⚔37)─4・G─三河一向一揆。日本民族は救済・奇蹟・恩寵を売る啓示宗教・信仰宗教を怖れていた。~No.162 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 徳川幕府の宗教統制の原因は、三河一向一揆と中世キリスト教会であるバチカンイエズス会などの修道士会による日本人奴隷交易の公認であった。
 徳川家康江戸幕府の宗教弾圧政策(キリシタン弾圧・その他)は、現代の日本や世界から非人道的犯罪行為だと批判・非難されているが当時としては正しかった。
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 日本人は、民族性として宗教とイデオロギーが苦手である。
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 後白河法王「賀茂川の水、双六の賽(さい)、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」(平家物語(1))
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 江戸時代までの浄土真宗は、信仰宗教のキリスト教に似ている教義を持っていた。
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 2023年2月26日10:01 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「20歳の徳川家康三河一向一揆で見せた「冷酷な処分」の怖さ 「三大危機」の1つをどう乗り切ったのか
 三河一向一揆を起こした「三河三ヶ寺」の1つである本證寺(写真:nma/PIXTA
 NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送が始まり、「徳川家康」に注目が集まっている。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた徳川家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性を紐解きながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた? 「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第10回は、前回に引き続き家康の人生における「三大危機」の1つである「三河一向一揆」を解説する。
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■「ひたすら耐え忍んだ」は誤解
 若いころはひたすら苦難に耐え続けて、機をじっくりうかがった結果、大躍進した天下人――。
 徳川家康には、そんなイメージが付きまとうが、実像はやや異なる。実際の家康は「機を見るに敏」。どんな苦難が立ちはだかろうとも、事態を打開すべく、迅速かつ大胆な行動に出ることが多かった。
 桶狭間の戦いでは、今川義元織田信長に討たれるというまさかの事態に遭遇するが、状況を冷静に判断して、岡崎城で独立。今川氏を見限って、織田氏との同盟に踏み切っている。
 そんな家康の優れた突破力は、「家康三大危機」の1つとされる、三河での一向一揆においても、存分に発揮されることになる。
 三河平定を目前にして勃発した一向一揆には、家康もずいぶんと手を焼くことになった。一向一揆とは、「一向宗」(浄土真宗)の信徒たちが起こした一揆のことだ。
 一揆の原因は、三河をまとめるべく、家康が打ち出した政策にある。これまでは認められてきた、課税や外部の立ち入りを拒否できる「守護使不入」(しゅごしふにゅう)の特権に、家康は大胆にもメスを入れたのである(『徳川家康三河一向一揆で予想外「裏切り続出」の訳』参照)。
 兵糧を強制的に徴収し、寺内にも警察権を行使する。そんな家康の強引な政策が、一向宗の信徒たちを怒らせた。一揆は永禄6年(1563)9月に端を発して、国人や土豪、農民も加わり、翌年3月まで続くことになる。
 家康にとって誤算だったのは、松平家家臣からも一揆側につく者が続出したことだ。ただし、家康の家臣たちのなかにも一向宗門徒が多くいたことを思えば、離反者が出るのは無理からぬことではあった。
 結束の固さには定評があったはずの家臣団は、たちまち分裂。家康はリーダーとして大きな壁にぶつかることになった。このとき20歳である。
■家康に弓は引けなかった離反者たち
 戦いは連日連夜続き、膠着状態となった。だが、離反したとはいえ、家臣が主君に弓することは、大きな抵抗があったらしい。『三河物語』によれば、家康が現れると、敵は「家康が駆けつけた。早く引け」とバラバラに退却したという。
 「蜂屋半之丞」の名でよく知られる蜂屋貞次は、一揆側に味方しながらも、家康を恐れた家臣の一人だった。『三河物語』での半之丞の立ち居振る舞いを観てみよう。
 半之丞は「私の槍先に、誰が向かってこようか」と誇るほど腕に自信がありながらも、家康の姿をみかけると一目散に逃げだした。そのあとを、家康側の家臣である松平金助らが追いかけて、「半之丞、戻れ」というと、態度を急変させてこう言ったという。
 「家康様ならばこそ逃げたが、お前たちだったのか!」
 半之丞が取って返してくると、松平金助らと槍を激突させる。だが、争っているときに、家康が駆けつけて「蜂屋め!」というと、またも半之丞は逃げ出していった。情けない半之丞の様子を見て、家康はことのほか上機嫌にこう言ったという。
 「蜂屋めは自分から逃げだすようなやつではないが、私を見て逃げだした」
 そんなふうに『三河物語』では、家康の勇猛ぶりが強調されている。また『徳川実紀』においても、家康が前線で活躍した結果、一揆の鎮圧に成功したとしている。「君」とは家康のことを指す。
 「君がご自分で攻撃なさることが度重なり、明くる七年になると門徒たちの勢力は衰えて、御家人たちも罪を悔い帰順してきたので、一人も罪をおとがめになることなく、そのまま召し仕えた」
 ここでは一揆を鎮圧したあとに、家康が広い心で一揆の関係者を許した様子まで描かれている。だが、家康は決して簡単に彼らを許したわけではなかった。
■和議を持ちかけられた家康
 「和議を結びたい」
 そう持ちかけてきたのは、先に家康とのやりとりを紹介した、蜂屋半之丞(貞次)だった。家康側の窓口となったのは、大久保忠佐である。
