⚔58)─1─徳川幕府の優れた宗教統制。仏教、神道、キリスト教。~No.245No.246No.247 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 徳川幕府が恐れたのは、宣教師に煽動されたキリシタンが味方した大坂の役と島原・天草の乱であった。
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 徳川幕府は、中世キリスト教会・イエズス会・修道士会による宗教侵略と白人キリスト教商人による日本人奴隷交易から日本国と日本民族を守る為に、鎖国を断行し、キリスト教邪教として禁止し、国内のキリシタンを弾圧した。
 そして、政治に楯突いた比叡山の僧兵や一向一揆門徒などの仏教勢力を刃向かわないように諸宗寺院法度で押さえ込み、神社に対しては諸社禰宜神主法度を定めた。
 徳川幕府による宗教統制は、世界史的に優れていた。
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 中世ヨーロッパでは、領主の宗教・信仰が領民の宗教・信仰で、個人の宗教・信仰はなかった。
 領民が自分達の宗教・信仰を守る為に仲間を集めて武装蜂起=聖戦の反乱を起こし、同じ宗教・信仰を持った敵国の軍事支援を受けて自分の領主とその仲間を皆殺しにして、同じ宗教・信仰を持った他国の領主を自国の新たな領主として迎えた。
 それが、国境を終えた世界規模の宗教戦争の実態であった。
 その傾向は現代社会にも存在し、今なお宗教紛争や宗教戦争が絶えない。
 世界史的な開かれた王室・帝室とは、そうした意味を持っている。
 日本の閉ざされた皇室は、世界の非常識として世界史的な王室・帝室とは異なっていた。
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 宗教地政学として、キリスト教イスラム教などの普遍宗教は地上を自分達の宗教・信仰で統一するという聖戦思想で、地球上に存在していた数多くの多神教一神教民族宗教を滅ぼしてきた。
 彼等からすれば、日本も滅ぼすべき異教徒・邪教徒・悪魔教徒であった。
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 日本に伝来した宣教師達は、地方の戦国大名から室町幕府の将軍、そして天皇や皇族を改宗する為に布教活動し、その莫大な宣教資金を稼ぐ為に日本人奴隷交易に協力していた。
 日本人は、アフリカ人同様に奴隷であった。
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 2023年6月23日 YAHOO!JAPANニュース「シリーズ「日本の仏教」
 第8回:徳川幕府の政治体制に組み込まれた仏教
 佐々木 閑 【Profile】
 鎌倉時代に生まれた新仏教の各宗派は支援者を増やすために覇を競い合ったが、江戸時代になって権力が一元化すると、幕府の権力の下で統括されるようになる。檀家制度で民を管理し、租税徴収の一端を担う世俗的活動に組み込まれたことで 日本仏教は安定期を迎えた。
 対立から安定の時代へ
 現在の日本仏教には、異なる教義を主張する宗派が存在するが、ほとんどが12世紀から13世紀にかけての多様化の時期に出そろった。鎌倉時代に誕生したそれらの宗派は独自の支援者層を抱えており、その支援者たちのおかげで教団を維持することができたのである。この状況は、別の言い方をするなら、「仏教は人を苦しみから救ってくれる教えだ」といった認識が広く日本中に広まり、異なる階層の人たちが立場に応じて仏教の教義を選択し、信奉する時代が到来したのである。
 このような仏教の民衆化を、単純に「仏教が日本に広まった」という点からみれば好ましいことではある。しかし、その広まった仏教が一本化された単一の仏教ではなく、異なる教義を主張する複数の教団の集合体であったという点に注目するなら、仏教教団の勢力争いが本格化した、とも言い得る。国家の形態が、貴族中心社会から武士、農民、商人などを含み込んだ複合的な権力構造社会へと変化するのに歩調を合わせて、仏教もまた異なる支援者層をバックに持つ、複合的競争社会へと変容したのである。
 この時期の宗派間対立は、街中での教義論争から武装勢力同士の戦闘まで、さまざまなレベルで繰り広げられた。もちろん、個別に見れば徳の高い僧侶や、他教団に対して寛容な姿勢で接した僧侶もいたが、総体的には各宗派が覇を競う、対立の時代が続いたのである。
