✿347)─4・B─水野忠邦の改革とは、江戸人口集中を解消する地方・農村の復興改革であった。〜No.738/  @   ≪45≫      

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 地方・農村からの人口移動による東京人口集中問題は、江戸時代でも起きていた。
 松平定信寛政の改革水野忠邦天保の改革も、江戸の人口集中問題解消に力をい得れていた。
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 日本民族の精神史とは、多神教の多種多様な価値観による神道的自由奔放と一神教の唯一画一単一な価値観による仏教的戒律、儒教的道徳、キリスト教的禁欲、マルクス主義共産主義)的平等とのせめぎ合いであった。
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 2019年9月5日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 〔近世篇〕
 『天保の改革』と『遠山の金さん』
 老中水野忠成は将軍家斉のもと、1818年から15、6年の間政権を握っていました。
 その間、貨幣改鋳によって財政を再建し、インフレにはなりましたが、市中のお金のまわりをよくしたことで、結果的には商業が発展し経済は上向きになりました。
 ところが、水野忠成が34年に亡くなり、放漫財政の元凶であった『大御所』家斉も41年に亡くなると、老中首座についていた水野忠邦が、正反対の政治をはじめました。
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 水野忠邦はものすごく出世欲の強い人でした。
 もともとは肥前(佐賀)唐津藩主でした。唐津藩は6万石といいながら、実質は25万石といわれた豊かな藩です。ところが唐津藩主は長崎警備の役目柄、江戸表に出てきて老中になることができませんでした。
 そこで水野忠邦は浜松に転封を願い出ます。浜松は実質15万石ぐらいですから、約5分の3の減俸ということになります。25万石でもヒイヒイしていた家臣は、大いに嘆いたといわれています。
 大塩平八郎の乱
 さらに忠邦は親戚筋にあたる権力者、水野忠成らにじゃんじゃか接待して贈物も欠かさず取り入って、水野忠成の没後老中にのし上がりました(1834年)。
 当時は11代将軍家斉がまだ生きています。家斉がいる間は、緊縮財政はできないわけです。家斉に『緊縮財政』と言った瞬間にクビになるのがわかっていますから、じっと雌伏(しふく)します。
 このとき、跡部良弼という水野忠邦の実の弟が大坂東町奉行をしていました。
 天保の飢饉になると、廻米といって、大坂に全国から集まっていたお米を江戸に回すお触れが出ます。
 兄貴が江戸で老中首座の地位を狙っているのだから、江戸で米不足による騒動を起こさせるわけにはいかんと、跡部は廻米を行います。
 これに対して、『大坂が餓えているのに、そんなの許せんで』と、1873年、元奉行所与力の大塩平八郎が乱を起こします。自分がやっていた陽明学儒教の一派)の私塾の塾生たちを中心に300名ぐらいで挙兵したのです。
 ところが乱に加わったものの中にはならず者も相当入っていたようです。大塩平八郎は『救民』の気持ちで立ち上がったにもかかわず、乱が膨れるなかで統制が効かなくなり、結局1日で鎮圧されてしまいました。
 ただ、大塩平八郎は与力ですから、現代でいえば大阪府の局長が反乱を起こしたようなイメージなので、心理的な影響は小さくありませんでした。直後に新潟で国学者、生田万による反乱が起きています。
 41年、家斉が亡くなります。水野忠邦は老中になってから7年も自重してこのときを待っていました。
 まず12代将軍家慶が、『享保寛政の改革をもう一回やるで。農業復興と緊縮財政や』という意思を示されたと宣言します。そして水野忠邦が、『上様のご意思に沿って頑張ります』という形を取ります。そうするとやりやすくなるわけです。
 倹約令と遠山の金さん
 そのうえで、奢侈(しゃし)禁止令とか倹約令を山ほど出します。そのことを当時『法令雨下』と呼んでいます。法令が雨のように降ってくるという面白い表現です。冠婚葬祭や年中行事も制限され、雛人形や蒔絵(まきえ)など少しでも派手なものは禁止されました。
 当たり前ですがその結果、江戸は深刻な不景気に見舞われ、大呉服店の前年同月比売上高が、2割から7割も減少したといわれています。
 家屋の新築が憚(はばか)られて土木建築の職人の仕事がなくなり、遊興に出かける気分も出ないので、飲食店や盛り場が閑散としてしまいます。
 このときの北町奉行遠山景元(金四郎)でした。景元は市中の事情に通じていますから、贅沢禁止令を真面目にやっていたら町の火が消えてしまうで、と手を抜きました。
 たとえば、江戸に200軒以上あった落語などの寄席を全廃する措置や、繁華街にあった歌舞伎三座の僻地移転にも抵抗しています。寄席はなんとか15軒の存続を認めさせていますが、歌舞伎三座については浅草に移転することになりました。 
 一方、喜んで活躍したのが鳥居耀蔵です。『蛮社の獄』で暗躍した鳥居耀蔵は、結構使えるやつやと水野忠邦には思われていたのですね。南町奉行に据えられると、法令通りにガンガン取り締まります。
 そうすると、江戸っ子は単純ですから、遠山景元は正義や、鳥居(甲斐守)耀蔵は『妖怪(耀甲斐)』や、と単純な善悪二元論遠山景元がものすごく持ち上げられ、『遠山の金さん』という伝説になっていきました。
