⚔10)─2─織田信長が伊勢神宮の式年遷宮を復活させた。天正10年(1582)。本能寺の変。~No.36 

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 織田信長は、仏教を滅ぼそうとした第六天魔王ではなかったし、非人道的な宗教弾圧や虐殺を繰り返した無神論者でもなかった。
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 2023年5月24日 YAHOO!JAPANニュース GOETHE伊勢神宮式年遷宮を復活させた織田信長の配慮とは
 日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、信長が約100年ぶりに復活させた祭祀、式年遷宮についてのエピソードをご紹介! 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を再発信する。
 約100年ぶりの式年遷宮の復活
 信長見聞録
 伊勢神宮式年遷宮(しきねんせんぐう)は、20年に一度行われる。持統(じとう)天皇の四年、西暦で言えば690年から続く祭祀(さいし)だ。2013年に持統帝の時代から数えて62回目の遷宮が行われ、話題になったことを記憶している読者も少なくないだろう。
 なぜ20年に一度なのか、なぜ内宮(ないくう)と外宮(げくう)および14の別宮(べつぐう)のすべての正殿と、千数百点にものぼる宝物(神宝)のすべてを新たに作り変えるのか。その理由はよくわかっていない。
 ただひとつだけわかっているのは、この祭祀によって、太古の建築様式や、工芸技術がほぼ昔のままの形で現代に伝えられているということだ。
 使われるヒノキの数だけでも1万本を超えるという。当然のことながら、莫大な費用がかかる。ちなみに、2013年の式年遷宮には約550億円の費用を要したと言われている。
 そんな祭礼が1300年以上も続いていること自体が奇跡的だけれど、実は一度だけ途絶えかけたことがある。室町時代の後半、正確には1462年に内宮の式年遷宮が行われたのを最後に中断してしまうのだ。
 原因は室町幕府の衰微(すいび)だ。
 5年後の1467年には応仁の乱が始まり、日本は戦国時代に突入する。
 神宮の式年遷宮は国家事業として行われ、費用は諸国の荘園などへの臨時課税で賄(まかな)われていた。役夫工米(やくぶくまい)と呼ばれたこの税は、室町時代以降は幕府が徴収するようになっていた。その幕府が弱体化して役夫工米の徴収が滞り、式年遷宮の費用が捻出できなくなったのだ。
 そして百年の月日が流れる。
 伊勢神宮神職、上部貞永(うわべさだなが)が信長に式年遷宮の復活を嘆願したのは1582年、すなわち天正十年正月のことだ。
 信長は比叡山を焼き、伊勢長島の一向一揆を根切りにするなど、宗教と激しく対立した印象がある。相手が僧侶でも容赦しなかったのは事実だが、それは宗教を憎んだからではない。
 何千人という僧侶、何万人もの門徒を殺した信長だが、信仰そのものを禁じたことは一度もない。彼はただ敵対する者と徹底的に戦っただけなのだ。坊主殺せば7代祟るという言葉があるが、信長にはそういうタブーがなかった。
 ルイス・フロイスは信長は無神論者だったと述べている。とはいえ、信長はおそらく神仏の存在を絶対的に否定していたわけではない。もしもそうだったとしたら、彼のことだから本当に宗教弾圧くらいしかねない。
 筆者の想像だが、彼の宗教心は現代日本人のそれに近いものだったのではないか。彼自身が積極的に特定の神仏を信じることはなかったが、他人が信じることまでは否定しなかった。それどころか庇護を求められればむしろ積極的に保護した。
 百年以上も中断していた式年遷宮の復活を嘆願されると、信長はまずその費用をたずねる。
 「千貫あれば、残りは寄進で賄います」と上部が答えると、信長は一昨年の石清水八幡宮の造営では最初三百貫と言っていたのに、最終的には千貫余りかかったことを例に挙げる。
 そして「民百姓等に悩みを懸けさせられ候ては、入らざるの旨、御諚(ごじょう)なされ、先ず三千貫仰せ付け」※る。建設費用が当初の見積もりの何倍にも膨れ上がるのは、今も昔も変わらないらしい。信長はそれでは民百姓を悩ませることになるからと、三千貫の寄進を約束する。
 民百姓の苦しみを心配したのは、信長が宗教の意味をどう考えていたかを端的に物語っている。宗教の真の目的は神仏ではない。人心の安寧なのだ。そのために民百姓を悩ませるのは本末転倒でしかない。
 Takuji Ishikawa
 文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。
 TEXT=石川拓治
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 三重県環境生活部文化振興課県史編さん班
