🏞124)─1─百姓医師の子が御殿医となり将軍の診察と治療を行い位階勲等を極めた。~No.489No.490 ㊻ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2020年6月19日号 週刊朝日司馬遼太郎講演録
 孫文の日本への決別
 ……
 医者を尊敬する文明というのがあるのです。ヨーロッパがそうですね。医者の仕事は人道的なものであり、知能が高くなくてはできないとされた。
 日本もそうです。将軍の脈を見る奧御医師の位は、宮中では大名よりも高い位でした。能力が問われますから、現役の奧御医師は百姓、町人の世界から秀才を吸い上げていました。秀才なら身分が上がる。ですから医者は尊敬されていた。
 ところが中国ではそれほど尊敬されてはいなかった。むしろ、膿(うみ)など汚いものを扱う仕事ということで、一種の職人として扱われていた。朝鮮半島もそうですね。では誰が尊敬されるかというと、官吏です。第1級の秀才は官吏になり、医者にはならない。第2級も第3級も医者にならない。
 ……」
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 華佗は、後漢末・魏初の名医で、曹操の侍医になったが逆鱗に触れて処刑された。
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 近代日本は、明治維新によって朱子学儒教で中国化し官僚支配国家となって破滅した。
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 江戸時代は、悲惨なブラック社会であった。
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 西洋や中華(中国・朝鮮)はグローバルであり、日本はローカルである。
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 江戸時代の日本と現代の日本は、戦後の歴史教育で戦前の日本が完全に否定された為に遮断され繋がってはいない。
 現代日本から見ると、江戸時代の日本は別の世界か別の星の物語である。
 現代の日本人には、江戸時代が理解できない。
 特に、グローバル派高学歴出身知的エリートにはそれが言える。
 現代日本には、武士・サムライはいないし、庶民(百姓や町人)もいない。
 それ故に、現代日本人には武士道精神はないし百姓根性も職人魂もない。
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 現代の日本人と昔の日本人とでは、別人のような日本人である。
 昔の日本人が凄かったから、現代の日本人も凄いとはいえない。
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 家(いえ)、身分・階級、世襲は、日本と中華(中国・朝鮮)と西洋では三者三様で全く異なっていた。
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 日本の家の世襲とは、身分の低い生まれで血の繋がらない赤の他人を養子として迎え、家、地位、仕事・芸事、名誉、資産すべてを継がせた。
 つまり系図の相続・祖先の墓相続・お家芸の相続であり、血筋の相続ではない。
 重要なのは、血ではなく家名・菩提・家業であり、それゆえ家名・菩提・家業を残す為に血を捨てた。
 血にこだわり、溺愛する無能な放蕩息子に親子の情で判断を誤って家を継がせては家は滅びる。
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 戦後の歴史教育を受けた、特に1980(昭和55)年代からの日本の歴史を学んだ現代日本人には歴史力がない為に、江戸時代からの伝統文化である家制度・身分制度世襲制度・養子制度などは理解できない。
 特に、グローバル化を標榜する日本人には、歴史力は絶無である。
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 儒教世界では、医者と薬師の地位、身分は低く、いつ何時、権力者に殺されるか分からない不安定な立場にあった。
