⚔38)─1─日本産銀・日本人傭兵・日本産武器が世界史を変えた。徳川家康とオランダの同盟関係。~No.163 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 オランダは、日本産銀・日本人傭兵・日本産武器を使って国際金融交易網を築いた。
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 現代の日本人と昔の日本人は別人の日本人である。
 歴史力のない現代日本人には、事実を目の前にしながら、それでもなお日本の歴史を正しく理解できない。
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 真面目な日本人は2割、不真面目な日本人は3割、空気・空気圧力・同調圧力に流される日本人は5割。
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 NHKチャンネル
 [総合]
 2020年7月8日(水) 午前0:30~午前1:20(50分)
 ジャンル
 ドキュメンタリー/教養>社会・時事
 ドキュメンタリー/教養>ドキュメンタリー全般
 ニュース/報道>報道特番
 番組内容
 地球規模の歴史から、戦国日本の新たな姿を描くシリーズ。2集は、徳川家康の天下取りの時代。世界の覇権をめぐり、日本の銀を狙うオランダとスペインの激しい攻防に迫る。
出演者ほか
 【司会】西島秀俊,【出演】金田明夫,【語り】礒野佑子
 詳細
 地球規模の歴史から、新たな日本の戦国時代を描くシリーズ。第2集は徳川家康の天下取りの時代。新発見の文書に記されていたのは、オランダ商人と家康の深い繋がり。オランダは、当時最重要の国際通貨だった「銀」を求めていた。世界の産出量の3分の1を占めた日本銀をめぐり、オランダと超大国スペインの間に激しい攻防が始まる。覇権をかけた両国の争いの最前線となった戦国日本、その実像に迫る。ナビゲーターは西島秀俊さん。
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 ジャック・スペックス
 『スペックス商館長の書簡綴帳』
 解説
 スペックス商館長の書簡綴帳
 ハーグ国立文書館所蔵NFJ 276
 この史料は初代商館長ジャック・スペックスが1614年8月4日から1616年12月29日までの間に受信した書簡の綴帳です。スペックスは1609年に平戸オランダ商館長になり、1613年にヘンドリック・ブラウェルと交替して一時的に出国しましたが、1614年に再び商館長として平戸に戻り、1621年までの間二期目を務めました。従って、この書簡綴帳は、スペックスが二回目に日本に到着してから2年半の間に受信した書簡の控えを手元に残して綴じたものです。各書簡は、受信した順番に17世紀独特の美麗な書体で整然と筆写されています。初期の数十通の各書簡の末尾には、受信した日付および返信の有無についての覚書が加筆されています。
 この綴帳には130通の書簡の写しが収められています。最初の書簡は、第二代商館長ヘンドリック・ブラウェルからのものであり、平戸への渡航の仕方に関する指示が記載されており、スペックスは日本に向かう途中の日本近海の海上で受信しています。書簡の内最も大きな割合を占めているのは、京都、大坂、堺、江戸、長崎、鹿児島、山口などの日本国内各地から送付されたものです。差出人は、関西に駐在していた商務員エルベルト・ワウテルセンや平戸を拠点として日本の各地へ行き来していた商務員マテイス・テン・ブルッケと商務員マルティン・ファン・デル・ストリンゲの他、1600年に日本に漂着したオランダ船リーフデ号の乗組員で平戸商館と取引していたメルヒヨル・ファン・サントフォールト、ヤン・ヨーステン・ローデンステイン、アドリアーン・コルネーリセン、イギリス人舵手のウィリアム・アダムスなどです。こうした国内文通の他に、スペックスが海外から受信した書簡の写しも数多く収められています。その中の代表的なものとして、アムステルダム本部の重役達、バンタム駐在の商務総監ヤン・ピーテルスゾーン・クーン、パタニ商館長ヘンドリック・ヤンセン、シャム商館長マールテン・ハウトマンなどからの書簡が挙げられます。各書簡の内容としては国内取引や貿易に関するものに最も多くの紙面が割かれていますが、その合間に各地の状況についても記述されており、特にエルベルト・ワウテルセンの筆による大坂の陣についての詳細な記述が見られます。
 同綴帳は、以後、平戸オランダ商館に保管され、1641年のオランダ商館の出島への移転に伴って、出島オランダ商館に移された後の幕末までは同商館で長期間に渡って保管されていましたが、1852年にバタフィアへ送られ、その後の1863年にオランダに渡り、現在ハーグ国立文書館が所蔵しています。