 家康が和議に応じる姿勢を見せたので、改めて半之丞のほか、石川康次や本多甚七郎らが「敵対したことを許してもらえるのならば、過分のご慈悲と存じます」と平身低頭しながらも、こんなお願いをしている。
 「寺院をこれまでどおりにしてください。また一揆を企てたものをお許しください」
 やや厚かましい和議の条件のようにも思えるが、その理由について「処罰される者がいると、和議がまとまらない」と話している。確かに言い分は一理あるだろう。大久保からそのまま伝えられた家康は、こんな返事をしたという。
 「もっともだ。お前たちが言うように和議を結ぼうとする人びとの命は助け、寺も前のままにおく。ただし、一揆を企てた企てた者はやむなく処罰することになろう」
 一揆を企てた者まで許せば、また同じことが起きてしまう。家康が鎌倉時代の文献『吾妻鏡』の愛読者だったことはよく知られている。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、歯向かった者はもちろん、歯向かってきたら脅威になる人物さえも、あらかじめ排除した。家康もまた、頼朝のように、リーダーとして毅然とした態度をとろうとしたのかもしれない。
 だが、一揆を起こした側からすれば、許される者と処罰される者がいたならば、和議でまとめることが難しくなる。なおも「私たち以外のほかの者もお助けください」と食い下がったため、和議の交渉は難航する。
■家康を説得した忠臣・大久保忠俊
 そんななか、家康を説得したのが、大久保忠俊である。忠俊は家康の祖父、松平清康の代から仕えている。
 忠俊は「せがれの新八郎は眼を射抜かれ、おいの新十郎も目を射抜かれ、そのほか子どもで傷を受けない者はなく……」と一向一揆の激しさを語りながら、「もうこれでしまいかと思うところに家康様みずからおかけつけくださった」と改めて、家康に礼を述べている。そのうえでこう懇願したのである。
 「私の甥や子供の辛苦の分だと思って、一揆を企てた者たちの命を助けてください」
 これまで長く仕えた忠俊だけに言葉に重みがある。忠俊は厳罰に処することで、民の心が家康から離れることを心配したのだろう。また、一方の家康は、今回の反乱で、家臣をまとめる大切さに改めて気づかされたはず。自分を思っての家臣の助言をむげにはしにくい。気持ちが揺らぐ家康を、忠俊がこう後押しする。
 「いろいろなご不満は、お捨てになって、なんなりと相手の望みをかなえさせ、和議を結ばれよ」
 これには家康も折れて「それならおぬしをたてて許そう」と述べて、上和田の浄珠院で起請文まで取り交わしている。家康の寛大さは、忠俊の説得があって発揮されたものだった。
 しかし、話はここでは終わらない。家康の恐ろしさを、家臣たちは改めて知ることになる。
 寺院は以前と同じにようにする――。そう言って、すべてを水に流すかに見えた家康だったが、和議に至ると態度を一変。一揆を引き起こした本證寺、上宮寺、勝鬘寺の「三河三ヶ寺」と土呂本宗寺は、家康から改宗を迫られた。もし、拒否すると寺内を破壊され、坊主たちは追放されたというから、まったく「以前と同じように」ではない。
 これには寺院側も驚き、家康に書いてもらった起請文を持ち出して「以前と同じようにするとの約束ではないですか!」と抗議した。つまり、これまでのように守護不入の特権は保証すると約束したはずと寺院側は訴えたのだ。
 だが、家康はこう言い放ち、堂塔の破壊にとりかかったという(『三河物語』)。
 「以前は野原だったのだったから、もとのように野原にせよ」
一揆側についた者もすべて許したわけではない
 また家康は「一揆側についた者も許す」という約束についても、必ずしも守ったわけではない。松平家次渡辺守綱、渡辺直綱らはゆるされたものの、本多正信や渡辺秀綱、鳥居忠広らの家臣や、松平昌久(大草松平家)は追放されている。考えをしっかり改めた者には温情をかけるが、そうでない者には断固たる処置をとる。そんな家康の意志の強さが打ち出されたといえよう。
 また、家康にとって今回の騒動は、宗教勢力の脅威を肌で感じた経験でもあった。これ以後の三河では、20年にわたって本願寺教団の活動が禁じられている。
 三河一向一揆をなんとか乗り越えた家康。三河を平定したのちは、信長との同盟を守りながら、その突破力を名立たる戦国大名たち相手に発揮することとなる。
 【参考文献】
 大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
 宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
 平野明夫三河松平一族』(新人物往来社)
 所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
 本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
 柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
 二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
 日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
 菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
 大石泰史『今川氏滅亡』(角川選書)
 真山 知幸 :著述家
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 江戸時代の宗教政策
 http://kenkaku.la.coocan.jp>zidai>syukyo
 幕府は全ての宗教団体を組織化し、統制しようという強い姿勢もなかった。 明治維新までは神道と仏教という明確な宗教の区分がなく、神仏習合という習慣があり、寺院と神社 ...
 作中には宗教がらみの話は出てこないのが、寺請制度は戸籍と同様の性格を持つため簡単に解説する。
 宗教者は寺社奉行の管轄になる。キリスト教を取り締まるために始まった寺請制度により、全ての人がどこかの寺の檀家であるという制度上の建前から、全ての人が仏教徒である。しかしながら、日光東照宮徳川家康が神として祭られているように仏教以外の宗教も許されていた。
