🏞94)─3─清国の『海国図志』。天保の改革の一つが戦争準備(海防強化)であった。〜No.351No.352No.353  

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 ペリーの黒船艦隊来航で狼狽した幕府を嘲笑う現代日本人には歴史を語る資格はない。
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 事実の歴史を教訓・鑑として熱心に学んだのは日本民族日本人である。
 漢族系中国人や朝鮮人は、事実に基づいた嘘偽りのない歴史などには興味がなく、自分が信じたい真実に基づいて捏造・歪曲・改竄した歴史を学んだ。
 漢族系中国人と朝鮮人は「歴史を大事にする」とはウソである。
 日本民族日本人は、漢族系中国人や朝鮮人に比べて詳細な記録を書き残し、現代の日本人とは違って後世の為に古文書を大事にした。
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 2019年9月12日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 〔近世篇〕
 1840──アヘン戦争の余波
 前回見たように、ぜいたく取締を徹底して行ったのが天保の改革でしたが、この改革にはもう一つの側面がありました。海防の問題です。それは明治維新に繋がっていく問題でもあります。
 1825年に異国船打払令が出たことはお話しましたね。
 しかし、アヘン戦争(1840年)で清(中国)が連合王国(イギリス)に負けたとの情報が日本にもたらされると、これはえらいことやで、あの大国の清がボコボコにされたんやからなと、幕府の政策は急回転していきます。
 早くも40年に高島秋帆という長崎の砲術研究家からレポートが出されます。高島家は長崎の裕福な商家で、代々の役目として町年寄をつとめるかたわら、長崎奉行所の鉄砲方の仕事にも就いていました。
 洋式砲術の威力を知り、ネーデルラント(オランダ)商館員に西洋砲術を学んでいた高島秋帆は、アヘン戦争での連合王国と清の軍事力の差は大砲にあると報告したのです。
 翌年、幕府は秋帆に徳丸原({とくまるはら}現在の東京・高島平)で、老中たちの臨席のもと、ネーデルラントから輸入した大砲や鉄砲による砲術演習を実施させました。
 高島秋帆自身は、鳥居耀蔵の讒言(ざんげん)によって陥(おとしい)れられますが、幕府は43年に大筒組を創設します。
 天保の改革の砲声
 幕府も、大砲などを近代化して守りを固めないとあかんで、とわかっていました。これが天保の改革のもう一つの側面です。
 前回、水野忠邦復古主義的、農本主義的な改革の中身を見ました。
 その一方で、水野忠邦は、深刻化する海防問題に対応するため、先進的な西洋の科学技術を学ぶ蘭学者を積極的に登用していました。
 鳥居耀蔵に代表される保守派(反蘭学派)と高島秋帆などの改革派(蘭学派)、両方の支持者を政権基盤に取り込んだことで、水野忠邦の政権は不安定な構造になったことを、藤田覚さんは『幕末から維新へ』で指摘しています。
 42年、幕府は異国船打払令を撤回して薪水(しんすい)給与令を出します。異国船が来たら、必要なものは補給してやれというものです。
 これは新任のネーデルラント商館長が、連合王国は日本に軍艦を送って交易を要求し、戦争も辞さない姿勢だという情報をもらしたことから、大慌てで決定したものです。
 また、千葉県の印旛沼の開削工事を始めます(1843年)。
 大消費都市の江戸は、大坂からのお米や物資を回してもらってご飯をたべていました。
 大坂からの輸送の船は、浦賀水道から江戸湾に入って荷揚げしていました。もし江戸湾を押さえられたら船荷が入ってこなくなり、江戸はあっという間に干上がります。一週間ももたないといわれていました。
 そこで、水野忠邦津軽海峡を通って、東回りで船を回し、銚子港に荷を揚げ、利根川を経由して印旛沼から検見(けみ)川という流通バイパスをつくろうとしたのです。
 また新潟を直轄地にして新潟奉行を置いています。北への備えですね。ネーデルラント商館長に蒸気船や蒸気機関車を輸入できないかという打診もしています。
 だから水野忠邦は出世欲の塊だっただけではなく、自身の政治に確かな目的があって、政策判断をしていたのだと思います。失脚してすべてパーになってしまいましたが。
