💖32)─1─アメリカにおける、黒人の暴動と非暴力の日系アメリカ人。〜No.131No.132No.133No.134 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博・   
 「日本人は、世界で信頼されている」とは、馬鹿げた話で、嘘である。
 日本に観光に来る外国人は、例外なく日本が好きで来日している、彼らに聞けば全員がそう答える決まっている。
 人類総人口からすれば、ほんの雀の涙ほどの量・数に過ぎない。
 「日本人が世界で愛されている」と本気に信じている日本人がいれば、そんな日本人は現実が見えない・理解できない低能者である。
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 ある時期まで、アフリカ系アメリカ人と日系アメリカ人の関係は良好であり、アフリカ系アメリカ人の暴動が起きても日系アメリカ人の被害はなかった。
 アフリカ系アメリカ人と韓国系・朝鮮系アメリカ人関係は悪く、アフリカ系アメリカ人の暴動があると韓国系・朝鮮系アメリカ人はかなわずと言っていいほど被害を受けている。
 韓国系・朝鮮系アメリカ人は、被害を避ける為に「自分は日系アメリカ人である」と誤魔化した。
 その事を知ったアフリカ系アメリカ人は、日系アメリカ人であろうと韓国系・朝鮮系アメリカ人と関係なく襲った。
 韓国系・朝鮮系アメリカ人の卑怯な行為で、日系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人の良好だった関係は悪化して疎遠になった。
 アフリカ系アメリカ人が、日本民族日本人を尊敬し信頼し友情の手を差し伸べたのは、第九条の平和憲法を持っているからではなく、アメリカと戦えば必ず負ける事が分かっていても正々堂々といさぐよく戦ったからである。
 アフリカ系アメリカ人は、暴動を起こせば暴力で弾圧され、甚大な被害を出す事が分かっていても、度々暴動を起こしているがゆえに、日系アメリカ人の二世部隊や戦前の日本を正しく理解していた。
 現代のアフリカ系アメリカ人は、権利や自由を守る為に対立し戦うという事を避ける卑怯な日本を軽蔑している。
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 日本人の中には、アフリカ系アメリカ人はおろかアフリカ人を下等で野蛮人と確信し、軽蔑・蔑視する「心穢れ」た人種差別主義者が少なからず存在する。
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 ウィキペディア
 ワッツ暴動とは、1965年8月11日から8月17日にかけてアメリカ合衆国のワッツ市(カリフォルニア州、現在はロサンゼルス市に吸収)で発生した暴動事件。

 概要
 白人のハイウェイ・パトロールが、道路上を蛇行運転していた黒人男性を尋問。尋問した途端に周囲の黒人が集まって来て、検挙の一部始終を見守った。結局、ハイウェイ・パトロールは運転していた当人と弟・母親を逮捕。これを切っ掛けに暴動が発生し、警察官の襲撃から市街地における集団略奪や放火へ発展。州兵を投入して鎮圧する事態にまで及んだが、暴動が続いた6日間で死者34人・負傷者1,032人を出し、逮捕者は約4,000名にも及び、損害額は3,500万ドルにまで上った。

 背景
 ワッツの住民の実に99%を黒人が占めていたのに対し地域を担当していた警察官には殆ど黒人がおらず、地域住民の感情には黒人差別思想を持つ警察への不信感が根深かった。加えて失業率も高く高等教育を受けている住民も少なかったことから、一種のスラム街になっていたことなど地域住民の不平不満は高いものであった。

 余波
 ワッツの様に黒人居住地域がスラム街となっているのはアメリカ全域で見られたことであり、折からの公民権運動の高まりによる人種差別への反発から同種の暴動は、この頃全土で発生していた。政府も州も暴動の鎮圧には力を振るったものの、根本的な原因となった居住地域における生活改善や人種差別の解消には更なる時間が必要となった。
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 ディスカバー・ニッケイ
 ニッケイがいた街
 第1回(後編) ロサンゼルス西南地区(クレンショー・ディストリクト)
