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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
島原・天草一揆は、ヨーロッパの新教対旧教の宗教戦争と繋がっていた。
原城に籠城した一揆勢は、ポルトガルに援軍を要請し、ポルトガル艦隊が来援するまで頑強に抵抗していた。
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国際機関ユネスコは、日本に於ける非人道的キリシタン弾圧の証拠として島原・天草の一揆の遺構を世界遺産に認定した。
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日本の歴史において、キリスト教史観もマルクス主義(共産主義)史観も通用しない。
つまり、明治期導入された西洋の近代的歴史学はもとより、戦後日本に押し付けられた反戦平和の現代歴史学では日本民族日本人の歴史は理解できない。
勿論、中華世界(中国・朝鮮)の儒教史観も無用の長物である。
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日本は日本であり、世界は世界であった。
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世界史的に、日本民族日本人はアフリカ人同様に奴隷として売買されていた。
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隆慶一郎「キリシタン武士のいくさぶりは凄まじいものがあった。嘗(かつ)ての一向門徒を思わせる、死を欣求(ごんぐ)するように突進につぐ突進だった。周知のようにカトリックは掟として自殺を禁じている。だがこの自殺こそ、武士の誇りを守るための最後の手段である。その手段を禁じられ、しかもキリシタンとして生きてゆくことを否定されたこれからの武士たちにとって、残された道は殉教か戦闘中に死ぬか、2つに1つが確実に『ぱらいそ(天国)』へ行ける道だったのである。勇猛果敢になって当然だった」
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2018年11月号 歴史街道「島原の乱と天草四郎
宗教弾圧、領主からの苛政・・・。
寛永14年(1637)10月。
九州は島原・天草の農民たちが、1人の少年を主導者として、立ち上がった。
なぜ彼らは、戦わなければならなかったのか。
そしてその戦いには、どんな意味があったのか──。
Q&A 知っているようでしらない『原因』『経過』『影響』 大橋幸泰
そもそも『島原の乱』という呼び方は正しいのか。
どうして、この地域で勃発したのか。
宗教戦争だったのか、それとも領主への抵抗だったのか。
天草四郎の実体はどこまでわかっているのか。
後世にどんな影響があったのか──。
最新の研究成果を元に、真実に迫る!
Q 島原の乱は『島原天草一揆』とも言われますが、どちらが正しいのでしょうか?
私は、いわゆる『島原の乱』のことを正しく認識するために、『島原天草一揆』と読んでいます。
寛永14年(1637)に肥前国島原半島および肥後国天草島で起こった、およそ3万人のキリシタンの農民たちによる武装蜂起。
しかし、これを『島原の乱』と言ってしまうと、二つの問題が出てきます。
まず一つは、この武装蜂起が、島原だけでなく天草地域でも起こっている、『天草』の地名を入れないといけないという点。
そしてもう一つは、『乱』という言い方です。『乱』という表現には『内乱』という意味と、『秩序を乱す』といった意味があります。
特に後者には、『事件を起こした側に非がある』という意味が込められており、客観的な見方とは言えません。
つまり『島原の乱』では、秩序を乱す側に非があるという、権力者側の目線で事件を捉(とら)えていることになるのです。
事件の名称として『島原の乱』の呼称が初めて使用されたのは、明治23年(1890)12月発行の『史学会雑誌』13号に掲載された、磯田良著『島原乱』からと思われます。
明治期以降、『島原の乱』の名称が広く使われてきましたが、実はそれ以前には使用されていなかったのです。
史料を調べてみると、江戸時代では『島原の一揆』『天草の一揆』と、『一揆』という言葉が使われています。従って、本稿においても、この武装蜂起の名称を『島原天草一揆』と統一していきます。
Q 幕府軍が苦戦したとも言われますが、一揆はどのような経緯を辿(たど)ったのでしょうか?
この一揆は前述したように、島原と天草で起こりました。
島原藩では、藩主・松倉勝家によるキリシタンの弾圧、そして苛政に対抗するため、寛永14年、老若男女を含めた一揆勢が立ち上がりました。天草四郎という少年を主導者に据(す)えて、島原城に進撃しようとします。
その勢いはすさまじく、一揆はまたたくまに領内全体へ拡大、隣の天草へも飛び火しました。天草は唐津藩の領地です。
一揆勢は島原城を攻めきることができず、天草四郎とその一部は長崎へ向かおうとします。その道中、唐津藩の援軍が天草に派遣されるとの情報をつかみ、行き先を天草へと変更。天草にいる一揆勢と合流して、富岡城を攻めました。
しかし、ここでも富岡城を落とすことができず、一揆勢は一時撤退します。
一方、一揆の知らせを受けた幕府は援軍を編成し、板倉重昌を上使(じょうし)として派遣します。この幕府の動きを受けて、島原・天草の近隣諸藩、佐賀藩・久留米藩・柳川藩・熊本藩らも出兵。
幕府軍が派遣されることを知り、追い詰められた一揆勢は島原半島南部にある廃城、原城に立て籠もりました。ここから籠城戦が始まります。
援軍の多さから、幕府はすぐに収束させられると考えていましたが、一揆勢は思いのほか強硬でした。
寛永15年(1638)元日、幕府軍は総攻撃をかけましたが、一揆勢に敗れ、板倉重昌は討ち死にします。そして本来、戦後処理の上使として派遣された『智恵伊豆』こと松平信綱が、幕府軍の総指揮をとることになるのです。
正月4日、松平信綱は総勢12万人余りの軍勢で、原城を取り囲み、兵糧(ひょうろう)攻めを始めました。その間、何度も一揆勢と矢文(やぶみ)によるやりとりを繰り返すなど、鎮圧にためにさまざまな方法が模索されました。
そして2月27日、ついに一揆勢の食糧が尽きたところに、幕府軍は総攻撃を仕掛けました。一揆勢の多くが惨殺され、暴動は終結します。日本史上、最大規模の一揆でした。
Q そもそも何が原因で、この地域で一揆が起こったのでしょうか?
