🕯100)─2─どんな宗教よりも「仏教」を信頼する理由。~No.218 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本民族の宗教性とは、信じ込む信仰ではなく、思いこむ崇拝である。
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 中国の歴代王朝の多くは、宗教秘密結社による反乱で滅亡していた。
 それ故に、中華帝国を護ろうとした儒教勢力は「仏による現世での救済」を説く救世主(メシヤ)仏教を悪の革命宗教として弾圧していた。
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 徳川幕府は、宗教の狂信的暴走を抑え込む為にキリスト教はもとより仏教や神道さえも統制した。
 日本仏教は死を専門に扱う葬式宗教であり、日本神道は生を専門に扱う祭祀宗教であった。
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 日本の伝統的既成宗教には、信仰故の聖戦は似合わないし、狂気殺人の宗教テロリストは生まれないし、非人道的無差別殺人である自爆テロは起きない。
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 2023年11月19日 MicrosoftStartニュース 文春オンライン「「自爆テロを見ても、容赦がない」日本の知性・養老孟司(86)がどんな宗教よりも「仏教」を信頼する理由
 「べつに私は仏教徒ではない。でも外国の書類に宗教を書くときは、仏教徒と書く」
 養老孟司さんはなぜほかのどの宗教よりも、仏教に信頼を置くのか? 日本を代表する知性・養老さんの過去20年間に執筆したエッセイを選りすぐった新刊『 生きるとはどういうことか 』(筑摩書房)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/ 後編 を読む)
 なぜほかのどの宗教よりも、養老孟司さんは仏教に信頼を置くのか? ©文藝春秋
 © 文春オンライン
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 人はなぜ生きるのか?
 人はなぜ生きるか。こう訊かれると、すぐにいいたくなる。そりゃ、人によって違うでしょうが。
 お金のため、名誉のため、権力のため。人生の動機はこれに尽きる。そう考える人もある。それなら男女はどうなる、家族はどうなる。好きな女のために生きる。もうだれも読まないだろうが、井上靖の「射程」はそういう男を描いている。若いころ、この本にすっかり釣り込まれて読んだから、電車で降りるはずの駅を乗り越した。
 家族のためというなら、それは生きるためというより、食うため、食わせるためじゃないか。食うのは生きるためで、それなら生きるのは、食うためではない。
 そんなこというけど、あたしゃ貧乏人だし、社会的地位もない。金と名誉と権力には縁がない。自分ではそう思っている人も、じつは金・名誉・権力の例外ではない。そういう意見もある。貧乏人の子だくさんとは、そのことだという。それを説明する。
 突き詰めれば、人間の欲は権力欲である。気に入ろうが、気に入るまいが、とりあえずここではそう考えることにする。金があれば、それなりに「思うようにできる」。名誉があれば、それなりに人を「思うようにできる」。ともあれ他人が自分の意見に耳を傾けてくれるに違いないからである。権力があれば、むろんのことである。
 貧乏人はどうか。どれもない。ところが一つ、残された手段がある。子どもである。子どもにとっては、親は絶対者に近い。父親が変人で、子ども嫌いだったため、赤ん坊のときから中学生の年齢になるまで、一部屋に閉じ込められ、縛られていた子どもがあった。その子はそれでも後に「母が恋しい」と書いた。すべての権力に縁がないなら、人は子どもをつくる。だから貧乏人の子だくさんなのだ、と。
 その欲、権力の欲を去れと説いたはずの人を私は一人だけ、知っているような気がする。釈迦である。だから私は釈迦が好きなのである。そりゃ誤解だといわれるかもしれない。そうかもしれないが、ともかくそうだと思うことにしている。
 べつに私は仏教徒ではない。でも外国の書類に宗教を書くときは、仏教徒と書く。そう書いたところで、信じる教義を訊かれることはない。でも仮に訊かれたとしたら、「欲を去れ」だという。そう聞きましたという。如是我聞である。
 欲を去ったら、人生の目的がないじゃないか。そのとおりである。だからといって、欲をかいていい。そういう結論にはならない。この「欲をかく」は、欲を欠くではない。徹底的に欲望するという俗語である。
 他方、欲を欠いたら、たしかに人生は灰色である。しかし欲は中庸でよろしい。理屈が中庸なのではない。中庸なのは欲である。理屈を中庸にすると、理屈が役に立たない。このあたりは高級な議論だから、短くては納得しない人もいるかもしれない。でも説明が面倒くさい。
 人はなにごとであれ、思うようにしようとする。それは人の癖だから、どうしようもない。そういうものだと心得ておくしかない。それを説くのが仏教だと、私は勝手に信じている。他の宗教はそれをいわない。いわないと思う。むしろ徹底的にやれという。宗教を信じること自体についても徹底を要求する。