 福田 恵子 / 2013年3月26日
 このシリーズについて
 ターミナルアイランド、西南地区、そしてベニス。ロサンゼルス近郊の「かつては日系人の居住区だったエリア」を訪ね、往事の模様を証言者に聞くシリーズ。 
一体、西南地区の日系人はどうしてどこに消えてしまったのか? その問いに、西南シニアセンターのプレジデントである柴邦雄さんが答えてくれた。
 西南シニアセンターの前での会長の柴さん。「コミュニティの財産であるセンターを、次世代へ引き継ぐことが課題。そのためにシニアメンバーの家族にアソシエートメンバーになってもらい、この場所を確保していくことを訴えている」と熱く語る。
 「私が思うに、ワッツの暴動が一つのきっかけになったように思います。あの暴動は街がまるごとなくなってしまうほど激しいものでした。最近の人は、暴動と言うと、1992年に起こったロサンゼルス暴動を思い浮かべるようですが、ワッツとはまったく規模が違う」 ワッツ暴動とは、1965年に西南地区にも近いワッツ市(現在はロサンゼルス市に吸収)を中心に数日間にわたって続いたアフリカ系による暴動だ。きっかけは蛇行運転していたアフリカ系男性を白人警官が逮捕したこと。その光景を見守っていたアフリカ系住民が普段から警官に対して抱えていた不満を一気に爆発させた。事態は州兵を導入して鎮圧する事態にまで発展した。
 柴さんは、しかし、ワッツ暴動が日系人のエリアからの流出の1つのきっかけになったとは言え、日系人は被害を受けていないと証言する。
 「私がなぜ、ここに今まで残っているか? あそこまでの暴動を経験しても、私自身、被害を受けなかったし、出て行く理由にはならなかったからです。それでも、周囲の日系人はオレンジやサウスベイ、バレーの方面に引っ越して行きました」
 日系とアフリカ系が“共存”
 ワッツ暴動の2年前の1963年、日本から西南地区に移り住んだ三宅良彦さんも、当時の西南地区について語ってくれた。三宅さんは帰米二世の父親が暮らしていた西南に、11歳の時に母親と兄弟と共に合流してきた。
 「60年代、西南では日系人と黒人は自然に“共存”していましたね。地元の中学のクラスメートの顔を思い出すと、東洋人2割、スパニッシュ5%、残りが黒人でした。白人はいませんでした」
 ワッツ暴動の記憶は三宅さんの脳裏にも鮮明に焼き付いている。
戒厳令が敷かれ、暴動は2週間くらい続きました。地域内の道路を軍用車がゆっくり走っていき、州兵が銃を構えていた光景が蘇ります。でも、黒人たちは、私たち日系人に被害を与えるようなことはしませんでした。だから、ワッツで日系人の移動が始まったと言うよりも、むしろ日系人が経済的に豊かになって、郊外の住宅地に転出したというのが実態だと思いますね」
 西南でまさに青春時代を過ごした三宅さん。「日系のティーンの集まりでは、西南のグループが、一番格上だった。当時は西南が日系社会の中心だった」と誇らしげに振り返る。 現在はサウスパサデナ在住。
 そして、ワッツ暴動後に高校生になった三宅さんに「西南地区になった三宅さんに「西南地区で過ごした青春」について聞いた。
 「高校生が集まっていたのは、何と言ってもホリデーボウル。30レーンか40レーンあった大きな日系人経営のボウリング場です。週末に行くと座る場所もないくらい予約でいっぱい、しかも日系人ばっかり。場内にはレストランもあって、そこで食べる夜食としてのサイミンが大人気でしたね。当時はリトルトーキョーにあったアトミックのサイミンか、ホリデーボウルのサイミンかと言われていました」
 三宅さんは自転車に乗って、羅府新報と加州毎日の新聞配達もしていた。夕方のアルバイトとして、西南地区の日系家庭200軒に配達して回ったのだ。それだけに周囲に何があったかもよく覚えている。三宅さんは地図を描き、クレンショーとジェファソンの通りを中心に東西南北数ブロックにわたって、日系の商店が集中していた様子を再現した。
 「今はリトルトーキョーで眼鏡屋さんになっている倉田商会や、1カ月半遅れの日本の雑誌を買っていた書店の博文堂、しゃれた雑貨を置いていたコービーズや、友達の実家のリカーショップ、日系経営の不動産屋、中華料理屋、床屋に和菓子屋…。私の父がやっていた柔道のクレンショー道場。当時は柔道が流行っていて、あちらこちらに柔道の道場がありました」