まず、背景を知る上で、一揆にいたる概略を時系列で追っていくことにしましょう。
慶長17年(1612)、幕府はキリスト教を禁止するために禁教令を発します。
これにより、各地でキリシタンに対する激しい弾圧が展開されていきました。
一揆の舞台となる島原・天草地域を、慶応5年(1600)の関ヶ原合戦以前に治めていたのは、有馬晴信(島原)と小西行長(天草)です。2人とも熱心なキリシタンだったことから、領民の多くもキリシタンでした。
島原・天草地域でも厳しい弾圧が行われた結果、寛永10年(1633)頃には、棄教が完了します。
しかし、これはあくまで表向きのことで、棄教した者の中には、表面上は仏教徒を装(よそお)いつつ、地下活動としてキリシタン信仰を続ける潜伏者(せんぷくしゃ)も多いのが実情でした。
そうした中、島原の領主・松倉勝重、天草の領主・寺沢堅高による苛政が、農民たちに大きな負担として圧(お)しかかりました。
松倉勝家は、初代藩主の父・重政の時代から続いていた過酷な収奪を、さらに推し進めて領民たちを苦しめました。
年貢の納め具合が悪いところへは、厳しい催促が行われたうえ、上方へ送る300石の米を積んだ船が破損した分も、農民が負担しなければならなかった、と熊本藩士の佐方少左衛門が同藩家老に送った書状が残されています。
さらに督促するために、納めることのできない者に対して、家族内の女子(母や妻子)に水攻めの拷問をかけます。中には、妊娠中の女性を水牢に入れて拷問死させた、という記述もあります。
天草の寺田堅高もまた、松倉勝家ほどの虐政とはいかないまでも、先代から続いた苛政をさらに厳しいものにし、領民に大きな負担を与えていました。
こうした所業は、それまでに宗教弾圧によって農民たちの間に蓄積されていた不満に、さらに拍車をかけました。
そして寛永14年10月、『かつさじゆわん(加津佐寿庵)』の署名で、キリシタン信仰を促す廻文(かいぶん)が出回ります。
浪人たちは天草四郎と呼ばれる少年を『天人(てんにん)』として、キリシタンの集結を呼びかけました。その結果、集まった人々は再びキリシタンに立ち帰り、信仰活動を展開。領主に対抗しようと武装蜂起に至ったわけです。
Q 結局のところ、宗教戦争だったのでしょうか、領主への抵抗だったのでしょうか?
一連の騒動がキリスト教信仰の回復を目指す宗教戦争なのか、それとも領主の苛政に抵抗する武装蜂起なのか、と問われることがありますが、どちらの側面も持っていたと位置づけるべきでしょう。
そもそもなぜ二つの見方がなされるのかという点に、実はさまざまな思惑があります。
キリシタン弾圧は、幕府が取り決めた制度でした。つまり、島原天草一揆を宗教戦争と位置づけると、彼らの本当の敵は幕府ということになります。
一方、これを領主の苛政への反発だとすると、彼らの敵は松倉勝家・寺沢堅高ということになります。
一揆が起こってから終息するまで、幕府はこの事件をキリシタン一揆と認識していました。島原藩の家老が熊本藩に送った援軍要請のための書状に、『百姓共きりしたん我二立ちあたり』と記しています。
これは、一揆勢が全員キリシタンであれば、禁教令により徹底的に消滅させるべき対象なので好都合、との思惑もありました。
しかし、一揆の後になると一変して、幕府の記録には領主の苛政を原因とする記述が多くなります。一揆の原因がキリシタン弾圧で、ゆえに幕府の責任だったものを、領主の責任に転嫁しようとしたのでしょう。
そう考えると、松倉勝家が最終的に責任を問われ、切腹ではなく斬首刑に処せられたという、当時としては前代未聞の刑罰を与えられたことにも合点(がてん)が行きます。
ではこの問題の本質はキリシタン弾圧にあるのかというと、それも違います。籠城戦をしている一揆勢が、幕府軍に宛(あ)てた矢文の中に、キリシタン弾圧のことだけでなく、領主苛政を糾弾する矢文も存在するからです。
史料の中には、改変されたものもあるとの疑いは残っていますが、信憑性の高い史料もあり、一揆勢には両方の側面があったと考えるべきです。
もともと宗教的な弾圧があって、そこに領主による苛政が合わさったということではないでしょうか。
Q 奇跡を起こしたという天草四郎の正体は、どこまでわかっているでしょうか?
