🏯40)41)─1─武士道は、江戸時代にはなく、明治時代に作られた新語である。〜No.76No.77No.78No.78 

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 サムライや浪人とは、賤民・部落民・芸能の民以上に嫌われた不浄な日本人である。
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 2019年10月3日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 〔近世篇〕
 『武士道』の幻想
 これから3回にわけて、私たちがイメージしている江戸時代と、現代の研究者が考えている江戸時代との違いを紹介していきましょう。
 以前、江戸時代には『士農工商』という身分制度はなかったという話しをしました。
 特権階級である武士は日本の人口の1割程度、あとは庶民で、地方に住む人を百姓、都市に住む人を町人とざっくりと呼んでいたのです。
 ということは、百姓イコール農民ではないのです。林業をする人も漁業をする人も、あるいは手工業者も、農村に住んでいる人はみんな百姓やで、ということです。
 ぼくは確か学校で『慶安の御触書』というのがあったと習いました。『武家諸法度や禁中並(きんちゅうならびに)公家諸法度と並んで、1649年に百姓の生活を規制する法令が出たで』と覚えている人も多いと思います。
 『慶安の御触書』はなかった
 その中味はといえば、『朝は早く起きて草を刈り、昼は耕作、晩は俵や縄を作るんやで』『酒や茶を買って飲んだらあかんで』『タバコもあかんで』『肥料を取るために雪隠(せっちん)を広く作るんやで』『綺麗な女房でも大茶を飲み、遊山(ゆさん)好きなのは離縁するんやで』『年貢が足りなくても米を高利で借りてはあかんで』など、細かく百姓に指図するものでした。仕上げに『平和な世だから、納税さえしておけば百姓ほど安心な身分はないで』と言い聞かせています。
 これは32条もあって、武家諸法度禁中並公家諸法度と比べれば異様に長文です。それは当時なら欠かせないはずのキリシタンの禁止や田畑永代売買禁止令といった大事なことが抜けているのもおかしい。
 発布当時の御触書の現物も発見されず、偽書であるという説も古くからありました。
 山本英二さんが『慶安の触書は出されたか』という本で、この疑問を追求しています。
 その本によれば、『1649年に幕府は慶安の触書を出した事実はない。しかしまったくの偽書ではなく、1697年に甲府徳川藩(当時は、6代将軍になる前の徳川家宣が領主でした)で出された覚書が、1830年に、岩村藩岐阜県恵那市)で林述斎によって、「慶安御触書」として出版されて全国に広まったものだ』ということのようです。
 林述斎は、岩村藩主の松平家から養子として、断絶した大学頭の林家を継ぎました。文字通り林家の中興の祖として、幕府の史料編纂事業に力を入れています。天保の改革時に水野忠邦の懐刀(ふところがたな)として暗躍した鳥居耀蔵は、林述斎の息子でしたね。
 この林述斎が編纂した『徳川実紀』という幕府の公式の記録に、『慶安御触書』を記載したので、後世みんなが信じてしまったのです。『士農工商という身分制が厳格で、百姓は御触書でコントロールされていたんやで』と学校で教えられた時代と、現代の歴史研究者たちの認識はかなり違ってきています。
 『武士道』は明治の言葉
 実態と認識の食い違いでもう一つ厄介なのが『武士道』です。
 現代の日本でも『武士道』は結構好まれている言葉ですね。ちょっとひねってな『サムライ・ジャパン』などといったりしていますが、念頭にあるのは『武士道』でしょう。
 武士道は赤穂浪士の討ち入りのように、主君のために殉じるのが本当の武士道やで、とフレームアップされることがあります。
 18世紀に佐賀藩士が書いた『葉隠』という本には、『武士道というは死ぬことと見つけたり』という有名なフレーズがあります。少し前まで、これを引用して『主君(会社)には死んでも忠誠を尽くすんやで』といった使われ方をしていました。
 しかし『武士道』という言葉は、実は1900年以前の用例はほとんどありません。
 実際のところ『武士道』は、新渡戸稲造が英文で『武士道』という本を1899年に書いて有名になった言葉なのです。
 新渡戸稲造は2つのことを考えていたようです。1つは、『国のリーダーたるものは、社会全体への義務を負うのや』ということです。
 もう一つはキリスト教、とくにクエーカー教徒の信仰です。社会のために頑張って働き、寄付もたくさんする。その高い宗教的な倫理感に、新渡戸稲造は刺激を受けて、日本でそれに匹敵するモデルはと探索して見つけたのが武士道だったのです。『武士は食わねど高楊枝』という言葉もあるように、武士は美味しいご飯とか綺麗なお姉さんよか、あるいはお金儲けとか、そういうことには目もくれず、社会全体を考えて自らを犠牲にしていたのだと想像して、『これぞ世界に誇る、キリスト教にも負けない日本のブシドーやで』と紹介したのです。
 さて実際に『葉隠』を読んでみると、『死ぬことと見つけたり』の一節は、『常に死身になっているときは、武道において自由を得て、一生の間恥になるような落度なく、代々担ってきた役職を勤めおおせるのである』と結ばれています。