 日系の店が減ったのは1968年くらいだと三宅さんは言う。「僕らが中心になって運営していたダンスパーティーも下火になって、西南でのイベントもどんどん減っていきました」。日系にこだわる三宅さんたちから下の世代へと、世代交替が進んだ結果、街の活気も失われていった。
 そして19歳で日本に渡り、さらに7年後にアメリカに戻って来た頃、三宅さんの両親の家も西南からパサデナに移っていた。以後、三宅さんも西南には住むことはなかった。
 「7年後にアメリカに戻って来た時、西南に日系人がいなくなったのを見て、随分寂しく感じました。今でも銀行に用事があるので、時々、西南には行きますけど、今はもう何も感じませんね。懐かしくはありますが。でも嬉しいのは、日系人の住んでいた家の日本庭園を黒人が綺麗に手入れしてくれていること。若い時から日系人と共存して日系のいい影響を感じてくれていたんだと思います」
 c  2013 Keiko Fukuda」
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 韓国人・朝鮮人は、成功して金持ちになるというアメリカンドリームを夢見て自由意志でアメリカに移住した。
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 支那人(中国人)の苦力は、奴隷として扱われ過酷な重労働を強いられ、そして惨殺された。
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 日本民族日本人は、戦国時代にアフリカ人と同様に奴隷として売買され、明治時代に契約労働者としてアメリカに移住して奴隷的重労働を強いられ、大正時代から昭和前期にかけて排日運動で人間性を否定され幾度も迫害を受け、太平洋戦争勃発に伴って敵国人・犯罪者として軍管轄の鉄条網に囲まれた収容所に強制的に送り込まれた耐乏生活を強いられた。
 在米日本人(二世日本人)は、アメリカ国民として、国家に忠誠を誓い、国民の義務で志願して軍隊に入り、アメリカ軍兵士として日本軍と戦い日本兵士を殺しそして戦死した。
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 戦前の日本、松岡洋右などの外交官や日本軍部の諜報部員は、アメリカ国内に情報提供者を増やす為にアフリカ系アメリカ人組織に接近していた。
 FBIは、そうした反国家的動きに警戒し、アフリカ系アメリカ人を監視し、例外なく日系アメリカ人を強制収容所に押し込めた。
 アメリカは、自由に動き回る在日朝鮮人(約200万人)から日本政府や日本軍の機密情報をえ、国民の間に負け犬気分や厭戦気分を広める謀略戦を仕掛けていた。
 朝鮮人は、学業優秀で政府な官僚や軍部の高級将校になり、志願して兵士・軍属・役人、会社員・労働者・炭鉱夫などとして日本全国に入り込んでいた。
 朝鮮人徴用工は、日本の生産現場に潜り込んでいた。
 日本軍部は、アメリカの徹底した封じ込めにあって、謀略戦・情報戦にアフリカ系アメリカ人を利用する事ができなかった。
 軍国日本は、機密情報が漏れていた為に負けるべくして負けた。
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 現代のアメリカ社会では、中国共産党が支援する中国系アメリカ人や韓国系・朝鮮系アメリカ人は抗日団体を組織し、議会に反日議員を送り込み、反日法案を通過させている。
 アメリカの反日世論により、日系アメリカ人やアメリカ在住日本人はイジメや嫌がらを受けるという被害を受けている。
 日本の政府や外務省や議会、政治家や官僚や議員、メディアは、薄情にも同じ祖先を持つ日系アメリカ人の苦境を見てみない振りをして切り捨てている。
 日本人の本性は、薄情や非情である。
 何故か、戦前の日本は、理不尽な外圧に抵抗し、非人道的な人種差別に憤慨して非難し、不当な迫害に晒されて困窮する在日アメリカ人を助ける為にアメリカに抗議し、その激しい対立が戦争へと発展したからである。
 戦後日本は、事なかれ主義と問題先送りで「ご無理ご尤も」として平身低頭して受け入れている。
 つまり、戦前の日本は不正義を正す為には戦争も辞さない覚悟があった。
 戦後の日本は、戦争を避ける為ならば100%不当・不正義であっても唯々諾々として従っている。


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