……
従って、彼が自分の意志で主導したのかは不明です。ただ、四郎という、カリスマ性を持つ16歳の少年は、確かに存在したと思われます。
……
Q この一揆は、その後の社会にどんな影響を与えたのでしょうか?
島原天草一揆は江戸時代を通じて人々の記憶に残りました。
江戸時代には一揆は多発しているというイメージがあるかもしれませんが、島原天草一揆後に『一揆』と呼ばれるものはほとんどありません。
たとえ農民による強訴(ごうそ)が起きたとしても、農民側も権力者側も『一揆』と認めませんでした。認めてしまうと、『島原天草一揆と同等のものだ』と見なされてしまうからです。
島原天草一揆の?末(てんまつ)として、苛政をを行った松倉勝家に斬首刑という重い刑罰が下されたことから、その後の領主たちは、自分の領地で起こっている民衆運動を『一揆』と認めませんでした。松倉や寺沢と同じように見られることを恐れていたのです。そのため、むやみに年貢を領民に要求することはできなくなりました。
一方の農民側も、領主に対する反発運動を『一揆』と認めませんでした。
百姓たちにとって『一揆』とは、島原天草一揆を連想させるものでした。『秩序を乱す罪人』として成敗(せいばい)された一揆勢と同じではないと主張したかったのでしょう。
つまり、島原天草一揆以降、『一揆』という言葉はタブー視されたのです。
この事件は、一揆の規模としては過去最大というだけあって、人々に与えたインパクトも強烈だったのです。
また、この『タブー視』は、キリシタンに対するマイナス印象にも繋がりました。
江戸時代の人たちには、『キリシタン=秩序を乱す者』との認識が植えつけられ、本来のキリシタンの教えや活動とは乖離(かいり)していきます。
江戸時代の史料には、秩序が乱れることを『島原のようだ』と表現した文言がよく出てきます。秩序を維持するために、最悪の事例として、人々はこの事件を引き合いに出したのです。
およそ3万人の一揆勢が、ほぼ皆殺しとなった島原天草一揆。
後世への影響はあまりに大きく、その痕跡は残り続けたのです。
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島原天草一揆 年表
……
寛永15年(1638)3月12日 松倉勝家、改易。寺沢堅高は天草4万石を召し上げられた。
7月19日 松倉勝家、斬首。
正保4年(1647)11月18日 寺沢堅高、江戸藩邸で自害。
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それは、世界的な反ローマ・カトリック教会戦争の一環だった。 荒山徹
島原の乱を世界史のスケールで再考すると、何が見えてくるのか──。
カトリックとプロテスタンの対立は最高潮に達し、ドイツでの30年戦争のさなかに、さの乱は起こったのだ。
島原の乱の本質は『代理戦争』である。
ローマ・カトリック教会を進行上の後ろ盾とする島原・天草のカトリック教徒と、島原藩の武力抗争に、島原藩を傘下におく上部組織の江戸幕府が直接介入した──という形での代理戦争だ。これを単純化すれば、ローマ・カトリック教会VS江戸幕府という図式になる。
当時、ローマ・カトリック教会と事を構えたのは江戸幕府だけではなかった。16、17世紀の両世紀、ローマ・カトリック教会と対抗勢力との熾烈な戦争は、国際的な共時現象であったとさえ言えるのである。
世界史のスケールで島原の乱を再考してみよう。
不寛容なカトリックが極東の島国に乗り込んできた
16世紀半ばの日本にもたらされたキリスト教は、カトリックだった。カトリックとはローマ法王を首長と仰ぐローマ・カトリック教会のキリスト教である。
普遍的、世界的、全体的を意味するギリシャ語カソリコスが語源のカトリックを自称するということは、自分たちこそ正統であるとの自己主張にほかならない。
事実、ローマ・カトリック教会は数多(あまた)の神学論争を通しグノーシス派、マルキオン派、モンタノス派、アリウス(アレイオス)派、アレクサンドリア派などに異端の烙印を押し、対抗勢力を次々と排除していった。
その一方で、ゲルマン民族のフランク王国、神聖ローマ帝国という世俗の権力と結託し、ついには西ヨーロッパの宗教的覇権を一手に握るに到る。今ふうに言えば、カトリック一強である。
ローマ・カトリック教会は他宗に対し、極めて不寛容だった。異端を許さず、その撲滅殲滅(ぼくめつせんめつ)のためなら戦争も厭わない。
有名な例がローマ法王ウルバヌス2世の提唱で始まったエルサレム、〝侵略〟戦争、すなわち十字軍であり、インノケンティウス3世の命で発動した、異端カタリ派根絶のためのアルビジョワ十字軍だ。
また法王ルキウス3世は異端審問を制度化し、異端者に拷問、財産没収、火刑(かけい)などの残虐な刑罰を科した。ユダヤ教、イスラム教などの異教徒たちは容赦なく迫害され亜。
ローマ・カトリック教会を批判した英国のジョン・ウィクリフは遺骸を掘り起こされて火をかけられる。ボヘミアではプラハ大学の総長だったヤン・フスが行きながら火あぶりにされ、フスの信奉者たちを弾圧すべく対フス十字軍が組織される。
