🏞87)─2─御所千度参り。天明の大飢饉で苦しむ庶民は天皇に助けを求め、光格天皇は幕府に被災民の救済を求めた。~No.364 @ 

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 1782年 スイスで最後の魔女が生きたまま焼き殺された。
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 2018年11月号 Voice「日本は世界最古の民主国 竹田恒泰
 『革命』となぜ無縁だったのか
 フランス革命が起きたわけ
 前回(2018年7月号)、フランス革命について、日本人は人類の進歩に貢献した輝かしい出来事と思う人が多い半面、革命の過程で約60万人の国民が命を落とす『影の部分』があったことを述べました。フランス革命はまさに血で血を洗う闘争、粛清の連続でした。
 今回はそのフランス革命がなぜ起きたのか、同時代の日本の状況と対比しつつ考えたいと思います。
 革命が起きた1780年代のフランスは、ある大きな課題に直面していました。巨額の財政赤字です。国の財政は逼迫し、民衆は重税に苦しめられていました。
 当時のフランスが財政難に陥ったのは、主に3つの理由があります。
 一つ目は、対外戦争による戦費の拡大です。フランス革命時の国王はルイ王朝(ブルボン王朝)第五代・ルイ16世、王妃は有名なマリー・アントワネットですが、フランスの戦費が拡大したのは同第三代・ルイ14世の時代です。『朕は国家なり』という言葉で知られるルイ14世は『太陽王』と呼ばれ、絶対君主制を確立。対外戦争を繰り返して多額の戦費を使いました。
 二つ目は、ルイ14世が建てた豪奢(ごうしゃ)なベルサイユ宮殿をはじめとする莫大な宮廷費です。さらに王族と貴族たちの蕩尽(とうじん)によって、国家財政はいっそう傾きました。
 三つ目は、ルイ16世がアメリカの独立戦争を支援したことです。フランスにとっては宿敵イギリスに一矢(いっし)報(むく)いる機会であり、結果としてフランスの独立は達成されたものの、対米支援はもはやフランスの国力の限界を超えていた、というます。
 以上の三つの理由から財政難に悩むフランスにとって、致命傷となった出来事が、アイスランドラキ火山の噴火です(1783年3月)。噴火の影響でこの年は世界的な冷夏と成、ヨーロッパでは小麦粉の価格が急騰。日ごろ多額の税負担に苦しめられていたフランスの民衆はパンすら買えなくなってしまい、ついに暴動を起こしたのです。
 ただし、革命の導火線に火を点(つ)けたのは平民ではなく、貴族でした。この点は多くの日本人が誤解しているかもしれません。
 王政に絶望したフランス民衆
 革命前のフランスは、完全な身分制の国でした。当時の社会体制をアンシャン?レジーム(旧体制)といい、第一(聖職者)、第二(貴族)、第三(平民)という三つの身分から成っていました。第一身分と第三身分を合わせても国民の2%にすぎない特権身分が40%の土地を所有し、税金を納めずに済む権利(免税特権)など、さまざまな特権を保持していました。
 ルイ16世から財務総監(財務大臣)に起用されたジャック・ネッケルは当面の財政破綻を回避するため、特権階級の免税特権を廃止しようとしました。ところが、貴族からの強い抵抗に遭います。さらに貴族たちは国王に対し、第一、第二、第三身分の代表議員が集まる三部会の開催を要求しました。
 フランスで三部会が開かれるのはじつに175年ぶりのことで、もし貴族たちがこのときわが儘(まま)をいわず税金を納めていれば、結果的にフランス革命は起こらず、貴族たちの没落もなかったかもしれません。歴史の皮肉というほかありません。
 ルイ16世は身分差別の解消を訴える平民とそれに反対する貴族との諍(いさか)いのなかで、完全な板挟みに陥っていたわけです。しかし国王は結局、貴族側の要求を呑んでしまいました。具体的には、特権階級の免税特権を廃止する体制改革の旗頭(はたがしら)である財務総監ネッケルを罷免してしまった。これが破綻の破滅の始まりでした。王政に絶望したフランス民衆は、多数の政治犯が収容されていたバスティーユ牢獄を襲撃し、革命の火蓋が切って落とされます。時に1789年7月14日のことでした。
 同時期の日本はどうだったか