 『海国図志』のものがたり
 面白いことに『海国図志』という本が、1850年に日本に入っています。この本には、アヘン戦争をめぐるいきさつがありました。
 連合王国東インド会社はインドでアヘンを製造し、ひそかに清で販売していました。清のアヘン吸引者は200万人以上に達します。
 密輸入量が増えると、1827年には清の貿易収支が赤字になり、銀が流出し始めます。その額は清の歳入の4分の1にも上りました。
 39年、林則徐がアヘン対策の臨時特命大臣(欽差{きんさ}大臣)になり、海外交易の唯一の港であった広東({カントン}広州)へ陸路をはるばると下ります。
 中央のエリート官僚である林則徐には、道中で有力者たちの接待攻勢が待ち受けていましたが、心遣いは無用と断り、代わりに毎晩勉強しました。洋書を買い集め外国語が読めに自分の代わりに学者に読ませ、耳学問で勉強していたのです。
 広東到着後、すぐにアヘンを厳しく取締り、連合王国の貿易監督官と対決して200万斤のアヘンを没収、すべて廃棄しました。
 連合王国は仰天しました。
 中国の役人といったら、賄賂を渡せばオッケーだったのに、今度のやつはどうも違うで、というわけです。
 だからアヘン戦争を始めると、林則徐が守っている広州は避け、北京のすぐ近くの天津に軍艦を集めて『北京を攻撃するで』と大砲で清の皇帝を脅し、林則徐を新疆へと左遷させました。そのうえでアヘン没収に対する莫大な賠償、香港の割譲などを清に請求して、南京条約を結びます。
 林則徐は、自分が集めた文献を友人の政治学者、魏源(ぎげん)にキャッシュとともに渡します。これを中国人が読めるよう翻訳して欲しい。俺は今度はロシアの勉強をせなあかんと言い残して、新疆へ去っていきました。魏源も林則徐は去っていったわけですが、貰ったお金で遊んで暮らしてもいいのに、この人も偉くて、林則徐の依頼を果たします。
 こうして44年に完成したのが『海国図志』50巻です。52年には100巻っまで増補しました。本書の序文で魏源は、外国の技術を学び、中国の富強を図るのが目的だとはっきり書いています。それは林則徐の志でもあったのでしょう。
 『海国図志』は、中国や西洋の地理書をベースに、国際法やヨーロッパから見た中国について、また様々な書籍や新聞記事などの翻訳によって編集されていました。
 生命保険と明治維新
 ……
 林則徐が洋書を集めて来いと部下に命じたとき、部下が『政治や軍事の本ですね?』と問うと、林則徐は『違う。全部や』と答えたそうです。
 連合王国と戦おうと思ったら、ヨーロッパ全体を理解しなければ勝てないと考えていた。
 林則徐は自分の集めた文献を漢文で誰でも読めるようにしておけば、いつか役に立つと考えた。素晴らしい志ですよね。
 1950年に日本に入った『海国図志』はキリスト教に触れる部分があるので禁書になりましたが、ペリー来航の53年にまた輸入され、今度は幕府も許可して中身をみんなが研究していきます。
 佐久間象山は魏源のことを『海外の心の友よ』と呼び、横井小楠は、『海国図志』からアメリカの民主政治について学んでいます。吉田松陰も獄中で読み、外交について学んだことを松下村塾の塾生らに伝えています。西郷隆盛もこの本で海外情勢を知りました。
 ここで勉強した西洋の知識が明治維新に繋がっていくので、明治維新は林則徐の志を継いだものといえるのです」
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 日本が、清国やムガル帝国あるいはインカ帝国アステカ王国の様に外国勢力に味方する裏切り者が出現すれば、日本は滅亡し、日本人は奴隷にされた。
 事実、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は日本人を奴隷として売買して金を稼いでいた。
 徳川幕府がもっとも恐れたのは、キリスト教の宗教侵略であった。
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 日本が恩義を感じるのは、満州族の清国であり、『海国図志』の林則徐と魏源であり、現代の中国や中国人ではなくまして中国共産党ではない。
 中国共産党は、ファシスト中国(中国共産党)同様に清国を打倒した革命勢力である。