 歴史の情報蔵
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 伊勢神宮遷宮制度の衰退と復興
 式年遷宮の制が立てられたのは今からおよそ1,300年前、天武天皇14年(685)であるとされ、その 第一回式年遷宮は、内宮では持統天皇四年(690)、外宮では同六年に行われたと伝えられています。
 式年遷宮とは、正殿以下すべての社殿や神宝・装束に至るまで、そのすべてを造り替え新調し、新しい正殿に御神体を遷すという祭典なのです。このような祭りがなぜ20年に一度行われるのでしょう。それについては様々な理由が考えられます。一つには正殿などの掘立柱建物の寿命が20年程度であることであり、もう一つには建築などの技術を伝承していくためには20年に一度行うことが望ましいと思われるからです。そして、20年という一つの区切りごとに、すべてを新しくすることによって神が若返り、より強い力で保護してくれることを信じ祈る行為だとも考えられ、神宮の最も重要な行事となっています。
 このように重要な行事ではあっても、南北朝の動乱期には20年に一度という制は崩れ、室町時代には120 年以上にもわたって遷宮が行われないという事態に直面しました。当然、正殿など建物の荒れ様はひどく、神主たちはその後実権を握った織田信長に両宮造営を願い出ました。これに応じて、信長は社殿の造営費用を寄進し遷宮実現に尽力しましたが、天正10年(1582)本能寺の変において倒れてしまいました。そのため、天正 13年の両宮式年遷宮を実現したのは信長の意志を継いだ豊臣秀吉だったようです。
 江戸時代にも徳川幕府がその費用を負担し、20年に一度の式年遷宮が執り行われ、以後順調に遷宮が続けられてきました。
 しかし、第二次世界大戦後の昭和24年の第59回式年遷宮は、戦災復興のさ中であり、昭和28年に延期さ れました。その40年後の今年、戦後3回目の遷宮が行われるわけです。
 (平成5年6月 平澤ひとみ)
 昭和62年内宮御木曳行事(伊勢市教育委員会提供)
 昭和62年内宮御木曳行事(伊勢市教育委員会提供)
 平成5年外宮白石持ち行事
 平成5年外宮白石持ち行事
参考文献
 大西源一『大神宮史要』平凡社 昭和35年
 梅田義彦『伊勢神宮の史的研究』雄山閣出版 昭和48年
 西川順土『近代の神宮』神宮文庫 昭和63年
 『三重県史』資料編 近世1 平成6年
 矢野憲一式年遷宮と伊勢の信仰」『聖域伊勢神宮』 (株)ぎょうせい 平成6年
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 日本初の歴史戦国ポータルサイト BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
 皇室・公家
 信長が着手し秀吉と家康のリレーで繋げられた伊勢神宮式年遷宮
 2022/09/15
 比叡山焼き討ちや一向宗の虐殺など。
 織田信長といえば神仏をあがめない不遜な人物というイメージがある。
 ところが、実際の信長は、決して既存の宗教を軽んじていたのではない「宗教的な常識人」でもあった。
 それは2013年の秋に行われた20年に一度の伊勢神宮の「式年遷宮」(建て替え)からも浮かぶ。
 持統天皇4年(690年)に始まり、以降、原則20年ごと(9月15~16日)に行われていたが、朝廷の力が落ちた中世になると、遷宮のための多額の費用と時間を捻出できなくなった。
 各地で力をつけていった戦国武将たちは「自国」の経営に夢中で、日本国全体を統括する伊勢神宮には関心を持たなかったのだ。
 織田信長
 そこにメスを入れたのが織田信長だった。
 伊勢神宮式年遷宮を復興させた信長
 信長が、伊勢神宮に目を付けたのは、尾張の隣の伊勢国への進出を狙っていたからでは?と思うかもしれない。
 しかし、それが本当の理由ならば、伊勢国ナンバー1の神社(一の宮)は、伊勢神宮ではなく椿大神社鈴鹿市)なので、こちらを押さえれば事足りる。
 端的に言えば、これまでの戦国武将をこえる視野と戦略を持っていたのであろう。
 信長が計画した式年遷宮が行われたのは、天正13年(1585年)のことだった。
 あれ? 信長は1582年に本能寺の変で死んでますよね……。
 本能寺の変
 そう、現在の式年遷宮も、材料となる樹木の選定、付属する調度品や神宝などの作成、もちろん建物自体の建造を何年も前から始めている。
 結局、信長が式年遷宮に立ち会うことはできなかったが、信長が復興に着手し、豊臣秀吉遷宮の節目で実行し、そして徳川家康が継続させ、現在に至るのだ。
 戦国三傑が一つのプロジェクトを継続して行った稀有な例といえるだろう。
 式年遷宮できない期間はプレハブでしのぐ