 (クレインス、フレデリック
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 徳川家康が輸出した日本産銀が、国際貨幣経済体制作りを強力に後押しとなり、世界の中世を終わらせ近代への道を開いた。
 世界は、福音による宗教時代から貨幣による金融経済時代に突入した。
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 スペインは、植民地を支配し世界の銀を独占していたが、その銀を使って国際通貨を作って流通させ世界経済を支配しようとはしなかった。
 スペインが目指した国家戦略は、植民地を拡大し、領土を拡げる事であった。
 ローマ・カトリック教会(中世キリスト教会)は、信者拡大の為にスペインの世界戦略に協力した。
 オランダは、スペインの領土であった。
 オランダ商人は、スペインの異端審問を逃れてきた異端者(隠れユダヤ教徒ユダヤ人)で、世界交易を行う為にはスペインと戦う必要がありプロテスタント・カルバン派に改宗して団結した。
 オランダは、世界流通銀の3分の1を輸出する日本に、キリスト教布教をしない事を条件として食い込んだ。
 日本に於けるスペインとオランダの戦いは、地球レベルのローカルな植民地経済とグローバルな株式・国際通貨経済という経済戦争であり、キリスト教布教をめぐる宗教戦争であった。
 第一ラウンドが日本の大坂戦争であり、第二ラウンドが東南アジアの植民地争奪戦であり、第三ラウンドが西洋の宗教戦争であった。
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 オランダは武器輸出大国で、その大量の武器(大砲・砲弾・火薬)が徳川家康に売却された。
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 徳川家康は、全国の主要な銀山を手に入れ、産出した大量の銀でオランダから武器を購入し、関ヶ原に勝ち、大坂城を落城させて豊臣家を滅ぼして日本を統一して、徳川の世・徳川の平和をもたらした。
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 豊臣秀吉の日本統一が失敗し徳川家康の日本統一が成功したのは、合戦がなくなって失業した武士・サムライ対策であった。
 職業軍人の武士・サムライ達に、
 豊臣秀吉は明征伐・朝鮮出兵という新たな戦場を与え、
 徳川家康は本人の自由選択として傭兵となりオランダ軍に協力して戦う道を与えた。
 主家を失った武士は、自由を求め傭兵となって海外に出た。
 キリスト教弾圧を逃れる日本人キリシタン達も、国外に逃亡した。
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 山田長政率いる日本人部隊は、シャム(現・タイ)で活躍していた。
 東南アジア各地に日本人町が存在していた。
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 オランダは、植民地争奪戦が一段落すると生きる術を失った日本人傭兵が反乱を起こすのではないかと恐れ、武器を捨てて土着すればよく、武器を捨てず傭兵を続ける日本人武士を弾圧して消滅させ、徳川幕府に対して日本人傭兵を国外に出さないように要請した。
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 徳川幕府は、オランダの植民地戦争が一段落した頃、キリスト教に改宗した日本人傭兵が帰国して反乱を起こして幕府を滅ぼし戦国時代を再演させる事を警戒して、海外との自由な行き来を禁ずる鎖国令を出した。
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 スペインは、キリスト教会と共に日本から追放され、オランダ・日本人傭兵共同軍の攻撃に敗北してフィリピン以外の東アジア植民地の多くを失い、衰退し、世界的な植民地帝国であっても西欧における影響力を失った老大国となっていった。
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 中世キリスト教会の世界戦略であった、布教で世界を1つの唯一のキリスト教国家に統一する神聖な使命は、徳川家康によって失敗し、日本によって方針転換を余儀なくされたく。
 イスラム教など世界中の宗教はもとより西欧のプロテスタントも、中世キリスト教会・イエズス会の野望を砕いた日本によって救われた。
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 オランダの世界戦略は、植民地拡大ではなく交易拠点を築き、国際通貨を利用した利益を上げる世界金融経済網を強化する事であった。