 革命以後のフランスは、人権宣言の採択やオーストリアへの宣戦布告、ルイ14世の処刑、マクシミリアン・ロベスピエールによる恐怖政治など、激動の時代を歩みます。その詳細について語る前に、同時期の日本はどうだったかを見てみたいと思います。
 フランス革命が起きた1780年代当時、日本で政治(幕政)の実権を握っていたのは老中の田沼意次でした。田沼の失脚後、松平定信が老中に就任して寛政の改革を断行します。対外的には、ロシア人が南下して蝦夷地へ到達、長らく平和が続いていた日本にも列国の脅威が迫りつつある、という時代でした。
 革命時のフランスと当時の日本には、興味深い歴史の一致が見られます。前述したラキ火山の噴火が起きた数ヶ月のち、浅間山が噴火したのです。この噴火も同じく世界的な冷夏に影響を与えたと考えられています。
 ラキ火山の噴火が小麦への被害と価格急騰の惨状を招いたように、日本では前年の東北地方の冷害に加え、浅間山の噴火によって多数の餓死者が出る飢饉となりました。天明の大飢饉です。天明2(1782)年から天明8(1788)年にかけて農村で百姓一揆が頻発し、江戸(東京)や大坂(大阪)などの大都市で打ちこわしが起こりました。フランス革命の民衆が『パンをよこせ』とバスティーユ牢獄を襲撃していたころ、日本の民衆も同じく『米よこせ』と江戸、大坂で暴れていたわけです。
 しかしながら当時、民の君主に対する対応は、日仏両国でまるで異なっていました。フランスの民衆がルイ16世とマリー・アントワネットを宮殿から連れ出して監禁し、最後はパリのコンコルド広場でギロチン処刑を行ったのに対し、飢饉に苦しむ日本の民衆は京都御所に大挙し、光格天皇(在位・安永8〈1779〉年〜文化14〈1817〉年)を拝んでいたのです。1日に数万人の民衆が禁裏(きんり)に押し寄せ、天皇に祈願する事態が三ヶ月以上も続いた、といいます(拙著『旧皇族が語る天皇の日本史』PHP)。
 『御所千度参り』と呼ばれるこの現象には、京都だけでなく周辺の都市からも多くの人が加わり、一日の祈願者は最高で7万人に上りました。禁裏周辺には500から600の出店が並び、旦那衆が遊女を連れて見物に繰り出す有り様だった、と伝えられます。
 光格天皇は民の期待に応えて事態の収拾を図るため、幕府に窮民救済の申し入れを行います。天皇が幕府に対して政治的な提言をするのはきわめて異例であり、江戸期においては最初の例です。『困窮する民を救う目的であれば、天皇が幕府に政治的提案ができる』という先例を築いた点で、御所千度参りは重要な出来事でした。
 さらに光格天皇治世の文化4(1807)年、樺太にある日本の施設と艦をロシアの軍艦が攻撃する、という事件が起きました。このとき、幕府は『朝廷に事態を報告する』という先例をつくっています。
 内政や外政で大きな問題が起きたとき、幕府が朝廷の意見を求め、天皇の権威を借りて政治を進める。この先例が次第に常態化し、光格天皇の孫の孝明天皇の治世においては朝廷と幕府、天皇と将軍の力関係が逆転し、天皇が政治の上位を司(つかさど)るようになります。
 光格天皇の時代に起きた『御所千度参り』は天皇を中心とした新しい国づくり、すなわち明治維新へ至る道の始まりといえる出来事でした。
 『国民のための天皇』という思想
 このように、フランスで君主(国王)を失墜(しっつい)させる革命が起きた時代に、日本では逆に君主(天皇)の権威が復活した。ではなぜ、日仏の民衆は君主に対して真逆ともいえる対応を見せたのでしょうか。その理由を考えることは、欧米から日本が輸入した『主権』という概念の意味を考えるうえで重要です。
 そこでフランス革命時、自由主義貴族であるラ・ファイエットらが起草し、立憲国民議会が採択した『人権宣言』を見てみると、第1条にこうあります。
 『人は、権利において自由かつ平等に生まれ、自由かつ平等でありつづける。社会的差別が正当化されうるのは、共同の利益にかかわる場合のみである』
 このフランスの人権宣言は、『すべての人間は生まれながらにして平等』という冒頭の文句で知られるアメリカの『独立宣言』(1776年7月4日)の影響を受けた、といわれます。」
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 ウィキペディア