 貴族、武士、商人、農民たちが入り乱れて覇権を争う戦乱の時代は16世紀まで続いたが、17世紀になるとようやく、徳川幕府という中央権力が日本全土を掌握し、戦乱も収まり、政治的に安定した時代となった。16世紀までの、権力が日本全土にわたって分散していた状況においては、それら複数の権力を後ろ盾とする仏教各宗派もまた、互いに勢力を競い合うライバル関係にあった。しかし江戸時代になって権力が一元化すると、すべての仏教宗派が幕府の権力の下で統括されるようになった。江戸時代は17世紀初頭から19世紀後半までのおよそ250年続いたが、この間、仏教世界は極めて安定した状況で維持されたのである。
 政権維持のための統制機関
 江戸時代の仏教の状況を概観する。江戸幕府には日本の仏教界を一本化しようとする意思はなく、複雑多岐にわたる仏教世界を、そのままの形で政権運営に利用しようと考えた。幕府の基本方針は以下のようにまとめることができる。
 どの宗派にも一定の経済的利益と宗教的権威を与えることで、仏教界の不満を抑え、幕府に従わせる。
 日本全土に広く存在している無数の仏教寺院を幕府の行政機関として活用することで、国民を個人単位、あるいは各戸単位で管理統括する。
 日本を侵略しようとしている西洋諸国の先遣隊である(と見なされていた)キリスト教を排除するための宗教的防波堤として仏教を利用する。
 このような幕府の方針は、仏教界にとっても都合のよいものであったため、進んでこの方針に従った。その結果、江戸時代の仏教界は大きな争乱もなく、幕府の意向に沿った業務をおこないながら安定的に維持されていったのである。江戸時代に、幕府との関係の中で生まれ、現在でも続く仏教界の主要な制度を2つ挙げておく。
 本山末寺制度
 幕府の意向により、仏教各宗派内で寺院を格付けし、それに沿った指揮命令系統が設定された。現在の日本の各宗派内に見られる、本山を頂点とするピラミッド構造はこの時期に設定されたものである。これによって幕府による仏教統制が極めて容易になった。インドで釈迦(しゃか)が創始した本来の仏教においては、すべてのサンガ(ブッダの教えに従って暮らす僧侶の自治組織)は平等な立場にあって、上下関係は設定されていない。しかし日本仏教の場合は、江戸時代の新制度によって、全ての寺院が厳密に格付けされるようになり、ひいては寺院に所属する僧侶の個人的な格付けにもつながり、仏教界の内部に新たな身分差別構造が定着していったのである。
 檀家(だんか)制度
 全ての国民が、家族単位で、いずれかの仏教寺院のメンバー(檀家)にならなければならない制度が制定され、これによって幕府は国民の動向を個々人のレベルでほぼ完全に把握、統制できるようになった。出生、死亡、結婚、旅行、移住などの個人情報が寺院に集約されることにより、幕府にとって仏教寺院は、政権維持のために必要不可欠な統制機関として重要視されたのである。この制度は家族単位で適用されたため、個々人の思惑で信奉する寺院を選択することができなくなり、代々、その家系が所属する寺院のメンバーになることが強制されることとなった。現在でも日本人同士で、「あなたの家は何宗ですか」「あなたが所属するのはどの寺院ですか」と聞くことが日常的によくあるが、これはこの制度が現代でも機能していることを表している。
 幕府にとっての、この制度の重要な効用の1つは、キリスト教徒の探索と排除であった。全ての国民を特定の仏教寺院にひも付けることで、そこに所属しないキリスト教徒の居場所をなくそうとしたのである。しかしこの制度に従うふりをしながら、秘密裏に信仰生活を続けたキリスト教徒も多かった。平穏に見える江戸時代250年も、キリスト教徒にとっては、熾烈(しれつ)な宗教弾圧の時代だったのである。
 幕府の統制下に置かれて日々のルーティーンをこなすことが業務となった日本仏教は、以前のような勢力拡大を志向する活力を失い、現状の中で穏やかに暮らすことを旨とするようになっていった。2500年前のインドで、強大な権力者の庇護(ひご)の下、釈迦の教団が平穏に維持されていた時代と幾分似た状況になったのである。ただし大きな違いは、江戸時代の日本仏教が平穏であったのは、幕府の政治体制に協力し、租税徴収の一端を担う世俗的活動に組み込まれたおかげだったという点である。
