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2021年8月13日号 週刊朝日「司馬遼太郎 もうひとつの幕末史
伊東玄朴の魔術
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青木歳幸「玄朴と(松本)良順は水と油みたいなもので、相いれないところはあったと思います。良順との対立もあり、玄朴はやがて失脚する。しかし、玄朴の功績はそれで消えることはない。学問の力で農民から将軍家の奧医師となり、江戸時代の身分制度を実質的に超えた存在だったと思います」(佐賀大学地域学歴史文化研究センター特命教授)
『胡蝶の夢』の重要なテーマは江戸の身分制社会の崩壊であり、玄朴もまた、その主要な人物にふさわしいのかもしれない。」
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伊東 玄朴(いとう げんぼく、寛政12年12月28日(1801年2月11日) - 明治4年1月2日(1871年2月20日))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての蘭方医。江戸幕府奥医師。名は淵。近代医学の祖で、官医界における蘭方の地位を確立した。
生涯
寛政12年(1801年)、肥前国(現在の佐賀県神埼市神埼町的仁比山)にて仁比山神社に仕えた執行重助の子として誕生する。のちに佐賀藩士の伊東家の養子となる。実家の執行家は、佐賀藩着座執行家および櫛田宮社家執行家の一族と考えられるが、当時は貧しい農民であった。また、養家の伊東家は、戦国時代の龍造寺氏の譜代家臣伊東家秀の子孫にあたる。
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古き良き日本では、儒教原理主義=朱子学、キリスト教原理主義、マルクス主義・共産主義は拒絶され根付かなかった。
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日本の身分制度は、世界でも特殊な身分制度で、職業による階層であって上下の階級はなかった。
庶民が成れなかった身分とは、天皇・皇族・皇室であった。
羽柴秀吉は、豊臣秀吉として公家となり、関白・太閤に上り詰め、神に祀られた。
松平元康は、徳川家康として将軍となり、神に祀られた。
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朝日日本歴史人物事典「伊東玄朴」の解説
伊東玄朴
没年:明治4.1.2(1871.2.20)
生年:寛政12.12.28(1801.2.11)
幕末の蘭方医。肥前国(佐賀県)神崎郡仁比山村生まれ。執行重助の長男。幼名は勘助,名は淵,字は伯寿,号は冲斎,長翁,長春庵。佐賀藩士伊東祐章の養子となる。文化12(1815)年漢方医古川佐庵の門に入り,文政1(1818)年医を開業する。5年蘭方医島本竜嘯に入門し,次いで6年長崎の大通詞猪股伝次右衛門にオランダ語を学び,シーボルトにも師事して蘭医学を学んだ。9年江戸に出て,11年本所番場町に医業を開いた。天保2(1831)年佐賀藩主鍋島家の一代士として召しかかえられ,14年には侍医に抜擢された。嘉永2(1849)年長崎にもたらされた牛痘痂を用いて,いち早く牛痘接種法を手がけた。安政5(1858)年神田お玉ケ池に種痘所を設立するに当たっては,江戸在住83名の蘭方医の中心的存在として開設に尽力した。牛痘接種法が天然痘の予防にもっとも有効であることを理解して,これを江戸の市民に実施するために幕閣に対してその効果を説き,時の勘定奉行川路聖謨の拝領地を借り受け,川路も積極的にこの挙に参加した。 また同じ年将軍徳川家定の重病に際し,戸塚静海らと共に蘭方医としてはじめて,将軍の侍医となって治療に参加した。文久1(1861)年法印に叙せられ,長春院の号を賜った。蘭学者としても多くの子弟を養い,天保4(1833)年に開設した蘭学塾象先堂の門に入るもの数百といわれ,各藩の秀才を網羅していた。門下からは医家のみならず,学者,政治家が輩出。お玉ケ池種痘所は万延1(1860)年幕府直轄となり,翌年西洋医学所(その後変遷を経て東大医学部)と改称されて蘭医学を教授する所となり,文久2年玄朴はその取締に就任した。文久3年奥医師を免ぜられて小普請入となり,明治1(1868)年隠居して家督を養子の方成(玄伯)にゆずった。ビショップの著書を翻訳して『医療正始』(1835)を刊行した。<参考文献>伊東栄『伊東玄朴伝』
