🌈28)─1─江戸時代の文化・文政(化政)文化は町人文化であった。~No.55No.56  

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2019年9月26日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 〔近世篇〕
 華やかな町人文化、化政文化
 八代将軍徳川吉宗の時代に生じた『米価安の諸色(しょしき)高』を見てきました。なぜモノの値段が上がるかといえば、江戸の経済が町人主体で回るようになっていたからでした。
 商業を重視する田沼意次の時代を経て、町人たちの力はますます強くなっていきます。
 すでに元禄時代(17世紀後半)、幕府の文治政治のもとで、町人たちが文化の担い手として登場してきた様子を見てきました。
 さらに19世紀の文化・文政期(1804~1830)になると、町人たちの文化はピークを迎えました。『休暇』が生まれ、花見や舟遊びにでかけ、茶の湯や生け花、謡(うたい)など芸事を習うまでになるのです。
 この時代は11代将軍家斉という上様自身がガールフレンドをたくさんつくって遊んで贅沢していましたから、それをみんなが倣うなかで豊かな化政文化が花開きました。
 江戸のファストフード
 江戸では様々な外食産業も生まれました。落語に登場する夜鳴き(夜鷹)そばなど、庶民の食生活を支える屋台もこのころ発展しました。
 まさに化政文化の盛りの1824年ごろ、与兵衛(よへえ)寿司が現れます。いま和食ファミレスの名前に採られている華屋(はなや)与兵衛ですね(両者には直接の関係はありません)。
 それから1830年に松ヶ鮨の堺屋松五郎が現れ、この二人が握り寿司を始めました。
 寿司はもともと中国から奈良時代に日本に入ってきた、魚を発酵させた熟(な)れ寿司や押し寿司が中心でした。それに対して握り寿司は、海からとれた魚をそのまま切ってご飯と握る、まさにファーストフードです。
 最初は安い魚を握っていましたが、寿司屋同士の競争がはじまると、すぐに高級なものを握るようになります。こんな贅沢なものを町人が食べていたらあかんと天保の改革で処罰されたほどです。
 贅沢といえば、このころは庶民も絵を楽しむ時代になっていました。
 多色刷りの木版画による錦絵(にしきえ)の登場です。当時の錦絵は蕎麦一杯程度の価格といわれていますから、数百円程度で人々は美しい絵を手に入れられるようになったわけです。
 この錦絵は、18世紀の後半に鈴木春信が興し人気を得たのち、次第に発展して、美人画歌麿、役者絵の写楽、風景画の北斎、広重などの天才が現れます。
 美人画というのは、歌麿が実在の女性を描いたものです。
 御茶屋にいた女性、いまでいえば人気のお店の○○ちゃんを描いたというところで、男性にとって美人画は現代のピンナップ写真です。
 給仕してくれた○○ちゃんが可愛いかったなと、若者が部屋に貼っておいたものですね。
 そういう御茶屋の有名なお姉さんのファッションが、世間の女性の間で流行するようになりました。『髪型がええで』とか『あの帯の合わせ方がナイスやわ』とか。
 浮世絵は、現代でいえばファッション雑誌や、『週刊プレイボーイ』や『女性自身』などと似た形で庶民の間にまたたく間に広がっていったわけです。
 小説から学問まで
 人口が増えて、社会が複雑になっていくと、少しは読み書きもせなあかんということで、このころから読み書きを教える民間の『寺子屋』が爆発的に普及していきます。
 商売にも文書が必要ですからね。文化・文政の時代には、1,000校の寺子屋が新たに開設されています。
 そうすると本を読む人も増えるので、本がたくさん出版されました。江戸、大坂、京都で年間600点ほど本が刊行されています。1808(文化5)年の江戸には、650軒の貸本屋があって、その読者は10万人に上ったと推計されています。為永春水の『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』などの人情本は、現代でいえばさしずめ『アサヒ芸能』のような感じでしょうか。それから小説(読本)では滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』、ユーモア小説(滑稽本)では、十返舎一九の『東海道膝栗毛』や式亭三馬の『浮世風呂』などエンタメ芸がたくさん出てきました。
 娯楽方面だけでなく、学問のほうも進展しています。
 18世紀後半、本居宣長が、『源氏物語 玉の小櫛(おぐし)』、『古事記伝』などを書いています。どちらも分厚い注釈書です。
 はじめ儒学者たちは『仏教は迷信やで』と排斥していました。
 でもそのうち『ちょっと待て、仏教はインドから中国を経て来たものやけど、儒教も中国から来たものやないか』ということになります。
 そう考えはじめて、『仏教や儒教に染まっていない日本古来の文化があったはずやで』と、『国学』が発展してくるのです。
 こうした流れから、『外来文化に汚染される前の神道はこうや』と平田篤胤復古神道が出てきます。これが幕末には尊王攘夷の思想につながり、明治になると神仏分離廃仏毀釈の運動が起こるわけです。
 経世家と呼ばれる合理的な思想家も出てきました。
 『西域物語』の本多利明は、イングランドのロバート・マルサスのような経済論や人口論を唱え、外国と交易してヨーロッパの真似をせなあかんでと述べています。海保青陵は市場取引が自然の秩序や、財政の立て直しは農業ではあかんと論じています。
 天保の改革で苛められ
 しかし贅沢文化の旗振り役であった大御所の徳川家斉が1841年に亡くなると、状況は一変しました。
