🏞112)─1─安政5(1858)年から3年にわたりコレラが流行した。死者約10万人。〜No.440No.441No.442No.443 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 日本は、コレラやペストの疫病を呪いや護符で退治して治療しようとしたが無駄であった。
 日本民族日本人は、自分を信じ、栄養なる食事を食べ自分の免疫を強めて生き残ってきた。
 日本民族日本人は、如何なる地獄に追い込まれようとも絶望せず、嘘偽りは言わず、不平不満を抱かず、恨み辛みをはかず、暴動も騒動も起こさず、革命も起こさず、略奪さえ起こさず、皆と一緒に苦境の中を笑って前に進んできた。
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 江戸時代は、誰も助けてくれない共助も公助もない自助だけのブラック社会であった。
 犯罪者が横行する江戸時代であった。
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 天下大変-流行病-安政箇労痢流行記:国立公文書館
 流行病
 平穏な生活を破壊し多くの人命を奪ったのは、地震・噴火・火災・水害そして飢饉だけではありません。江戸時代にはまた痘瘡({とうそう}疱瘡{ほうそう}とも。天然痘)、麻疹(ハシカ)、風邪(インフルエンザ)等の折々の流行によって、短期間に想像を絶する数の人命が失われました。
 天然痘が多数の幼い命を奪い江戸時代の平均寿命を引き下げていた事実はよく知られていますが、インフルエンザも、劣らず猛威を振るっています。享保元年(1716)、江戸の町で流行した風邪はインフルエンザと推定され、ひと月で8万人以上を死亡させたと記録されています。
 面白いのは流行の年によって風邪に異なる名が付けられたこと。明和6年(1769)に流行した風邪は「稲葉風」と呼ばれ、安永5年(1776)の風邪は「お駒風」。ほかに「谷風」「ネンコロ風」「ダンホ風」「琉球風」「アメリカ風」というのもありました。江戸の人々は、数年おき(長くても十数年おき)に襲いかかる風邪(インフルエンザ)の流行に異名を与えることで、その悲惨さを記憶に刻もうとしたのでしょう。江戸末期にはコレラという新種も加わります。コレラ安政5年(1858)に大流行し、各地でパニックを引き起こしました。
 50. 安政箇労痢(ころり)流行記
 [請求番号 195-0364]
 安政2年の大地震、同3年の風水害に続いて、同5年(1858)、江戸の人々はコレラの猛威にさらされました。この年、長崎に始まったコレラの流行は、上方、東海道筋を経て7月に江戸に至り、8月に大流行したのです。これより前、文政5年(1822)にも西日本を中心にコレラの流行がありましたが、安政5年の流行の規模はこれをはるかにしのぐもので、江戸だけで約3万人の命が失われました。
 『安政箇労痢流行記』は別名『転寝(ころびね)の遊目(ゆめ)』。金屯道人(仮名垣魯文)編。安政5年刊。町ごとに50、60人から100余人の死者が出、火葬しきれない棺が山積みになった光景や、コレラは妖怪変化の仕業であるとして「狐狼狸(ころり)」と呼ばれ、様々な流言が生まれたことなど、あふれる病者と屍を前にパニックに陥った江戸の様子が、鮮やかな多色刷りの絵を添えて活写されています。江戸における病勢は9月に入って衰えましたが、コレラは各地で小さな流行を繰り返したのち、文久2年(1862)に再び流行しました。文久2年は、夏に麻疹が大流行したのち追い討ちを掛けるようにコレラが流行し、あわせて安政5年の数倍の死者が出たということです。全1冊。
 51. 疫毒(えきどく)
 予防説(『視聴草』続8集の3)
 文久2年にコレラの流行が確認されると、幕府は洋学の研究機関である洋書調所(文久2年に従来の蕃書調所を洋書調所と改称。翌3年、開成所と改められる)の杉田玄端(1818―89)らに命じて、オランダの医師フロインコプスの著書からコレラほか流行病の予防法等に関する説を抄訳させ、『疫毒予防説』と題して刊行しました。奨励されている予防法は、室内の空気の循環を良くし、身体と衣服を清潔に保ち、適度の運動と節度ある食生活を心がけよというもの。展示資料は、『視聴草』続8集の3に綴じ込まれていた『疫毒予防説』です。