 何故なら、医師は権力者の健康状態を買収されて喋る危険があったからであり、薬師は金で毒薬を薬と偽って呑ませる恐れがあったからである。
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 日本・日本民族日本人は、中国・大陸系漢族中国人と韓半島系韓国人・朝鮮半島朝鮮人とは縁も所縁もないアジア人である。
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 幕臣の松本良順は、将軍に忠誠を誓い官軍と戦う賊軍の軍医として転戦し、官軍に降伏して朝敵の罪人となって牢獄に入れられた。
 松本良順は天皇に弓を引いた大罪人であったが、明治新政府はその優れた医術を軍隊に利用するべく恩赦を与え陸軍初代軍医総監に任命した。
 現代の日本と昔の日本とは違うのである。
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 2020年6月12日号 週刊朝日司馬遼太郎講演録
 医学の原点 (下)
 司馬さんは医学について、『人間にとって本来、親切という電流を発する学問なのです』と語る。多くの人があらためて『医学』を考えているこの時代、医学者の情熱、医学の原点を考える講演をお届けする。
 司馬遼太郎
 ここからは、『胡蝶の夢』という小説をなぜ書こうと思ったか、お話ししていきたいと思います。
 大坂の緒方洪庵塾があるように、今の千葉県佐倉市にも有名な塾がありました。佐倉には小さな藩があり、藩主は譜代の堀田氏です。そこに藩の侍身分ではあるけれども、百姓身分上がりの医者、佐藤泰然という人がいました。
 順天堂という看板を掲げた塾を開いた。いまの順天堂大はその塾の後身にあたります。
 余談になりますが、順天堂大の前を通るといつも感心することがあります。普通なら大学の医学病院だと、たとえば『高知医科大附属病院』となることが多い。ところが順天堂に限っては『順天堂医院』と書いているわけですね。
 病院は大勢の患者を収容する総合的な場所であり、医院は開業医のオフィスである。そう日本語ではなっていると思うのですが、江戸時代には『病院』という言葉はそう使われなかったと思います。一般的な言葉になっていくのは明治後でしょう。
 『医院』という言葉は幕末の長州人が作った言葉だと私は思っていますが、順天堂は医院という言葉を選んで今も使っているのでしょう。
 その佐藤泰然は蘭学教育の名人で、お医者としても才能のある人だったようです。
 緒方洪庵も医者として才能のある人でしたが、どちらかというと内科医の才能であります。
 内科というのは難しい仕事でして、目の前にいる人間、つまり『ここが苦痛だ』と訴えている患者の原因を探さなくてはなりません。
 今はいろいろな検査方法があると思いますが、ぱっと見て何でもわかるのは難しい。ところがそれなのに、『あなたは何という病気だ』と言い、そして治療するという大変な仕事であります。
 中を見ることもないものを相手にして、なんとかするのですから、これは大変な仕事ですね。
 その点、外科医は見ることができます。この点だけをとれば、なにやら外科のほうがやさしい感じがしますが、とにかく佐藤泰然は外科が専門で、非常に腕が良かった。
 だいたい佐藤泰然のころになって、日本の外科は今日の外科と呼べる段階の第一歩を歩みはじめたといえそうですね。
 外科という言葉は古くからありまして、戦国時代にはポルトガル、スペインの外科が伝わりました。これを南蛮流といいます。
 江戸期になってオランダ医学が伝わり、これを紅毛流といいました。
 しかし、南蛮流も紅毛流も、せいぜいおできを切開するほどのものでした。たしかにおできで命を落とす人が多かったから、それを切開する。そして膿(うみ)を出し、芯を取り出すのがつまり『外科』でした。
 佐藤泰然はオランダ医学を、いわばブッキッシュに、机上で知ったにすぎません。
 日本は鎖国をしていましたので、オランダ人の外科医の弟子になったり、留学したりはできません。
 そんな状況のなか、本でオランダ医学を知り、それを大胆にも実践した人であります。親友の睾丸の摘出手術に成功したことがあり、当時としてはこれは大変な技術でした。
 非常に声望が高く、門人帳を見ると、全国から多くの人が集まっています。緒方洪庵塾も全国から門人が集まっていますが、双璧ですね。