 むしろサラリーマンの処世訓のような話しでした。
 武士はギブアンドテイク
 武士道という言葉が最初に出てくるのは、甲斐武田家に仕えた軍学者の書いた『甲陽軍鑑』です。
 よく読んでみると、ここには一族の繁栄のためには、戦闘に勝ってまず生き残らなあかんで、とかいてあるのです。
 もともと武士の本源は鎌倉時代の『御恩』と『奉公』です。源頼朝が領地を安堵してくれたからその対価として奉公するという形の、ギブアンドテイクの関係なのです。
 たとえばNHK大河ドラマ真田丸』で有名な真田家が典型ですね。
 長野と群馬の国境あたりを支配する小領主(国衆)の真田氏は、自身の領地を保護してくれる大名武田氏に仕え、武田が敗れれば織田や豊臣に仕え、その後は兄弟が分かれて兄は徳川に、弟は豊臣に味方して、どちらが勝っても一族が生き残れるようにしているわけです。
 これが武士本来の姿です。
 戦国時代の大名の藤堂高虎も、主君を何度も変えて一所懸命に働き成り上がっていき、最後は徳川家康に仕事ぶりを評価されて、伊勢(三重)の津の32万石の大名になりました。高虎は『7回主君を変えなければ、武士とはいえへんで』と言ったと伝えられています。
 『葉隠』にも、『(江戸時代初期の)御家来衆は、「7度牢人しなければ誠の奉公人ではない。七転び八起きだ」と口ぐせのように言っていた』という一節があります。
 かつての武士は終身雇用ではなかったのです。どんどん転職して、いい上司を見つけて、一族を繁栄させるのが武士やでという考えが、戦国が終わったあと、江戸時代にもずっと根底に生きていたのだと思います。
 『主君のために死ぬのが武士道や』という考えは、明治時代になって、欧米先進国に対抗するネーションステート国民国家)を構築しようとしたときに、つくられた虚構です。
 それはやがて『御国のために死ぬことが日本人の義務やで』と置き換えられていきました。
 実際の江戸時代は、『士農工商があった』、『武士は武士道精神に殉じていた』などという時代ではまったくなかったわけですね」
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 平安時代天皇家や藤原家など高貴な血筋の武家・武門ではない在野の武者・野伏せりは、目的は何であれ人を殺す事で生活している最も血と死に穢れた、それこそ非人・エタなどの賤民と同類かそれ以下の身分低い卑しき輩であった。
 宮廷の役職で近衛府などの武官職は天皇の側近くに控える為に位は高いが、就任する公家は武家公家ではなく文官公家であった。
 武家公家は、全般的に位が低く、血と死で穢れているとして昇殿は許されず、庭先など地べたに罪人の如く座らされた。
 それは、人権差別、人間差別、職業差別であった。
 日本民族は、血と死を穢れとして嫌い、生命を脅かし、活力を衰退させ奪うと恐れ、身近から見えない所へと遠ざけた。
 それは、合理的な道理や理屈ではなく生理的な拒否反応で、世界常識では理解できない。
 為に、現代の国連などの国際的な場で人権無視の重罪な差別問題として、厳しく非難される賤民差別・部落民差別・芸能の民(歌舞伎役者)差別はここから生まれた。
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 社会に底辺で生きていた賤民・部落民・芸能の民らは、命知らずの勤皇派・尊王派として、天皇・皇族・皇室を命を捨てても守っていた。
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 日本は3つの力が均衡する事で安定し、崩壊・消滅を食い止め、限られた豊かさを共有していたていた。
 日本における豊かさとは心や精神の事であって、金銀財宝の富ではない。
 3つの力とは、血と死の穢れと強欲・俗欲に塗れた政治権力、俗と聖を橋渡しする独り善がりで傲慢な宗教権威、神聖不可侵として孤高に立つ清浄な天皇の御威光、であった。
 賤民・部落民・芸能の民らの拠り所は、暴力、差別、弾圧、迫害、搾取を行う政治権力や宗教権威ではなく、強制も強要も一切しない無私無欲な天皇の御威光であった。
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 理想的武士像を作り、アッサリと切腹して死ぬ武士道を広めたのは、身分差別されていた芸能の民(役者・歌舞伎役者・その他)である。
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 忠君愛国の武士道は、異教徒・異端者弾圧のキリスト教に対抗して創作され、一党独裁・人民搾取の共産主義マルクス主義)を撃滅する為に広まった。
 突き詰めれば、キリスト教共産主義マルクス主義)も信仰者・信奉者のみを優遇し、それ以外の従わない者には死と暴力で支配する恐怖制度であった。
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 武士道は、軍人勅諭教育勅語の精神的支柱となっている。
 つまり、軍国主義とは武士道の事であった。
 アメリカ・GHQは、武士道があると軍国主義が復活する危険性があるとして、武士道に繋がる一切合切を消滅させるべく禁止した。
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 武士とは、二君以上の主君に仕えてこそ真の武士と言われた。
