🏞109)─3─戦前の国定教科書で教えれていた商人・濱口梧陵の人助け。~No.424No.425No.426 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 民族的豪商と言える企業家・経営者は、2005年に死亡したダイエー創業者の中内功が最後かもしれない。
 そして、その時代の区切りは1995年頃で、それ以降の2000年代の日本には存在しない。
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 現代の日本人と昔の日本人は、別人のような日本人である。
 昔の日本民族日本人が偉かったからと言って、現代の日本国民日本人も偉いとは限らない、むしろ両者の間には絆が断絶している、つまり両者の繋がりがない。
 それは、戦前の修身を否定して捨て去った現代の歴史教育を見れば一目瞭然である。
 歴史の断裂は1980年代後半頃に起き、その前と後では日本の景色が正反対に近い程にはっきりと違う。
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 現代のマルクス主義歴史教育は、軍国日本の国定教科書・修身で人徳として教えていた庶民階級の濱口梧陵や二宮金次郎二宮尊徳)らを否定し歴史の闇に葬り、子供達に教えないばからりか目の前から消した。
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 2021年10月29日号 週刊朝日司馬遼太郎 もうひとつの幕末史
 『胡蝶の夢』の人々⑮
 『胡蝶の夢』に登場する勝海舟、伊藤玄朴、関寬斎。優秀だが曲者ぞろいの男たちが尊敬した人物がいる。豪商・濱口梧陵(はまぐちごりょう)である。
 文=本誌・村井重俊、守田直樹 写真=小林修(写真部)
 紀州の『生き神』
 千葉県銚子市に本社のある『ヤマサ醤油』。醤油業界のパイオニアであり、全国シェア2位、マツコ・デラックス大泉洋のCMもよく目にする。
 江戸初期の1645(正保2)年、初代濱口儀兵衛が紀州から銚子に渡って創業した。以後の当主たちは、ルーツである紀州の広村(現和歌山県広川町)と関東を往復しつつ、家業を拡大していった。
 7代目当主の濱口梧陵(1820~85)が今回の主人公になる。家業を守りつつ、学業と武術を学び、その識見は早くから幕閣にも注目され、災害対策、人材育成などに力を入れた。
 明治後には和歌山県の初代県議会長、中央政府の初代駅逓頭({えきていかしら}郵政大臣に相当)をつとめるなど、政治家としても活躍している。
 まず、蘭方医伊東玄朴の窮地を救った。玄朴は多くの仲間の協力を得て、1858(安政5)年に『種痘所』をつくったが、半年後の火事で焼けてしまった。
 資金が尽きた玄朴に、梧陵は300両を出し、再建させた。さらに種痘所が医学生たちの『西洋医学所』(後の東大医学部)になる段階で、400両を寄付した。
 〈もし寄付者の名前を冠するアメリカの場合なら、濱口梧陵種痘所というふうに称せられたにちがいない。(略)この人物の西洋医学勃興時代の功績は大きい〉
 と、『胡蝶の夢』にある。
 勝海舟との出会いは1850(嘉永3)年ごろだった。海舟29歳、梧陵32歳で、海舟は貧乏で洋書代に苦しんでいた。梧陵は先進的な開国派でもあり、勝海舟の能力を高く評価し、赤坂で兵学塾を開いたばかりの勝を助けた。
 『Bookにつきましては色々と思い通りになっております。あなた様のおかげで、必要な書物が手に入ることになりました』
 と、勝は礼状を書いている(『濱口梧陵傳』)。
 咸臨丸でアメリカに渡ったときも、勝は一緒に行くことを梧陵に勧めた。家業の都合もあって果たせなかったが、互いの交友は明治後も続いた。
 関寬斎(1830~1912)はもっとも梧陵の世話になっている。『胡蝶の夢』後半では、松本良順や伊之助(司馬凌海)より主役となる人物で、もともとは上総・東金(千葉県東金市)の農家にうまれ。佐倉順天堂で佐藤泰然に学び、難しい膀胱穿刺(せんし)手術の助手をつとめるなど腕を磨く。泰然の子、良順はひそかに寬斎を尊敬していた。
 〈年齢は寬斎のほうが2歳上にすぎないが、外科手術の天才として良順は寬斎の名声を早くからきかされていた〉