法王アレクサンデル6世は、教会改革を唱えたイタリアのドミニク会修道士ジロラモ・サヴォナローラを火刑に処した。
一方でローマ・カトリック教会は、それを買えば罪は帳消しになるという贖宥状(しょくゆうじょう)を大々的に売り捌き、サン・ピエトロ大聖堂改築の資金稼ぎに邁進してもいた。
こにようなカトリックが、天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、法華宗、時宗などの仏教諸派や神道がゆるやかに共存し、混淆(こんこう)さえする極東の島国に乗り込んできたのである。
ヨーロッパで起きていた地殻変動ともいうべき大変化
そもそもカトリックは、なぜ日本に来たのか。1517年に始まったマルティン・ルターの宗教改革に淵源(えんげん)する。
強烈に批判するルターらプロテスタント(新教)の活動に脅威を感じたローマ・カトリック教会は、対抗宗教改革を展開し、その一翼を担ったのがイグナチウス・デ・ロヨラにより組織され、法王への絶対服従を誓うイエズス会である。
イエズス会はルター派への巻き返しのため、強力な布教活動を旨(むね)とした。
フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して日本にカトリック(旧教)を伝えるのは、イエズス会創立からわずか15年後、1549年のことだが、そのとき既(すで)にヨーロッパでは、対ローマ・カトリック教会戦争の幕が切って落とされていた。
ルター派の農民たちによる蜂起、世に云うドイツ農民戦争(1524〜5)がその嚆矢(こうし)である。
イギリスでは、ヘンリ8世がローマ・カトリック教会との絶縁して新教に転向、国王が首長を兼ねる形態のイギリス国教会を創設する。
熱烈なカトリック教徒のスペイン国王フェリペ2世が無敵艦隊を派遣するも、ヘンリ8世の娘エリザベス1世のイギリス海軍によって大敗を喫(きっ)し、世界の覇権がスペインからイギリスに移る端緒となる。
フランスでは、旧教と新教の武力衝突がユグノー戦争(1562〜98年)と呼ばれる大規模な宗教内乱にまで発展し、サン・バルテミルの虐殺、国王アンリ2世の暗殺を経て、ヴァロワ朝の断絶を招き、ブルボン朝への王朝交替が引き起こされる。
要するに、ヨーロッパでは地殻変動ともいうべき大変化が起きていたのである。
極東の島国日本は、そんなこととはつゆ知らない。情報弱者の織田信長がフロイスに布教を許すのは、マニラがスペインに占領される、わずか2年前のことだ(フィリピンという国名はフェリペ2世に因{ちな}む)。
ローマ・カトリック教会のエージェントである宣教師たちにとって、『カトリック一強』の地日本での布教は、『濡れ手に粟のぶったくり』も同然だったろう。
だが血は争えないというべきか、宣教師たちは次第に馬脚(ばきゃく)を露(あら)わす。
寺社を破却(はきゃく)し、仏像を焼いたのは不寛容の伝統の発揮に違いなく、カトリック国のポルトガル人によって、多くの日本人が海外に奴隷として売り飛ばされていた人身売買への関与も、異端者を残虐に扱ってきた慣習ゆえであろう。
エリザベス女王がスペインのカトリック艦隊を撃滅する前年の1587年(天正15年)、豊臣秀吉が発令した『伴天連追放令』により極東の島国日本は、ようやく反ローマ・カトリック教会という世界の趨勢(すうせい)に追いつく。ルターの贖宥状批判『95箇条の論題』発表から、70年のタイム。ラグで。
さらには、土佐に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員が、スペインの日本征服計画を全面自供したころで、ローマ・カトリック教会宣教師たちの布教が、その手引きであったと知った秀吉は、長崎で宣教師ペドロ・バプティスタら26人を処刑する。
十字架上の宣教師たちは、自分たちの教会が異教徒を異教徒であるとうただそれだけの理由で迫害、弾圧、火刑にしてきた歴史に思いを馳せたろうか──。
豊臣秀吉に続いて徳川家康もカトリック教に『否(いな)』を
翌年、太閤秀吉死去。その反ローマ・カトリック教会の遺志は徳川家康が全面的に受け継いだ。
関ヶ原合戦の年(1600年〈慶長5年〉)、豊後臼杵(うすき)湾にオランダ船リーフデ号が漂着する。カトリックのスペインに独立戦争を挑んでいたオランダは、プロテスタントの国である。
乗組員のウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンらから綿密な聴取(ちょうしゅ)が行われ、正確な世界情勢──宗教改革、現在進行形であるローマ・カトリック教会とプロテスタントとの戦いは、ついに日本の覇者家康の知るところとなった。
江戸幕府が全国的に禁教令を出すのは、1613年(慶長18年)のことである。
カトリック以外に信教の自由を認めず、諸宗派の共存も認めないローマ・カトリック教会に対し、ヨーロッパでルターらが『否(いな)』の声をあげた。
それと同じで、日本においても秀吉が、家康が、ローマ・カトリック教会に対し『否』の声をあげたわけである。
江戸幕府による全国禁教令の6年後、ヨーロッパではカトリックとプロテスタントの対立が最高潮に達し、長期に及ぶ戦争を繰り広げる。