 幾ら主君と言っても、先見の明がない無知蒙昧な暗君などには命を捨てても仕え忠勤を励む価値はない。
 無能無策ゆえに決断を誤り今にも崩壊・滅亡しそうな主家と運命を共にするのは愚かな事で、立て直しに奔走する事なく見捨てて、さっさと逃げだす事が正しい生き方である。
 何時の時代でも、能力者や技能者は危険を察知して先にいなくり、愚か者のみが取り残される。
 忠義者とは、そうした無能者・愚か者を事を言う。
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 江戸時代までの上級職は、伝統的慣習として、その役職に相応しい家柄の者が就任した。
 就任する資格のない家柄の者が、上級職に就任する事は飛び抜けた才能がない限りありえなかった。
 如何に野心があり大金があっても家柄が違えば、上級職には就けなかった。
 家・家柄の壁は絶対で、個人の能力・人格など関係なかった。
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 相応しくない家柄の者が出世するには、出世魚のように就任するに相応しい家名に変えねばならなかった。
 由緒ある家名は、勝手に名乗るはできず、主君の許可を得、名乗る家柄の者やその親戚筋までの承認が必要であった。
 その為、如何なる功績をあげようとも、その賞賛は個人ではなく家に与えられ、歴史は個人の名前ではあく家の名前のみを後世に伝える。
 大事なのは、個人ではなく家であった。
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 古臭い家名支配を壊したのが、三好長慶織田信長であった。
 戦国大名であった斎藤道三北条早雲らは、下剋上を行っても伝統文化であった家名支配を破壊する事なく利用した。
 松永弾正久秀ら極少人数が家名支配に縛られず本姓を名乗り続けたが、最後は悲惨な末路を辿った。
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 敗戦日本の自由・民主主義教育は、家より個を優先する為に、出世魚的に家名を変えて出世するという伝統的慣習の家名支配を破壊した。
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 現代日本で大名跡襲名の家名支配が継承され続けているのが、歌舞伎、落語、相撲、工芸、各種家元家などの伝統的民族文化を重んじる古い体質の分野である。
 日本に、数百年続く老舗が多いのはこの為である。
 職種・役職・役柄は家・家名に付いている、それは世界の非常識である。
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 世界の王朝は、例外なく、新しい王朝は戦いの末に前王朝を虐殺して創生し、新しい王朝によって虐殺されて滅亡した。
 王朝の栄枯盛衰とは、殺し合い、虐殺の歴史である。
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 日本の世襲制は、天皇家・皇室のみが血の世襲で、それ以外は家の世襲である。
 家の世襲とは、血が繋がらなくても構わない世襲である。
 その為に、庶民(百姓や町人)から武士身分になった金上がり侍が、格上の中級武家の養子に入りその家と財産を受け継ぐ事があった。
 将軍家や大名家、家老職家・大目付職家など由緒ある上級武家などでは、格上の他家の養子はあったが、格下の家からの養子はなかった。
 ただし才能があれば、金上がり侍でも一代限りの勝手方家老、勘定奉行町奉行、郡奉行などの役職に就く事ができた。
 だが、武士社会は嫉妬心が渦巻く最悪のブラック社会で、出世が望めない武士による成り上がり者に対する陰険な意地悪・いじめ・嫌がらせが横行し、油断し役職で失敗すれば引きずり下ろされ、全ての責任を押し付けられ御役御免の上に家禄没収(全財産没収)で領地追放を命じられ、最悪、上意で切腹を命じられた。
 武士とは、死と隣り合わせに生きる者の事を言う。
 武士というブラック社会の犠牲者が、下層な芸能の民・猿楽師の大久保長安であった。
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 下賤の身から成り上がり者で有名なのが、天下人になった豊臣秀吉徳川家康である。
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 幕府は、大名と領民の結び付きを断ち切る為に、紀伊尾張・水戸などの親藩、井伊などの主要譜代大名、島津・伊達・前田・毛利など国持つ外様大名以外の中小の譜代大名外様大名たちの領地替え・転封・国替えを頻繁に行っていた。
 その為、強制的に領民とされた庶民にとって領主・大名に忠誠や愛着はなかった。
 庶民にとって生活に実害がなければ、誰が領主になろうとも関心も興味もなく、それこそお犬様でもお札でも構わなかった。
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 江戸時代の道徳・規律・規範は、哲学的な儒教の武士道ではなく、宗教的な神道の天道様と仏教の先祖様であった。