 水野忠邦による天保の改革が始まって、みんな苛められるわけです。
 書物問屋仲間の自主規制に任されていた出版物は、町奉行を通じて幕府学問所と天文方ですべて検閲されることになります。
 1842年に人情本の出版が禁止され、為永春水は手鎖(てぐさり)50日の処罰を受けています。源氏物語を下敷きにして、足利将軍家の子息が、好色な冒険を交えて活躍する『偐紫(にせむらさき)田舎源氏』を書いた柳亭種彦も、『好色な家斉を風刺したやろ』と執筆を禁止され、直後に没しています。
 江戸歌舞伎三座は風紀紊乱(びんらん)の元凶として場末に移転させられ、もっと低料金で見られた寺社の小屋掛け芝居は全面禁止になります。
 五百余りあった寄席も15に減らされ、しかも勧善懲悪の軍事講談や教訓話ばかりに限定されます。
 幕府のこうした政策は中国の明の政権とよく似ています。明を建国した朱元璋朱子学のブレーンに囲まれて大元ウルスの商売最優先の政治を否定しました。
 農業を本道とし、通貨さえ用いない社会を作ろうとした暗黒政権でした。もちろん、貨幣経済が発展したあとで、いまさらそんなことをいってもうまくいかないわけです。
 江戸幕府の『改革』も、武家は農家から上がる年貢(米)を売って生活していましたから、『農業こそが国の根本なんやで』と、財布の紐を緩める商業や文化的な贅沢をなんとか抑えようとしたわけですが、うまくいきませんでした。
  *  
 江戸時代は、『大岡越前』や『遠山の金さん』など、ドラマや小説でも人気があるだけに多くの誤解も生まれています。フィクションと歴史的な事実はかなり違います。……」
   ・   ・   ・   
 日本における、仏教の歴史は約1400年であり、キリスト教の歴史は約150年であり、マルクス主義は約100年の歴史であり、共産主義の歴史は約70年の歴史であるが、民族の歴史は約200年の歴史であり、万世一系男系天皇・皇室と神道の歴史は約2000年の歴史であり、縄文人と大地母神(女性神)の歴史は約3万年である。
 縄文人と大地母神万世一系男系天皇・皇室と神道→民族は、約3万年前から「命、血、心、魂・霊魂」という途切れる事のない太い絆で繋がっている。
 日本がこだわる血筋・血統とは、この太い絆の事である。
 この太い一本の絆が、日本の正統性であり、それを正しく体現しているのが天皇家・皇室である。
 故に、天皇家・皇室は特別な家系で、他の人間・「命、血、心、魂・霊魂」が繋がらない赤の他人が天皇に即位する事はできないのである。
 日本中心神話で言えば、大地母神最高神である女性神天照大神である。
 女性神天照大神は、天皇家・皇室の直接の祖先神である。
 つまり、天皇家・皇室は女性神天照大神の直系男系の正統な子孫である。
   ・   ・   ・   
 キリスト教マルクス主義共産主義は、太い絆に潜り込んだ馴染めない異質・異色な極細の糸に過ぎない。
 キリスト教共産主義マルクス主義)は、日本の深層に流れている「命、血、心、魂・霊魂」の太い絆を断ち切るべく暗躍し、その切断行為は現代においても続いている。
   ・   ・   ・   
 キリスト教共産主義マルクス主義)を歴史上の人物に強引に例えれば、禁欲で贅沢を禁止した水野忠邦朱子学儒教価値観に凝り固まった鳥居耀蔵である。
   ・   ・   ・   
 絶対神中心のキリスト教や人間中心の共産主義マルクス主義)も特定少数の偏屈な日本人の間で支持されても、自由奔放・気儘勝手・毎日気楽を好む大多数の日本人の間では広まる事はなかった。
 キリスト教共産主義マルクス主義)の共通する点は、貧しさを美徳とする、人間の欲を完全否定する病的偏狂的禁欲である。
   ・   ・   ・   
 日本は、宗教や哲学・思想・主義主張などの排他的不寛容な~原理主義を嫌悪し排除した。
 日本では、生真面目だが片苦し、息苦し、面倒臭いは嫌われ、お気楽、羽目を外す、楽しい、面白おかしく、バカバカしいのが好かれた。
 日本人は、喜怒哀楽の中で笑う事が好きであった。
   ・   ・   ・   
 インド発祥中央アジア・中国経由の仏教のみが、日本で受け入れられた。
 そこには、事大主義と夜郎自大意識が強く、中国を手本として真似る朝鮮は存在しない。
   ・   ・   ・   
 江戸時代は、一言で表現できないし、一つのキーワードで特性を導き出せないほどに、多様性に富み、幅広く奥行きがある複雑な時代であった。
 朝鮮や中国の様に、10年一日、100年一日ではなかった。
   ・   ・   ・   
 日本の庶民は、中国や朝鮮の小人として軽蔑され差別され迫害され搾取されていた哀れな民衆とは全然違うのである。
   ・   ・   ・   
 町人文化は、日本で華やかに栄えが、中国や朝鮮では華開かなかった。
 中国や朝鮮では、儒教価値観が民衆に文化を持たせる事は「害」であるとして徹底的に破壊した。
 日本の町人文化には、庶民の御上に対する面従腹背の反骨精神が込められ、御上が禁制すれば禁制に対して挑戦する様にあの手この手と裏をかき笑い飛ばしていた。
 その象徴が、御政道を批判する庶民の落首であった。
   ・   ・   ・   
 身分制度もあやふやで、庶民(百姓や町人)か金を出して武士になり、出世して町奉行勘定奉行・郡奉行になった。
   ・   ・   ・    
 天皇を否定し年号を拒否する反天皇反日的日本人には、如何に世界に通用する博学や教養がある優秀・有能な高学歴出身知的エリートであろうとも、日本の歴史や庶民(百姓や町人)そして伝統・文化・宗教を語る資格はない。
 日本民族日本人であろうと思う日本人は、彼らの話しを遊び半分のくだらない戯れ事として聞いて本気で聞くべきではない。
  ・   ・   ・   