(深瀬泰旦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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歴史くらぶHome 歴史検証『If』 日本史検定Ⅰ幕末編
伊東玄朴 貧農生まれながら幕府奥医師まで登り詰め、蘭方の地位を確立
伊東玄朴は、長崎の鳴滝塾でシーボルトからオランダ医学を学び、徳川第十三代将軍家定が脚気で重体に陥ったとき、戸塚静海とともに蘭方医として初めて幕府奥医師に登用され、官医界における蘭方の地位を確立した人物だ。「シーボルト事件」(1828年)では、幕府天文方兼御書物奉行・高橋作左衛門からの日本地図を、長崎のシーボルトに届け、罪科に問われるはずだった。だが幸運にも、玄朴は奇跡的に連座を免れた
伊東玄朴は肥前国神埼郡仁比山村(にいやまむら、現在の佐賀県神埼市)で生まれた。生家は貧農で、名は勘造といった。彼が肥前藩から正式に伊東玄朴と名乗ることを許されるのは30歳ごろのことだが、ここでは玄朴で統一する。玄朴の生没年は1800(寛政11)~1871年(明治4年)。彼は読書を好み、隣村の小淵に住む漢方医・古川左庵のもとに下男として住み込んだ。生家に留まれば、田畑を耕し種をまいても、辛うじて飢えをしのぐ程度の収穫しかない。恵まれた頭脳をもって生まれた彼は、農耕以外に立身の道を求めようとし、医家を志したのだ。
玄朴は左庵の家の雑役をしながら、薬箱を提げて往診する左庵につき従って4年間を過ごした。その間に、彼は少しずつ治療の方法を見習っていった。左庵も熱心な彼に目をかけ、薬の調合などもさせるようになった。玄朴が19歳のとき父・重助が死去し、彼は家に帰ったが、家はいぜんとして貧しく借財もあった。農業では借金も支払えないと判断し、大胆にも彼は漢方医の看板を掲げた。生家には母と病弱の弟がいた。このままでは飢え死にを待つばかりだと、彼は必死だった。薬の調合は習ったが、治療の方法はほとんど知らなかった。だが、彼は病人を丁寧に扱った。夜遅くでも起こされれば、喜んで出かけ、泊り込みで病人を見守ることも多かった。
そんな玄朴の態度が素朴な農家の人々に好感を与え、徐々に患家が増えていった。4年の歳月が流れ、彼は休みなく働き、徹底した節約もしたので、かなりの金銭を蓄えることができた。彼は借財を払い、さらに田畑を買い求めて弟に与えた。そして、23歳になっていた彼は、一人前の医家になるためには勉学しなければと考え、郷里を去って佐賀に赴き、蓮池町に住む町医・島本龍嘯を訪れた。島本はオランダ医学に興味を持っていたので、玄朴に長崎へ出てオランダ医学を修めるように勧めた。
蓄財もない玄朴は長崎で、寺男として寺に住み込み、オランダ通詞・猪俣伝次右衛門にオランダ語を習うことになった。猪俣の門には、全国から由緒ある各藩の医家やその子弟が集まり、例外なく恵まれた遊学生活を送っていた。対照的に、玄朴の生活は貧しく悲惨なものだった。だが、彼は寸暇を割いて勉学に励み、同門の者たちとの交際も一切断った。
1823年(文政6年)、長崎にきたシーボルトを中心に洋学の研究が盛んになっていた。シーボルトの開いた鳴滝塾には多くの日本人学徒が集まってきていた。玄朴は猪俣につき従って鳴滝塾に通い、シーボルトの講義を末席で聴講した。1826年(文政9年)、シーボルトはオランダ商館長に随行して長崎・出島を出発、将軍の拝謁を得るため江戸へ向かった。それを追うように師・猪俣伝次右衛門も妻、息子、娘を従えて江戸へ出発し、玄朴も同行した。この道中、思いもかけない不幸が起こった。駿州・沼津の宿場で師の猪俣が病を発症し亡くなってしまったのだ。玄朴は悲嘆にくれる妻子とともに、浅草の天文台役宅に入った。