 植民地支配はカネとヒトの浪費で苦労が多い割りには利益が少ない、という合理的論理的な考えであった。
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 世界変革の策動地は、オランダ王国首都アムステルダムであったが、世界金融に関してはユダヤ人金融家が寄り集まったドイツ領フランクフルトであった。
 ユダヤ人金融家は、更なる利益を上げる為に世界金融の独占を目指して自由と民主主義が芽ばえ始めたイギリス王国に渡ったが、世界金融の独占の前に立ち塞がったのがフランス王国などのカトリック教諸国であった。
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 イギリスは、ユダヤ人金融家の資金援助を受け海軍力を増強し、3度のイギリス・オランダ戦争英蘭戦争)に勝利して、オランダから制海権を奪った。
 オランダは、急速に衰退し、西洋の主要国から転落したが、日蘭交易独占と植民地インドネシアで国際金融での地位を確保できた。
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 大学共同利用期間法人 
 人間文化研究機構
 vol.003 - オランダ人が見た大坂の陣
 2016-10-14
 オランダ人が見た大坂の陣
 「当地堺では、我々は皆、大混乱状態に陥っていることを知らせる。その理由とは、皇帝〔家康〕が武力で大坂を攻囲するために、その全軍を率いて、伏見やその周辺に軍を配置したことである。大坂方は士気高く皇帝の到来を待ち受けている。大坂と堺の市民たちの多くがその荷物を持ってあちこちへ逃げた」。これは、オランダ商人ファン・サントフォールトが1614年11月29日(年は西暦、月日は和暦、慶長19年11月29日)付で堺から発信した書簡の冒頭部分である(原文はオランダ語)。その時期は、大坂冬の陣の時である。
 その1ヶ月後の1615年1月29日(慶長19年12月29日)付の東インド会社の商務員ワウテルセンの書簡には冬の陣後の荒れ果てた状況について記されている。ワウテルセンは同月25日に堺に到着し、その翌日に大坂を訪れ、その時の状況について「秀頼の命令の下に一万五千軒以上の家が全焼させられ、四方に大砲の射程よりも広い空地ができた」などと書いている。
 このような大坂の陣に関連する記述のあるオランダ人の書簡としては、メルヒヨル・ファン・サントフォールト、エルベルト・ワウテルセン、マテイス・テン・ブルッケの書簡10通を確認している。これらの書簡は、大坂の陣の前後に堺、大坂、京都、室津(現・兵庫県たつの市)から発信されており、オランダ人が当時各地で見聞したことを伝えている。そこには、不穏な状況下での民衆の恐怖や混乱が克明に記録されている。大坂の陣について庶民が残した史料が乏しい中で、庶民の視点から見た記録として貴重であるといえる。
 国際日本文化研究センター日文研)は、オランダのライデン大学と共同でハーグ国立文書館の所蔵文書の内、1609年~1633年の送受信書簡を調査し、これまで524点の書簡を確認した。これらの書簡は、江戸初期における対外関係や社会を研究する上で、情報の宝庫である。今後、人間文化研究機構(人文機構)ネットワーク型基幹研究プロジェクト「日本関連在外資料調査研究・活用」事業の中の「ハーグ国立文書館所蔵平戸オランダ商館文書調査研究・活用」の一環として、これらの書簡の翻刻と和訳を進めていく。
 フレデリック・クレインス 国際日本文化研究センター 准教授
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 徳川家康徳川幕府は、鎖国策として、オランダ一国とのみの交易を続けた。
 そして、海外の疫病から江戸・京・大坂など日本を中枢を守る為に交易地を西の果にある長崎と定め、更に堀に囲まれた出島に限定し自由な往来を禁じて閉じ込めた。
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 鎖国とは、疫病の水際対策であった。
 それでも、度々、日本は中国などの海外から疫病が侵入し、日本全国で感染爆発が起きて夥しい人々の命を奪った。
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 徳川家康豊臣秀頼の戦いは、オランダとスペイン・バチカンとの世界覇権争いと繋がっていた。
 オランダの株式会社・東インド会社は、専制君主制・植民地支配経済・キリスト教布教ではなく、日本産銀の国際通貨で利益を上げるグローバル経済、日本人傭兵と日本産武器による国際交易根拠地確保で、スペインを破って衰退させ、領地拡大を望まない国際交易だけによる世界第1位の経済大国になった。