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 武士は、外国に行った事がなく、外国人に会った事がなく、外国語を聞いた事もなく当然話せなかったが、現代の日本人よりはるかに国際状勢に通じていた。
 庶民でも、軍事知識や最新兵器についても現代の日本人より多少の知識を持っていた。
 当時の日本人、武士から庶民(百姓や町人)、賤民や部落民までが、外国の侵略から日本天皇神州日本を守る為に武器を取って戦う決意、死ぬ覚悟を持っていた。
 つまり、当時の日本人は現代の日本人とは別人のような日本人であった。
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 昔の日本人は、現代の日本人と比べてあまりにも想像力が優れ、先取り精神から時代の先を行きすぎて失敗する事が多かった。
 その好例が、改革派であった田沼意次水野忠邦である。
 いつの時代も、改革派は保守派によって潰された。
 昔の改革派は、現代の愚かしい革新派やリベラル派とは中身が根本的に違う。
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 現代の革新派やリベラル派には、歴史を学び語る資格はない。
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 革新派やリベラル派が、日本改造の為にイデオロギーで創作した戦後の歴史教育・歴史教科書は、失敗作に近いほどの欠陥作である。
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 日本には喫緊の外国からの脅威として存在していたのは、北から侵略してくるロシアであり、攻防の最前線が北方領土四島であった。
 徳川幕府は、北方領土四島防衛の為に東北諸藩に守備兵派遣を命じていた。
 ロシアの侵略から北方領土四島を武力で守る、それが江戸幕府・日本国の基本国防戦略であった。
 明治維新における近代化は、ここから始まっている。
 北方領土四島を放棄するという事は、日本の近代化は失敗であり、無意味であったと認める事である。
 二島返還論や領土半分返還論も、同様に日本の歴史を否定する事である。
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 江戸幕府は、アヘン戦争を教訓として軍備強化を始めた。
 良識ある大名・武士から庶民にいたるまで、アヘン戦争の顛末を知るや国防の必要性を痛感して行動した。
 アヘン戦争の教訓を、他人に言われなくても自分で考え自ら行動して生き残ったのが日本であり、どうするべきかを考えても行動せず崩壊したのが清国(中国)であり、永遠的思考停止状態で助言されても嘲笑い行動する事を拒否して自滅したのが朝鮮であった。
 近代化に、日本が成功し、中国や朝鮮が失敗したのは当然の事であった。
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 日本が生き残れた最大の原因は、侵略者が提示し金、利益、利権、美女美男などの賄賂を受け取って日本天皇や日本国を売り渡す裏切る者・売国奴が一人もいなかった事である。
 この点でも、昔の日本・日本人と現代の日本・日本人とは別人のような日本人である。
 現代日本には、自分の幸福、自分の命、金、利益、利権、美女美男で日本天皇と日本国を裏切る日本人が少なからず存在する。
 つまり、自分の金儲けの為なら日本天皇と日本国を外国に売り飛ばそうとする日本人が確実に存在する。
 売る相手は、中国共産党である。
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 何故、日本が生き残り清国(中国)と朝鮮が滅んだのか、その原因は儒教にあった。
 日本の儒教は、日本儒教陽明学及び諸派儒教論語儒教=異端派儒教であった。
 中国や朝鮮の儒教は、中華儒教朱子学=正統派儒教であった。
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 現代の日本と日本人は、バカバカしいほどの無知蒙昧・無能無策で自滅した朝鮮ににてきている。
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