 禁止された宗教は幕府に批判的で反体制と認定されたキリスト教など一部の宗教に限られる。宗派の違いが原因で起こった宗教戦争や他宗教への迫害、魔女裁判などが行われていた同時代の欧州に比べはるかに信仰の自由があった。
 幕府は全ての宗教団体を組織化し、統制しようという強い姿勢もなかった。
 明治維新までは神道と仏教という明確な宗教の区分がなく、神仏習合という習慣があり、寺院と神社を兼ねている寺社も多い。例えば、作中では杉原秀の家の近くにある雉子の宮の別当は宝当寺である。同じ境内で神と仏の両方を祭っている寺社は珍しくなかった。
 幕府は朱印地、藩は黒印地という寺社領を与え租税徴収権の特権を保証した。また、除地という租税を免除した土地もあった。不輸不入など世俗権力から守られていた。

◆民間宗教者
 陰陽道や神事舞太夫、夷職など民間の宗教者は特定の宗教施設を持たず檀家場を廻り歩き、祈祷や御祓い芸能を行い初穂料を得ていた。幕府は各民間宗教者の本所を設けその職分を保障する免許状を発行させることで民間宗教者を把握した。本所には管轄する民間宗教者からの様々な礼金が支払われる。公家や大寺院を本所と定めることで彼らを経済的に助けようという意味合いを持つ。
 しかし、民間宗教者は習慣的に差別されて、人別帳が別にされたりするなど差別を受けた。差別はされたが幕府に公認されていたことになる。民間宗教は明治政府の祭祀一致政策や風俗統制政策により否定され姿を消した。
◆幕府により禁止されていた宗教
キリスト教
 キリスト教が既存宗教を否定し、キリシタン大名の中には領内の他宗の信仰を禁止し、領内の寺社を破壊するなど排他的な行為があった。豊臣秀吉キリスト教の教義を否定するのではなく、キリスト教徒が織田信長など多くの大名を苦しめた一向宗のような宗教勢力として台頭することを怖れ、禁止したようである。
 幕府は当初放任していたが、旧教徒国が布教を名目に各地を回り、国内の調査やキリシタン大名や幕府にやむなく随っている大名を扇動し内乱を起こさせることを怖れた。
 慶長17年(1612)に幕府直轄領にキリスト教の禁令を出し、翌年には全国に拡大させ、宣教徒を追放し信者に改宗を命じた。徐々に全国規模でキリスト教徒への迫害が広がり元和8年(1622)に信徒55名を処刑し、翌年にはイギリス商館を閉鎖し、翌々年にはスペイン船の渡航を禁じた。
 寛永14年(1637)のキリシタンや浪人らによる島原の乱が起こり、幕府は鎮圧に苦労する。寛永16年(1639)には島原の乱を扇動したとされるポルトガル船の来航を禁じた。島原の乱以降は禁教政策が強化され、五人組制度や踏絵を実施し密告を奨励した。寺請制度で全ての人をどこかの寺の檀家にし宗門改めを行った。
 純粋な布教目的で来た宣教師もいたはずだが、幕府にとって宣教師の名を借りた欧州の諜報員と感じたようだ。大型船の造船を禁止し、日本各地から補給なしで海路からの江戸攻撃を不可能にする一方で、陸路からの攻撃を防ぐ目的で大井川に敢えて橋を架けず、幕府に無断で血縁関係を結び大名家同士が結束し、幕府に叛旗を翻すことを警戒するなど幕府は防衛に関しては些細な不安要素でも取り除く細心な姿勢だけにキリスト教禁止は幕府にとっては当然のことだった。
○不受不布施派
 日蓮宗の一派。日蓮宗の信徒以外からは布施を一切受け取らず、施しもしないという考え方。相手が将軍であろうが信徒でなければ経済的支援を断るという政治権力を否定する排他的な教義が幕府の意に沿わないとして、幕府から弾圧を受けた。
 同派の京都妙覚寺日奥は文禄4年(1595)に豊臣秀吉が営む法要への出仕の命を断り寺を退去し、慶長4年(1599)に徳川家康は日奥と受布施派を対論させ日奥の負けとし対馬流罪寛永7年(1630)に不受不布施派と受布施派を対論させ、不受不布施派を邪道とし、寺請制度から外し非合法組織となった。
 同派は表向きは受布施派に改宗したが、内信など密かに信仰が続けられ、明治政府により公認された。他の幕府公認の宗教が緩やかながら幕府の統制化に置かれている中で、権力者を否定した同派を幕府は許さなかった。
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 知っているようで知らない徳川家康
 家康の宗教観—三河一向一揆本願寺への対処、キリスト教禁教
 歴史 文化 社会 2023.02.16
 小林 明 【Profile】
 江戸幕府を開いた徳川家康は、三河平定の前に強大な軍事力を持った仏教勢力と激しく対立した。天下統一後はキリスト教を禁教とするなど、宗教勢力との関係に腐心した人物でもある。家康の宗教観とはいかなるものだったのか。
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 宗教勢力の強さを見せつけられた三河一向一揆
 戦国時代の権力者と宗教の関係には、2つの特徴が見られる。
 信仰は権力と切り離し、独立したものであることを容認
 一方で、強硬なまでに権力に従わない時は弾圧
 基本的には容認し、柔軟な姿勢で対処するのが、戦国大名の宗教政策だった。比叡山や大坂本願寺を徹底的に弾圧した織田信長でさえ、柔軟策を併せ持っていた。弾圧したのは、信長と妥協せず敵対の姿勢を崩さなかったからである。
 戦国時代は「聖=信仰」と「俗=政治権力」がすみ分けされており、大名たちも基本的には宗教を保護し、政治的に対立した時だけ弾圧が行われたという(『徳川家康』柴裕之 /平凡社
 一方、若き日の家康は経験不足から、上記の考え方を持っていなかった。だが、知見を得るきっかけとなる出来事があった。1563(永禄6)年に起きた三河一向一揆との戦いである。
 この時、家康は三河国(現在の愛知県東部)を平定する戦いの渦中にあり、兵糧(戦時における軍の食料、米のこと)が必要だった。不足を補うため、一向宗の寺院から強引に徴収した。この無謀な強硬策が僧侶・信徒との対立を招き、ついに戦闘に突入したのである。 
 一向宗とは当時の「浄土真宗本願寺派」のことで、親鸞を宗祖とする浄土真宗の宗派だ。家康が生きた戦国時代は最大規模の宗教武装勢力でもあり、寺院は戦国大名も容易に手を出せない、いわば治外法権だった。
 家康は、そうした一大勢力を敵に回した。戦いは家康の「三大危機」の1つに数えられるほど熾烈だった。家康の家臣にも一向宗信徒がおり、彼らが離反して本願寺派に付くなど分断された。戦いは短期間では収まらず、一進一退を繰り返すものの、長引く戦いに次第に一揆勢は疲弊していく。