諸国が続々と参戦したその規模と、戦乱の主要舞台となったドイツの人口がほぼ半減したという惨禍(さんか)からして、欧州大戦、第ゼロ世界大戦と形容するのに相応しい『30年戦争』である。
奇(く)しくも、島原の乱は30年戦争のさなかの出来事なのだ。
プロテスタント国のオランダ船が、カトリック教徒のこもる原城を砲撃した一幕は、島原の乱が国際的なローマ・カトリック教会戦争の一環であることを、鮮やかに象徴するものである」
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日本で宗教戦争・宗教紛争・宗教暴動が起きなかったのは、織田信長の比叡山焼き討ちや一向宗(浄土真宗)との本願寺合戦ではなく、徳川家康・江戸幕府による島原天草一揆鎮圧、キリシタン弾圧、信仰の自由の制限などの強権的宗教統制にあった。
宗教が持っている神聖不可侵の絶対権威を欲得の俗世で薄める事であった。
つまり、宗教権威の上に政治権力を置き、政治・外交・軍事の場から宗教を排除した。
日本仏教が葬式宗教に堕落したのも、日本人が無宗教有神仏論になったのも、徳川家康の陰謀であった。
そして、徳川家康は日本の神、武士の最高神として祀られた。
神仏の権威が世俗で希薄化したために、神を起因とした宗教テロは起きなかった。
そもそも、政治の権力と宗教に権威の上に、超えてはならない天皇の存在があった。
日本で世界的な大虐殺のような社会大崩壊が起きなかったのは、天皇がいたからである。
西洋も東洋・中華も大戦乱と大虐殺の血塗られた「天国と地獄の世界」であったが、日本はその中で例外の「平穏な世界」であった。
それが、万世一系の男系天皇(直系長子相続)の存在である。
それ故に、キリスト教もマルクス主義(共産主義)も天皇制度を廃絶しようとしたのである。
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葬式仏教とは、狂信に染まりやすい宗教から毒気を抜くための選択であった。
庶民と仏教の関係が希薄な為に、庶民は廃仏毀釈で仏教寺院を破棄し仏像を壊し燃やした。
日本の宗教弾圧は、権力者ではなく、庶民が起こしていた。
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個性豊かな白人は、「天国と地獄の世界」で、寸暇の油断もできず、絶えず命を賭けた戦いを繰り返して生きてきた。
個性のない日本民族日本人は、「平穏な世界」で、競っても争う事なく、命の危険もなく生きてきた。
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中世キリスト教会ほど、カトリック教会(旧教)、プロテスタント(新教)に関係なく「神の名」によって不寛容に虐殺を繰り返した宗教は他にない。
その意味で、キリスト教にも血に飢えた悍ましい原理主義者はいた。
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2018年11月号 歴史街道「水戸藩・徳川斉昭が『弘道館』に託した想いとは 永井博
なぜ幕政に関与したのか
……
ところが幕末、異質な御三家の当主が現れました。水戸藩主・徳川斉昭です。彼は、幕政に積極的に関与していきます。
なぜ、斉昭はそうしたのか。
それは、外圧によって日本が、そして幕府が危機的状況に陥(おちい)っていたからでしょう。嘉永6年(1853)にペリーが来航して以降、日本は混迷を深め、幕府の権威は失墜(しっつい)し始めていました。
そんななか斉昭は、将軍家を救おうとしたのです。
将軍家を支えるたに
……
将軍家を支えるためには、今の幕府をどうにかしないといけない。そして何より、将軍家を支える存在として、水戸藩をあらゆる面で強化しないといけない。
そうして考えのもと、斉昭は改革を始めます。
取り組むべき第一の課題は、人事の問題でした。
当時、藩の中には序列があり、執政(しっせい)となれる人材は、家柄の良い、身分の高い者に限られていました。その一方で、たとえ優秀な人材がいても、身分が低ければ引き上げることはできない。
そこで彼は、藩士全体のレベルを上げようとしかす。身分制度に囚(とら)われない教育の場を作ったのです。
そうしてできたのが、『弘道館』です。
弘道館に入学できるのは15歳から。私塾からの推薦が必要です。
ただ、卒業はありませんでした。身分だけでなく、年齢による区切りもなく、1,000人程の藩士が通っていました。
最年長者の記録はありませんが、少なくとも40代の藩士はいたと思われます。
藩に学校をつくった時期は、全国的に見れば決して早くはありません。
しかし、弘道館が独特なのは、文武、つまり学問と武術だけでなく、精神面も含めた総合的な教育を目指した点です。
弘道館には斉昭の書で、『游於藝(げいにあそぶ)』と刻まれた額があります。これは、『論語』の一節より抜粋されたものです。『藝』とは礼(儀礼)、楽(音楽)、射(弓術)、御({ぎょ}馬術)、書(習字)、数(算術)の六芸(りくげい)を指します。『文武にこりかたまらず、悠々(ゆうゆう)と芸をきわめる』という意味です。