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 ウィキペディア
 幕末の外国人襲撃・殺害事件:24件。
 安政4(1857)年
 ハリス襲撃未遂事件。
 安政6(1859)年
 7月27日 ロシア海軍軍人殺害事件。
 10月11日 フランス領事館従僕殺害事件。
 安政7(1860)年 
 1月7日 日本人通訳殺害事件。
 1月8日 フランス公使館放火事件。
 2月5日 オランダ船長殺害事件。
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 リサーチ・ナビ  国立公文書館
 第11回 本の万華鏡 はやり病あれこれ 第3章
 2012年11月21日
 リサーチ・ナビ>本の万華鏡>第11回 はやり病あれこれ>第3章
 第3章 虎狼痢(コロリ)/コレラ
 コレラ菌(画像提供:国立感染症研究所
 コレラは古くから世界で流行を繰り返している病気で、日本でも江戸時代以降、何度も流行しています。かつて日本では「虎列刺」などの当て字の他、激しい下痢や嘔吐といった症状から「鉄砲」「見急」、また死に至るまでの早さから「虎狼痢(コロリ)」などとも呼ばれました。予防の啓発が進んだため国内での感染は少なくなりましたが、7回目の世界的流行は今も続いており、現在でも各地でコレラが発生しています。

 日本でのコレラの治療
 安政5(1858)年、日本は2回目のコレラ流行上陸にみまわれました。5月に長崎に入港した米国船から発生したコレラは長崎、広島、大阪と伝染していき、7月には江戸へ侵入しました。そのような混乱の中、医師である緒方洪庵コレラに関する外国人医師の書物を翻訳し、一冊の本にまとめました。

 1) 虎狼痢治準 / 緒方洪庵訳 (病学通論 : 3巻 / [19--] 複製 【W415-34】 [国立国会図書館デジタルコレクション])
 『虎狼痢治準』は、当時コレラについてオランダ軍医ポンぺが口授した内容を筆記し、さらにモスト、カンスタット、コンラジという3人の医師が書いたコレラについての書物を訳しまとめられたものです。洪庵自身の経験則も交えながら、症状や治療法が詳しく解説されています。コレラ流行の真っ最中に、他の医師たちに配布してコレラ対策に役立ててもらうことを目的としていたため、編集期間はわずか4~5日という短さだったそうです。

 2) 虎列刺豫防諭解 / 内務省社寺局・衞生局編 東京 : 内務省社寺局, 1880.6 【Y994-J12188】
 前年の1879年にコレラが流行し、感染者約16万人、死者約10万人を出したことを受け、コレラ予防及び征伏を目的として内務省が刊行した冊子です。コレラが伝染する原因として(1)空気、(2)水、(3)飲食物、(4)他人との交通、の4点を挙げ、それぞれ注意すべき点が述べられています。井戸は便所と離して作ること、濁った水や傷んだ食物は口にしないこと、暑い時期には生ものを避けること、コレラ流行の時期は新鮮なものであっても食べすぎないように注意することなどが書かれています。

 コレラと食物
 コレラ菌は、1884年にドイツの細菌学者ロベルト・コッホによって発見されました。しかし、それ以前から、生ものや水などによって感染するということは経験上わかっていたようです。コレラは数ある感染症の中でも特に飲食と関係が深い病気といえます。

 3) 青物魚軍勢大合戦之図 / 広景画 辻岡屋, 安政6(1859) 【寄別2-5-1-1】[国立国会図書館デジタルコレクション]
安政6(1859)年10月、歌川広景によるものです。人間以外のものを擬人化させて戦わせるという構図は「異類合戦物」といい、錦絵の人気ジャンルのひとつとして室町時代から現れはじめました。青物と魚類が戦うこの図の主題にはいくつかの説がありますが、そのうちの一つに、安政コレラ流行を受けて描かれたというものがあります。コレラに罹りにくい野菜類とコレラに罹りやすい魚介類を戦わせ、青物が勝利するという構図になっています。この絵が描かれた前年はコレラが流行し、江戸では生もの、特に魚が全く売れず、野菜類は逆に高騰しました。

治療法が確立していなかった時代、さまざまな民間療法や加持祈祷が行われました。
幕末にはコルクを焼いて粉にしたものを飲むとコレラに効くということが民間薬法として新聞に取り上げられ、また、コレラの原因を瘴気と考えていたり、疫病退散のために鐘や太鼓をたたいたり狼煙をあげて疫病神を追い出そうとしたりなどもしていたようです。