江戸での玄朴は師の息子、猪俣源三郎がオランダ語の教授を務める手助けをしていた。が、1827年(文政10年)、故郷へ帰ることになった。その際、源三郎から天文方の高橋作左衛門に依頼された日本地図を、長崎のシーボルトへ渡すよう命じられたのだ。1828年(文政11年)、浅草の天文台下に住む高橋作左衛門の捕縛によって「シーボルト事件」は公になった。縛につくものが相次ぎ、源三郎も捕吏に引っ立てられ玄朴に対する追及も始められた。ただ、幕府からシーボルト事件に関係があると疑われることを怖れる肥前藩の留守居役の好判断も加わって、貧農の出の玄朴はこのとき奉行所の手前、藩士・伊東仁兵衛の次男・玄朴として、奉行所の取り調べに対応したのだ。そして、奉行所の詮議には、自分はただの使いで、シーボルトに渡した包みについては一切知らぬ-との申し開きを必死で貫き通し、連座を免れた。
玄朴にとって悪夢のようなシーボルト事件は、この事件で大半のオランダ通詞が処分を受けたことで、結果的には幸運を運んできた。オランダ語を幾分でも知っている玄朴の存在が貴重なものとなったのだ。そして、その年、友人から金5両を借り受けて江戸本所当場町で医業を開いた。さらに、自分の地位を高めるためにも、主がシーボルト事件で捕縛され生活に困窮していた、著名な通詞、猪俣源三郎の妹、照を妻として迎え入れた。
その後、猪俣源三郎の獄中死、玄朴の実家が火災に遭うなど不幸が続いた。が、たまたまあたり一帯に流行したジフテリアの際、患家を走り回って熱心に治療にあたった彼の懇切な治療態度が人の口にのぼるようになり、訪れる病人の数が増えてきた。そこで、医家らしい伊東玄朴という名前を使うようになった。そして、肥前藩邸にもしきりに出入りし運動した結果、一代限りだが士分に取り立てられ、正式に藩士・伊東仁兵衛の次男、玄朴として名乗ることを許されたのだ。
このことは彼にとって大きな喜びだったが、彼の富と栄達に対する野望は果てしなかった。彼の最終の望みは、幕府の医家の地位を得ることと、それに伴う富だった。そのため、彼は大医家としての外観を備える必要があると考え、天保4年、高名な大工に依頼して診察所、調薬所、待合所、医学・蘭学の門弟の寄宿室等を合わせた豪壮な大邸宅を建てた。彼の思いは見事に当たった。象光堂と称した玄朴の太医院は物見高い江戸の町人たちの話題になり、患者が殺到した。彼の富は急速に増し、その年彼の得た収入は、金1000両を越えると噂された。門下生の数も百名近くに達した。
こうして玄朴は太医家としての地位を着々と築き上げ、江戸屈指のオランダ医家と称されるようになった。1843年(天保14年)、肥前藩主・鍋島直正の御匙医に召され、さらに弘化4年には御側医に取り立てられた。また、玄朴は蘭医・大槻玄沢らとともにオランダ医学の優秀性を立証しようと努め、折からの天然痘予防策としての種痘術の大きな効果で、当時幕府で重用されていた漢方医学に大きな打撃を与えることに成功した。
そんな玄朴が1858年(安政5年)、幕府から召し出された。第十三代将軍・徳川家定の病が篤く、漢方の奥医師たちが手をつけかねているので、江戸随一のオランダ医学の臨床家の玄朴に治療を申し付けることに決定したというのだ。玄朴にとって願ってもない幸運が訪れた。玄朴は協力してくれる医師として蘭医・戸塚静海を推し、治療に従事した。玄朴、静海はその瞬間から奥医師となったのだ。玄朴らは懸命に治療に当たったが、その甲斐なく家定は逝去した。その年、玄朴は法橋から法眼に進み、奥医師として勢威を振るうようになった。そして、1861年(文久元年)、オランダ医家として初めて奥医師最高の地位である法印の座にも就いた。遂に彼の年来の望みは達せられたのだ。
(参考資料)吉村 昭「日本医家伝」、吉村 昭「ふぉん・しいほるとの娘」、吉村 昭「長英逃亡」
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