 こうして順天堂は、江戸の医学の芯の役割を担うことになります。
 こういうことをおまえはどこで調べたのだと思われるでしょうが、非常に便利な方法があります。
 佐藤泰然の流れにある順天堂大、そして緒方洪庵の流れである福沢諭吉がつくった慶応の医学部、この二つの私学が医学史の研究室を持ち、教授と助教授がいらっしゃいます。私の知るところでは、この二つの私学だけだと思います。
 その佐藤泰然には何人かの子供があり、全員秀才でした。一人が幕府の奧医師の家に養子にいきました。この子が後の松本良順でした。
 幕府の奧医師は、正確には『奧御医師』といい、将軍の脈をとるのが仕事です。大変な名医でなけてばなりません。
 封建時代ですから、世襲です。
 奧御医師も世襲なのですが、難しいものですね。世襲の子供はお父さんのような名医にはなかなかなれない。それどころか、ぼんくらの子供が多かったようです。
 世襲ですから、ぼんくらも奧御医師になります。しかし診察はさせないのですね。江戸城の詰め間に押し込め、捨て扶持を与え、まあ飼い殺しのようなものです。
 そして、全国津々浦々からすぐれた人を集めました。奧御医師で現役バリバリの人はたいてい在野にあった人であり、それも百姓身分から出てきた人が多かったようです。
 奧御医師になるということは、いまでいえば東大総長になるようりも偉かったかも知れません。
 奧御医師の身分はだいたい従四位であります。従四位というば、特別な大大名でようやくもらえる身分ですね。位階勲等が大切な時代ですから、たいていの大名も奧御医師には頭を下げなくてはなりません。
 一介の百姓のせがれから奧御医師になったにせよ、なにしろ将軍の御脈をとるものですから、権威があるのですね。奧御医師が行列をつくって江戸城に登城するときに、位が下の大名がぶつかると、駕籠から降りなければならない。
 ですから大名は先触れをきちんとやっておき、なるべく奧御医師の行列には出くわさないようにした。会いそうな場合は、足踏みをして待ったぐらいだったようです。
 その奧御医師の家に松本という家があり、娘しかいなかったので、佐藤泰然の息子を養子にした。それが松本良順になった。
 話は変わりますが、庶民はお医者さんの顔を見るのが怖い。お医者さんから親切にされるともう感謝します。まあ、食ってかかる人もいますけれど。
 そういうことは中国にはありませんでした。紀元前からの古い文明を持つ中国には、医者への尊敬心というものはほとんどなかった。
 ヨーロッパにはありました。日本とヨーロッパ型だともいえそうです。ヨーロッパにも身分制度はありまして、この点も似ています。たとえばイギリスの場合、アングロサクソンの家系に生まれず、アイルランド系、アイリッシュの家系に生まれた賢い子供は、勉強して医者になることが多かった。役人ですと、アイリッシュではあまり偉いところまではいけない。そのため、伝統的に医者か弁護士になることが多かったようですね。ですから、イギリスでは名医といえばアイリッシュといわれているぐらいですね。冗談ですが、電話帳を見て、
 『ああ、この名前はアングロサクソンだからやめよう』
 などと言ったりします。
 そうしてドクターとなると、上流階級の社交界に属するようになります。それだけでドクターへの尊敬心が強い文明ということになり、日本と似ています。
 しかし、いいことばかりではありませんね。
 日本の場合、藩においても奧御医師のような存在があり、御殿医と呼ばれました。これも大変な権威であります。そして奧御医師、御殿医に代表される医学における権威主義は明治後も続きます。
 ポンペ先生の親切が荒瀬先生を貫いた
 医学の世界で大学の研究室にいる医者は、情報も多いですね。その次に位置するのが大病院の勤務医でしょうか。
 そして開業医はその下に位置しているようですね。立派なお医者である人も多いのに、開業医であるがために医者の世界ではちょっと差別をされている気がします。これは江戸時代からの伝統ですね。
 江戸時代の開業医というものは無免許ですから、セレクトを経ていません。奧御医師、御殿医の場合ですと、大変なセレクトを経て、そして位階勲等がつく、大変に威張る人もいた。われわれ素人はちがいますが大学の先生が偉いとか、大病院の先生が偉いとか、それほど思っているわけではありませんが、医者の世界では独特のヒエラルキーがあるように見請けられます。先ほど言いましたように、庶民と医者の間には、心理的に大きな隔たりもある。