 容赦がない
 自爆テロを見ても、それに反対してテロ撲滅に動く人を見ても、そう思う。相手を殺しても、逆に自分が死んでも、ともかく「思うように」しようとする。もう勘弁してよと、体力のなくなってきた老人は思うが、容赦がない。
 容赦という言葉は、西洋語やアラビア語になるんだろうか。魯迅だって、「水に落ちた犬を打て」と書いていたはずである。
「世界はイヤなところだと思え」。そう書いていたのは関川夏央氏である。こういう点では、私もそう思う。いまでは世界は人間でできているというしかない。その人間の悪いところを無限に拡大するようなことは、勘弁してほしいと思う。でもそうはいかないといいつつ、欲望は無限に増大するように見える。やっぱりお釈迦様は偉い。
〈 「打つ手は思いつかない」養老孟司(86)が「自殺する若者が絶えない日本」の現状について思うこと 〉へ続く
(養老 孟司/Webオリジナル(外部転載))
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 11月19日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「打つ手は思いつかない」養老孟司(86)が「自殺する若者が絶えない日本」の現状について思うこと
 日本の知性・養老孟司さんが自殺する若者が絶えない現状について思うこととは? ©文藝春秋
 〈「自爆テロを見ても、容赦がない」日本の知性・養老孟司(86)がどんな宗教よりも「仏教」を信頼する理由〉 から続く
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 「若者が死にたがる理由は複雑であろう。とりあえず打つ手は思いつかない」
 十代から三十代までの日本の若者の死因のトップが自殺…そんな現状を知った養老孟司さんは何を思ったのか? 日本を代表する知性・養老さんの過去20年間に執筆したエッセイを選りすぐった新刊『 生きるとはどういうことか 』(筑摩書房)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/ 前編 を読む)
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 ベストセラー『バカの壁』はなぜ売れたか
 自分の人生がほぼ尽きてしまった状態で、なにを言い、なにをすればいいのか。私の恩師は旧制一高の同窓会に出た後、話題は病気と孫と勲章だけだ、と言っておられた。爺さんの話題はその辺に尽きるらしい。
 もう一つ。マンガ「ショージ君」の東海林さんが、年寄りの話はほぼ自慢話だと思う、と言われたのが気になっている。病気、孫、勲章に加えて自慢話を排除すると、年寄りにはなにか語ることがあるだろうか。
 令和3年の暮から4年の2月までに、自著6冊が出版された。多過ぎやしないかと思うが、出版社の都合でたまたまそうなったので、私が鋭意努力したわけではない。ひとりでにそうなってしまったのである。人生を振り返ってみると「ひとりでにそうなった」「いつの間にかそうなっていた」ことが多いように思う。断固自分の意志でやったことも当然あるが、ほぼ失敗している。自著が多く出たのも、『バカの壁』(新潮新書)の発行部数が昨年末に450万部を超えたということが契機になったのかもしれない。本が売れたのは、間違いなく私のせいじゃない。なにかの都合で売れてしまったから、仕方がないのである。
 どうして売れたか、ときどき訊かれる。はかばかしい返事ができるわけがない。それがわかっていれば、どこの出版社も困らないはずだからである。
 日常何をしているかというなら、捕まえた虫、もらった虫、買い求めた虫を標本にしている。
 これが楽しくてやめられない。なにが楽しいのか、疑問に思う人も多いだろうと思う。子どものころから好きでやっていたことだから、母親にも年中訊かれた。「虫ばかりいじって、何が面白いの」。これにも返答のしようがない。
 虫をいじっていれば、人に会うこともない。コロナ下であっても、いつもと変わりはない。ウクライナ問題で、世間は騒いでいるが、ウクライナの虫好きが採ったゾウムシが千頭あまり、いま私の手元にある。知人がネット上で売っているのに気が付いて、私のために買ってくれたのである。これを標本にするのが楽しくてしょうがない。いままで図版でしか見たことがない虫、あるいは想像したこともない虫の現物を手にしていると、ほとんど至福の境地である。
 現地ではごく普通種で良く知られた虫であっても、私が知らなかったら、発見である。発見とは本来そういうことだと思う。世間に知られていなかった種類、いわゆる新種を見つけることも多いが、それより自分が知らなかった虫を知ることが楽しいのである。発見とは常に自分に関することだというのは、当たり前であろう。自分が無知であるほど、発見の可能性は高い。