 その後、寬斎は銚子で開業し、梧陵の知己(ちき)を得る。梧陵は人材を見抜く名人だったかもしれない。
 寬斎を江戸に呼び寄せ、流行中のコレラの治療と予防法を学ばせた。
 さらにポンペ教授の来日を知り、長崎行きを勧めた。梧陵は100両を出し、寬斎は50両を妻子と老親のために置いて出発する。長崎での寬斎は着たきり雀だった。
 〈着物は(略)継ぎあてを重ねて行ったために長崎の橋の下の乞食もおどろくほどになった〉
 その後、寬斎と伊之助は蘭方医が使う薬を解説した『七新薬』という本を出版したが、出版費用も梧陵が出した。こうして寬斎は約1年、ポンペに学ぶことができた。
 〈銚子に帰ると、長崎帰りということで、流行医になった。(略)1年ほどで濱口梧陵に借金の半分を返済することができたというから、その流行りぶりが想像できる〉
 その借金も半分は免除で、さらに寬斎の回想している。
 『私の留守中、家族はいつも濱口家によって養われ、濱口翁も銚子にいる時にはしばしば訪問されたが、私がいよいよ学問を終えて江戸に帰った時、翁はこの知らせを聞くとすぐに私の留守宅を訪ねられ、(今は亡き)妻に向かって、このことを報告すると同時にようやく肩の荷を下ろしたとおっしゃった。(略)そのころに受けた厚意について到底計算することが出来ないほど莫大なものであった』(『濱口梧陵傳』)
 梧陵の果てしない厚意は明治後も続き、寬斎の人生観に大きな影響を与えていった。
  ◇  ◇  
 濱口梧陵の故郷、広川町は和歌山市から高速道路で南下して1時間足らずで着く。人口約7,000の海辺の町に『濱口梧陵記念館』と『津波防災教育センター』が併設され、『稲むらの火の館』と名づけられている。館長の﨑山光一さん(72)はいう。
 『梧陵さんはあまり歴史小説に登場しませんね。もし司馬さんが梧陵さんを主役に小説を書いてくださったら、梧陵さん、大河ドラマの主役になったでしょう』
 梧陵は防災の人でもあった。家督を継いだ1853(嘉永6)年、11月4日、東海地方を震源とする地震があり、翌日の5日夕、広村は『安政の南海地震』に見舞われる。巨大津波が襲い、梧陵ものみ込まれた。
 『瞬く間に潮流(ちょうりゅう)が身体の半分ぐらいまで押し寄せ、沈んだり浮いたりしながら辛うじてある丘陵に漂着し、後ろを見ると潮の流れに押し流される者もあり、あるいは流木に捕まって命を長らえた者もいた。その悲惨な有様は見るに忍びなかった』(『濱口梧陵傳』)
 梧陵は日没後も生存者を探索した。暗闇で道に迷った生存者の目印にするため、田んぼに稲わらを積んだ『稲むら』に火をつけた。
 村人を救う行為は当時から評判となった。明治23年に来日した小泉八雲ラフカディオ・ハーン)も感動し、梧陵を主人公にした小説『A Living God(生ける神)』を書いている。さらにこの作品をもとに中井常蔵が『稲むら』を創作。1937(昭和12)年から10年間、国定の小学国語読本に採用された。
 『梧陵さんは津波が収まると、すぐに救援活動に入ります。村人のその夜の食料をまず調達し、その後は自分の蔵米も差し出した。年明けの1月には紀州藩に対し、「工事費は自分が払うので、堤防工事をさせてほしい」という願いを出し、許可された。村人の離村を防ぎ、働く場所をつくりました』
 村人の家屋や漁船の費用なども援助し、現在の価値だと約20億円も使ったという。
 この年の10月には水戸藩藤田東湖も死去した『安政の江戸地震』が発生した。堤防工事は地元民に任せ、梧陵は江戸に向かう。
 『ヤマサの江戸の店は、この地震で一時閉鎖しています。番頭たちは広村への送金をやめるよう頼みますが、梧陵さんは支援をやめませんでした。さすがのヤマサの屋台骨を揺るがすほどの出費でしたが、どうしてそこまで慈善心があったか、想像もできません』
 寬斎についていうと、長崎から帰ったとき、梧陵はさらに蘭学を勉強するよう勧めている。もちろん費用は負担するという。とこが寬斎には阿波(徳島)藩主の蜂須賀家の御典医になる話が舞い込んでいた。寬斎は梧陵の提案を断って阿波行きを選択した。
 『寬斎は家族の生活のことも考え、好条件の話に乗った。梧陵の周囲の者は少し腹を立てますが、梧陵さんは快く送り出しています。寬斎はこうして出発するのですが、銚子から徳島へ引っ越しの荷物を送ったとき、運悪く船が沈没してしまいます。その話を聞いた梧陵さんが、急いで家財道具を作り直して送っている。寬斎の奥さんは広村のほうを向いて手を合わせて、頭を下げ続けたそうです』