 仏教の本質に迫る動きが活発化
 一方、江戸時代になって世情が安定したことで、仏教を客観的、学問的に考察する風潮も高まり、仏教の本質を追究する動きが活発化した。いくつか例を挙げておく。
 仏教文献学の発展
 膨大な量の仏教文献を厳密に読み、校訂し、研究する本格的な文献学として仏教学が発展し、学問僧が多くの優れた成果を残した。使われた資料は漢文に限定されており、インド語文献はほとんど用いられなかったが、それでも仏教を学問の対象として見る新しい視点が定着していった。
 戒律復興運動の隆盛
 真正なサンガが存在せず、サンガを運営するための法律である律蔵が効力を持たない日本仏教の特性を反省する動きが活発化し、特に真言宗を中心にして、釈迦時代の仏教への復興を目指す運動が盛り上がった。サンガ復興は実現しなかったが、「サンガのない仏教は不完全な仏教である」といった認識を持つ僧侶が、少ないながらも、日本にも現れるようになった。
 大乗仏教経典の検証
 仏教を信奉していない人たち、あるいは仏教の専横に反感を持つ人たちが仏教を批判的に研究するようになり、その結果として、「大乗仏教の経典に書かれていることは釈迦の教えではない」という説が初めて登場した。その代表的人物が富永仲基(とみなが・なかもと、1715〜46)である。富永は冷静に仏典を分析し、膨大な量の大乗経典が、釈迦ではなく後代の多くの人たちが長い時間をかけて制作したものであることを実証的に論証したのである。当然ながら富永の説は当時の仏教界から猛烈に批判されたが、明治時代になってからその業績が再評価され、現在では日本思想史上、屈指の発見とされている。
 江戸時代を通じて安定的に維持されていた日本仏教界も、江戸時代が終わって明治期になると劇的な変動の嵐に巻き込まれることとなる。次回はその様子を紹介する。
 バナー写真=江戸時代の檀家制度によって決められた宗派に属する寺で、葬式の際に遺族に法話を語る僧侶(PIXTA
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 YAHOO!JAPANニュース 「宗教勢力を飼い慣らすにはどうすべきか…信長や秀吉が手を焼いた懸案を、あっさり解決した家康のアイデア
だから日本人は「うちは○○宗」と言うようになった
 一向一揆島原の乱など、戦国武将はしばしば宗教勢力の台頭に悩まされた。ところが江戸時代に入ると、そうした問題は沈静化する。人気予備校講師の茂木誠さんは「家康は、キリシタンと一部の日蓮宗以外には露骨な宗教弾圧はせず、各宗派の存続を認めた。幕府の行政機関としての存続を保証された仏教各派は、積極的な布教をしなくなった」という――。
 ※本稿は、茂木誠『「日本人とは何か」がわかる 日本思想史マトリックス』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
 比叡山延暦寺写真=iStock.com/tuskiusagi※写真はイメージです
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 神官の一族につながる信長の家系
 室町幕府は、有力守護大名の連合政権でした。足利将軍家の後継者争いが、守護大名の覇権争いと結びついた応仁の乱によって京都は焼け野原となり、幕府は事実上崩壊して戦国時代に突入します。
 そんな折、ポルトガル人が伝えた鉄砲の量産に着手したのが、尾張(愛知県)の戦国大名織田信長でした。
 織田家の遠い祖先は、忌部いんべ氏という神官の一族です。今川義元を奇襲攻撃して義元のクビを取った桶狭間の戦いの際、地元の熱田あつた神宮じんぐうで必勝祈願をしていることから、信長が無神論者ではなかったことがわかります。戦乱で荒れ果てた御所を再建したのも、天皇に対する敬意からだったのでしょう。
 「天下布武」を掲げて京都に入り、室町幕府を滅ぼした信長に対し、西の毛利氏、石山本願寺、北の浅井あざい氏・朝倉氏、比叡山延暦寺が包囲網を敷きました。その突破口として信長が断行したのが、悪名高い延暦寺焼き討ちです。「宗教」を隠れ蓑に強大な僧兵を抱え、朝廷にもたびたび反抗し、信長の統一を公然と邪魔するに至った延暦寺に対して、信長は堪忍袋の緒が切れたようです。
 「仏罰を受けるのでは?」と側近たちが躊躇する中、信長は全山の焼き討ちを命じます。僧兵の多くは妻帯していましたから、婦女子もたくさんいたのです。しかし、信長は容赦なく、「なで斬り」(皆殺し)を命じました。