 43年には、人返しの法を発布します。『天保の飢饉』などで、農村で食べられなくなった人々が江戸に流れてきていました。55万人の江戸の町方人口のうち、16万人が他国の生まれだったとされます。農村は人がいなくなって荒れていきます。だから幕府は法律で無理矢理に農村へ帰そうとしました。
 これと表裏の関係だったのが、前出の町人文化の取り締まりです。
 江戸での生活が文化的で楽しいから、農業を捨てて人が集まる。そう考える農本主義的な『改革』は、農村復興のため、江戸に人が集まらないように、もっといえば魅力のない町にしようとしたのですね。
 水野忠邦は、簡単な小売や、庶民の食生活を支えていた屋台(床見世)も規制しようとしましたが、これもその日暮らしの貧しい人々の貴重な稼ぎの場を奪うものとして遠山景元の抵抗にあっています。
 そのほか、水野忠邦市場経済の力を信じませんでしたから、物価も基本的な統制しようとしました。一方で株仲間という、業界団体に対しては、『お前らが談合して幕府に逆らっているのやろ。解散や』とバラバラにしてしまう。江戸だけではなく地方の株仲間も解散させました。
 失脚
 いろいろと張り切った水野忠邦の失脚のきっかけが、『上知令(あげちれい)』でした。これは江戸、大坂の周囲は一定の範囲まで全部幕府の直轄領にするで、というものです。領地が入り組んでいたら、外国が攻めてきたときに守りにくいというわけです。
 でも、江戸や大坂近くに領地を持っている大名や旗本にしたら、遠くへ行かされるなんてとんでもないと反対します。
 結局、43年に水野忠邦は老中を罷免されてしまいます。人返しの法も上知令も撤回され、株仲間もその後復活しました。改革は3年足らずでほとんど失敗に帰します。
 ところが、翌年に江戸城が火災に遭い、その再建が捗(はかど)らなかっとことで、異例にも〝豪腕〟と評された水野忠邦が返り咲きました。
 とはいえ権威付けのための再任ですから、老中としての仕事はあまりありません。45年に病気を理由に辞職をすると、その半年ほど後、『在職中の不正』を理由に2万石と麻布の上屋敷を没収され、渋谷の下屋敷での謹慎を命じられます。
 雨の夜にたった15人で渋谷の下屋敷へ移る水野忠邦の姿は、まことに哀れだったと伝わっています。
 水野忠邦の失脚の原因になった上知令は、もともと幕府の海防政策の一環でした。……」
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 江戸時代と現代日本との違う点は、人口問題である。
 現代日本は、少子高齢化で急速に人口が激減し始めている。
 それに比べて、江戸時代は微増ながら人口が増えていた。
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 江戸時代は、人生50年で、出生率が高く乳幼児死亡率も高く、若者が多く老人が少なかった。
 現代日本は、人生100年で、出生率が少なく乳幼児死亡率も少なく、老人が多く若者が少ない。
 江戸時代と現代日本が共通する点は、多死社会である事である。
 江戸時代は、乳幼児の死亡が多く、同時に出産後の女性の死亡例も多かった。
 現代日本は、老人の死亡のみが多い。
 江戸時代は、現代日本以上の男尊女卑社会で、「女性は奴隷の如く扱われていた」とはウソである。
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 現代日本の高学歴出身知的エリートは、水野忠邦の足元にも及ばない程の能力・才能である。
 特に、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、人権派護憲派反戦平和市民団体、自衛隊解体派、日米安保同盟解消派などはハッキリとそうだと言える。
 彼らには、歴史を語る資格はない。
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 世界では、単純に歴史は繰り返す。
 だが、日本は複雑で歴史は繰り返す事はない。
 歴史は繰り返しと信じている日本人は、歴史を知らないか、歴史が理解できない。
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 江戸時代の日本人は、幕府が押し付ける官学の朱子学を敬遠していた。
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 水野忠邦が目指した理想社会とは、朱子学を国家の指標としていた明国(中国)である。
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 日本人儒学者は、儒教国家の中国や朝鮮に憧れ、儒教経世済民を実行している中国や朝鮮こそ正しい国であると信じ、日本を正しい国にするには儒教価値観で作り替えるべきだと真剣に考えていた。
 儒学者達の目からすれば、日本には本当の意味で儒教は存在しなかった。
 彼らが信じる正統な儒教とは、官学の朱子学である。
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 朝鮮が日本を野蛮な下等国と見下すのは、日本に朱子学が浸透していないからである。
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 禁欲で贅沢を禁止した水野忠邦朱子学に凝り固まった鳥居耀蔵を乱暴に言えば、キリスト教徒や共産主義者マルクス主義者)に似ている。
 キリスト教共産主義マルクス主義)の共通する点は、貧しさを美徳とする、人間の欲を完全否定する病的偏狂的禁欲である。
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