⚔40)─1─日本の活力の源を見極めた後水尾院。日本の根源は正統な男系父系天皇。~No.166No.167 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 天皇像・皇室観は、現代の日本人と昔の日本人とでは雲泥の差がある。
 現代日本の約80%の世論は、女性天皇女系天皇の即位に賛成している。
 つまり、ジェンダーなどの反天皇的国際世論に従い、数千年前の弥生時代古墳時代から守ってきた伝統文化であるの正統性男系父系天皇から、今現代風の正当性女系母系天皇への変更を要求している。
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 2021年11月21日号 サンデー毎日「京都で『日本の根源』を考える 後編
 歴史と文化の都を象徴する酒場  福田和也
 日本の活力の源を見極めた後水尾院
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 圓通寺は洛北の幡枝(はたえだ)にある。この寺はもともと後水尾院の山荘であった。後水尾院は修学院離宮を設計したことで知られるが、その造営よりも前にここで離宮を営んでいたのである。
 見どころは比叡山を借景(しゃっけい)とした庭だ。庭の見える書院は、いつもは観光客でいっぱいなのに、女性が一人いるだけだった。コロナ禍で京都の観光客が少なくなったのは嘆かわしいが、寺をゆっくり見られるのはいい。400坪ほどの枯山水の平庭の生け垣越しに比叡山が見えた。
 数ある京都の名園の中でも特にこの庭が好きなのは、後水尾院に対する尊崇の念による。
 慶長16(1611)年に即位した後水尾天皇は、江戸幕府による朝廷への抑圧を不満として寛永6(1629)年、7歳の興子(おきこ)内親王に譲位すると、自分は上皇として院政を敷き、その期間は51年にもおよんだ。
 この間、院は様々な文化活動を行った。その一つに古典研究がある。歴代天皇上皇の中で初めて、源氏物語古今和歌集伊勢物語といった古典を皇居で講義したのだ。
 この古典研究はやがて大きな流れとなって、賀茂真淵から本居宣長へと進み国学の道につながり、日本人の精神形成に大きな影響を与えることになった。
 日本がこれまで幾度も危機を乗り越えてきたエネルギーの芯(しん)になったのは、日本とは何かという問いだと思う。その問いにつて常に考え続けることが日本を支える力になっていたのであり、その流れを最初につくったのが後水尾院なのだ。
 400年前と恐らくあまり変わらないであろう景色を眺めながら、コロナ禍で日本が迷走している今、立ち返るべきは、その基本的な問いなのではないかと考えた。」
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 天皇に即位した内親王は、非血筋・非血統・非世襲の正統性なき女系母系天皇家・偽皇室をつくらないという不文律に従い、女性天皇は結婚できなかった。
 明正天皇が結婚して親王(皇太子)を産み、その親王天皇に即位すると女系母系天皇の誕生し、天皇家・皇室は徳川系となる。
 後水尾院は、幕府権力に逆らい、民族神話に基づく正統な血筋・血統・世襲万世一系の男系父系天皇を守った。
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 後水尾天皇(ごみずのおてんのう、ごみのおてんのう、1596年6月29日〈文禄5年6月4日〉 - 1680年9月11日〈延宝8年8月19日〉)は、日本の第108代天皇(在位: 1611年5月9日〈慶長16年3月27日〉 - 1629年12月22日〈寛永6年11月8日〉)。幼名は三宮、諱は政仁(ことひと)。
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 後水尾天皇(読み)ごみずのおてんのう
 朝日日本歴史人物事典「後水尾天皇」の解説
 後水尾天皇
 没年:延宝8.8.19(1680.9.12)
 生年:慶長1.6.4(1596.6.29)
 江戸前期の天皇後陽成天皇第3皇子,三宮。母は関白近衛前久の娘前子(中和門院)。諱は政仁。慶長5(1600)年12月21日親王宣下,16年3月27日践祚,同年4月12日即位。元和6(1620)年6月18日,将軍徳川秀忠の娘和子を女御として迎え,同9年11月の女一宮誕生をはじめ寛永6(1629)年までに3皇女,2皇子をもうけた。同年11月8日突然に女一宮興子内親王(明正天皇)へ譲位。女帝への譲位は一代でその血統が絶えるため,女御所生の皇子への譲位をもくろむ徳川幕府には手痛い打撃であった。譲位の原因は,天皇の腫物灸治,朝廷への武家介入や紫衣事件(1627~29),春日局参内に対する憤懣のほか,徳川氏の孫が即位するまで女御所生の子以外がおし殺されていたことも原因とする見方もある。天皇の在位期は幕府体制確立の過渡期にあり,朝廷を包摂した新たな朝幕関係確立を目指す幕府は,元和1年「禁中並公家諸法度」を制定,摂家,武家伝奏を通じた朝廷支配を強化した時期である。譲位により,上皇の立場から新たな朝廷秩序を目指したとも考えられる。譲位後,院にあること52年。宮廷を中心とした文芸復興の機運のなか,近臣公家,禅僧による学問講や和歌,漢和聯句,立花の会を主催した。歌学においては智仁親王,三条西実条,烏丸光広,中院通村に師事し,寛永2年智仁親王から古今伝授を受けた。のちに宮廷歌壇の最高指導者として稽古会,古典講釈を催し,後継の親王,公卿に古今伝授を行い御所伝授による宮廷歌壇を確立。歌集『鴎巣集』がある。宮廷文化,朝儀復興に強い意欲を示し『当時年中行事』の著書がある。また仏道にも帰依,特に禅宗の一糸文守に傾倒し,慶安4(1651)年落飾。法名円浄。京都泉涌寺内の月輪陵に葬られる。修学院離宮は後水尾の造営。<参考文献>熊倉功夫『後水尾院』,同『寛永文化の研究』,辻達也他編『日本の近世2 天皇と将軍』