 寬斎は回想している。
 『梧陵翁が私をかわいがって下さったのは、思うに銚子のような僻遠(へきえん)の土地では名医を得るということは難しく、私のような鈍才といってもこれを勉強させて、長くこの土地に置いたら人々の幸せとなるだろうという気持ちからのことだろう』
 そして、徳島に行ったことを終生後悔したようだ。
 『明治維新後に、私は幸いにも一時期政府に用いられたことがあったが、ほどなく退職することになったのは、以前濱口翁の提案に従って蘭学を修めることをしなかったからである』
 寬斎は謙遜しているが、その能力は阿波藩でも、新政府でも高く評価された。
 とくに上野彰義隊攻めの責任者、大村益次郎が寬斎に注目した。もともと蘭方医あがりの大村は、寬斎の実力をよく知っていた。
 総攻撃の寸前に命令を出し、
 『神田講武所に病院を開いてほしい』
 と、寬斎個人に命じてきた。
 以後、寬斎は陸軍野戦病院長として従軍することになる。
 一方、良順は江戸を脱走した。旧幕軍に合流、負傷者の治療に追われた。共にポンペに学んだ2人は敵味方に分かれることになる。
 『武士は鎌倉風でいいんだ』
 良順は会津へと向かう。」
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 大阪同和・人権問題企業連合会
 トップページ > シリーズ > わたしの歴史人物探訪 > 大津波から命を守れ! 濱口梧陵と、彼の功績を広く知らしめた 小泉八雲 その1
 わたしの歴史人物探訪
 はじめに
 今回は異例だが、二人の人生を同時に、短く紹介させていただくこととした。読み進めば、その理由が納得いただけよう。
 まず、約200年前に生まれた濱口梧陵(はまぐち ごりょう)とはいかなる人物だったのかを、お伝えしよう。
 続いて、彼が成したことに感銘を覚え、英文でそれを著したラフカディオ・ハーン、日本に帰化しての名、小泉八雲を紹介する。
 生い立ち
 「梧陵」は雅号で、正しくは儀兵衛と呼ぶべきかもしれないが、この稿では広く伝わる梧陵で通そう。
 1820(文政3)年に、現在の和歌山県有田郡広川町に、今では「ヤマサ」で知られる、醤油醸造業を営む「濱口儀兵衛家」の分家に彼は生まれた。
 12歳で本家の跡取りとなり、34歳で7代目として醸造業を継いだ。和歌山と千葉の距離感に、いささかの戸惑いもあるが、銚子での工場経営のみならず、当時の大店の主(あるじ)として広く学び、公の人間としての自分はどうあるべきなのか、常に心がけて育っていったことは確かだ。
 彼は単なる実業家でなく、教育者、社会事業家、政治家としての人生をも歩んでいくことになる。
 江戸でも学んで、開国論に傾いた梧陵は、海外への留学も志すが、それはこの時代にあって許されるはずもなく、故郷の広村へ帰り、教育機関を立ち上げて若者たちの育成を図ったりもしたのだった。
 大津波の襲来
 2011(平成23)年3月の東日本大震災から引き起こされた巨大な津波は、改めて人びとにその恐ろしさと防災の必要さを認識させたものだった。
 彼が醸造業者の主となった翌年の、1854(安政元)年11月5日、安政南海地震が発生。続く津波が、彼の住む紀州、広村を襲った。梧陵は、人びとがそれを目印に高台の広八幡神社へ避難できるよう、自身の田の藁(わら)の山に火を放った。結果的に村人の死者は30名ほどで、9割の人びとは助けられたという。
 彼の残した手記には「すでに日はすっかり暮れてしまった。そこで松明をつけて、道端の藁山10余りに火を放たせた。その火によって、漂流者に、その身を寄せて安全を得ることの出来る場所を表示しようとした。この案は意味がないものではなかった。この火を頼りにして、非常に危ないところを、辛うじて命が助かった者も少なくない」と。
 津波から命を救うには、いかに速く情報を伝達できるかにかかっているという事実は、東日本大震災の大津波でも明らかだ。
 これだけでは終わらない。その後の梧陵の行動もまた、素晴らしかった。家屋、財産、仕事の手立てを失った村人に、まずは水と食糧を整え、農家には農具を、漁師には船、漁具を、商家には資金の援助を。
