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近代化できた、日本民族と漢族系中国人・朝鮮人との違い。
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現代の日本人は、昔の日本人に比べて民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力はない。
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2021年6月25日号 週刊朝日「司馬遼太郎もうひとつの幕末史
『花神』から『胡蝶の夢』へ
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緒方洪庵という人は、オランダ人を見たこともないような人でした。ただ漢文を読むようにしてオランダ語を読み、そして大坂に出てきまして塾を開いた。そして患者を診ました。
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洪庵の塾では小さな西洋が誕生します
この塾に学んだ人を挙げますと、福沢諭吉、大鳥圭介、大村益次郎、長与専斎といった人々ですね。
その近所に紀州の華岡青洲ゆかりの塾がありました。その塾と適塾の塾生同士は仲が悪かったそうですが、それはともかく、華岡青洲という人は天才的な外科医でした。麻酔を用いて手術をしたことが有名ですが、蘭方医ではありません。漢方医でした。
漢方は、もともと門外不出のものでして、華岡青洲もその文化の中にあります。塾で学んだことは親兄弟といえども明かしてはならない。そういう一札を入れて、塾に入れてもらうことができる。無論、もっとも秘密のことは、一子相伝にする。
ところが洪庵の塾は違いました。当時は学会というようなものはありませんが、洪庵およびその弟子たちは、学んだものは広めよ、医術というものは困った人のためにあるんだ、そういうところがありました。
有名な話しですが、塾生に越前の橋本左内という人がいました。この青年は夜になると橋の下に行き、夜鷹と呼ばれていた女性たちの治療をしていたといいます。
洪庵先生も、コレラが流行(はや)るとコレラの対処法を書いた本を自費出版しています。自分の経費で、お金儲けではなく出版しています。門外不出どころか、実にオープンなのです。
さっき長与専斎の名前が出ましたが、専斎は東京大学医学部の創設者の一人でしたね。彼は肥前大村という小さな藩から洪庵の塾に来たのですが、のちにこう言われました。
『君、僕のところに来てもだめだ。僕はもう古いんだ。長崎にポンペという先生がきているから、そこへ行きなさい』
洪庵は偉い人ですね。
自分が古いとは、なかなか言えないものです。
江戸時代の、外国に行ったことのない人なのに、医学書を通じて、ヨーロッパの良いところを知っていた。適塾で、ひとつの小さな西洋が誕生していた感じです。
専斎は言われたとおりに長崎から出てきて、また長崎に戻って、出島のポンペ先生に学ぶことになります。
当時は階級社会でしたから、ポンペ線性の弟子は、幕臣の医師である松本良順ただひとりでした。
この松本良順の弟子に、形式的に諸藩から来た学生があります。結局は一緒にポンペ先生の話を聞くのですが、通訳が必要となります。松本良順はオランダ語の読み書きは当然できたのですが、もっと上手な、佐渡の少年が通訳になりました。
のちの司馬凌海、このころは伊之助と呼ばれていた少年ですが、まだ10代でした。
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しかし、ポンペ先生は偉大でした。
日本の医学というか社会に、大きな影響を与えました。
ポンペ先生は長崎で『病院』を始めています。まだ病院という言葉がなかったために、養生所と呼ばれましたが、これは一種の革命だったのです。
病院という西洋の箱ができて、みな戸惑いました。
病者という、平等に苦しみを持った者がここに集まるのだということが入院患者には最初はわからなかった。
長崎の町人社会にも、たくさん階級がある。身分社会そのものでしたが、患者として病院に入ってくれば、同じように扱われる。
しかも診てくれる医者が侍です。松本良順は幕臣ですから、平素は殿様と呼ばれている人です。
諸藩から来ているポンペ先生の弟子たちも、その藩に帰れば身分の高い人が多かった。
その殿様たちが、長崎の町人の熱をみて、世話をする。
小さな世界ではありますが、日本の近代というのは長崎の養生所から始まったといえるかもしれません。
つまり、ここで市民社会が始まったわけで、ポンペ先生の病院は、たしかに革命を起こしたのです。」
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ウィキペディア
ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829年5月5日、ブルッヘ - 1908年10月7日、ブリュッセル)は、オランダ海軍の二等軍医。ユトレヒト陸軍軍医学校で医学を学び軍医となった。幕末に来日し、オランダ医学を伝えた。日本で初めて基礎的な科目から医学を教え、現在の長崎大学医学部である伝習所付属の西洋式の病院も作った。また、患者の身分にかかわらず診療を行ったことでも知られている。日本には1862年(文久2年)まで滞在し、その後はオランダに戻った。後年、日本での生活を振り返って「夢のようであった」と発言している。