(母利美和)
 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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 徳川 和子(とくがわ まさこ、1607年11月23日〈慶長12年10月4日〉 - 1678年8月2日〈延宝6年6月15日〉)は、日本の第108代天皇後水尾天皇の皇后(中宮)。明正天皇の生母。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。女院号は東福門院(とうふくもんいん)。
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 明正天皇(めいしょうてんのう、1624年1月9日〈元和9年11月19日〉 - 1696年12月4日〈元禄9年11月10日〉[1])は、日本の第109代天皇(在位:1629年12月22日〈寛永6年11月8日〉- 1643年11月14日〈寛永20年10月3日〉)。諱は興子(おきこ)。幼名は女一宮。
 系譜
 後水尾天皇の第二皇女。母は太政大臣征夷大将軍徳川秀忠の娘・東福門院源和子。徳川秀忠崇源院の外孫、在位当時の将軍徳川家光の姪にあたり、徳川家綱の母方の従姉。徳川将軍家外戚とした唯一の天皇である。
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 明正天皇(読み)めいしょうてんのう
 朝日日本歴史人物事典「明正天皇」の解説
 明正天皇
 没年:元禄9.11.10(1696.12.4)
 生年:元和9.11.19(1624.1.9)
 江戸前期の天皇後水尾天皇の第2皇女。母は将軍徳川秀忠の娘和子(東福門院)。諱は興子。寛永6(1629)年10月29日内親王宣下,同年11月8日後水尾天皇の突然の譲位により受禅,翌7年9月12日即位。奈良時代称徳天皇以来の女帝。興子は中宮嫡出の第1子で,中宮には皇子が2人いたがいずれも早世。寛永6年に生まれた中宮の第5子も皇女であったため内親王へ譲位となった。中宮所生の皇子を天皇として,徳川氏の血統が皇統に継承されることを望んだ幕府には意外なことであった。しかし幕府はこれにより外戚の地位を確保し,強大な幕府庇護による天皇の時代が始まった。当時天皇は7歳であり,実質的には後水尾院政の始まりである。天皇の在位は15年にわたるが,後水尾の事績の陰に隠れ在位期の業績や実像は表に現れない。譲位により武家伝奏を辞任させられた院の近臣中院通村 は,通称継橋宮 と呼ばれた女一宮(興子)について「世を渡る人の上にもかけて見よ いかに心のままの継橋」と詠んだという。幕府の庇護のもと,わがままな一面が目立ったのであろうか。現存する退位以後の宸翰からは,神経質そうな占い好きな性格がうかがえる。寛永20年10月3日,皇弟紹仁親王(後光明天皇)に譲位。以後54年間を仙洞御所で暮らし,74歳で没。京都泉涌寺内の月輪陵 に葬られる。奈良時代の女帝元明,元正天皇諡号の各一字をとり明正院と追号された。<参考文献>熊倉功夫『後水尾院』
(母利美和)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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 徳川幕府は、天皇と皇族を京都御所に軟禁し、10万石という捨て扶持の石高で贅沢な宮中生活を禁止した。
 京の町衆は、天皇や皇族の貧しい生活を哀しみ、京都所司代の厳しい監視を掻い潜って食べ物や衣服を京都御所に運びこんでいた。
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 日本の歴史的支配構造は、文化力を背景とした無私無欲の祈りを捧げる天皇の御威光、軍事力を背景とした政治権力、経済力を背景とした宗教権威の3つが「三竦み」として存在していた。
 天皇の御威光を奉じたのが、貧しい下層の庶民、賤民(非人や穢多)、部落民、異形の民、異能の民、芸能の民、その他の日陰者に近い人々であった。
 何時の時代でも、自己犠牲で命を捨ててまで天皇・皇族・皇室を守ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者は彼らであったが、現代日本は違ってきている。
 彼らは、反キリスト教であり、反マルクス主義・反共産主義であった。
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 天皇家・皇族・皇室の正統性は、最高神の女性神天照大神の血・霊・魂、心・大御心、御稜威・志・気概を正しく直系で繋いでいる血筋・血統・世襲による万世一系の男系父系天皇である。
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 現代日本の有名な観光名所である神社仏閣や庭園の大半は、天皇家・皇族・皇室、公家、将軍・大名達の別荘や隠居所であった。
 一部の現代日本人は、先祖の歴史遺産を、生きた文化資産としてではなく死んだ文化遺物の残骸として見せびらかして金儲けをしている。
 現代日本には、マルクス主義共産主義)やキリスト教の反天皇反民族反日的日本人達が存在し、彼らによる神(祖先神)殺しや仏(先祖仏)殺しが広がっている。
 マルクス主義共産主義)やキリスト教は、先祖代々守り、受け継ぎ、後世に残そうとしている日本民族遺産を破壊しようとしている。
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