 すべてが流された村に見切りをつけ、人びとが故郷を捨てなくても済むように、仕事と賃金を与えなくてはならない。津波から村人の命を守るための大きな波よけ土手を作る工事ならば、一石二鳥の効果があろう。
 紀州藩に対して「この工事は恐れながら私がどうにかしてでもやりくりをします。万一洪浪(こうずい)があっても人命はもちろん、田畑、家、家財を無事でしのぎ、村を離れないようにする主な方法であり、人心が安堵し、追々に村に益をもたらすと考えられますので、災害復興のためにご配慮賜りますようお願いします」との口上書を送ったのだった。
 築堤に従事した人数は、延べ56,736人。広村の復興と防災工事の総費用は堤防を含めて6,204両に上り、すべては梧陵の私財と、醸造業の利益で賄われたのだった。堤防完成から88年後の1946(昭和21)年、広村を昭和南地震津波が襲ったが被害は軽微に止まり得たのだった。
 その後の梧陵
 彼はまた、医学の発達にも支援を惜しまず、当時、恐れられていた、天然痘を根絶しようと設立された種痘館の復興に手を差し伸べた。
 これは後に「西洋医学所」となり、現在の東京大学医学部の基礎となったのだ。またコレラ防疫にも力を注ぐなど、多くの社会事業を手掛けた。
 また、商人ながら、紀州藩勘定奉行に抜擢されて紀州藩、後には和歌山県の経済の近代化に尽力し、副知事として政治改革に乗り出したりもしている。
 1869(明治2)年に大広間席学習館知事に任じられた梧陵は「学問の要は安民にあり。安民の本は修身にあり。まず五倫を明らかにし道芸を学び、大雅の風を存すべし」とする学則五箇条を定めた。難しい言葉が並んでいるが、言わんとするところは己(おのれ)の信条。学んで知ることと行動することは常に相表裏している、真の知識は実践を伴うもの、といった意味だ。
 また、西洋文明を学ぶには語学が必要と考え、英語教育に力を入れて「共立学舎」を立ち上げたりもした。
 彼の生涯における行動は、まさに「済世安民(さいせいあんたみ)」世の中の弊害を取り除いて、世の人びとを救い、民に平和をもたらそうとする志から成されたものだった。若い時分から、海外の事情や国際情勢に興味を持ち続けていた梧陵は、65歳にしてようやく念願の欧米視察に出発した。
 そして、途上のニューヨークで病没した。
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 ヤマサの歴史
 戦前の国定教科書にものった「稲むらの火
 ~第7代濱濱口儀兵衛~
 実業家であり、政治家であった7代
 初代儀兵衛の後、2代教了、3代教寛、4代安六、5代灌圃、6代保平と続き、創業から約200年後の1853年(嘉永6年)、5代目灌圃の孫にあたる梧陵が、7代濱口儀兵衛を襲名しました。 梧陵は1820年(文政3年)に生まれ、1853年(嘉永6年)に家督を相続し、幕末の風雲の中で、家業を守りました。彼はヤマサ醤油7代目という実業家としての活躍のみならず、私欲を顧みない社会福祉事業や政治活動に心血を注ぎ、近代日本の発展に大きな足跡を残しています。
 戦前の国定教科書にも載った「稲むらの火」の主人公
 1854年安政元年)11月4日、5日の2回にわたって襲った南海の大地震に際し、偶然故郷の紀州・広村(現在の広川町)に戻っていた梧陵は、海水の干き方、井戸水の急退などにより、大津波が来ることを予期しました。梧陵は村民を避難させるため、田圃に積んであった収穫された稲束(稲むら)に火を投じて急を知らせ、村民の命を救ったといいます。この行為に感動した明治の文豪・ラフカディオ・ハーン小泉八雲)は、「仏の畠の中の落穂拾い」という短編集の中で、‘A Living God(生ける神)’として梧陵を紹介しています。のちにこれをもとにして、小学校教師であった中井常蔵氏が著した物語「稲むらの火」は、昭和12年から昭和22年まで国定の小学国語読本に採用されました。
 「稲むらの火」の詳しい内容はここをクリック
 津波から守る堤防の建設
 梧陵の活躍は人命救助だけに留まりません。津波の壊滅的な被害を受けた広村の村民のために、救援家屋の建設や農漁具の調達などを行い、離村を防止しました。また、将来の津波被害を防止するため、1855年安政2年)から4年間、銀94貫を費やし、堤防の建設を進めました。全長600m、高さ5m、海側に松、陸側に櫨(ハゼ)の木が植えられたその姿は、今でもその景観をたたえており、史跡に指定されています。