 これを非難する武田信玄からの書状に対し、信長は「第六天魔王」を自称した、と宣教師フロイスは伝えています。第六天魔王とは、仏法を妨げる魔王のことです。
次に信長が「最大の敵」としたのが、大坂の石山本願寺でした。親鸞の11代目にあたる門主顕如けんにょは大坂本願寺で抗戦。彼は熱狂的な門徒からなる強力な軍隊を持っていました。堺の港を通してポルトガル人から鉄砲や火薬を買い付け、鉄砲隊も組織していたのです。
 信長は水軍を動員して大坂湾を封鎖し、本願寺への補給路を断ちました。顕如は信長と交渉し、本願寺を明け渡して退去することで、教団としての存続はかろうじて認められました。こうして浄土真宗は生き残ったのです。
 本願寺軍が籠もった本願寺は、大坂湾に面した場所にありました。信長はその土地を豊臣秀吉に与えます。秀吉がその跡地に造ったのが大坂城です。
 鉄砲の火薬材料と一緒にポルトガル人宣教師が入ってきた
 戦国時代といえば、キリスト教の伝来も触れておかなくてはなりません。
 実はキリスト教は、すでに聖徳太子の時代に一度日本に入ってきています。ヨーロッパで異端とされたネストリウス派です。それに対して、戦国時代にフランシスコ・ザビエルが伝えたのは、ヨーロッパで公認されているカトリック教会のキリスト教です。
 キリスト教布教には貿易が伴いました。この貿易を目当てにキリスト教に改宗するキリシタン大名が現れました。大友義鎮おおともよししげ、小西行長こにしゆきなが、有馬晴信ありまはるのぶといったキリシタン大名は、宣教師を招くと共にポルトガル商人を誘致し、硝石しょうせきの輸入を始めました。
 作者不詳「南蛮屏風」(1600年、DIC川村記念美術館蔵)。南蛮船から上陸したカピタン(船長)とその一行を、日本に住み布教をしているキリスト教の宣教師たちが出迎えている。作者不詳「南蛮屏風」(1600年、DIC川村記念美術館蔵)。南蛮船から上陸したカピタン(船長)とその一行を、日本に住み布教をしているキリスト教の宣教師たちが出迎えている。(図版=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
 硝石は、鉄砲で使う黒色火薬の材料です。火薬は、木炭・硫黄・硝石を調合します。森と火山が多い日本には木炭と硫黄は豊富にありますが、硝石は常に不足していました。そのインド産硝石をもたらすのが、ポルトガル商人。つまり、キリシタン大名が求めたのは、布教と共に行われる貿易だったのです。
 一神教であるカトリックの宣教師は、キリシタン大名にこう耳打ちします。「仏教ヤ神道邪教デス。悪魔崇拝デス」――。そして、神社や仏閣を焼くように進言するのです。実際に大分のキリシタン大名・大友氏は、領内の神社仏閣を焼いています(小著『超日本史』KADOKAWA参照)。
 これに抵抗する仏教徒や神社の氏子は捕われ、彼らを奴隷として買い取り、東南アジアや中南米の植民地に売りさばいたのがポルトガル商人でした。
 ポルトガル人の蛮行に激怒した秀吉
 九州平定のため乗り込んできた豊臣秀吉は、神社仏閣が壊され、日本人が奴隷として売り飛ばされる蛮行を見て激怒します。秀吉は「バテレン(宣教師)追放令」を出して、キリスト教布教を禁止しました。
 結局、キリスト教は日本人にほとんど根付きませんでした。宣教師は、こう嘆きます。「日本人は決して愚かではない。キリスト教に対する好奇心も強い。それなのに、キリスト教を受け入れないのはなぜだ?」と。
 答えは簡単です。キリスト教が日本の伝統的な宗教を否定したからです。宣教師たちが破壊を命じるその寺には、自分たちの祖先が眠っています。「イエス様ヲ信ズレバ救ワレマス」と彼らは言うけれど、「じゃあ、仏教徒だったうちのじいちゃん、ばあちゃんは地獄に行ったの?」。当時のキリスト教の教えでは、「異教徒は地獄に落ちる」と決まっていました。こう言われて、キリスト教に改宗するなど無理な話です。
 延暦寺石山本願寺と敵対していた信長は、「敵の敵は味方」ということで、キリスト教宣教師を優遇しました。しかし安土城に案内された宣教師ルイス・フロイスは、信長がクリスチャンになる気は毛頭なく、それどころか自らの神格化を図っているとして非難し、本能寺の変で信長が殺されたのは天罰だ、とまで語ります。
 大仏は建てたが信心は薄かった