藩士がさまざまな教養を身につけられるよう、今でいう総合大学の側面を強調していたわけです。
弘道館と偕楽園(かいらくえん)は対(つい)の存在
こうした斉昭の想いは、弘道館だけでなく、偕楽園にも表れています。
偕楽園は家臣のほかに条件付きで領民にも開放された施設で、心身の保養地としての役割を果たしました。
要するに、弘道館と偕楽園は対になる施設なのです。二つで『一張一弛({いっちょういっし}弓を張ったり、弛めたりすること)』を表わし、弘道館は一張、偕楽園は一弛(ゆる)みに例えられました。
斉昭は、詰め込み式の勉強を好まず、人間としての才能が開花するよう、情操(じょうそう)を重視して藩士たちの教育を行ったのです。
なかでも斉昭が最も大切にしていたのは、精神性でした。そして、その大きな割合を占めるのが宗教です。
外国からの圧力を日に日に感じるなかで、彼が特に脅威だと感じていたのは、キリスト教でした。
欧米諸国がなぜ強いか。それは、キリスト教精神によって統一されているから──。
また、カトリックではローマ法王が『王』と位置づけられます。つまり、日本がキリスト教に染まると、ローマ法王に従わざるを得ない状況となるので、戦わずして易々(やすやす)と侵略を許してしまう。
このキリスト教精神に対抗するためには、日本国内で精神的な支柱を確立しないといけないと、斉昭は神道を水戸藩の主軸に据えました。
ただ、神道は自然崇拝のため、教えが存在しません。そこで、それを補うために起用したのが儒教です。
天保9年(1838)、斉昭の名で公表された『弘道館記』の項目の一つに、『神儒一致(しんじゅいっち)』が示されました。神道と儒教、この二つを教えの中心とするために、弘道館の敷地内には鹿島神宮と孔子廟が配置されています。
これが水戸における学問の最大の特色と言えるでしょう。
徳川慶喜もまた・・・
COLUMN 1
『攘夷の首魁(きょかい)』の悲劇
徳川斉昭は、何においてもコンセプトを立てて道を示す癖がある人物でした。
藩校・弘道館の教育方針をまとめた『弘道館記』の他にも、あらゆるところに自分の考えを知らしめるための石碑を残しています。
自分の考えを文字に起こして掲示する。さらに拓本(たくほん)を作らせて広く配る──斉昭は、発信することをとても意識していたのです。江戸時代を通じて、大名の中では珍しい人種だったと言えます。
また、水戸の藩政改革を、幕政改革のモデルケースにしたいという思いがありましたので、軍事強化や教育、神儒一致の考えなど、水戸藩で実践したものを、幕府に細かく提案してもいます。
彼が発信したものの中でも、最もインパクトがあったのは『攘夷』です。幕府だけでなく、外様大名たちにも手紙を送って、国民の一致団結を図ろうとしました。
ペリーが来航し、開国するか否かが問題となった時、老中・阿部正弘は、開国に反対する攘夷派のカリスマ的存在であった斉昭を登用します。
結局、開国する道を選択しましたが、それによって激化した開国派と攘夷派の争いを収めるため、阿部正弘は堀田正睦に老中首座の座を譲りました。
この時が斉昭にとっても、大きな転換期でした。実は斉昭自身、表向きは強気な発言を続けていても、内心は、条約を結ばざるを得ないだろうと考えていたのです。
しかし、世間が斉昭に期待しているのは、『攘夷』一辺倒で外国と戦う姿でした。水戸だけでなく全国に発信したがゆえに、そうした目で見られてしまったのです。これが斉昭の悲劇ともいえるでしょう。
斉昭は『死ぬまで攘夷の巨魁として貫く』と、福井藩の松平春嶽に対して意思表示をしています。この言葉には、もう引くことはできないと開き直っている節があります。
カリスマ的があったがゆえに、今さら立場を変えることなど、斉昭にはできなかったのです。
COLUMX2
徳川慶喜に引き継がれたもの
徳川斉昭から最後の将軍・徳川慶喜に引き継がれたものの一つに、『尊王思想』があります。しかし慶喜は、父・斉昭とは違うかたちで『尊王思想』を貫きました。
元々、慶喜の尊王思想は、先祖から受け継がれたものに加えて、斉昭の薫陶によって培われたとも言えるでしょう。
幕府が天皇を支える体制として実現する──それが斉昭の尊王思想でした。
ところが慶喜は、将軍後見職(こうけんしょく)としての立場で京都に上がって以降、父以外の影響を受け、徳川幕府という形を捨てて尊王思想を貫こうとします。
その結果が、慶長3年(1867)の大政奉還なのです」
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日本は、常識を持った大人として過去は過去、現代は現代、未来は未来と峻別し、日本人を奴隷として売買した中世キリスト教会と白人キリスト教徒の重罪犯を水に流して、キリシタンを弾圧した事を謝罪し、信仰を守った隠れキリシタンの痕跡を歴史記憶遺産として推薦した。
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5月4日 産経ニュース「「潜伏キリシタン」世界遺産へ 「奄美・沖縄」は登録延期