 人事の育成・学問の発展に貢献
 幕末、銚子で開業していた蘭学医・三宅艮斎と交流を持ち、西洋に興味のあった梧陵は、1852年(嘉永5年)、広村に「稽古場」を開設しました。西洋文明の長を探り、青少年の人材の育成に務めたこの稽古場は、耐久社、耐久学舎、耐久中学と名を変え、今日では和歌山県立耐久高校として、長い歴史を誇っています。
 また、1858年(安政5年)、江戸(神田お玉ヶ池)にある種痘所が火災にあい、焼け落ちたときは300両を寄付し再建。また、濱口梧陵傳によると、図書及び機械類の購入費のため更に400両を寄付し、その種痘所は、のちに西洋医学所と称し江戸唯一の西洋医学研究所となりました。(現在の東京大学医学部の基礎となる。)
 梧陵は、人材育成や学問の発展、社会貢献のため労を惜しまない人物だったのです。
 幕末から維新へ、近代日本の一偉人
 幕末に生まれ、7代濱口儀兵衛という実業家としての働きと共に、日本の発展のために力をつくした梧陵は、卓抜した識見や人間としての気宇の大きさから、時代の政府にも招かれました。和歌山藩勘定奉行和歌山県初代の県会議長を経て、中央政府にも召されて初代駅逓頭(以前の郵政大臣に相当)になり、近代的な郵便制度の創設にあたりました。また、佐久間象山、菊池海荘、福田兵四郎、勝海舟福沢諭吉など多くの知識人と広い交流を持ち、勝海舟は梧陵の死後に、その顕彰碑に文をささげています。
 最上醤油の称号を受けたヤマサ醤油
 1864年(元治元年)、ヤマサ醤油が幕府より特に品質に優れた醤油として認められ、最上醤油の称号を得たのも梧陵の時代です。
 また、これからは日本も洋食の時代が来るとして、8代儀兵衛(梧荘)は国産ソース第一号のミカドソースを作り米国に輸出しましたが、これは常に海外に目を向けていた梧陵の志を継いだ功績です。
 7代目の活躍した時代
 梧陵は幕末から明治の激動の時代に活躍しました。ペリーが浦賀に来航し、幕府に開港を迫った時には、「いまや世界の大勢を見るに、何れも門戸を開放して、対外に交際せざる国なし」と喝破し、その意見を耳にした老中小笠原壱岐守と後日会談したと記録に残っています。また、当時の知識人たちとも親交が厚く、福沢諭吉の直筆文の中で「博識の人なり」と評されています。
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 濱口 梧陵(文政3年6月15日(1820年7月24日) - 1885年(明治18年)4月21日)は、紀伊国有田郡広村(現・和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。駅逓頭(後の郵政大臣に相当)や、初代和歌山県会議長を務めた。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。
 醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語『稲むらの火』のモデルとしても知られる。
 経歴
 生い立ち
 紀州湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男として生まれる。12歳で本家(濱口儀兵衛家)の養子となって、銚子に移る。
 その後、若くして江戸に上って見聞を広め、開国論者となった。海外留学を志願するが、開国直前の江戸幕府の受け容れるところとならず、30歳で帰郷して事業を行った。嘉永5年(1852年)、同業の濱口吉右衛門(東江)・岩崎重次郎(明岳)とともに広村に稽古場「耐久舎」(現在の和歌山県立耐久高等学校)を開設して後進の育成を図った。嘉永7年(1854年)頃、七代目濱口儀兵衛を相続する。
 稲むらの火
 安政元年11月5日(1854年12月24日)夜、安政南海地震津波が広村に襲来した後に、梧陵は自身の田にあった藁の山に火をつけて安全な高台にある広八幡神社への避難路を示す明かりとし、速やかに村人を誘導することができた。結果として村人の9割以上を救った(死者30人)。津波から命を救えるかは、情報の伝達の速さが関わっているという教訓を残した。これをもとに作られた物語が『稲むらの火』として知られている(ただし、物語は史実とは一部異なる部分がある。稲むらの火#史実との異同を参照)。