 そこで家康は、一揆側が持ち出した寺の不入権と僧・信徒の助命を条件とする和睦案をのみ、武装を解除させた。その後、和議を反故にして寺を破却。三河から僧と信徒を追放するという謀略を用いて決着した。
 以降20年、本願寺との関係を絶った。よほど懲りたのだろう。三河一向一揆は宗教勢力の恐ろしさ、手強さを家康に見せつけた。
 なお、本願寺は現在、京都・西本願寺を本山とし、文化庁宗教年鑑』令和4年版によれば信者数779万人で、仏教系ではトップである。
 宗教勢力を利用し、力を削ぐ
 ところが20年後、家康は本願寺派の力を利用しようと画策し始める。
 1583(天正11)年12月、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と対立して一触即発の状態に陥った家康は、本願寺派門徒を許し、三河領内での寺院再興を認めた。秀吉と戦うには、本願寺派武装勢力が必要だったからだ。だが、本願寺派はこの時、すでに秀吉と通じていたため、家康の計画は頓挫する。
 しかし、その後も本願寺派との融和を進めた。あれほど嫌っていた宗教勢力を懐柔し、なんとしても味方に付けたかったのである。実益最優先の家康の資質は、この頃には顕著になっていたといえる。
 本願寺派を懐柔していたのは秀吉も同じだったが、秀吉も没し、家康が天下を狙い始めると、異変が起きる。
 一向一揆が嵐のように吹き荒れた16世紀半ば、本願寺の宗主は11世・顕如(けんにょ)。教団は顕如の時代に最盛期を迎えたが、顕如の子で12世だった教如(きょうにょ)は1603(慶長8)年頃、本願寺を出て御影堂(祖師などの御影を安置する堂)を建立する。つまり、別宗派を立てた。
 本願寺派は2つに割れ、以降現在まで西本願寺東本願寺が並列する形となった。
 本願寺11世・顕如織田信長を相手どった10年余に及ぶ石山合戦を主導するなど、戦国期は一向宗の精神的支柱だった。(東京大学史料編纂所所蔵模写)
本願寺11世・顕如織田信長を相手どった10年余に及ぶ石山合戦を主導するなど、戦国期は一向宗の精神的支柱だった。(東京大学史料編纂所所蔵模写)
 京都・東本願寺御影堂。教如本願寺から出て御影堂を建立したことにより、本願寺は東西に分裂する。(PIXTA
 この分断劇は、三河一向一揆に苦しめられた家康が本願寺を弱体化させるため教如を推して画策したとの説がある。それを証明する史料は存在しないため断定はできないが、可能性は否定できない。
 だが、東西分裂の真相がどうであれ、家康が天下を取ると、戦国時代の「聖」「俗」のすみわけは消え、本願寺は幕府の支配下に置かれることになっていく。ここに、それまでの権力者とは違った、宗教観の特徴があるだろう。
 キリスト教には慎重に対応し、最後は禁教
 宗教家との関係は、天台宗の天海(てんかい)大僧正と、臨済宗の金地院崇伝(こんちいん・すうでん)も見逃せない。2人は家康が文治政策のブレーンとして登用した人物だが、影響は宗教政策にも少なからず及んだ。キリスト教の禁教である。
 (左)天海(慈眼大師)、(右)以心崇伝(金地院崇伝)。ともに家康のブレーンとして、キリスト教の禁教に少なからぬ影響を及ぼした。(2点とも東京大学史料編纂所所蔵模写)
 家康は、幕府を開府した当初の1603(慶長8)年頃は、キリスト教の布教を認めていた。海外との貿易によって利益を確保するためには、布教活動も認めざるを得なかったからだ。経験を積んだ家康には、戦国時代の大名の政策を踏襲する柔軟性があった。
 だが、キリスト教は神の下で万民の平等を説くなど、封建社会においては危険思想でもあった。さらに1606(慶長11)年の1年間で8000人が洗礼を受けるなど、看過できない状況となってきた。家康はキリスト教を怖れた。
 仏教の指導者である天海や崇伝らは、そもそも異教であるキリスト教と相容れない。おそらく2人は禁教を支持し、家康に薦めたろう。1612(慶長17)年、江戸・駿府・京都・長崎に禁教令が出され、翌年には全国に拡大した。
 イスパニア使節が「貿易に向いた港を探すことを許してほしい」と、江戸から東北にかけて海岸線を調査したことも、禁教に拍車をかけた。
 調査の目的は港ではなく、実は金銀の採掘場を探すことにあった。イスパニアの狙いは貿易のみならず、領土的野心であると、家康は気づいたのである(小和田哲男徳川家康大全』KKロングセラーズ
 キリスト教との関係においては、柔軟な対応から一転して強硬策に出て、最終的には貿易による実利のみコントロールする体制を築いた。家康の用心深さが、ここにも見られる。
 〔参考文献〕
 『徳川家康 境界の領主から天下人へ』柴裕之 / 平凡社
 『徳川家康大全』小和田哲男 / KKロンクセラーズ
 『徳川家康 知られざる実像』小和田哲男 / 静岡新聞社
 『本願寺はなぜ東西に分裂したのか』武田鏡村 / 扶桑社新書
 バナー写真 : 家康が兵糧を強引に徴収したのが、三河国の上宮寺。これをきっかけに、三河一向宗は蜂起する。この画像はのちの「長島一向一揆」(1570〜1574年)を描いた『上宮寺絵伝』の一部だが、三河一向一揆でもこのように、僧侶が甲冑を身に付け家康の軍と戦ったと考えられる。上宮寺旧蔵 / 岡崎市美術博物館提供
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 2月26日16:01 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「徳川家康三河一向一揆」で絶体絶命に陥った必然 わかりやすい教義で急成長した武力集団の正体
 三河一向一揆に家康はどうするのか?(画像:NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト)
 NHK大河ドラマ『どうする家康』第7回では、年貢を収めない一向宗の寺と市川右團次さん演じるカリスマ性たっぷりの空誓上人を崇める民衆を描いた演出が、現代に通じるものがあると話題になりました。
ここから家康にとって最初の絶体絶命の危機「三河一向一揆」が始まるのですが、そもそも一向一揆は、どのように始まり、どうして歴史に残るほどの出来事になったのでしょうか。『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者、眞邊明人氏が解説します。
 【画像】三河一向一揆をめぐっての「裏切り」もドラマの見どころ
■そもそも一向宗とは? 