 文化というものは遺伝していますから、けっして途切れないんですね。江戸時代の伝統的な文化は、医学の分野においてパターンとなって残っている。いまでもわれわれのなかに濃厚にある。
 ……
 オランダは当時、ジャカルタその他に多くの植民地を持っていましたから、海軍が非常に発達していました。植民地の管理をする外交官を連れて行かなければなりませんし、本国と植民地を往復する商船も保護しなければなりません。医者も必要です。しかし、僻地でドクターになる人はなかなかいません。ですから恩典を設けなければなりません。
 恩典とは、ジュニアコースを経ずに、いきなりメディカルコースに入るというか、速成で医者になれる。さらにその学校を卒業すれば、海軍少佐になれるというものでした。
 ポンペ先生はその速成教育を受けて、来日した。大学時代のノートを全部持ってきて、医学に関するあらゆる学科を一人で教えた。
 ただ重要なのはシステマティックに教えたことですね。それまで、たとえばシーボルトはどうかといえば、任意で、いわば趣味で医学を教えた。教え方も医学の『かけら』を教えたといっていいと思います。しかし、ポンペ先生は基礎を教えた。この点がずいぶん違います。
 ところでポンペ先生は江戸時代の日本にやって来ました。封建制の時代ですから、幕府はこう考えた。
 『ポンペ先生はオランダ国王の代理人であり、オランダ国王の旗本だ』
 ですから幕府はポンペ先生に対しては、こちらも旗本を出そうと考えた。ポンペ先生の弟子はただ一人です。それが松本良順でした。
 医学とは親切という電流を発する学問
 幕府は考えたのでしょう。各藩の家来や、百姓身分の者を接触させては危険だと。何が危険なのかわかりませんが、当時はそういう頭であります。
 ですから大秀才で聞こえた松本良順を弟子にして、彼に講義をする。良順はノートをとり、宿屋に帰って各藩から集まった秀才に良順が教える。実際の光景はちょっと違うのですが、とにかくそういう形式を幕府はとった。ところが困ったことがありました。良順はオランダ語の読み書きはできるのですが、しゃべることができません。日本の語学教育のとおりの人であり、まして聞き取りはできません。
 しかし必要なときに、必要な人間が現れるものですね。
 佐渡の出身で、伊之助という少年が松本良順の家に出入りしていました。おそらく日本の歴史始まって以来の語学の天才ですね。伊之助は佐渡と江戸しか知らないのですが、オランダ語を話すことができました。その国の人間に接触することもなしに、その国の言語が話せるという、異能としかいいようのない人物でした。こうしてポンペ先生が講義をして、それを良順と伊之助が聞くという形ができあがります。
 さらにポンペ先生は、医学教育は病院があってはじめてでいるものだという考えのもと、病院づくりに乗り出します。『長崎養生所』という施設でして、田舎にあるプロテスタントの教会のような、いい勾配の屋根のある建物ができあがりました。その病院には多くの患者が入院しています。ポンペ先生が回診し、指示をする。幕府の建前がありますから、松本良順が院長となりました。
 ポンペさんが回診するときには、建前はあったのですが、やがて各藩の秀才たちがついて回るようになり、ポンペ先生の指示に従って、患者たちの面倒を見て回った。そのなかに、三田尻の荒瀬先生のおじいさんもいたことでしょう。
 この時代は看護婦もいませんでした。当時のヨーロッパではすでに医薬分離が進んでいましたが、いないものは仕方ありません。薬剤師まで育成する余裕はないので、ポンペ先生が薬も出した。病院という場にあっては患者の社会的な身分は関係ない、平等なのだということを教えられた。
 ヨーロッパの市民社会を成立させた『自由と平等』ということの大切さを、ポンペ先生は病院という場で教えてくれた人でもありました。
 要するに医学というものは非常に厳かな学問である。そして人間にとって本来、親切という電流を発する学問なのです。」
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 2020年6月11日号 週刊新潮「『常識』が喪われた『コロナ後』に戻るべき価値観の原点   佐伯啓思
 ……
 『記憶を戻す』
 ……