 光格天皇(1771年9月23日(明和8年8月15日) - 1840年12月11日(天保11年11月18日))は、江戸時代の第119代天皇(在位:1780年1月1日(安永8年11月25日) - 1817年5月7日(文化14年3月22日))。幼名を祐宮(さちのみや)という。諱は初め師仁(もろひと)としたが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改めた。傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。
 略歴
 天明2年(1782年)、天明の大火により京都御所が焼失したのち、御所が再建されるまでの3年間、聖護院を仮御所とした。また、寛政11年(1799年)、聖護院宮盈仁法親王役行者御遠忌(没後)1100年である旨の上表を行った。同年、正月25日に権大納言烏丸光祖を勅使として聖護院に遣わし、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号を贈った。
 天明の大飢饉の際には幕府に民衆救済を申し入れた。ただしこれは、幕府が定めた禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為であった。そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して同様の申し入れを行った。これに対して幕府は米1,500俵を京都市民へ放出する施策を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした(御所千度参り)。
 ゴローニン事件の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に務める。また、朝幕間の特筆すべき事件として、尊号一件が挙げられる。天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果となった。
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 2017年2月9日号 週刊新潮「日本ルネッサンス 櫻井よしこ
 今上陛下が研究、光格天皇の功績
 ……
 光格天皇は今上陛下の6代前、直系のご先祖である。譲位をなされた最後の天皇で、現在の皇室と天皇の在り方に画期的な影響を及ぼした。……
 光格天皇に関して教えられるところの多いのが東京大学名誉教授、藤田覚氏による『幕末の天皇』(講談社学術文庫)だ。光格、孝明、明治の3天皇について記した目的は『天皇・朝廷は、幕府からも反幕府勢力からも依存されうる高度な政治的権威を、いついかにして身に着けていったのであろうか。そこのところを考えてみようというのが、本書の主要なテーマ』だとしている。
 3代の天皇中、最も注目されるのが明和8(1771)年に生まれ、天保11(1840)年に数え年70歳で亡くなった光格天皇である。譲位後は上皇、院として23年、都合62年間君臨した。昭和天皇の在位64年に匹敵する長い期間を通して、光格天皇は闘い続けた。藤田氏は以下のように描いている。
 『ときに江戸幕府と激しく衝突しながら、なおその主張を貫こうとする強靭な意志の持ち主』、『ようよう本格的な曲がり角を迎え、腐朽しはじめた江戸時代の政治的、社会的状況のなかで、天皇・朝廷の復古的権威の強化を積極的にはかり、きたるべき激動の幕末政治史のなかで、天皇・朝廷がその主役に躍りでる基礎的条件を主体的に切りひらいていった』
 光格天皇を駆り立てた要因のひとつに、天皇即位に至る事情があるだろう。安永8(1779)年、後桃園天皇は、夏から病んでいたが、10月になって容体が急変し、29日に急逝した。22歳の若さで、後に残されたお子は幼い女児1人だった。
 そこで9歳の祐宮(さちのみや)、後の光格天皇が急遽、後桃園天皇の養子となって皇統を嗣いだ。幼い天皇の父は閑院宮(かんいんのみや)典仁親王閑院宮家は宝永7(1710)年創設の『新しい宮家』だ。
 強い皇統意識
 その存在は江戸時代にどう評価されていたのだろうか。藤田氏は江戸時代に実際にあった朝幕間の紛争事件を題材にした『小夜聞書(さよのききがき)』という書物を次のように引き用している。
 『当代の主上天皇)は、閑院典仁親王の御末子にて、先帝後桃園院ご不例(ふれい)の時に御養子になされ、程なく践祚(せんそ)ましましける、よって御血筋も遠く相なりし故に、諸人軽しめ奉(たてまつ)るには非ずというども、何やらん御実子の様には存じ奉らず、一段軽きように存じ奉る族(やから)もこれありけり』