明治時代にはラムネがコレラ予防や症状緩和に効くという話が広まりました。生水よりも炭酸入りの飲料が安全だということで、ラムネの人気が上昇したようです。
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 品川区 
 東海道品川宿のはなし 第32回
 更新日:2012年8月7日
 4月、桜の花満開のころ、花鎮 (はなしずめ)の祭が行われます。
 有名なのは京都今宮神社の「やすらい祭」で、散りゆく花に悪霊がはびこるとされるため、花鎮の祭を行い、疫病(伝染病)の流行を鎮める祈りをこめて行われるものです。
 江戸の庶民がもっとも恐れたのは疫病(流行病 (はやりやまい))でした。
 高い死亡率を示していたのは、疱瘡(天然痘)・麻疹 (はしか)・インフルエンザ・コレラ労咳 (ろうがい)(結核)であり、飢饉の前後に流行る傷寒(腸チフス)・痢病(赤痢)も多くの人たちの生命をうばう原因となっていました。
 この中で幕末に大流行したコレラについてお話しましょう。
 コレラは症状が急速に悪化して死にいたるため、「三日虎狼痢 (みっかころり)」などと呼ばれたいそう恐れられたのです。
 日本に初めて「コレラ」が侵入したのは、文政5年(1822)のことでしたが、この時は西日本での流行にとどまり、江戸までは達しませんでした。
 その36年後の安政5年(1858)、長崎に上陸したコレラは東に蔓延して、7月末には江戸に侵入し、8月にはいると江戸とその近郊での病勢は激甚をきわめたのでした。
 その流行期間は1ヶ月余りで、この「安政コレラ」は、江戸での死者20万人余りとも伝えられ、江戸最大の災害といわれています。
 この「安政コレラ」の流行は、品川宿にも及び、当時の記録によると、この年の8月1日から9月5日までの約1ヶ月間に172人の死者が出たとあります。
 その内訳は、南品川宿39人、北品川宿54人、歩行新宿53人、南品川猟師町26人でした。 
 品川宿では、このコレラの流行に対して、手当のために生薬の施薬や金子での救済などを行っています。
 南品川宿では8月20日から晦日まで、「桑白皮湯 (そうはくひとう)」という煎じ薬を、今の荏原神社で出し、また「霊砂丹 (れいしゃたん)」という薬も出して対応し、きわめて困窮した者に対しては、病人ひとりあたり金1分宛、養生しても治らず亡くなったものに対しては、金2分ずつの救済金を出しています。
 北品川宿では、南品川宿と同じように金1分から2分の救済金の他に、白米を猟師町の困窮した人たちに差し出しています。
 自身番屋前にて「正気散」を煎じての施薬も行われました。
 また、歩行新宿では、南北両宿と同様に金1分から2分の救済金が渡されたほか、歩行新宿持の歩行人足 (かちにんそく)に500文ずつ、また、北品川宿同様に猟師町の困窮者に金1分の救済金を支給し、自身番屋前にて「正気散」を煎じて施薬しました。
 これらの施薬や救済は、品川宿全体で〆て505両2分、白米7石になり、施薬人数は判明しませんが、金子を配布した家数は1800軒を超えたほどでした。
 これらの経費は宿内の多くの旅籠屋や裕福な百姓らからの寄附で賄われたのです。
 もっとも、当時の生薬を煎じた施薬では、諸症状を和らげることはあっても、コレラそのものを治癒させる効き目はありませんでした。
 このように天保7,8年の飢饉以来、わずか20数年の間に、嘉永5年(1852)の火災、6年のペリー来航による恐慌、安政2年(1855)の江戸大地震、3年の風災、5年のコレラの流行と、文久元年(1861)には米価高騰、など大規模な救済を要する災厄が続いたため宿場が疲弊したことはあきらかで、宿場の備え金を貸すことによって、からくもしのいでいたのです。
 『虎狼痢治準』
 当時の蘭方医緒方洪庵の著したコレラ治療書。
 キニーネや阿片などを用いた西洋医学による治療法を紹介している。
 しかし、当時の西洋医学によるコレラ治療法は、東洋医学によるものと同様、効果のないものであった。
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 日本臨床漢方医
 昔も今も漢方は効く / 石川 友章先生
 昔も今も漢方は効く