 広村堤防付近の空中写真。
 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。(1974年撮影)
 この災害の後、梧陵は破損した橋を修理するなど復旧につとめたほか、当時では最大級の堤防・広村堤防を約4年かけて修造した。この大土木工事は、荒廃した被災地からの住民離散を防ぐ意味を持つとともに、将来再び襲来するであろう津波に備えての防災事業であった。広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て梧陵が私財を投じたものであり、のちに小泉八雲は彼を浜口五兵衛の名で小説化し、「生ける神(A Living God)」と賞賛している。
 当時としては巨大な堤防の建設の際に「住民百世の安堵を図る」との言葉を残している。堤防完成から88年後の1946年(昭和21年)、広村を昭和南地震津波が襲ったが、この堤防のために被害を減らすことができた。
 また、梧陵の活躍をたたえ、広村堤防には感恩碑(1933年建立)が建てられている。広川町では毎年11月に「津波祭」を行い、梧陵の遺徳をしのぶとともに災害の記憶と災害への備えを伝えている。
 大規模な津波被害が出た2004年12月のスマトラ島沖地震によって、『稲むらの火』の物語が想起されるとともに、そのモデルとなった史実の濱口梧陵の事績が注目された。歴史情報番組『その時歴史が動いた』(NHK総合、2005年1月12日)では、「百世の安堵をはかれ 安政地震・奇跡の復興劇」を放送し、広村堤防築造を中心に梧陵の生涯を紹介した。番組中で解説のゲストとして出演した河田惠昭(京都大学防災研究所教授)は、現代のように災害対策に関心が払われていない時代背景において、災害対策としての目的で、公共事業ではなく一民間人の発案と私財をもって広村堤防建設が実施されたことを、非常に画期的と評価している。
 2005年のスマトラ沖地震津波後に開かれたASEAN緊急会議に出席した当時の首相・小泉純一郎は、シンガポール代表から濱口梧陵の功績を尋ねられている。
 2015年12月4日、国連総会第2委員会は日本を含む142か国の提案により、この逸話のもととなった11月5日を「世界津波の日」に制定することを全会一致で決めた。
 梧陵と近代医学
 梧陵はさまざまな社会事業を手がけたが、とくに医学への支援を厚く行っている。
 梧陵の支援と影響を受けた一人が、関寛斎である。寛斎は1856年(安政3年)、佐藤泰然の推薦によって銚子で医院を開業し、梧陵との知遇を得た。当時流行していたコレラの防疫に意を傾けていた梧陵は、寛斎を江戸の西洋種痘所(後の東京大学医学部)に赴かせ、伊東玄朴、三宅艮斎(三宅秀の父)の下でコレラの予防法を学ばせ、銚子でのコレラ防疫に業績をあげた。後に西洋種痘所が火災により焼失すると、1859年に梧陵は種痘所の再開のために300両を寄付している。
 その成果により、梧陵は寛斎を経済的に支援し、1860年(万延元年)長崎に留学させた。蘭学医・ポンペのもとで1年間学んだ寛斎は、1862年文久2年)、銚子に戻る。梧陵は寛斎に長崎での留学を続けるよう勧めたが、寛斎は翌1863年徳島藩藩医となり徳島へ移住する。寛斎はのちに梧陵の勧めに従わなかったことを悔いたという。
 梧陵は1862年に出版された医学書『七新薬』(司馬凌海著、関寛斎校)の出版に関わる費用を援助するなど、日本の近代医学の発展にも深く関わっている。
 政治家としての活躍
 1868年(慶応4年)には、商人身分ながら異例の抜擢を受けて紀州藩勘定奉行(のちの出納長に相当)に任命され、後には藩校教授や大参事(のちの副知事に相当)を歴任するなど、藩政改革の中心に立って紀州藩和歌山県経済の近代化に尽力した。その後、1871年明治4年)には、大久保利通の要請で初代駅逓頭(えきていのかみ)(のちの郵政大臣に相当)に就任するが、権頭(次官)であった前島密との確執もあって半年足らずで辞職する。
 1880年明治13年)、和歌山県の初代県会議長に就任した。そして、帝国議会開設に備えて、木国同友会を結成した。1885年(明治18年)にかつての夢だった世界旅行に行くも、アメリカ・ニューヨークで病没した。享年66(満64歳没)。