 ちなみに、遷宮が行われていない100年以上もの間、ほったらかしかだったのか?というと、さすがにそうではなかった。
 義経と弁慶でおなじみの「勧進帳」(寺社の復興のための募金活動・義経のときは東大寺大仏殿復興のため)という「募金」システムが日本にはあった。
 戦国時代も、尼や僧たちが全国をまわって勧進してお金を集めたのだ。
 しかし、戦国の世の庶民は貧しい。
 現代ならば1円玉やペットボトルのふたを集めるので精いっぱいという程度しか資金は集まらず。
 正式な遷宮にはとても資金が足りず、とりあえず内宮正面の宇治橋(下の写真)と、内宮と外宮については仮殿遷宮という方法が用いられた。
 いってみれば「プレハブ」を作ってご神体を移し、その間に、本殿をちょっとずつ修理したのだ。
 宇治橋
 このときの伊勢神宮禰宜神職)の荒木田守武という人が句を詠んでいる。
 元日や 神代のことも 思はるる
 「元日のおつとめをしていると、昔はどれだけ壮麗だったのかと思ってしまう。今はちとさびしい……」という心情が込められている。
 この方は1549年に亡くなっているので、江戸時代にお伊勢参りで、伊勢が一大観光地になって大にぎわいとなるとは想像もしていなかったことだろう。
 あの世で、信長の手をとって感謝しているかもしれない。
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 天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
 つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
 それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
 日本民族天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・野伏せり・悪党、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
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 戦後民主主義教育によって現代の価値観でしか歴史が見れない、考えられない、思いつかない現代の日本人は、民族的な歴史力・伝統力・文化力・宗教力がない為に、現実に起きていた事実に基づいた歴史は理解できない。
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 反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人やマルクス主義原理主義過激派日本人には、日本民族日本人である、織田信長豊臣秀吉徳川家康の戦国三英傑など日本史に偉大な足跡を英雄・偉人はもちろん社会の片隅で必死に生きていた無名の日本人を語る資格はない。
 何故なら、彼らは日本民族日本人ではないからである。
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 西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷もしくは人間以下の家畜、自由に殺してかまわない獣であった。
 バチカンローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
 つまり、中世キリスト教会は日本人奴隷交易を「神の御名」によって容認・公認していた。
 心ある善意な宣教師達は、全知全能の神から与えられた「神聖な使命」として、日本人を奴隷から救う為に積極的に布教活動を行い、数十万人の日本人をキリシタンに改宗して「神に愛される自由人」に引き上げていた。
 それが、中世キリスト教会が説く「隣人愛の信仰」であり唯一絶対神の御言葉である「福音による救済・恩寵・奇蹟」であった。
 豊臣秀吉徳川家康江戸幕府は、その事実を知り、日本人奴隷交易を禁止する為に元凶となっているキリスト教邪教として禁教とし、非人道的なキリシタン弾圧をおこなった。
 が、その歴史的事実がハッキリしているにもかかわず、現代日本歴史教育は「日本人奴隷交易」を否定する事なく黙認している。
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 日本とくに日本民族では、マルクス主義共産主義無政府主義による人民革命は起きない。
 もし人民革命が起きるとすれば、日本人から日本民族が消滅もしくは少数派となり外国移民の日本国民に入れ替わるもしくは多数派になったときである。
 何故なら、マルクス主義共産主義無政府主義とは反天皇反民族反日本だからである。
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