 9歳の幼さとはいえ、このように自分を軽んずる空気を光格天皇は直感したことであろう。若き天皇に、前の前の天皇上皇となっていた後桜町院が学問に打ち込むよう勧めた。天皇は熱心に学問に打ち込み、18歳までに、『自ら朝廷政務を主宰』する程の立派な青年天皇に成長した。光格天皇の英邁さが窺われる。
 そこに追い風が吹いた。光格天皇の生まれた明和8年は日本全国が伊勢神宮への『おかげ参り』の熱に染まり、数百万人がお伊勢さんに押し寄せた年でもある。それに似たような、京都御所の周囲を人々が廻り続ける『御千度(おせんど)』という現象が起きたのが光格天皇17歳の頃、天明7(1787)年だった。ピーク時には約7万人ともいわれる人々が『浮かれ出』て御所の周囲を廻り続けた。
 天明の飢饉で米価が高騰し、生活苦が深まる中、人々は町奉行所に頼んでも埒が明かない事案について天皇に救済を祈願した。
 天皇はこの機を逃さず、幕府に窮民救済の異例の申し入れをした。藤田氏の文章を引くと、こうなる。
 『朝廷側には、おずおずというかおそるおそるという態度がありありと見える。それもそのはずである、飢饉で飢えて苦しんでいる民衆を、なんとか救済するようになどと朝廷が幕府に申し入れるなど、かつてなかったからである。……まさに異例中の異例である』
 天皇主導の申し入れに関しては偽文書も飛び、尾ひれがついて『窮民救済に奔走する朝廷と及び腰の幕府』という図式が生まれ、広く庶民の知るところとなった。民は明らかに朝廷を支持し、その支持の高まりの中で、天皇は君主としての意識を強めていった。
 光格天皇はまた強い皇統意識の持ち主でもあった。幕府の威光の下で軽視されていた天皇の権威を高めるために次々と手を打った。長く中断されていた神事を再興し、古来の形式を復活させた。新嘗祭がその一例だ。現在の勤労感謝の日などとされているが、これは天皇が新穀を神に捧げ、自らもこれを食する儀式であり、宮中祭祀の名で最も重要なものとされている。
 天皇像の模索
 神事再興にとどまらず、御所を平安時代の内裏に則って造営することを光格天皇は願った。天明8(1788)年に京都を襲った大火で御所は灰燼に帰したが、天皇はその機をとらえた。紫宸殿や清涼殿などを荘厳な形に復古すべく、内裏造営計画を立てて幕府に要請した。財政難もあり、渋りに渋る幕府に朝廷は迫り続け、最後には要求を通したのである。
 その先に天皇の実父への尊号宣下問題が生じた。光格天皇は父の閑院宮典仁親王太上天皇の称号(尊号)を贈ろうとしたが、尊号は譲位した天皇に贈られるものだ、典仁親王天皇の位にはついていない、幕府は光格天皇の願いは『親子の恩愛』ではあっても『道理がない』とし、『なお再考を求む』と回答した。
 そのとき光格天皇は思いもよらない挙に出た。当時、政務に携わる公家は5摂家に限られていたが、その範囲を超えて広く41人の公卿に勅問(天皇の質問)を下した。」
 『異例の公卿群議』で圧倒的な支持を得た天皇は、それを背景に幕府に尊号宣下の実現を要請した。結論から言えば、幕府の主張が通ったのだが、藤田氏は一連の経緯について『異例のやり方』と書いている。
 光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。
 藤田氏が書いたように、光格天皇今上天皇の共通項は、お二方共にご自分なりの天皇像を築かなければならなかったという点であろう。象徴天皇とは何か、その点を模索され続けた今上陛下のお言葉を、改めて深く心に刻み、考え続けるものである」
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 12月17日号 サンデー毎日「歌鏡 民草に露の情(なさけ)をかけよかし 代々(よよ)の守りの国の司は  光格天皇
 内閣総理大臣が招集し、皇族や最高裁長官、宮内庁長官ら10人で構成される皇室会議が、12月1日に宮内庁で開かれた。天皇の譲位にまつわるこうした流れの中で今、注目されているのが第119代の光格天皇だ。200年前の1817(文化14)年に最後の譲位をされた光格天皇。学問に熱心で、博学能文で知られた。長く途絶えていた朝議に尽力(じんりょく)され、近代天皇制に移行するための礎(いしずえ)を築かれた方、と後世に評価されている。宮廷文化である和歌を尊び、歌道に邁進(まいしん)した天皇としても名高い。内裏造進の功績もたたえ、江戸幕府第11代将軍徳川家斉に五言古詩を贈られたこともあった。