 「バテレン追放令」を出した秀吉は、神道・仏教に対してどのように考えていたのでしょう。
 秀吉の神道・仏教への考えがわかる、こんなエピソードがあります。秀吉は京都に、方広寺大仏殿を建てました。その資材に充てるため、という名目で「刀狩令」を出したのはよく知られています。
 大仏殿には、奈良東大寺よりも巨大な木造大仏を祀りました。この大仏は黒漆の上に金箔きんぱくを貼った豪勢なものでしたが、わずか1年で地震のため損壊してしまいました。
 激怒した秀吉は、大仏の眉間に矢を打ち込み、こう言い放ちます。「余は国家の安泰のため大仏を建立したのだ。ところがこの大仏は、自分の体も守れぬとは何ごとだ! 役立ず!」。この一件で、秀吉には神仏に対する畏敬の念のかけらもなかったことがよくわかります。
 その一方で、秀吉は死後、豊国大明神として祀られています。信長ができなかった自身の神格化を、秀吉はやってのけたのです。
 浄土真宗の分裂騒動も利用した家康
 次の徳川家康は、代々浄土宗を信仰してきた松平家に生まれ、戦場では浄土宗の思想を示す「厭離えんり穢土えど・欣求ごんぐ浄土じょうど」の旗を掲げていました。「穢れたこの世を離れ、極楽浄土を求める」という意味です。
 京都の百萬遍知恩寺写真=iStock.com/tekinturkdogan※写真はイメージです
 信長に降伏した一向宗浄土真宗)に対しても好意的でした。大坂を退去した本願寺は京都に移って教団としての存続が許されましたが、門主の地位をめぐる内紛で二つに割れます。家康はこれを調停して東本願寺西本願寺を併存させ、いずれも幕府の敵対勢力にならないようにコントロールします。その辺り、家康はとにかくうまいのです。
 一方で、天台僧の天海という謎の人物を軍師として身近に置き、信長が焼いた比叡山の復興を支援します。江戸の街のプランをつくったのがこの天海で、江戸の東北(鬼門)にあたる上野の山を比叡山に見立て、天台宗の東叡山寛永寺を置き、西南(裏鬼門)にあたる芝には浄土宗の増上寺をおいて、江戸の街を霊的に防衛するとともに、天台宗と浄土宗とのバランスを保ちました。
 さらに家康が没すると「東照大権現」の神号を贈って神格化し、関東の鬼門にあたる下野(栃木県)の日光に家康を葬って日光東照宮を建立しました。
 江戸時代の安定をもたらした「壇家制度」の確立
 家康以降、江戸幕府キリシタン取締りを名目に、全国の寺院を行政の末端機関として利用しました。これを檀家だんか制度といいます。
 寺院に町村役場の役割を負わせ、「宗門改帳」という戸籍をつくらせたのです。これにすべての人民を登録させて、「私は浄土宗です」「私は真言宗です」と申告させる。今でも「うちは○○宗」と宗派が決まっていますよね。この仕組みは江戸時代初期に政治的理由でつくられたものなのです。
 家康という人は、やり方が本当に上手です。キリシタンと一部の日蓮宗以外には露骨な宗教弾圧はせず、各宗派の存続を認め、幕府のコントロール下に置きました。つまり、宗教を飼い慣らし、じわじわと首根っこを押さえていったのです。
 幕府の行政機関としての存続を保証された仏教各派は、このあと積極的に布教をしなくなりました。この頃から仏教は、現代まで続く「葬式仏教」へと変貌していくのです。
 これ以降、江戸時代の思想には仏教がほとんど登場しません。それは宗教が世俗化され、どんどん骨抜きにされていったからでした。
 西欧でも各国政府が教会をコントロール下に
 これとよく似たことは西欧でも起こっています。カトリックプロテスタントとの血みどろの宗教戦争が約100年続いたあと、各国政府が教会をコントロール下に置きます。
 茂木誠『「日本人とは何か」がわかる 日本思想史マトリックス』(PHP研究所)茂木誠『「日本人とは何か」がわかる 日本思想史マトリックス』(PHP研究所
 たとえば、イギリス王がイギリスの教会を支配し、聖職者を任命する。これを国教会制度といいます。フランスや、北欧諸国でも似たような制度になりました。この結果、教会は行政機構に組み込まれ、もはや積極的な布教はしなくなり、世俗化が進んでいったのです。
 それでは神道はどうなっていったのでしょう? 室町時代には天照大神ではなく、虚無太元尊神そらなきおおもとみことかみという神を最高神とする一神教的かつ儒学・仏教・道教が混在する吉田神道が広まり、朝廷公認にもなっていました。