 家康を苦しめた「三河一向一揆」の「一向」には、どんな意味があるのでしょうか。
 一向は「一向宗」を指します。つまり一向宗の衆徒による一揆(反逆)ということです。一向宗創始者鎌倉時代の一向俊聖という僧侶で、法然を始祖とする浄土宗の出身でした。法然の「本願を信じ念仏申さば仏になる」という教えに影響を受け、
 「難解な仏典の理解や厳しい修行がなくとも、念仏を唱えれば救われる」
 という非常にわかりやすい教義で爆発的に宗徒を獲得していきます。『どうする家康』でも市川右團次さん演じる空誓の本證寺には「なむあみだ仏」の旗が掲げられていました。
 この一向宗と似た宗派に時宗があり、こちらも浄土宗出身で鎌倉時代の僧侶・一遍智真が創始者です。
 一向宗時宗は時が経つにつれ混じり合い、さらに、そもそもは浄土宗の教えということもあって浄土真宗まで同じもののように捉えられていきます。「一向」という言葉が「専念して」「ひたすらに」という意味なので、「一向宗」という表現のほうがわかりやすいこともあるため、こちらが一般化していきました。
 【2023年2月26日21時23分追記】初出時、一向宗時宗創始者にまつわる記述に一部誤りがあり、修正しました。
 しかし、これでは本家の浄土真宗が分派の一向宗に吸収されたように見えてしまうので、浄土真宗が「一向宗」という表現の使用を禁じたという話があります。
 いずれにせよ、浄土真宗を中心として一向宗時宗という宗派が、鎌倉時代から室町時代、戦国時代にかけて急速に全国に広まっていったのです。
 当時の宗教勢力は朝廷、武家と並んで力を持っていました。
 しかも、その力は武力でもあります。
 当時の戦は「人」のウエイトが非常に高く、兵が多いほうが勝つというシンプルなものでした。そして、その兵は、基本的には領内の民を徴兵して構成されるもの。つまり領内の、兵となる民の多くが衆徒となった一向宗(ここでは浄土真宗一向宗時宗を総括)は、領主を超えるほどの潜在的な武力を持っていたわけです。彼らがひとたび集えば、領主を駆逐するほどの力を持っていました。
一向一揆蓮如というカリスマから始まる
 蓮如は当時、浄土真宗の始祖・親鸞嫡流でありながら、衰退の極みにあった本願寺の第8代を継いだ人物です。のちに織田信長に焼き討ちされる比叡山延暦寺と対立し、仏敵と認定されて寺を破却されるという、とんでもない目にあっています。
 蓮如は各地を転々とし、やがて越前・吉崎(福井県)に落ち着きました。この荒涼とした地に蓮如を慕う人々が集まったことで、吉崎は大きな発展を遂げます。この間に有能な長男・順如を廃嫡するという犠牲を払いながらも、対立していた比叡山延暦寺と和議を結びました。
 このあたりの過程は教団の対立というより戦国大名の和議のようですが、蓮如のもとには遠く奥州からも信者が押しかけ、その勢力は一気に広がっていきます。
 集まった信者には武士も少なからず含まれていたため、蓮如の勢力は単なる宗教としてだけではなく自治集団の性質を帯びていきます。このようにして武力が拡大したことに危機感を抱いた浄土真宗の一派である真宗高田派は、加賀守護の一門である実力者・富樫幸千代と組んで蓮如と対立。この富樫幸千代と敵対関係にあった富樫政親は、蓮如に協力を要請します。
 蓮如は自派の防衛という観点から富樫政親と協力し、幸千代を滅ぼしました。
 これが「一向一揆」の始まりです。
 ただし蓮如自身は武力行使をよしとしなかったようで、富樫政親との軋轢が起こると吉崎を退去します。その後、京都・山科にて念願の本願寺の再興を果たしました。そして蓮如のもとには次々と浄土真宗の寺院や宗派が合流し、発展していきます。
 同時に、その力は蓮如の想いに反した強大な武力となって各地で領主との戦いを繰り広げました。その代表的なものが加賀の一向一揆で、蓮如と対立した富樫政親一向一揆で滅ぼされ、加賀一国が一向宗の衆徒によって治められるという事態を引き起こしました。
三河一向一揆のもうひとりの主役・空誓
 三河一向一揆は1563年に起こりました。原因は諸説あるようですが、三河の領主・松平家康が一向宗の力を削ごうとしたことが本質にあると思われます。この時、一揆側の指導者に選ばれたのが空誓上人です。空誓は蓮如の曾孫に当たる人物でした。
 蓮如は僧侶でありながら5人の妻を娶り、じつに27人の子を成したと言われています。その子や孫たちが各地の一向宗の指導者となっているのですが、空誓も同じく三河の地を担当する指導者として赴任しました。
 空誓が三河一向一揆を主導したかについては諸説ありますが、彼自身が兵を率いて戦ったという記録はあります。怪力の持ち主で、鎧を身に着け鉄棒を振り回して戦ったといいますから、なかなかの豪傑だったようです。
■兵数のみならず武力もそなえていた
 家康は当初、たやすく一揆を収束できると考えていたようですが、本多正信、渡辺半蔵守綱をはじめ家臣団の中からも一揆側につくものが多数出たため、想定外の苦戦を強いられます。そもそも兵となるはずの領民に信者が多く、そこに武士の信者が加わると一揆側の兵力は膨れ上がり、鎮圧する領主側の兵力は激減します。加賀の一向一揆でもこの現象が起こり、領主である富樫政親は討ち取られることになったのです。
 この時点での三河一向一揆が、加賀の一向一揆と同じ結果を生む可能性は十分にありました。家康自ら必死に戦うことでかろうじて優勢を保ち、和議に持ち込むことに成功したに過ぎません。
 のちに織田信長石山本願寺と対決しますが、信長をもってしても石山本願寺を倒すことはできず講和に持ち込んでいます。それほどまでに一向宗の力は強かったのです。
 家康は武力での解決を諦め、策を講じます。まずは全面的の一向宗側の要求を呑み、反乱した家臣団にもおとがめなしという信じられないほど寛大な措置を取りました。そして一揆の武力を解除したあとで、すべての寺を破却し領内での一向宗の信仰を禁じます。
 家臣団は家康のこの裏切りに、その前に謀反を許された恩もあって口出しできなかったと思われます。
 家康は、講和の際に言った
 「元通りにすべて戻す」
 という言葉を
 「寺が建つ前の原野に戻すという意味だ」