 1787(天明7)年、日本は全国的な恐慌に見舞われていた。世に知られた天明の大飢饉だ。この状況を何とかしたいと、祈るような気持ちで京都御所の周囲1,300メートルほどを回る『御千度』の人々が現れ、1日数万人に達したこともあった。こうした状況下、後桜町上皇は3万個の林檎(りんご)を一人に1つずつ、お与えになられた。これに刺激を受け、飢饉で米価が高騰し、餓死者も出るほどの事態に、当代の光格天皇も行動をおこされたのだった。古代の朝廷で、毎年5月に全国の貧窮民に米や塩を賜った『賑給(しんごう)』という儀式があった。これを復活させ、関東から救い米を出せないかとお考えになられたのだ。朝廷が江戸幕府の政治に口を出すなどは考えられなかった時代のことだ。この時、光格天皇は掲出歌を将軍徳川家斉に送り届け、幕府に民衆救済をお求めになられた。言うまでもなくこれは、幕府が皇室と貴族に対して定めた法令、禁中並公家諸法度に違反するものだった。厳罰も覚悟しながら光格天皇は行動されたのだ。
 幕府もことの重要性と緊急性を理解し、1,500俵の救い米を出すことを決めている。お咎めはなかった。この年、『身のかひは何を祈らず朝な夕な 民安かれと思ふばかりぞ』(自身のことは何も祈ることがない。ただ、朝に夕に民が安らかに暮らせることを願うばかりだ)という御製もお詠みになられた光格天皇。後に明治維新へとつながる流れに光格天皇のこうした立ち振る舞いが大きかったと言われている。来年はいよいよ明治150年。あらためて今、光格天皇の御製を思いおこしたい。(田中章義)」
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 何故、共産主義者マルクス主義者)が日本天皇を亡き者とし、天皇制度を廃絶しようとしているのか?
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 虐げられた非人・穢多(えた)などの賤民や軽蔑された海の民・川の民・山の民が、命を犠牲にして天皇・皇室・天皇制度を守ろうとしたわけ。
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 非人・穢多(エタ)・乞食などの賤民は、人間以下として、差別され軽蔑され見下され悲惨な生活を強いられていた。
 江戸時代は、救いようがない程に酷い時代であった。
 日本人とは、人に対して、たとえ女性や子供であっても冷淡で薄情である。
 惻隠の情などは、所詮、上辺だけ、見せ掛けにすぎなかった。
 自己責任・自助努力・自力救済の悲惨な時代で、病人や怪我人など弱者は見捨てられ、切り捨てられていた。
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 日本天皇の存在意義とは、賤民や部落民などの貧しく卑しい下級民・下層民達を保護するためであった。
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 大陸の皇帝・国王は武の専制君主であり、日本の天皇は祈る祭祀王であった。
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 江戸時代。来日した西洋人は、幸せそうな日本人と比べて自国の下層民の悲惨な状況を嘆いた。
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 日本には、偶然の幸運はあっても不自然な奇跡は起きなかったし、そもそも奇跡など存在しなかった。
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 フランス革命は、巨額の財政赤字と貧困化した民衆への重税であった。
 国の財政赤字を生む主な原因は、政治家と官僚・役人が無能無策で失政を繰り返して財政を逼迫させるからである。
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 人類・人間、特に大陸人は血に酔う傾向があり、血を見る事で陶酔・恍惚・狂喜する為に血を求める止み難い衝動を心の内に秘めている。