 60年代を想起すれば、すぐに『現実的ではない』『復古主義』だと反論が聞こえてくるだろう。繰り返すが、その時代に戻る必要はないし、戻ることなどできない。そうではなく、大事なのは『記憶を戻す』ことである。我々は、どういう来し方を経て今日に辿り着いたのか。その行程を馳せることにこそ意味があるのだろう。
 あの時代から、何が喪われてこの閉塞的な現代社会に行き着いたのか。例えば当時は一方では革新的風潮があるが、他方では自然に道徳観が成り立っていた。教師と生徒の関係しかり、親子の関係しかり。友人同士の信頼、利より義を大切にするといった道徳観が社会を支えていた。
 それが現代では全て崩壊している。グローバルスタンダードの名のもと、人間関係は全て、契約関係、権利義務関係、説明責任などで語られるようになった。家庭や学校、地域社会、企業組織といった、ビジネス基準で計ることのできない極めて『人間的』なところにもグローバルスタンダードが持ち込まれた。要はアメリカ的基準がいいのだと、日本は戦前のほとんど全てを捨て去ってしまったのだ。
 戦争が終わる直前に、柳田國男は『祖先の話』にこう記している。いずれ誤っていたものとして、日本社会を支えていた『家』はなくなっていくだろうと。『家』とは単に親から子への財産の相続ではなく、人間のあり方や生きていく上で大事なもの、道徳観を含めて上の世代から下の世代へと受け継いでいく仕組みであった。だが、西洋的な思想が入ってきて消滅していくに違いない。だからここに書き留めておくと。
 実際、権威的封建主義は間違いだと批判され、戦後、『家』は崩れていった。『家父長制』のために日本は戦争に突入したということになった。そこに個人主義と契約型のアメリカ的基準が持ち込まれ、礼賛されてきた。だがそれはどうも日本には馴染まない。日本には日本の社会構成の原理がある。80年代には、『イエ社会』こそが日本型の社会秩序だという議論も出された。しかし90年代になると、アメリカ的基準から外されたものはすべて『日本的弊害』とされ、負のしがらみと目された。
 ……」
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 佐藤 泰然(さとう たいぜん、文化元年(1804年) - 明治5年4月10日(1872年5月16日))は、日本の蘭方医。名は信圭(のぶかど)、号は紅園、泰然は通称。初め田辺庄右衛門と称し,旗本伊奈家用人をつとめた。佐藤藤佐の子。順天堂大学の基礎を作った人物として知られている。
 生涯
 文化元年(1804年)、佐藤藤佐の子として、現在の神奈川県川崎市にて誕生した。
 天保元年(1830年)、蘭方医を志し、足立長雋や高野長英に師事。天保6年(1835年)に長崎に留学し、天保9年(1838年)に江戸へ戻ると、両国薬研堀に「和田塾」を開いた(和田は母の姓)。
 天保14年(1843年)、佐倉藩堀田正睦の招きで江戸から佐倉に移住。病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設。また姓も父の佐藤姓を名乗る。
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 松本 良順(まつもと りょうじゅん、天保3年6月16日(1832年7月13日) - 明治40年(1907年)3月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治期の日本の医師(御典医、軍医)、政治家。爵位は男爵。
 西洋医学所頭取、将軍侍医、幕府陸軍軍医、大日本帝国陸軍軍医総監(初代)、貴族院貴族院勅選議員などを務めた。父は佐倉藩藩医で順天堂を営む佐藤泰然。外務大臣の林董は実弟。幼名は佐藤順之助。後に幕医の松本良甫の養子となる。明治4年1871年)に従五位に叙せられた後、順(じゅん)に改名した。号は蘭疇、楽痴。
 略歴
 天保3年(1832年)6月16日、江戸麻布(東京都港区)に生まれる。
 嘉永元年(1848年)、佐倉藩で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設していた父佐藤泰然の元へ行き、助手を勤める。
 嘉永2年(1849年)、松本良甫の養子となる。

 文久3年(1863年)12月26日、奥医師に進み、医学所頭取(東京大学医学部の前身)となる。医学所をポンペ式の授業に改め、前任者緒方洪庵適塾式の学習に慣れた学生らと対立する。