長崎奉行所西役所医学伝習所において医学伝習を開始した1857年11月12日(安政4年9月26日)は、近代西洋医学教育発祥の日であり、現在長崎大学医学部の開学記念日とされている。
医学伝習所時代
ポンペを囲む医学生、前列ポンペの左は松本良順
ポンペは長崎海軍伝習所の第二次派遣教官団であったカッテンディーケに選任され、松本良順の奔走により作られた医学伝習所で、教授として日本初の系統だった医学を教えることになった。彼の元で、明治維新後初代陸軍軍医総監となった松本良順を始めとして、司馬凌海、岩佐純、長与専斎、佐藤尚中、関寛斎、佐々木東洋、入澤恭平など、近代西洋医学の定着に大きな役割を果たした面々が学んだ。
1855年(安政元年)に第一次海軍伝習の教師団が来日し、軍医のヤン・カレル・ファン・デン・ブルークが科学を教えたが、この授業はまだ断片的なものであった。この時、筑前藩の河野禎造は、オランダ語の化学書である『舎密便覧』を著している。 その後、1857年(安政3年)に第二次海軍伝習によりポンペが来日し、松本良順の奔走により医学伝習所ができ、ポンペはその土台となる基礎科学から一人で教え始める。1857年11月12日のことで、長崎大学医学部はこの日を創立記念日としている。この時は長崎の西役所内で、松本良順と弟子12名に初講義を行った。後に学生の数が増えたため、西役所から、大村町の高島秋帆邸に教室を移した。 ポンペは物理学、化学、解剖学、生理学、病理学といった医学関連科目をすべて教えた。これはポンペがユトレヒト陸軍軍医学校で学んだ医学そのままで、その内容は臨床的かつ実学的だった。最初は言葉の問題も大きかったが、後になると授業は8時間にも及ぶようになった。また、日本初の死体解剖実習を行った。1859年(安政6年)には人体解剖を行い、このときにはシーボルトの娘・楠本イネら46名の学生が参加した。解剖が許可される以前は、キュンストレーキという模型を用いた。1860年(万延元年)には海軍伝習が終了するが、ポンペは残った。ポンペは1862年11月1日(文久2年9月10日)に日本を離れるまでの5年間、61名に対して卒業証書を出している。また教育の傍ら治療も行い、その数は14,530人といわれている。オランダへ戻ってからは開業し、赤十字にも関与した。
長崎医科大学(現長崎大学医学部)
1857年(安政4年)末には公開種痘を開始した。1858年(安政5年)に長崎市中で蔓延したコレラの治療に多大な功績を挙げた。また、1861年(文久元年)、長崎に124のベッドを持った日本で初めての近代西洋医学教育病院である「小島養生所」が建立された。ポンペの診療は相手の身分や貧富にこだわらない、きわめて民主的なものであった。日本において民主主義的な制度が初めて採り入れられたのは、医療の場であったともいえる。他にもポンペは、遊郭丸山の遊女の梅毒の検査も行っている。 後に松本良順が江戸へ戻り、ポンペに学んだ医学を大いに広め、順天堂の講義が充実したといわれる。良順はまた西洋医学所の頭取となるが、奥医師はポンペ直伝の西洋医学を西洋かぶれと不快がった。しかし伊東玄朴の失脚により、良順は奥医師のリーダー的存在となる。またポンペの保健衛生思想に共感を覚え、その後、新選組の屯所の住環境改善にそれを役立てた。
1878年当時のカメラ
後年、明治に入って、森鷗外がヨーロッパに留学中に赤十字の国際会議でポンペに出会い、日本時代の感想を聞いた時、「日本でやったことは、ほとんど夢のようであった」と語っている。晩年は牡蠣の養殖にも手を出したといわれる。ポンペの噂を聞きつけた緒方洪庵が、適塾の学生であった長与専斎をポンペのもとに送り込んだことからしても、その当時最新の医学教育であったことがわかる。 現在長崎大学医学部にはポンペ会館と良順会館が設立されている。
ポンペが医学を学んだユトレヒト陸軍軍医学校は、フランスによるオランダ支配当時、ライデンの陸軍病院付属という形でて建てられ、その後フランスの支配が終わってからも教育が続けられた。ユトレヒト大学医学部との関係を築きながら教育が行われ、軍や植民地への医官を養成するものだった。1850年代はその最盛期で、幕末維新に来日したオランダ人医師のかなりの人数がここの卒業生であった。また、ユトレヒト大学の化学の水準は高く、緊密な関係にあった陸軍軍医学校経由で、日本に高いレベルの化学がもたらされたといわれる。明治7年(1874年)医制が制定されて医師の養成は大学のみにて行われることとなり、翌明治8年(1875年)に廃校となる。現在、この学校の建物はホテルとなっている。
ポンペは湿板写真の研究についても熱心であった。当時、長崎でポンペについて科学を勉強していた上野彦馬も共に写真の研究に着手した。感光板に必要な純度の高いアルコールには、ポンペが分けてくれたジュネパ(ジン)を使った。
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