 1915年(大正4年)、従五位を追贈された。
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 日本民族は、子供・大人関係なく才能があり人格・品格・品性が優れた好人物でれば、血筋、身分・家柄・貧富、そして人種・民族・国籍に関係なく惚れ込み、信じきり、託しきり、後先考えず家財を投げ出してまでも支援する癖があった。
 その奇癖は、日本民族石器時代縄文時代弥生時代古墳時代という生い立ちから読み解けるが、それ以上に崇拝宗教と民族中心神話(天皇神話)から生まれ出たものである。
 海の彼方の神と死者の国=常世の国から訪れる賓(まれびと)神、山の上・雲の上の神と死者の世界から降りてくる産土(うぶすな)神。
 輪廻転生、生まれ変わり、蘇り。
 が、そうした奇癖は、戦前の軍国日本まではあったが、平和憲法下の現代日本にはもうない。
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 現代日本は、目の前に祖先が残した石碑・祠があっても関心もなく興味も示さず見向きもせず読まず、古ぼけた無価値なモノとして、地域開発の邪魔と見れば破壊して捨て去る。
 現代の日本人は、作家の創作した時代劇や歴史小説が好きだが事実の基づく歴史は嫌いで、歴史が好きといっても日本民族の歴史は少なく中国の歴史や西洋の歴史の方が多い。
 その意味でも、日本民族の宗教書や哲学書思想書は読まれないどころか、戦前の軍国主義の復活に繋がる、軍国日本の侵略戦争を正当化する、として禁書扱いされている。
 現代の日本人は、歴史を学ばないし、歴史を教訓としないし、歴史を鑑とはしない。
 特に「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と知った振りで語る日本人は信用しない方が身の為である。
 何故なら、彼らほど歴史が判らない、理解できない見本だからである。
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 現代日本人の欠点・短所を、歴史をひっくり返して昔の日本人から導き出し押し付け責任逃れをしようとする事は自分の無能さを曝け出す愚かしい行為で、現代の日本人の失敗の原因は「あくまで」も現代の日本人に全て起因している。
 そうした傾向は、高学歴な知的インテリや進歩的インテリに多い。
 事実、本屋に行くとそうした書籍が多く売られ、中にはベストセラーにもなっている。
 現代の日本人は本をよく読むが、「論語読みの論語知らず」で、読んでも人間形成の役に立っていない。
 1995年1月の阪神淡路大震災、2011年3月の東日本大震災福島第一原発事故、2020年・2021年の武漢肺炎(新型コロナウイルス)蔓延、その危機的状況下の日本と日本人を見れば一目瞭然である。
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 現代の日本人と昔の日本人は別人のような日本人である。
 当然、昔の金持ち・お大尽、豪商・豪農と現代の上級国民・上流階級、富裕層・資産家、企業家・経営者は全然違う。
 昔の日本と現代の日本のはっきりした違いは何処かと言えば、民族的な「人の道」を信じて実践・行動しているどうかである。
 日本民族の「人の道」とは、現代日本キリスト教的なヒューマニズム人道主義、ボランティア・奉仕の精神とは全然違い、石器時代縄文時代からの民族神話に由来する惟神(かんながら)の道、弥生時代古墳時代からの日本仏教、日本儒教論語)、道教、その他の宗教とイデオロギーにおける総体で、心ある人としての有り様、自分を顧みず「已むに已まれぬ」念いでおこなう公益と利他である。
 現代人が好む、他者からの承認を得る目的でおこなう「惻隠の情」とは違う。
 反宗教無神論マルクス主義における自惚れた自己満足的な、1人は万民の為、万民は1人の為に、という掛け声で同調圧力・場の空気・空気圧力を強要する傲慢な行為とも全然違う。
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