 元治元年(1864年)5月9日、法眼に叙せらる。同年6月1日、奥医師の任を解かれ、寄合医師となる。同年8月15日、奥医師に再任される。将軍侍医などを務め、将軍徳川家茂などの治療を行う。
 会津藩の下で京都の治安維持のために活動していた新選組の局長である近藤勇とも親交があり、隊士の診療も行う。
 慶応2年(1866年)夏、第2次長州征伐のため、大坂に出陣していた家茂の病状が悪化、常に近侍するように求められ、当人も不眠で治療にあたることでその信頼に応えたが、その甲斐なく7月20日に死去した。
 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏した。戦後一時投獄されるが、明治2年1869年赦免され、出獄後に東京の早稲田に西洋式病院の蘭疇院設立。山縣有朋などの薦めで明治4年1871年)に兵部省に出仕。
 明治6年1873年大日本帝国陸軍初代軍医総監となる。

 その他
 親交のあった近藤勇土方歳三の供養塔を、新選組二番隊組長でもあった永倉新八に請われ建立した。
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 養子縁組(養子縁組み)とは、具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させることをいう。英語では "adoption" といい(第2義)、日本語にもこれを音写した外来語「アダプション」「アドプション」がある。
 日本における養子縁組制度の歴史
 日本の歴史において、最初に現れる養子に関する法律は、唐の律令法の影響を受けて成立した大宝律令であるといわれている。ただし、中国の宗族社会と違って、氏姓制度の延長上に成り立った日本社会では、中国のような厳格な制限は設けられず、一定の年下の者であれば養子縁組は比較的簡単に許された。このため、貴族社会においては、高官が優秀な孫や庶流・傍流出身者を養子に迎え、蔭位制度を活用してその出世を助けることで、結果的に一族の繁栄を図ろうとするための養子縁組が多くなった。また、時には遠い親戚や異姓出身者を養子にする者もあった。また、平安時代までは、「養子」とより擬制的な要素の強い「猶子」との区別はあいまいであった。家の継承という要素が強くなり、養子と猶子の分離が進むのは、中世以後のことであるが、南北朝時代に入っても混用は残っていた。
 当時の養子縁組の代表的な例として摂関家を例に取ると、仁寿年間(851-854年間)に文徳天皇の義父として権力を振るっていた正二位右大臣・藤原良房に男子がいないために、長兄で正三位参議であった長良の三男・基経を養子に迎えた。その結果、基経は養父の蔭位によって17歳の若さで蔵人になった一方で、長良の子としてそのまま育ったその同父母兄弟は、兄・国経が31歳、弟・清経は32歳になってやっと蔵人に到達したのである。さらに、良房が摂政・太政大臣に登り詰めたのに対して、長良は権中納言で死去したために、その出世の格差は広がるばかりであった。異姓の養子の例としては、姉婿である藤原頼通の養子となって後の村上源氏繁栄の基礎を築いた源師房などがいる。
 そのため、上級貴族は少しでも子孫にとって優位な出世をさせるための養子縁組を次々と組むようになっていく。極端な例としては、同じく摂関家藤原忠実とその子・孫のケースが挙げられる。忠実の長男・忠通に男子ができなかったために、忠実は自分が寵愛していたその弟の頼長を忠通の養子にさせた。その後、忠通に実子が生まれて忠実・頼長と忠通が不仲になると、頼長の息子である師長を早く出世させるために、忠実は師長を自分の養子にして蔭位の便宜を図った。この結果、師長からみて忠通は本来の系譜上の伯父というだけでなく、同時に祖父でもあり兄でもあるという大変複雑な事態が生じたのである。
 鎌倉時代後期以後になると、家督と所領の一体化が進んで嫡子相続が一般的になるにつれて、家の存続を最優先とした養子縁組が行われるようになる。特に武士では、当主に男子がいない場合、もしくは幼少の場合に、主君への忠勤を尽くせないことを理由に所領を没収されるなどの事態を避けるため、養子縁組を行うことが一般的となった。