 八十代の半ばになって、自分の人生を振り返る。要するに成り行きと発見の連続ではなかったかと思う。成り行きまかせにしておいても、発見だけはある。発見の機会は向こうからやってくる。アメリカ人のように、人生は自分の選択の連続だなどと思ったことはない。それどころか、選択なんてしたくない。人生の暮になって思う。「何事もあなた任せの年の暮」状態だなあ。
 こういう考えだから、若者の前で話をさせられると、言うことに窮する。若者はとりあえず「自分」を立てなければならない。それを「自立」という。今では自立というと、給料を稼いで、親から小遣いを貰わないことだと解釈される可能性が高い。そう考える傾向も世間の成り行きだからやむを得ない。人生の全体を通じる一言なんか、あるはずがないのである。若者には若者の、爺さんには爺さんの考えがあり、立場がある。
 人生は一期一会の連続
 生まれてから死ぬまでの一貫した人生、そんな抽象的な、高級なものは私にはない。いまなら百歳にも達しようという「人生」の紆余曲折を、一言で片づけるほど、情報化というのは乱暴なものである。私の人生はまさに一期一会の連続でしかない。
 この年齢になると、知人が亡くなることが増える。最後はいつ会ったかなと思うと、意外に遠い過去だったりすることが多い。昨日はNHKの仕事で、鎌倉の小林秀雄の旧宅で、現在の家主、茂木健一郎君に会った。小林秀雄が座っていたという椅子に座って、偉そうにしてしゃべっていると、本当に偉くなったような気がする。高校生のころ、鎌倉市内の本屋で小林秀雄を見かけた覚えがある。要するに白髪の爺さんだった。直接に口をきいたことはない。そのたたずまいがよほど印象的だったのであろう。今でもその一度の邂逅を記憶しているくらいである。
 当時私の住んでいた家は、大佛次郎の家の近所だったから、よく猫を見かけた。大佛さん自身は見たことがない。大佛さんが猫好きだということが知れ渡っていて、子猫が生まれると、大佛さんの家の近くに捨てに来る人がいるという噂だった。茂木君が「養老さんも鎌倉文士じゃないですか」という。私は「文士」だなんて思ったこともない。ただある程度の雰囲気は知っていると思う。
 小学生のころ、開業医だった母の往診になぜかついて行って、小島政二郎の家に行ったことがある。妙本寺という寺の山門の先の右の山手の坂を上った突き当りだった。小林秀雄の旧宅と場所は離れているが、山の中腹にあって、似た感じのたたずまいである。現在の私の家も似たような環境にある。芥川龍之介や里見弴の住んだのは平地で、鎌倉でももっと人家が多く、より賑やかな市街地だった。以前、大分の三浦梅園の旧宅に行ったことがあるが、やはり小林邸と似たような場所にあった。里山の中腹で小さな谷間を見下ろす位置である。
 小林秀雄の旧宅からは、市街地を超えて海が見える。水平線が凸凹しているのは、私の目のせいである。三日前に東大病院の眼科に行った。右の目がダメだということがしっかり判明した。子どものころから、右目がよく見えていなかった。双眼の実体顕微鏡を使っても、片目しか使わないから双眼の意味がない。望遠鏡やオペラグラスも同じ。立体視ができないのである。
 そういえば、若い時から立体視が苦手だったなあと思い当たる。今頃わかっても打つ手がないが、これも人生の「仕方がない」のうちであろう。
 現代人は「仕方がない」が苦手である。何事も思うようになると、なんとなく思っている風情である。コロナに関する議論をテレビで聞いていると、しみじみそう思う。ああすればよかったじゃないか、こうすればいいだろう。ほとんどの人が沈む夕日を扇で招き上げたという平清盛みたいになっている。「ああすれば、こうなる」というのは、いわゆるシミュレーションで、ヒトの意識がもっとも得意とする能力である。それがAIの発達を生んだ。これは右に述べてきたような私の人生観と合わない。
 私の人生観なんか、どうでもいいが、世間がシミュレーション全盛の方向に進んでいくときに、人生をどう送ればいいのか。その世界では私の人生はおそらくノイズであり、それならどれだけのノイズが許容される世界なのかが問題となる。
 そんなことを考えていると、それも一種のシミュレーションじゃないかと思い、面倒くさいなあ、AIに考えてもらいたい、と思ったりする。やっぱり話はいまではAIに尽きるのである。
 日本の若者の死因のトップは「自殺」
 「人生論」などというヘンな主題になったのは、NHKの仕事がらみで、子どもの質問に答えるというのを引き受けたからで、十歳の小学生が「良い人生とは」という質問をしてきたのである。
 もう一つは十代から三十代までの日本の若者の死因のトップが自殺だと知ったからである。人生ではなくて、「生き方」の問題だろうと、とりあえず回答したが、「生き方」の指南は私の仕事ではない。古来から宗教家の仕事に決まっている。宗教は衰退しているといわれるが、AIが宗教に変わったという意見もある。未来をもっぱらAIに託すからであろう。AIは碁将棋に勝つだけではない。なんにでも勝つのである。
 自殺が多いのは、人生指南のニーズが高いであろうことを示唆している。日本でいうなら、コンビニより多いとされるお寺の前途は洋々である。若者が死にたがる理由は複雑であろう。とりあえず打つ手は思いつかない。
 養老 孟司/Webオリジナル(外部転載)
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