 オランダを地球規模の株式大国に押し上げたのは、日本のヒト(サムライ傭兵)・カネ(日本産銀)・モノ(日本産武器)であった。
 それは、徳川家康の功績でもあった。
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 徳川幕府初期、日本は世界の七大帝国の1つであり、主要輸出品は日本産の銀と武器であった。
 日本製武器は、戦国時代の実戦使用で殺傷能力が高められ、オランダ商人の仲介でプロテスタント諸国に輸出され、各地の戦場に投入されて戦争勝利に貢献していた。
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 オランダは、日本との交易を希望して、徳川家康に大砲と鉛を売り込んでいた。
 スペインは、キリシタン弾圧で日本のキリスト教国化を潰した徳川家康を滅ぼすべく、宣教師を通じて豊臣秀頼を支援し、全国のキリシタン武士を大坂城に集め、キリシタン商人を総動員して大量の銃弾を供給させた。
 大坂冬の陣は、スペインの支援を受けていた大坂側が有利な戦いを展開していた。
 徳川家康は、オランダから購入した最新鋭の大砲と砲弾で講和に持ち込んだ。
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 商業国家オランダは、植民地拡大のスペイン王国と信者拡大のローマ教皇に対して「利益」で対抗するべく株式会社・東インド会社を創設した。
 オランダは、スペインの植民地経済に対抗する為に日本産銀を原材料とする国際貨幣を鋳造して国際市場を独占した。
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 オランダは、スペインのアジア植民地を奪うべく、徳川家康の許可を得て武士・侍を傭兵として雇った。
 オランダ・日本人傭兵連合軍は、日本産の大砲や火縄銃、刀・槍・弓矢を武装して、スペインの植民地要塞を攻略した。
 オランダの株式会社・東インド会社は、日本産銀で鋳造した銀貨を国際通貨として流通させて世界経済を独占した。
 オランダの軍隊は、日本人傭兵と日本産武器を使って、世界の海の覇権を手にし、アジアに植民地を獲得し、スペインを衰退させて世界大国となった。
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🏞65)─1─江戸経済と欧州経済の繋がり。江戸と西洋の金融相場対立と産銅高競争。~No.270No.271No.272  @ 
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🏞65)─2─江戸中期の日本経済は世界第2位のGDP。~No.273No.274No.275  @ ⑱ 
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🏞88)89)─1─日本の産業革命は、寛政期に地方で生まれた新たな金融システム・帝印金融(皇室資金)によって始まった。~No.367No.368No.369No.370 @ ㉜
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 2017年3月号 新潮45「歴史再考5 中野順哉
 『ユダヤ』の移動と大坂・豪商の没落」
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 2018年2月号 新潮45「歴史再考 6  中野順哉 
 幕府から独立した『金融システム』の誕生
 ……
 元禄時代に入って淀屋と将軍家の関係悪化は先鋭化していた。荻原重秀は新興勢力の住友と共謀し別子銅山から採れる銅をもって淀屋とオランダ東インド会社との間に割り込んできた。この『攻撃』は相当に効果があったのであろうが、銀から銅へという移行自体は経済の自然な流れでもあった。
 ……
 淀屋はオランダの東インド会社を通して、ヨーロッパの事情をほぼオンタイムで理解していた。幾度かオランダがイギリスと戦争をし、結果的に国力を随分落としていることも知っていた。両者の戦争の背後にはユダヤ人2派の対立があった。オランダのユダヤ人は中継貿易を志向し、イギリスのユダヤ人は植民地主義を目指していた。淀屋は当然オランダを支持する。そこでオランダに最新鋭の兵器として『米切手』のシステムを伝えた。……」
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 アムステルダム銀行とイギリス国立銀行イングランド銀行
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 2018年9月号 新潮45「歴史再考7 投機狂時代の到来 中野順哉