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 日本の天皇を支えていたのは、下層の庶民(百姓・人足・人夫)、賤民(非人・エタ・河乞食・血と死に関わる職業人)、部落民(川の民・山の民・海の民)などであった。
 日本の天皇は、下層の庶民・賤民・部落民によって守られいていた。
 明治維新の本当の目的は、四民平等、身分制度を廃止して、天皇を守護してきた下層の庶民・賤民・部落民らを身分差別・身分偏見から解放して社会での自由を与える事であった。
 そもそも、幕府や大名の武士・サムライも祖先を辿れば、血と死を生業とする卑しい身分・下級官吏・不浄役人に過ぎなかった。
 後年、反天皇反日にして反宗教無神論共産主義者マルクス主義者)は、ロシア式暴力共産主義革命の為に賤民・部落民を味方に付けるべく階級闘争・身分差別という中世的洗脳教育を行った。
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 軍事独裁織田信長は、朝廷から付託された政治権力を持っていた足利幕府を滅ぼし、朝廷を左右できる強力な宗教権威を持っていた比叡山延暦寺を焼き討ちした。
 そして、百所の持ちたる国を影で支配していた一向宗浄土真宗)の石山本願寺を滅ぼすべく攻めた。
 一向宗は、一神教的教義で魂・霊魂の救済を保障し、仏敵・織田信長と戦って死ねば仏の国・極楽浄土に往生して永遠に生きられると信じ込ませた。
 老若男女の信徒は、死後の安息と永遠の命を信じ、武器を取って戦った。
 宗教権威にとって、れは聖戦であった。
 軍事独裁にとって、それは正しい戦争・正義の戦争であった。
 軍事独裁は、死ぬ事を救済と信じる狂信の宗教権威と泥沼の戦争を続けた。
 織田信長は、被害続出の本願寺戦争を止める為に朝廷に調停を依頼した。
 本願寺も、戦国大名の毛利や紀州地侍などの支援で抵抗していたが、これ以上の抗戦は不可能として朝廷の調停を求めた。
 朝廷は天皇の御威光で、軍事独裁と宗教権威の聖俗の戦いを調停し、宗教戦争終結させ、日本から宗教に関する対立・差別・偏見を消し去った。
 北朝天皇は、足利尊氏の政治権力で新設された為に「天皇の御威光」を失っていたが、軍事独裁織田信長と宗教権威の本願寺との戦いを仲裁する事で神代からの「天皇の御威光」を回復した。
 後継の軍事独裁であった豊臣秀吉徳川家康も、天皇の御威光にひれ伏して政治権力を授かった。
 聖の宗教権威は、俗の政治権力に支配され監視・管理・監督を受けていた。
 日本は、外面的には軍事独裁・政治権力の武家幕府が支配していたが、内面的には天皇の御威光が支配していた。
 だが、その二重構造は、西洋キリスト教的でもなく、中華儒教的でもなく、純日本的であった。


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 日本の下層階級の賤民と大陸の下級階級の人民とは違い、マルクス主義社会主義共産主義)が唱える搾取・簒奪の階級闘争は存在せず、よって人民革命は起きなかった。
 天皇・皇室に対する畏敬の念・崇敬の心が篤かったのが、社会・世間から卑しい者・穢れた者として差別され除け者にされていた非人・エタなどの賤民であった。
 さらには、古代から天皇・皇室を守護していたのが海の民・川の民・山の民などの日陰者や山法師・修験者ら隠者達であった。
 日本の天皇・皇室が、大陸の政治権力の王侯貴族や宗教権威の教祖・宗祖などのように滅びなかったのは、日本民族の最下層を構成する名も無き衆生に支えられたいたからである。
 非人・エタなどの賤民、海の民・川の民・山の民の日陰者、山法師・修験者などの隠者などの名も無き衆生がいなくなった時、皇室を守る「誠心」ある尊皇派はいなくなり、天皇に命を捧げて戦う「志」ある勤皇の志士もいなくなる。
 非人・エタなどの賤民や海の民・川の民・山の民こそが、忠良なる臣民であった。
 社会的弱者である非人・エタなどの賤民や海の民・川の民・山の民の保護者が、天皇・皇室であった。
 天皇制度の廃絶と皇室の消滅を目指す反宗教無神論の反天皇反日的日本人は、非人・エタなどの賤民、海の民・川の民・山の民などの日陰者、山法師・修験者などの隠者の不?戴天の敵であった。
 日本の周辺には、天皇制度廃絶を目指す反天皇反日的日本人を支援する国・組織・団体が数多く存在する。




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