 {以前、元厚生省事務次官で、医療保険審議会のメンバーでもある甲田氏の発言、「漢方や胃腸薬など薬店で購入するバランスを考えてOTC類似薬を給付除外にすることも一つの方策、と提案する」を日刊薬業紙が報道したことに端を発し、医療保険審議会の建議書の中に、「一般用医薬品類似医薬品の給付除外を含めて薬剤給付のあり方を見直す。」という意見として現れてきた。
 普通の人にはこの内容で漢方薬医療保険から全くお金が出なくなる、即ち全額患者負担になるとは実感出来ない文章である。
 しかし厚生省サイドは一般用医薬品類似医薬品の中には当然漢方薬が含まれるという見解であるが、明確に漢方薬を名指ししてはいない。
 従って具体性に欠けるため反対運動がやり憎いという面がある。しかしこれが実現すると日本東洋医学会としては大変大きな問題になるので、佐藤常務理事を委員長とする保険問題特別委員会を組織して、対策に当たっている。
 時を同じくして月刊「文芸春秋」で新連載成人病の嘘、漢方は本当に効くのかと言う漢方叩きの論文が掲載された。読んでみると多くの間違いが見られる。これでは漢方が誤解されたままになってしまうので、早速著者と連絡を取り、反論のための機会を与えて欲しい由を申し出て、了承された。そこで座談会が企画され、東京女子医大の佐藤先生と小生が参加した。
 この種のもので最近気になるのは、西洋医学東洋医学とを対峙して論を進めるあたり、常識のように抗菌薬が発見される以前の医学は何故か両方とも進歩していない又は同程度の物と言う前提条件に立っている。}
 MEDICINEの邦訳である小川鼎三監訳「図説医学の歴史」の中で「19世紀 現代医学の始まり」の章でもまたそれ以前でも漢方の記載は殆どなく「古代中国」の所に出てくるのみである。従って東洋医学はその辺から進歩していない。と言う考え方になるようだ。
 進歩していない漢方に比べれば、古代医学を近代医学とした消毒法、麻酔法、止血法という画期的な発明を遂げた西洋医学の方が当然進んでいるのが当たり前である。
 しかも抗菌剤606号から最近に至る抗生物質の開発進歩は並大抵のものではない。進歩のない漢方を信じるなんてナンセンスな事で、効果も余り無い物を信じるのは医者も患者も漢方教の信者に過ぎない。
 信ずればどんな物でも良く見える。という論調である。
 疫病との戦いは洋の東西を問わず人類の課題であったし、現在でも大きな問題を抱えている。
 江戸時代に「ころり」という流行病(はやりやまい)があった。これはご存じの如く、今で言うコレラである。わが国におけるコレラの発生は宗田 一著「日本医療文化史」に拠れば文政5年、1822年8月が最初であった。
 1817年インダス河流域から国外に伝搬し中国、朝鮮半島を経て下関に入ったとされ、東進して箱根の山を越えることなく終焉したとのことである。
 ヨーロッパでも上記のコレラが流行し、1854年になっても、ロンドンでは1万4千人のコレラ患者が発生し、618人死んでいる。死亡率は約4.4%である。本当にこれだけか資料で検討していないので不明であるが、少なすぎるように思える。(「図説医学の歴史」による。)
 日本では第一次のコレラ流行から36年後の安政5年1858年に第二次のコレラ流行が起こった。これは米艦ミシシッピー号が清国から長崎に入港し、同号のコレラ患者が長崎にコレラを流行らせたのである。これが東進して、28万人の死者を出している。
 安政5年の長崎の人口は約6万人、コレラ患者1583人、その内訳は日本人982人、オランダ人601人で、治癒した者はそれぞれ436人と380人であったと記されている。日本人の死亡率は約55.6%、オランダ人の死亡率は、約36.8%であった。
 この時の長崎海軍伝習所医官はオランダ医ポンぺであった。ポンぺは、コレラの予防のため生の魚や野菜等の食事を禁止した。ついで長崎奉行所に衛生行政の重要性を説き、病院の設立を要請し、長崎養生所が出来た。この時ポンぺの治療法はキニーネと阿片の投与が主となり、温湯やブドー酒を投与していた。ここで見られる死亡率の違いは恐らく食生活の違いによる体力の差かとも思われるが約20%の差が見られる。
 明治時代にも矢張りコレラが流行り、明治12年1879年の石川県史にはこの時の記録にコレラ患者総数29808名の内、死亡者は21044名に達したと書かれている。
 因に漢方医佐々木秀三郎の患者は136名中、死者は18名であった。これを死亡率で現すと西洋医療は70.9%、漢方医療は13.2%となる。