 と強弁したという逸話が残っていますが、家康のしたたかな一面を表すものです。今川との決別や妻子奪還、そしてこの一向一揆鎮圧と、家康は目的のためには約束を平気で反故にする冷徹な一面を覗かせています。
 この類の冷酷さは、のちに豊臣家への騙し討ちとも思える和議の破棄からの大坂夏の陣でも見られており、若い頃から「狸親父」と揶揄される腹黒さを持っていたことが窺えます。
■家康と空誓の、その後
 家康はその冷酷さや腹黒さの一方で、寛大さも持ち合わせています。そこが家康の不思議なところです。
 三河一向一揆から20年後、家康はそれまで禁教としていた国内本願寺派(一向宗)を赦免して寺社の復興を許しました。その復興の中心人物が、あの空誓です。家康は自分を死に追いやろうとした空誓を赦すだけでなく、三河領内での彼の活動を認めたのです。信長や秀吉であれば宗派の赦免や活動は認めても空誓を赦すことはなかったでしょう。
 しかも空誓は、家康が三河での本願寺派の赦免を決定する前に、勝手に家康の許しを得たとして活動し始めてしまいました。
 これは本来であれば命を奪われても仕方のない、空誓の背信行為です。
 しかし家康は、この件も不問にしました。それだけでなく三河一向一揆の原因になった寺社の特権も復活させます。さすがの空誓も家康の寛大さに心打たれ、以降は家康に心服するようになりました。
 家康も空誓を認め、その晩年には尾張藩主となる九男の義直を助けてやってほしいと依頼までするほどの間柄となります。
 家康という人は、その瞬間の意思決定においては目的のためには人を騙し討ちにするような冷酷さをもっていても、目的を達成したあとは、その行動を正当化するために思考を硬直化させることなく、次の瞬間にいちばん正しい判断をする柔軟さを持ち合わせていたのでしょう。その冷酷さと寛大さが、徳川家康が最終的に天下を取った大きな要因ではないかと思います。
 眞邊 明人 :脚本家、演出家
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 2月26日18:01 YAHOO!JAPANニュース Wedge(ウェッジ)「家康の最初の危機にして最大の難関、三河一向一揆
 若き日の家康。22歳にして最大の難関が訪れていた(橋本明己/アフロ)
 「荒天準備!」
 井深大と並ぶソニーの創業者盛田昭夫は、経営に役立つ箴言(しんげん)をいくつも残したが、かつて同社社員だった筆者が脳天に落雷を受けたような衝撃を感じたのは、この言葉だった。企業業績が悪化しそうな時期ではなく、好業績で何の心配もないときに「荒天準備!」といったからだ。「危機管理」とはこういうことをいうのだと思い知らされた瞬間だった。
 盛田は、戦時中、海軍将校だったから上記の専門言葉を使ったのだが、山の天気同様、海の天気も突然変わることがよくある。企業の業績にしても同様で、絶好調だからといって大船に乗った気分で安心したりせず、「いつなんどき、雲ひとつない晴天が急変して嵐に襲われるかわからない」と常に心を引き締め、備えを万全にしておかないといけない。盛田の「荒天準備!」はそういう教えだった。
 「荒天準備!」は、家康にもいえた。
 家康は、桶狭間の戦い今川義元が戦死したことで、19歳にして足かけ13年にも及ぶ〝忍耐一筋の人質生活〟から放免され、21歳で信長と軍事同盟を結び、22歳の7月には元康から家康へと改名、順風満帆かと思えた。
 だが、好事魔多し。改名からわずか2カ月後、家康は「三河一向一揆」という大嵐に見舞われ、危機的状況に直面するのだ。1563(永禄6)年9月のことだった。
 信長も手を焼いた一向一揆の洗礼
 一向一揆とは、「鎌倉中期に親鸞が開いた一向宗浄土真宗本願寺派)の門徒が、守護大名戦国大名の支配に反旗を翻した一揆」で、最初に起こったのは、三河一向一揆から遡ること約1世紀、1465(寛正6)年のことで、以後、近畿・東海・北陸などで起こるが、それがどんなに厄介なものだったかは、闘争期間の長さからも推測できよう。
 1488~1580年 加賀一向一揆 富樫政親(とがしまさちか)
 1563~64年 三河一向一揆 家康
 1570~74年 長島一向一揆 信長
 1570~80年 石山合戦   信長
 一向宗が勢力を急拡大するのは室町時代本願寺8世となる蓮如(1415~99年)の代である。京都を追われた蓮如が1471(文明3)年に加賀と越前の境にある吉崎を訪れて布教の拠点としたのが、そもそもの始まりということになる。
 信長は、さんざん手を焼かされた。石山本願寺と戦った一揆は「石山合戦」と呼ばれ、三河一向一揆終結した6年後の1570(元亀元)年から80(天正8)年まで11年も続いた。本願寺の法王は代替わりしており、11代顕如だった。
 命知らずの宗徒たちは、各地から摂津国本願寺に集結し、旗印や笠験(かさじるし)に「進者(すすめば)往生極楽、退者(しりぞけば)旡間(むげん)地獄」といった物騒な標語を書いて、持久戦に突入。困り果てた信長は、正親町天皇に仲介を依頼し、ようやく和睦にこぎつけたほどだった。
 では、家康はどうだったか。
 〝家康最初の危機にして最大の難関〟となった三河一向一揆には、宗徒以外に家康の家臣や各地から集まってきた浪人らもいて、総勢1万人ともいわれている。うち、一揆側に走った家康の家臣は、『寛成重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)によれば800余人に達した。
 その人数は当時の家臣団の半数に近く、そのなかには「上様か将監(しょうげん)様か」(『三河物語』)とまでいわれた〝腹心中の腹心〟もいた。筆頭家老で上野城主の酒井将監忠尚(ただなお)である。だが、あろうことか、酒井は今川に通じており、裏で一揆を煽ったのだから〝信心を隠れ蓑にした下剋上〟さながらだった。
 一族の者まで一揆に加わっていた。松平家次桜井松平家3代目当主)、松平昌久(大草松平家4代目当主)らである。
