学以外に陽明学などの諸派も存在していた。
日本の儒学は、明治維新で朱子学にほぼ統一された。
その証拠が、無宗教の国家神道、教育勅語、軍人勅諭、大日本帝国憲法、そして近代教育に基づく高級官吏登用試験である。
皇国史観や愛国教育も、その根底にあるのは儒学・朱子学である。
儒教は、国、国民、民族に、安寧と幸福ではなく悲惨と不幸しかもたらさなかった。
明治が目指したのは、国際法に基づく西洋的近代国家ではなく、神国日本という看板で仏教立国を破壊し儒教立国に造り替える事であった。
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明治後期以降の日本を指導したのは、「時の権力者」である高級官吏登用試験に合格した高学歴出身知的エリートであった。
高級官吏登用試験は、中華儒教の「科挙」を手本にして西洋近代教育を注入した国家試験で、教育方針は人間形成ではなく丸暗記による高得点方式であった。
つまり、教えられたのは知識であって教養ではなく、育てられたのは官僚であって紳士淑女ではない。
日本が目指した人材とは、広い知識を持った官僚であって、深い教養や智恵、慎み深い品位や品格を持った紳士淑女ではない。
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昭和前期の戦争による敗北、破滅、悲劇は、高学歴出身知的エリートの革新官僚や高級軍人官僚達がもたらした。
高学歴出身知的エリートは、武士・サムライではなく、武士道はもちろん大和魂も日本精神も稀薄であった。
同様に、高学歴出身知的エリートに属するメディア関係者や学者・教育者は親ナチス・ドイツ派として、「自説の実現」の為に世論を誘導して革新官僚や高級軍人官僚を後押しした。
軍部、特に陸軍の隠れた主流派は、親ポーランド派であり親ユダヤ派であった。
親ポーランド派・親ユダヤ派のA級戦犯達は、ヒトラー、ナチス・ドイツの弾圧から逃げて来た数万人のポーランド・ユダヤ人難民を助け保護した。
激戦中であったが、大飢餓が発生した河南省に抗日中国軍と連合軍を排除しながら大量の軍需物資(医薬品や食糧など)を運び込み、餓死寸前の中国人被災者(1,000万人以上)を救護と治療に当たった。
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日本の高学歴出身知的エリートには小役人根性が蔓延り、発言には嘘や偽装や改竄が多々見られ、行動は問題先送りや事なかれ主義による無責任な傾向が強い。
明治後半からの統計数値は、正確かどうか疑わしい。
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日本の儒教は、中国の儒教や朝鮮の儒教とは違う。
それは、日本の仏教が中国や朝鮮の仏教と違うのと同じ事である。
全ての面で、日本と中国・朝鮮とは違うのである。
多種多様性において、日本は寛容で受け入れていたが、中国・朝鮮は不寛容で許さなかった。
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