 実弟を養子とすることや、養父の実の息子(養子の義理の弟)を養子が自身の養子とすることはしばしばみられる。これらはいずれも順養子という。後者の順養子の場合、1代限りであれば間に入った養子は中継ぎ的立場になるが、代々順養子を重ねて両統迭立のような形になる例もある。また、娘に夫を迎えて養子とする婿養子、大名が参勤交代などの折に、万が一の事態に備えあらかじめ届け出る仮養子、大名・家臣が急に危篤になった場合に出される末期養子などがあった。このほか、他家の大名などを縁戚として傘下に取り込みたいが実の娘に適当な者がいない場合、一族や重臣の娘を形式的に養女とした上で娶せることも行われた(養女に夫を迎える形式の婿養子の例もあった)。
 江戸幕府は当初は様々な養子規制を設けたものの、慶安の変をきっかけに末期養子の禁を緩め、享保18年(1738年)には当主か妻の縁戚であれば浪人・陪臣でも養子が可能とされた。養子の規制は時代が下るにつれて緩くなり、江戸時代後期には商人などの資産家の二男以下が持参金を持って武家に養子に行って武士身分を得るという持参金養子が盛んになり、士分の取得を容易にした。一方、商人・農民などの庶民間における養子縁組は、証文のやり取りだけで縁組も離縁も比較的容易であり、「家名の存続」よりも「家業の経営」を重視した養子縁組が行われることが多かった。また、享保の制度変更によって女性の名義では借家を借りることができなくなったことから、女性だけの世帯が家を借りる際には、男性の名義を借りるための便宜的な養子縁組が行われるようになった。
 明治時代以後になると「家」を社会秩序の中心に置く家制度が全ての階層に広げられた結果、養子縁組も家制度の維持という観点で行われることが多くなった。それが大きく変わるのは第二次世界大戦後の日本国憲法制定に伴う民法改正以後のことである。
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 江戸時代。社会的地位の高い漢方医は、中国医学こそ最高医学と盲信し、西洋医学は毛唐の医学と見下し、蘭方医を差別していた。
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 江戸時代。庶民にとって日本社会とは、何の保障もない冷たいブラック社会で、夢も希望もなく毎日毎日働いて食って遊んで寝るだけの何の変哲もない人生であった。
 江戸社会は閉塞感や重圧感が強く、日本人は締めつけられような押し潰されそうな中を息苦しそうに生きていた。
 世を僻んで不平不満を並べ、人を嫉妬し恨み辛みを抱く者は、バカを通り越した下品で下劣で下等な人間とされた。
 つまり、粋、いなせ、男伊達とは無縁の人の風上にも置けない下らない奴と嫌われた。
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 庶民(百姓や町人)でも、金で御家人株を買って武士になり、主君に才能・能力が認められると町奉行勘定奉行・郡奉行・遠国奉行・代官などの重要な役職を与えられた。
 庶民出身の金上がり武士や成り上がり侍が幾ら頑張っても、政治権力を持つ将軍職や大名職、そして伝統文化的権威の天皇位と公家にはなれなかった。
 つまり、日本の身分制度は制限されていた。
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 日本民族日本人は、権力には反発するが権威には弱い。
 江戸時代は、権威中心封建時代であった。
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 中華(中国・朝鮮)世界では身分制度は制限なしの完全な自由で、血筋に関係なく、人種や民族に関係なく、個人の能力・才能・実力があり夢や希望を持てば皇帝や国王に制限なく即位する事ができた。
 異民族が中国の皇帝や国王に就任していた。
 それは西洋でも同じで、フランス人やドイツ人がイギリス国王に、ドイツ人がスペイン国王に、ドイツ人女性がロシア皇帝に、フランス人がスエーデン国王に、といったように国籍や民族に関係なく自由に他国の皇帝・国王に即位できた。
 ローマ教皇も、絶対神と信仰契約をし、イエス・キリストに従うを誓約すれば、人種や民族、出身国、身分・階級に関係なく即位できた。
 それが、開かれて王室という意味である。
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