国宝の大浦天主堂。開国後、潜伏キリシタンが神父に信仰を告白する「信徒発見」の舞台となった=2017年11月、長崎市(奥清博撮影)
【産経新聞号外】潜伏キリシタン 世界遺産へ[PDF]
政府は4日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎県、熊本県)を登録するよう諮問機関が勧告したと発表した。
6月24日から7月4日にバーレーンの首都、マナマで開かれるユネスコ世界遺産委員会で正式決定される見通し。登録されると、日本国内の世界遺産は文化遺産18件、自然遺産4件の計22件となる。
政府は多様な動植物が生息する「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」(鹿児島県、沖縄県)を自然遺産に推薦していたが、ユネスコ諮問機関は登録延期と勧告。今夏の登録は厳しい見通しとなった。
文化遺産への登録勧告があった潜伏キリシタン関連遺産は、現存する国内最古のキリスト教会の国宝「大浦天主堂」(長崎市)や、禁教下で信仰が維持された集落など12の資産で構成。江戸幕府の禁教政策の中、独特の文化的伝統を育んだ歴史を物語る。
政府は平成28年夏の登録を目指し、キリスト教解禁後の教会の建物を中心に、伝来から約400年の経過を示す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として27年1月、ユネスコに推薦。だが、諮問機関から禁教期に焦点を当てるべきだとされ、28年2月に取り下げ、29年2月に新たな推薦書を提出した。
政府は来夏の世界遺産委で、日本最大の「仁徳天皇陵古墳」(堺市)を含む「百舌鳥(もず)・古(ふる)市(いち)古墳群」(大阪府)の文化遺産登録を目指す。」」
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5月7日 産経ニュース「菅義偉官房長官「地元の努力と遺産の価値認められた」 潜伏キリシタン世界遺産
国宝の大浦天主堂。開国後、潜伏キリシタンが神父に信仰を告白する「信徒発見」の舞台となった=2017年11月、長崎市(奥清博撮影)
菅義偉官房長官は7日午前の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)諮問機関が世界文化遺産に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎県、熊本県)を登録するよう勧告した件を歓迎した。菅氏は「地元の皆様の努力と本件遺産の世界遺産としての価値が認められた。勧告通り本年夏の委員会で登録されるよう、政府として全力を尽くしていく」と述べた。
一方、自然遺産候補「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」(鹿児島県、沖縄県)の登録延期勧告に関しては、「大変残念な結果だが、世界遺産の可能性を有していることや、保護管理の状況について評価は得られた」と指摘した。」
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国家の滅亡や民族の死滅は、強大な外敵による侵略と虐殺ではなく、内部からの崩壊による。
歴史が証明する通り、強大な敵が現れると、自分の利益や生命財産を守る為に敵に味方して同胞を裏切る売国奴が「必ず」現れる。
彼らは、必ず、「命は大事」や「平和に優るものはない」と訴える。
それは、日本国、日本民族とて例外ではなかった。
その代表的存在が、宗教としてのキリスト教であり、主義主張としての共産主義(マルクス主義)であった。
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頑迷固陋で融通が利かない西洋礼賛主義の日本人は、白人至上の人種差別主義者として日本民族の悉くを否定する。
そうした日本人は、全ての事、歴史全般を知り、そして正しく理解している。
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いい日本人は1割、わるい日本人は3割、中間の優柔不断・付和雷同する日本人が6割。
いい日本人は、減る事はあっても増える事はなかった。
わるい日本人は、増える事はあっても減る事はなかった。
日本人の本性は、薄情で、冷酷で、非情で、冷血、残酷である。
弱い者イジメをする事に快感・悦びを持って陶酔し、その結果、相手が自殺しようとも意に介さず、反省も後悔もしない。
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中世キリスト教会にとって、いい日本人は隣人愛の信仰を受け入れて改宗した日本人であり、中間の優柔不断・付和雷同する日本人とは迷える子羊で絶対神の御言葉・御教え・福音で正しい道を示し神の御国に導かねばならない哀れな日本人であり、悪い日本人とは容赦なく生きた焼き殺さねばならない悪魔教徒・異教徒の日本人であった。