 鉄をベースにした『新しい金融システム』は、各藩の産業を活発化させた。
 その結果、市場として魅力のなくなった江戸からは、商人が離れていく。」
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 ウィキペディア
 ヤックス・スペックス(Jacques Specx、1585年 ドルトレヒト - 1652年7月22日アムステルダム)は、オランダの商人で、1609年に平戸にオランダ商館を設立し初代(及び第3代)の商館長となった人物。1629年から1632年にかけて、バタヴィアにおいてオランダ領東インドの総督を務めたが、そこで娘のサラのスキャンダルに巻き込まれている。オランダ帰国後は絵画の収集家となった。
 家康の交易要請
 1600年(慶長5年)、オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、その乗組員は徳川家康に保護された。家康は海外貿易に熱心であり、1604年に朱印船制度を実施した。さらに1605年には、平戸藩初代藩主であった松浦鎮信が新造した朱印船で、リーフデ号の船長であったヤコブ・クワッケルナックと乗員のメルキオール・ファン・サントフォールトにオランダ総督マウリッツに宛てた親書を持たせ、オランダ東インド会社の交易拠点であるパタニ(マレー半島)へと派遣した。しかしながら、オランダ東インド会社は1602年に設立されていたものの、ポルトガルとの競争が激しく、直ちに日本との貿易を開始する余力はなかった。
 当時オランダ本国はスペインに対する独立戦争を行っていたが、1608年にはイギリス・フランスの仲裁で勢力の現状維持を前提とした休戦交渉が開始された。このため、東インド会社は交渉成立以前に「現状」を拡大することが得策と考え、アジア地域の艦隊司令であったピーテル・ウィレムスゾーン・フルフーフ(Pieter Willemsz. Verhoeff)に可能な限り交易地域を拡大するように指令した。この指令に従い、1609年フルフーフは平戸に向かった。スペックスもこの一員に加わった。
 スペックスは11隻からなるフルフーフの艦隊の一員として、1607年にテセルから出帆した。バンタムに到着後、日本との交易を開始するため2隻が日本に向かった 。
 慶長14年7月25日(1609年8月24日)付けの家康の朱印状。オランダ船は日本のどこにも寄港できると記されている。
 この2隻は、デ・フリフューン号(De Griffioen、砲19門)とローデ・レーウ・メット・パイレン号(Roode Leeuw met Pijlen、400トン、砲26門)である。両船は1609年7月2日に平戸に到着した[5]。直ちに、アブラハム・ファン・デン・ブロックとニコラス・ピュイックの2名がマウリッツの親書を持って駿府徳川家康のもとに赴き、通商を要請した。家康は慶長14年7月25日(1609年8月24日)付けの朱印状を下付し、オランダ船の来航と安全を保障し、また来航地と商館設置場所の自由を与えた。このときの通訳は、リーフデ号の乗組員であったメルキオール・ファン・サントフォールトで、当時長崎で交易を行っていた。
 家康は江戸に近い浦賀での交易を期待していたようだが、船上会議において、平戸に1軒の家を借り、オランダ商館を設立することが決定された。当時太平洋側の航路は十分開拓されておらず、またスペイン・ポルトガルの交易地である長崎に近く情報収集に便利であるということがその理由であった。スペックスは初代の商館長に任命され、スペックス含め6人が平戸に残ることとなった。スペックスはウィリアム・アダムスの協力を得ることができ、1613年まで商館長を勤めた。1610年、スペックスは朝鮮にも船を派遣している。
 さらに、3代目の商館長として1614年から1621年まで平戸にあった。この間の1620年、平山常陳事件が起こるが、スペックスはイギリス商館長であったリチャード・コックスと協力して事件の解決に貢献している。
 サラ・スペックスのスキャンダル
 スペックスは1617年に日本人女性との間に娘サラをもうけたが、サラはバタヴィアで暮らしていた。1629年6月、サラが12歳のとき、東インド総督邸内で、15歳の少年と関係を持った。このため、少年は斬首、サラも鞭打ちの後、溺死させられるところをかろうじて免れた。スペックスが東インド総督として着任する直前の事件であった。1632年5月、15歳となったサラは35歳の宣教師、ジョルジウス・カンデデュウスと結婚した。あまりの新婦の若さにうわさの種となった。1633年6月サラは夫に伴われ台湾に渡り新港で暮らすこと3年、熱病にかかり、1636年19歳で同地に没した。