 大勢の家臣に裏切られた家康は、槍や長刀(なぎなた)を手にして戦うこともしばしばだったが、1564(永禄7)年1月11日の「上和田(かみわだ)の合戦」で「あわや」の場面に遭遇する。鉄砲で狙い撃たれたのだ。
 とっさに前に立ちふさがった家臣が、身代わりとなって胸を撃ち抜かれ、死んでしまった。城に戻って家康が武具をはずすと、弾丸が2発、転げ落ちた。九死に一生とは、このことだ。
 そうやって命がけで戦いながら、家康は、「どうすれば一日も早く一揆終結させることができるか」と考え続け、「講和こそが最善の策ではないか」との結論に至った。
 忍耐と温情の家康
 話が前後するが、三河一向一揆はどうして勃発したのか。
 家康が城砦を築くように命じたところ、現場の指揮に当たった家臣菅沼定顕(さだあき)が「不足する兵糧米を寺から掠め取ろう」と安易な発想をし、一向宗の上宮寺という大寺の庭に干してあった籾(もみ)を略奪したことが、国を揺るがす戦争へと発展するのだ。
 同寺は、既得の治外法権「守護不入(しゅごふにゅう)」を蹂躙されたことへの憤りもあって、「3ヶ寺」と呼ばれて一向宗の指導寺となっている勝鬘寺(しょうまんじ)と本証寺(ほんしょうじ)にも声をかけて対策を協議し、城砦を襲って力づくで奪回した。報告を受けた家康は「寺の狼藉(ろうぜき)は、まかりならぬ」と怒り、戦いの火蓋が切られた。
 一揆は内乱であり、国力を消耗するだけだが、他国から見れば願ってもないこと。そういう愚かな争いはすべきではない、平和的に解決しようと家康は考え、本願寺派の僧を交渉に向かわせたが、寺側は問答無用と僧を斬殺したので、武力衝突となったのだ。
 1563(永禄6)年9月に戦端が開かれると、一揆側の旗頭となった酒井将監は上野城に立て籠った。
 家康は、上野城の北東1キロメートルにある隣松寺に本陣を構えて猛攻撃を開始、2月に城を攻め落とすと、次の「3ヵ条の講和条件」を敵側に打診した。
 一、今般の一揆に加担した諸侍の本領は安堵する
 一、道場・僧侶は、以前のように戻す
 一、一揆を起こした張本人(首謀者)の命は助ける
 これらが受け入れられたことで、一揆終結した。信長が長島一向一揆に4年もの歳月を費やしたのに対し、家康はわずか5ヵ月で一揆を片付けたのである。
 『名将言行録』によると、秀吉は、「信長は剛が柔に勝つことは知っておられたが、柔が剛を制することはご存知なかった。人としての器が狭小だったのだ」と厳しく評したが、家康については「日本に肩を並べる武辺者はなし」「才は人にすぐれ、勇は古人(いにしえびと)の誰よりもまさっている」と褒めちぎっている。
 だが、才能も勇気もある優れた武将というだけでは天下人失格だ。秀吉がいうように、為政者としての器の大きさも不可欠である。
 その点、家康は、戦いが終われば敵も味方もなく、逆心して一揆側に走った家臣の復帰を許す寛大さを見せたが、その一方で為政者には「腹芸」が必要なことにも目覚めていた。
 前記の3カ条は一揆を終わらせるための方便であって、すべてを守ったわけではなかったのだ。一揆に加担した家臣の本領は没収しないという条件は守ったが、寺や僧侶はそのままとはせず、僧には宗旨替えを命じ、寺々は打ち壊させた。それを見て、一揆に加担した家臣らは「殺されるのではないか」と脅え、逃走した。逃げれば殺さずに済む。そこまで計算していた。
 寝返った家臣たちのその後
 〝親今川派の敗軍の将〟酒井将監も逃げた。駿河へ落ちたとも、猿投山(さなげやま)の麓の迫(はさま)村へ逃れ、翌年没したともいうが、いずれにせよ、自業自得というしかない。
 足利氏の分家の吉良義昭は、一揆以前にも家康と何度か戦っていたこともあって、生き残れないと判断したようで、近江へ逃走後、摂津で没したという。
 一族では、松平家次はすぐに降参して許されたが、それを見て「自分も」と降参した荒川義弘は、幡豆(はず)郡(尾西市南東部)の山城に籠った一揆軍の副将だったが、家康の妹婿(異腹妹の市場姫の夫)という特殊な立場上、許されず、浪人となって上方へ流れ、河内で病死という末路をたどった。
 特記すべきは、のちに〝家康の無二の相談役〟となる本多正信のその後である。正信は、一揆では酒井将監の上野城に籠ったが、敗戦で居場所を失い、出奔した。これが27歳のときだが、大久保忠世(彦左衛門の長兄)のとりなしで4年後に許され、再び家臣に復帰できたので、〝返り新参(しんざん)〟と呼ばれた。
 正信は、本能寺の変の直後の「神君伊賀越え」や秀吉の「小田原征伐」などにも貢献し、家康が大御所になると2代将軍秀忠の相談役も務めている。
 興味深いのは、夏目漱石の先祖とされる夏目吉信だ。一揆軍に参加して捕まって処刑されそうになったが、家康の温情で助命された。
 その恩を吉信は、9年後の「三方ヶ原の戦い」で返す。家康の身がわりとなって「忠死」するのだ。詳細は次回に記すので、ここでは、家康の温情で死を免れた件(くだり)のみを紹介する。
 一揆軍に加わった六栗(むつぐり)城の城主夏目吉信は、深溝(ふかみぞ)城主の松平伊惟(これただ)の攻撃を受けて捕縛された。伊忠は家康に使いを出して「吉信の処分をどうすべきか」を尋ねた。家康の返答は、こうだった。
 「夏目は籠の鳥も同然。生かすも殺すも貴公の意のままだ。不憫と思うなら一命を救ってやればよい」
 伊忠は、家康の温かい心根が痛いほどわかり、ただちに吉信を放免する。
 一向一揆を鎮圧して自信を深めた家康は、勢いに乗って東三河に攻め入り、今川家の重要拠点である吉田城(豊橋市)を陥落させ、ついに三河全土を統一した。64(永禄7)年、家康23歳の6月のことで、その偉業は「忍耐力」を抜きにして語ることはできない。
 戦国の三英傑の性格を比較するとき、「冷酷非情の信長」「人たらしの秀吉」に対して、「温情の家康」といえるが、それは、織田家と今川家の人質として6歳から13年間もさまざまな艱難辛苦に耐え続けたことで培われたのである。
 城島明彦
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 2月26日19:30 YAHOO!JAPANニュース さんたつ「戦国大名たちも難儀した!戦国時代に大流行した一向宗一向一揆とは何だったのか?