日本全国をキリスト教国に生まれ変わらせて異教国日本を地上から消滅させる。
九州を地域的キリスト教王国として建国させて異教国日本から分離独立させる。
長崎を教皇領として軍港要塞として異教国日本から分離独立させる。
それが、ローマ・カトリック教会やイエズス会のキリスト教原理主義者が目指した「神聖な使命」であった。
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異教国日本を滅ぼそうというキリスト教原理主義者のドス黒い野望を打ち砕き日本を救ったのは、国際感覚を持った「徳川家康の戦略」であった。
故に、徳川幕府におけるキリシタン弾圧とは、個人の権利である信仰の自由を巡る戦いではなく日本民族の国・宗教・伝統・文化を外敵から死守しようとした宗教戦争であった。
日本は、キリスト教による宗教侵略を受けた被害国であった。
その代表例が、日本人奴隷交易である。
日本の戦争は、古代から戦前まで全て自分と国を護ろうとした自衛戦争であった。
だが、世界から見れば自国本位の戦争犯罪でしかない。
そのキリスト教による宗教侵略の恐怖が、幕末の動乱を引き起こし、約40年でナポレオンを破ったロシア帝国に勝利する近代的軍事国家を築き上げた。
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日本国内はもちろんせかいにおいても、中世キリスト教会・白人キリスト教徒商人による非人道的日本人奴隷交易は不問に付され、合法的取引として問題とはされていない。
日本民族日本人とは、世界的に金で売買される奴隷民族であった。
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日本の歴史において、日本国の変革や日本民族日本人の進歩・発展は、教養・知識・経験・分別などがある中高年の大人ではなく、知識や教養が少なく経験の乏しい無鉄砲な10代20代30代の少年や青年たちが引き起こす。
日本の未来は、少年や青年たちに懸かっている。
日本の常識は、未来に生きられない大人は未来を生きる少年や青年たちに道を開ける事である。
大人の常識である中華儒教や中世キリスト教は、少年や青年たちを重視する日本の常識を否定した。
日本の物語や小説の多くでは、主人公・正義は少年や青年たちで、敵役・悪役・悪党は大人たちである。
そして、日本の最高神は女性神の天照大神(天皇家・皇室の祖先神)である。
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徳川家康と徳川幕府は、排他的不寛容な宗教が神聖権威を振り回して俗事の政治に干渉する事に嫌悪感を持ち、軍事力と経済力を持つ事に恐怖心を抱いた。
日本に於ける宗教弾圧は、宗教に対する嫌悪感と恐怖心から起きている。
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徳川幕府は、信仰の自由や人権を無視してまでもキリシタンを徹底弾圧した。
現代日本は、信仰の自由と人権の尊重から重犯罪である化学兵器テロや惨殺事件を繰り返したオウム真理教を許し破防法の認定を見送った。
オウム真理教とキリスト教原理主義とは、排他的不寛容という異常な狂信者という点でにている。
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日本民族日本人は、共産主義(マルクス主義)の反宗教無神論ではなく日本神道の無宗教有神仏論であった。
神仏に対して、現世利益から崇めても、身命を投げ出すような信仰を持たない。
神仏への信仰から死を選ぶという、殉教を最も軽蔑し嘲笑う。
信仰の為に死を選ぶか、命の為に棄教を選ぶかと、と強要された時、信仰より命が大事として迷う事なく棄教を選んだ。
それが「踏絵(絵踏)」である。
命が助かるのなら、何度でもキリストや聖母マリアや神の絵を踏んだ。
それが、日本民族日本人の希薄な信仰心である。
後の、廃仏毀釈が良い例である。
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日本民族は、世界、特に西洋キリスト教文明圏の諸国に対する復讐権・報復権を持っている。
日本民族は、世界を敵に回し、世界で孤立しようとも、復讐・報復する正当な権利を持っている。
日本民族と日本人は必ずしも一致しない。
故に、復讐権・報復権を持っているのは日本民族であって日本人ではない。
日韓併合される、以前の日本民族と以後の日本人は違う。
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生き残りたければ、強者・勝者の成功談ではなく弱者・敗者の失敗談から教訓を得る事である。
日本が生きる道は、強者の論理を排除して弱者の論理に徹する事である。
弱者は敗者ではない。
中華帝国(中国)は強者であったが、日本は弱者であった。
つまり、日本は強いのでなく弱いのである。
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