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 レオナルド・キャンプス(Leonard Camps, ? - 1623年11月23日)は、オランダ東インド会社平戸商館の第4代商館長。ヤックス・スペックスの後任として、1621年10月29日から1623年11月21日までその任にあった。キャンプスは1616年初めに来日した。1621年に商館長になると、1622年1月27日に徳川秀忠に拝謁したが、その際にイギリス商館長であったリチャード・コックスを伴ったが、これは両者で武器禁輸解除を請願するためであった。
 キャンプスは貿易額を拡大するため、中国の絹を日本に輸入することを提案した。彼は、マカオにおけるヤン・ピーテルスゾーン・クーンの戦闘行為が、日本との貿易に打撃を与えたと信じた。東インド会社はマレー諸島において中国商人にその活動を阻止されたため、1622年7月に澎湖諸島を占領し、そこをアジア貿易の拠点とした。その後1624年には明軍と8ヶ月に渡る戦火を交えた、両国の間で和議が成立し、澎湖の要塞と砲台を破棄し、オランダ人は台湾に移ることを明朝が認めた。このようにして台湾を占拠することとなったオランダ人は、一鯤鯓(現在の台南市安平区)に熱蘭遮城 (Zeelandia) を築城し、台湾統治の中心とした。
 キャンプスは日本の絹の年間輸入量を180樽と見積もった。1621年から1623年にかけ、毎年14隻以上のオランダ船が平戸に入港した。日本側はその代金を金銀で支払った。1623年、キャンプスは病を得、11月23日に平戸で死亡した。
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 世界史の窓
 日本からの輸出品として中国にもたらされ、16世紀末~17世紀に世界の銀の3分の1~4分の1を占めた。
 日本は中世以来、銀の産出国であった。15世紀ごろから中国の銀の産出量が減少したため、中国に輸出されるようになった。それを可能にしたのは、16世紀には朝鮮から伝えられた灰吹き法という製錬技術であった。特に石見銀山島根県)は最も早く開発が進み、また生産量も多かった。次いで生野銀山(但馬)、院内銀山(秋田)など、銀山が開発されていった。
 17世紀初頭の最盛期には、日本産の銀は世界の生産量のおよそ3分の1~4分の1を占めていたと考えられている。しかし16世紀後半にはじまるスペインによる新大陸のポトシ銀山の開発から、現在のボリビアやメキシコ産のメキシコ銀が増大し、中国にもたらされてスペイン銀貨にといわれるようになり、日本銀はそれに押されて次第に衰退した。石見銀山豊臣秀吉徳川家康によって直轄銀山として採掘されていたが、江戸時代にはいると鉱脈が絶え、現在は廃鉱になっている。2007年、石見銀山世界遺産に登録された。
┃灰吹き法とその背景
 中世までの銀は、地表に現れた鉱脈を、水がわいたりして掘れなくなるあたりまで掘り進み、掘り出した銀鉱の上に木を積み上げて5日間ほど焼き続けたうえで灰の中に残った銀を取り出す、という低い技術しかなかった。16世紀の中ごろ、朝鮮から伝えられた灰吹き法という精錬法は、まず銀鉱石に鉛を混ぜて一緒に焼き、溶けた鉛の中に銀が混ざって一緒に固まった含銀鉛という金属が出来る。これをコオリという。それを鉄の鍋に灰を一杯入れた上にのせ、灰をたくさんかけ、ふいごで空気を吹き入れて焼くと、酸化鉛が溶けて灰にしみこみ、銀だけが灰の上に浮いたように残る。
 灰吹き法は中国や朝鮮で行われていたが、日本に伝えられてから生産性を高めたのはなぜか。中国と朝鮮の銀は官営の鉱山で行われていたために働く人たちが自立性、自発性を持たず、生産性が上がらなかった。また朝鮮政府はこの技術を秘密にしていたにもかかわらず日本の博多に伝わると、当時の日本での精錬業は職人の小経営で営まれていたため、職人が競って技術を磨き、その精錬法は瞬く間に各地の鉱山に持ち込まれた。16世紀中ごろの日本が農業においても自立した小百姓による小経営が成立していたので、それが新しい技術を受け容れ、発展させた理由であった。またそのような農業・工業における小経営の自立の背景には、農機具や鉱山の採掘道具などに使われた製鉄業の技術革新があった。<山口啓二『鎖国と開国』1993初版 岩波書店 p.p.9-11 2006 岩波現代文庫版>
┃中国で銀の需要が多かった理由
 日本の銀は、中国の浙江や福建など東南海岸地方に直接運ばれるか、朝鮮を通って遼東半島から中国本土へ運ばれていった。当時の朝鮮と明朝は、ともに海禁、つまり民間の貿易には厳しい禁止・制限策をとっていた。