 皆々、息災であるか? 前田利家の戦国がたり、第6回である! 前回は三河一向一揆について語ったな。 此度は「そもそも一向一揆並びに一向衆とはなにか?」について分かりやすく話そうかのう。 では、いざ参らん!!
 戦国時代に大流行した一向宗
 一向衆とは仏教の一派を信仰する門徒たちのことを指す!
 ざっくりとした教義は、「阿弥陀仏を信じれば極楽に行ける」といったものじゃ。
 一向宗浄土真宗を他称したものであって、元あった浄土宗との軋轢(あつれき)などが関係するが、一向宗の詳しい話は長くなってしまうが故にここでは割愛いたす。
 戦国時代では、応仁の乱より続く戦乱と飢饉の世で救いを求めた人が多く信徒となったのじゃ。
 これを指揮しておったのは本願寺顕如、信長様にとって最も難儀した相手と言っても過言ではない。
 否、信長様に限らず戦国大名にとって最も難儀であったとすら言えよう。
 何が難儀かといえば、
 死を恐れない戦いぶり調略や謀略が通用しない鎮圧しても戦果がない
 以上のことが挙げられよう。
 まず第一に彼らは極楽に行くことを目標としておるために、死を恐れない。これは士気がなかなか下がらないことを示しておる。これが誠に厄介なのである。
 戦は士気が肝要で、故に戦は“初戦が七、八分”。初戦で戦の流れが決まってしまい、初戦で劣勢になると士気も下がって巻き返すのが難しいと言われておる。当時の戦は十分な指揮が取れておらぬことが殆どで、戦況不利と分かればすぐに逃げ出してしまう兵が多かったからじゃ。
 然りながら一向衆にはそれがない。
 死んでも極楽に行けると信じておる故に、戦況の如何によらず捨て身の攻撃を繰り返し、何度蹴散らそうと幾度となく立ち上がってくる、そして士気が下がらぬのを恐れてこちらの士気が下がる有様であった。
 第二に、そもそもの目的が極楽へ行くことと、一向宗をもって己が手で支配をすることである為、調略で私欲をくすぐろうとしても一切の効果がない。長期的な国づくりではなく、目の前の支配からの脱却を目指しておることが多いのもその理由の一つじゃな。
 第三に一向衆との苦しい戦いに勝ち鎮圧したとて、新しい土地が手に入るわけでも新たな戦力が加わるわけでもないのじゃ。
残るは荒廃した土地のみで、多くの犠牲と手間の対価は得られない。一向一揆が長引くことは国力の低下に直結してしまう誠に厄介な存在であったわけじゃ。
 我らが織田家一向一揆には苦しめられ、中でも長島一向一揆は信長様にとって最大の危機であった。
 三度にわたる大戦によって、氏家卜全殿、佐々松千代丸、佐治信方様、平手久秀様など多くの重臣と、織田信興様、織田信広様(信長様の兄上で家康殿が人質交換された時のお相手じゃ)、など信長様のご兄弟や織田一族の方々が討ち死になされたのじゃ。
 長島一向一揆を鎮圧した後も、越前一向一揆紀伊一向一揆など、一揆の指導者である本願寺顕如を屈服させるまで長きにわたって織田家を苦しめることとなった。
 その期間なんと十年!信長様はこの戦いの勝利によって、畿内統一を果たし事実上の天下人となった。
 一向衆が治めた国、加賀
 戦国時代勢いを見せた一向衆がなんと一国を治めるほど大きな勢力を持っておった地域があった。
 それが現世の石川県、加賀国じゃ!!戦国の終わり頃には儂が治めることとなった場所じゃな!
 1488年、加賀国では蜂起した一向一揆が守護であった富樫政親を自害に追い込み、実権を手にするのじゃ。
 1580年に信長様の手によって鎮圧されるまで一向宗の支配は90年以上続いた。
 それまでの間、越前朝倉義景や越後の上杉謙信殿と幾度も争い、領土を守り続けていたのじゃ。
 実は儂が本能寺の変の後に、すぐに駆けつけることができなかったのも一向宗のせいなんじゃ……。当時加賀国の上、能登国を治めておった儂は本能寺の変に乗じて蜂起した加賀一向一揆の残党との戦が起き、その対処に追われておった。
 その戦は「石動山の戦い」と言って日ノ本で見てもかなり大規模な戦であったぞ!
 そして加賀が儂の領土となるのは賤ヶ岳の戦いの後じゃ。
 じゃが実はこれには秀吉の黒い思惑があってな、賤ヶ岳の戦いにて柴田勝家様についた儂を訝しみ、一向宗の名残が強く反乱が起きやすい、支配が難しい土地をあてがって困らせてやろうと考えてのことだったんじゃな。
 事実、同じく支配が難しいとされた肥後の国を任された我が好敵手、佐々成政は治政がうまくいかず一揆が起こってしまい責任をとって切腹しておる。
 その後任となるのが加藤清正なんじゃな。
 一方、儂はというと己が手で政治行うのではなく、領民たちに支配の責任を預けるという日ノ本唯一の手段で国をなんとかまとめあげ、後の加賀百万石へと続けることができたのじゃ!
 おっと、問わず語りとなってしもうたな!
 頭の話に戻るが、此度の戦国がたりは大河ドラマ『どうする家康』にも関わってきそうな話だで覚えておくときっとより楽しむことができるであろう!
 戦国といえば猛々しい武士たちが印象強いと思うが、戦国の世を大きく左右した一向衆についても興味を持ってくれたら嬉しい限りじゃ!
 これよりもおもしろき戦国のはなしを戦国がたりにて紹介して参ろう!
 此度の戦国がたりはこれにて終い。
 さらばじゃ!
 文=前田利家名古屋おもてなし武将隊
 前田利家
 名古屋おもてなし武将隊
 名古屋おもてなし武将隊が一雄。
 名古屋の良き所と戦国文化を世界に広めるため日々活動中。
今年の大河ドラマ『どうする家康』に合わせ、戦国時代の小話や、名古屋にある史跡を紹介致す。
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