 ただし、儒学の古典である「論語」は義務教育的に素読されていた。
 幕府は、朱子学を官学と定め、武士教育として諸大名に奨励した。
 庶民は、反権力的に私学である陽明学その他に流れた。
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 江戸時代は、武士の時代や封建制度社会は見せ掛けで、実は、百姓・町人などの庶民の時代であり、多種多様な価値観を持て生業としていた職人社会であった。
 江戸・京・大坂などの大都市の時代というよりは、地方の町や農村の時代であった。
 人の流動性のない不自由な閉塞空間・閉鎖社会ではなく、幕府の掟による自由の制限はあっても、人の流動性が保障された開放空間・開放社会であった。
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 赤穂浪士とは、忠君の物語ではなく、御政道に対する批判物語である。
 それ故に、幕府は忠臣蔵を禁止し、庶民は演目に喝采した。
 幕府は、庶民に人気のある忠臣蔵を上演して金を稼ぐ歌舞伎を悪所として弾圧した。
 忠臣蔵は反権力物語である為に、庶民に愛され後世に残った。
 忠臣蔵は、忠誠を尽くす家臣への手本ではなく、家臣を従える大名への教訓であった。
 忠臣蔵とは、旧赤穂半士達による亡君への忠誠で老人・吉良上野介を殺したのではなく、鎌倉幕府以来の喧嘩両成敗の原則を無視した裁定をおこなった幕府・将軍に対する意義申し立てであった。
 大石内蔵助は、吉良家討ち入りは私闘ではなく公闘であると訴えた。
 幕府・将軍は、大石の訴えを認めて、赤穂浪士全員に切腹を命じ、由緒ある吉良家を断絶させた。
 藩士は、大名・主君と藩・御家の何れかを選択するかと言われたら、迷わず藩・御家を選び大名・藩主を切り捨てた。
 つまり、藩士の忠誠は、大名・藩主より藩・御家の方が強かった。
 何故なら、大名・藩主は飾り・人形のようにすげ替える事が可能だが、藩・御家は改易・お取り潰しにあったらお仕舞いだからである。
 藩士は、大名・藩主に権威を与えても権力を持たせなかった。
 忠臣蔵の教訓とは、そういう事である。
 日本の組織は、トップダウンではなくボトムアップである。
 藩士にとっての理想的な主君とは、重臣達が協議して決めた事に対して「そうせい」や「よきに計らえ」と盲印を押して意見も言わず美女と戯れる「ボンクラ」大名・藩主の事であった。
 武士は、豪商や豪農に便宜を図る見返りとしてから賄賂を貰って私腹を肥やしていた。
 放蕩三昧の大名・藩主のせいで、各藩は財政赤字となって多額の借金に苦しみ、飢饉など自然災害が発生するやその度に夥しい犠牲者を出していた。
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 江戸時代で家柄に関係なく出世した武士は、算盤武士か金儲け達者の武士であった。
 武士が金儲けしなかった、とはウソである。
 江戸時代といっても、開幕期・前期・中期・後期・幕末期と全く違い、武士の生き方も時代によって変化していた。
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 徳川幕府は、日本人を奴隷として売って金を稼いでいた中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人を追放する為に制限付き鎖国を行い、日本を閉ざした。
 現代の歴史教育は、鎖国は誤りだったとして幕府を非難している。
 世界は、ローマ教皇が「改宗した日本人を奴隷にしてはならない」という教書は公布した以上、異教徒の日本人を奴隷として売り買いする事は合法と認めた。
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 日本と中国・朝鮮とは、同じ儒教社会といっても根本からして違うのである。
 日本のような武士も庶民も、中国や朝鮮にはいなかった。
 日本の歴史と中国・朝鮮の歴史は、90%近く交わる所がない、共通する点、共有できる所は皆無といっていい。
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 日本は、揚子江流域にあった長江文明の後継であって、黄河流域に栄えた黄河文明の中国・朝鮮とは別系統である。
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 日本の歴史において、戦後の天皇を否定するリベラル史観や革新史観は有害無益である。
 同様に、有象無象の右翼・右派が盲信する傲慢無礼な史観も無価値である。
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 天皇を否定し、元号を拒否する日本人には、日本の歴史を語る資格はない。
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 左翼・左派・ネットサハも右翼・右派・ネットウヨクも、二本差しの武士・サムライではないし、武士道も士道も持ってはいない。
 しい言えば、一本差しの股旅ヤクザか食い詰め浪人である。
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