 当時、明で銀の需要が増大した理由は、当時の明の財政が対モンゴル戦争(タタール及び西部のオイラトとの戦い)の必要から銀に依存していたからである。明は貿易の拡大を求めて北方辺境に侵入を繰り返すモンゴル勢力に対抗するため、15世紀後半から万里の長城の整備し、長城に沿って9つの軍管区(九辺鎮)をおき、大量の軍隊を配備したが、内地で銀を税として取り立てそれを北方に運んで現地で必要な軍需物資を買い付けるようになった。銀は軽くて遠くに運びやすいという点で価値が高い金属であった。そのため税や徭役の銀納化が進み、銀の需要が急増しはじめたところに、日本銀の産出が急増したので、「日本から中国に向けての銀の流れが奔流のような勢いで生ずるのは当然であろう」。
 しかし、明朝はその初期から社会経済に対する強い統制・管理政策をとり、朝貢貿易を推進する一方で「海禁」策をとり民間海上貿易は禁止していたので、日本からの銀の流れは阻止されることになった。日本から中国への銀の奔流は、いわば明の築いた“海禁”というダムによって堰き止められていたわけで、このダムを突きくずそうとする勢いのなかで、16世紀の“倭寇”が成長してくる。
 16世紀に倭寇の活動が再び活発になり「後期倭寇」といわれるが、それは日本人だけでなく中国など東シナ海周辺の人々を含む密貿易集団であり、彼らは中国の東南沿岸海域で略奪を行うばかりでなく、同時に彼らのもたらす銀は、この地域の経済の活況の源でもあったのである。<岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット13 1998 山川出版社 p.8-12>
 → 北虜南倭
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 銀
 金と並ぶ貴金属。貨幣の材料、装飾品、生活器物、さらに工業原料として使用されてきた、人類にとって重要な金属。
 金と並んで古くから貴金属として尊重され、貨幣の原料とされてきた。最も古い銀貨はリディアの銀貨とされ、その影響を受けたギリシアでも銀貨が鋳造された。アテネの所有するラウレイオン銀山では多くの奴隷を使役して、銀が採掘されていた。
 貨幣は小アジアのリディア王国で最初に鋳造されたが、ギリシアにおいても貨幣が発行された。
 ギリシア・ローマではドラクマと言われる銀貨が流通していた。また西アジアではササン朝ペルシア以来、ディルハムと言われる銀貨が現在のイラン・イラクで流通していたが、イスラーム帝国が成立すると、ウマイヤ朝のカリフ、アブド=アルマリクがディーナール金貨とともにディルハム銀貨をダマスクスで鋳造した。

 第Ⅱ部 まとめ 用語リストへ

 銀(ヨーロッパ/ラテンアメリカ
 15世紀末から16世紀前半、西洋における銀生産は南ドイツが中心であった。16世紀中頃からスペイン領南米大陸ポトシ銀山などで大量に産出され、世界に流通するようになった。
┃南ドイツ産の銀の流通
 中世ヨーロッパでは南ドイツのアウクスブルクが銀の産地として知られ、その銀山を所有したフッガー家が巨大な富を築いた。ヨーロッパの銀生産における精錬技術は銀鉱石の銀を水銀でアマルガムとし、水銀を絞り出して銀を取るアマルガム法であった。また銀鉱山ではアルキメディアン・スクリューという排水器を使用していた。これらは日本の銀山にはない、高い技術であった。フッガー家は大規模経営を営んで銀を一手に握り、その銀の力で15世紀末から16世紀中ごろまでのポルトガルやスペインの重商主義政策に基づく海外進出の資金とされた。
 水銀アマルガム法 銀鉱石を砕石して粉末にし、水銀と混ぜて水銀アマルガムを作り、それを熱して銀を得る方法で、その工程は次のように行われた。
 鉱石をハンマーで砕き、銀の含量の高い部分を選別する。
 水車を利用して鉱石を粉砕する。
 鉱石の粉をふるいにかけ、木製か石製の容器で塩水と水銀を加える。
 泥状になるまでよく攪拌し、水銀アマルガムを作る。
 水流で泥を洗い出し、沈殿させて水銀アマルガムを抽出する。
 水銀アマルガムを布でくるみ、水分をとる。
 水銀アマルガムを加熱して銀を分離する。
 水銀アマルガム法は、品位の低い鉱石からも純度の高い銀を抽出できる利点があった。しかし、銀の抽出に不可欠な水銀が安価で安定的に供給される必要があること、粉塵や水銀による健康被害が出ることが問題であった。
┃南米ポトシ銀山
 1555年、セビリア生まれのスペイン人がメキシコのパチェカ鉱山で始めたが、アイデアはドイツ人であったという説もあり不明である。ポトシ銀山では1563年にリマの南西で発見されたウアンカベリカの水銀鉱山の水銀が使われた。水銀アマルガム法が普及すると、銀鉱石・水銀を採掘運搬し、精錬所を作り、水車を動かす水を得るためにダムを造ると行った総合的な開発が必要となった。<青木康征『南米ポトシ銀山』2000 中公新書 p.115>