 宗教統制は江戸幕府も望むところです。家康も吉田神道の権威を認め、全国の神職の任免権を与えました。幕末まで、この吉田神社神道を統括する神社本庁のような役割を担っていたのです。
 ところが幕末の尊皇攘夷運動と連動して、儒学・仏教・道教を排除し、天照大神最高神とする復古神道が登場し、明治の国家神道へとつながっていくのです。
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 茂木 誠(もぎ・まこと)
 予備校講師
 東京都出身。駿台予備学校、ネット配信のN予備校で大学入試世界史を担当。東京大学など国公立系の講座を主に担当。世界史の受験参考書のほかに、一般書として、『超日本史』(KADOKAWA)、『「戦争と平和」の世界史』(TAC出版)、『バトルマンガで歴史が超わかる本』(飛鳥新社)、『「保守」って何?』(祥伝社)、『グローバリストの近現代史』(共著、ビジネス社)『ジオ・ヒストリア』(笠間書院)、『政治思想マトリックス』『日本思想史マトリックス』(PHP研究所)ほか多数。YouTube「もぎせかチャンネル」でも発信中。
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 12月16日 YAHOO!JAPANニュース 夕刊フジ「伊勢の「神宮式年遷宮」存続を確固とした家康 断絶の危機にひんした国家事業 皇室を支える武家政権としての制度構築
 伊勢神宮、内宮の宇治橋鳥居(三重県伊勢市久野潤氏提供)
 【久野潤「家康の功績と遺産」】
 本年は、10年前の第62回神宮式年遷宮から、10年後の第63回への折り返しの年である。この伊勢の神宮式年遷宮も、戦国時代に断絶の危機にひんした国家事業であった。
 応仁の乱後、室町幕府が支えるべき内宮式年遷宮が、120年以上行われないままであった。皇室の先祖にあたる天照大神が国家的に祭祀(さいし)される神宮の衰微は、皇室そして日本そのものの権威失墜を意味する。
 それを室町幕府滅亡後、天下人として莫大(ばくだい)な寄進も行い復興したのは織田信長、そして羽柴秀吉であった。だが、その時々の権力者の意思に左右されるようであってはいけない。
 1603(慶長8)年、征夷大将軍に就任した徳川家康は伊勢に山田奉行を設け、内宮・外宮の造営料として米6万俵を寄進するなど、遷宮費用すべてを幕府が負担することとした。
 歴史教科書には、江戸幕府天領(直轄地)について、「京都・大坂・奈良・長崎・佐渡・山田…」とだけ記されている。受験生時分の筆者も、この「山田」こそ、伊勢の神宮お膝元であることを知る由もなかった(=そもそも、教科書には、日本の神社界の中心的存在である神宮について、創祀や千数百年にわたる護持についてまったく書かれていないのだが…)。
 家康は室町幕府の失敗を踏まえ、皇室を支える武家政権としてふさわしい制度構築を試みた。その中でも最も重要かつ実効を挙げたものが、神宮式年遷宮ではないか。
 実際、第42回=1609(慶長14)年から第54回=1849(嘉永2)年まで、必ず20年に一度、遅滞なく行われている。幕末の国難はあっても、家康による制度化そして江戸時代の安定がこれに寄与したことは間違いない。
 そして、王政復古(明治維新)直後で財政難にあった1869(明治2)年にも、神宮式年遷宮が無事行われた。天皇中心の祭祀復興を掲げた明治新政府にとって、幕府に代わる正統性を確保するためにも、神宮式年遷宮において江戸幕府の後塵(こうじん)を拝するわけにはいかなかっただろう(=その後は、大東亜戦争敗戦直後の4年延引のみ)。
 はるか千数百年前に創祀された伊勢の神宮の現存は、当たり前のことではない。歴史学界で各幕府の比較研究が進展する近年においても、神宮式年遷宮について言及したものはほぼ見当たらない。
 廃絶の危機もあったなかで、400年余り前に家康が今日まで存続する土台を新たに確固と構築したことを忘れてはならない。
 くの・じゅん 日本経済大学准教授。1980年、大阪府生まれ。慶應義塾大学卒、京 都大学大学院修了。政治外交史研究と並行して、全国で戦争経験者や神社の取材・調査を行う。顕彰史研究会代表幹事。単著に『帝国海軍と艦内神社』(祥伝社)、『帝国海軍の航跡』(青林堂)など。共著に『決定版 日本書紀入門』(ビジネス社)、『日米開戦の真因と誤算』(PHP新書)など。
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