 銀艦隊と価格革命 大航海時代に入り、アメリカ大陸に進出したスペインは、1545年に発見されたポトシ銀山などを開発、インディオの労働力を用い、水銀アマルガム法の技術で銀の生産を増やしていった。新大陸の銀はスペイン銀と言われて世界中に広がり、大量にヨーロッパにもたらされようになった。アメリカ大陸からヨーロッパに銀を運ぶスペイン船は銀艦隊といわれたが、16世紀末から17世紀にオランダ・イギリスが台頭し、私拿捕船(海賊行為を認められた船)に襲われるようになる。ヨーロッパへの新大陸産の銀の大量流入は、物価を急騰させることとなり、いわゆる価格革命が起こり、ヨーロッパ社会の構造転換の一つの背景となった。銀は世界的にも基本通貨としての役割をもっていたが、その大量流通によって銀価格が下落したため、次第に本位貨幣としての位置づけはなくなり、1816年のイギリスに始まる金本位制に世界の大勢は移行していく。 
 → メキシコ銀  日本銀

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 銀(中国と日本)
 16世紀30年代から、日本の銀生産が急増。明にもたらされ、銀が秤量貨幣として重要な通貨となる。
 明の通貨政策は宋を継承し、初めは銅銭を鋳造していた。洪武帝の洪武通宝をはじめ、歴代皇帝は年号入りの銅銭を鋳造し、そのうち洪武通宝は日本にも多数輸入され、広く流通した。しかし15世紀ごろから生産力の発展に伴って商取引が活発になると、低額の銅での取引は運搬に不便なので、次第に銀が使用されるようになった。16世紀初頭には、まず朝鮮で銀産出が盛んになり、端川(タンチョン)銀山などが開発され、中国や日本に密貿易を通じて流出した。しかし、1530年代から日本で銀の産出が急速に増大した。
┃日本銀の増産
 中国での銀の産出量は少なかったので、1530年代に日本産の銀(日本銀)への需要が急速に高まり、さらに銀生産技術で灰吹き法という製錬技術が広がって急速に増産された。特に石見銀山の銀は中国向けに輸出され、中国にもたらされた日本銀は丁銀(ちょうぎん)といわれ、通貨として広く流通した。16世紀末から17世紀にかけては日本は世界有数の銀生産国となり、中国では新大陸産のスペイン銀貨に代わって輸入量が増加した。しかし、17世紀末ごろから銀鉱脈が枯渇しはじめ、18世紀には日本銀は急速に減少する。
 ※中国で銀の需要が高まった理由 16世紀の明朝は全盛期が過ぎ、モンゴルのアルタン=ハンの侵攻を受け、北方の防備に多額の費用を必要としていた。明政府は北方防備のための費用を、運びやすい銀で賄おうとして銀による課税を強めた。一方、民間では江南の綿業をはじめ生産力が向上し、銀の需要が増大していた。こういった事情から銀が必要とされたにもかかわらず、当時は海禁がとられ、民間貿易は禁止されていた。そのため、海禁を破って日本から銀を密輸入しようという動きが強まり、それが後期倭寇の活発化の意味であった。この時期の倭寇は中国人を主体として日本産の銀を中国に密輸入しようという動きが主たる動機であった。
 <岸本美緒『東アジアの近世』世界史リブレット13 1998 山川出版社 p.8-12> → 北虜南倭
┃新大陸からもたらされた銀
 16世紀に中国貿易を開始したポルトガルとスペインは中国産の絹織物や生糸、陶磁器を買い付け、その対価として銀で支払った。はじめは南ドイツ産の銀を用い、ついで日本との交易で得た日本産の銀を中国にもたらした。ところが、スペインが植民地化した新大陸の南米で1545年に発見されたポトシ銀山、さらにメキシコ産のメキシコ銀の生産量が急増し、それを原料に鋳造されたスペイン銀貨が太平洋貿易(ガレオン貿易)を通じて中国にもたらされるようになった。
 < class="midasi">中国での銀の流通増加
 明では銀貨は発行されず、銀は馬蹄銀と云う形で秤量貨幣(そのつど秤で重さを量る貨幣)として流通した。銀の流通は次第に銅銭を上回り、明清時代を通して中国の基本通貨となった。1580年代に全国に施行された新税制である一条鞭法は、そのような銀の流通に対応し、人頭税(丁銀)と地税(地銀)をともに銀納として一括して納付するものである。
 中国からの銀の流出 17世紀からの清朝でも当初は明代と同じく、銀が一方的に中国に流通する状況が続いた。しかし貿易相手国はポルトガル・スペインからイギリス・オランダ・フランスに移行した。18世紀中ごろ、イギリスに産業革命が始まると、アジア貿易の形態も一変した。イギリスは中国茶の需要増大に伴い、国内の工業製品である綿布の売り込みをはかったが、中国では綿布は売れず、一方的な輸出超過、銀の中国流入が続いた。そこでイギリスは19世紀初めからインド産のアヘンを中国に密輸する三角貿易(17~18世紀)を開始、そのため逆に中国の銀の流出が急激になった。
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