 この臨床経験を基に佐々木秀三郎は「暴疫治略」なる書を認めたと「漢方の臨床」誌の浅田宗伯生誕175年記念号に多留淳文先生が書いておられる。
 あれ数字が逆ではないのか?という感じを抱かれる方が多いと思うが計算上ではそうなる。
 安政5年から25年しか経っていないので、恐らく漢方にしろ西洋医学にしろ治療法は驚くほどの進歩は見られていないと思う。当然抗生物質なる代物はない時代の話である。
史実からみると世間で喧伝しているような漢方は効かないのではなく、決して治療法として劣ったモノではなく実は寧ろ優れたものである事が分かる。
 漢方の原典として用いられる「傷寒論」は、元々熱性の急性感染症、特にチフスの治療法を述べた本である。著者張仲景の一族は200余名いたが、チフスのため10年間に2/3の死者を出した。
 そこで熱性の急性感染症の治療法を集めて書にしたと序にある。
 今ならそのような逆転はあり得ないとおっしゃる方もあろうかと思うが、1970年以降にアメリカで流行った在郷軍人病は激症肺炎とも言われるもので、最近では慶応大学病院で発症例がみられたが、この在郷軍人病はレジオネラ ニューモフィラという細菌が原因で、急激な経過をとり、死亡率は50−60%と言われ、軽い気管支炎症状で始まり、激症の肺炎になる。
 特に日本の医師が好んで感冒の二次感染予防に用いるPCs,CPs系、の薬剤は何の役にも立たず、アミノ配糖体系も無効である。
 有効なのはEM,RFPと言った薬剤で、それでも死亡率は20%弱である。しかもパターン化された薬剤選択の思考の中では出てき辛い薬剤である。
 西洋医学の中で最先端を行っている化学療法においても難治なモノが増えてきている。特に糖尿病、肝硬変症、膠原病、AIDS等々のcompromised hostの増加は新しい感染症を誘発し、治療を困難にしている。
 感染症の治療はhost-parasiteの関係を十分知ることにある。当に漢方が示していることは、hostの状態を十分に把握する事が如何に大切であるという医療の原点的な意味であると思われる。
 parasite と薬剤との研究だけでは閉息してしまう医療状況を打開していくのがこれからの漢方に課せられた道であろうと考えている。
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 九州大学附属図書館
 附属図書館企画展
 「東西の古医書に見られる病と治療 - 附属図書館の貴重書コレクションより」
3  疫病から伝染病へ
 社会基盤を揺るがすおそれのある疫病は古代から人々を悩ませ、ときには歴史の流れを左右するほどの猛威をふるった。古くはペロポネソス戦争時に流行した疫病が、指導者ペリクレスや多くの市民を死に至らせ、やがてアテナイの敗北の一因となった。737年及び995年に京都を襲った天然痘と麻疹により日本の政治は麻痺状態に陥った。1348年に大流行したペスト(黒死病)でヨ-ロッパの人口の3分の1が死亡し、それにより人々の間に医学のみならず、神に対する懐疑が芽生え、ルネサンス宗教改革の背景要素の一つとなった。19世紀、世界的に大流行したコレラは日本にも及び、多数の犠牲者を出した。
 近世以前の日本で「流行病(ハヤリヤマイ)」として特に恐れられたのは「疱瘡」、「麻疹」及び「水疱瘡」だった。人々は、突然姿を現し急激に広がる病気を擬神化し、養生法や呪術によりこれらの疫病神を防げ、退治しようとしていた。医学の近代化の象徴でもある予防接種の導入や公衆衛生の普及により、伝染病を抑え、場合により撲滅することもできたが、新型肺炎SARS)や鳥インフルエンザが引き起こしたパニックが示すように、昔と同様に社会的不安、患者への差別などを引き起こす伝染病の脅威は今日でも衰えていない。

 コレラ
 コレラは、 Vibrio choleraeという菌を病原体とする経口感染症である。その名称は古代ギリシャの体液病理学の黄色胆汁に由来する。古い記録は紀元前300年頃に遡るが、世界的大流行が起こったのは19世紀に入ってからである。1817年以降、計6回にわたるアジア型の大流行があり多数の死者を出した。ドイツの細菌学者ロベルト・コッホ(Robert Koch, 1843-1910)が1884年にコレラ菌を発見し、その後防疫体制も強化されたので、20世紀に入ってから、コレラの発生の世界的拡大は阻止できた。
 文政5(1822)年に発生した日本初のコレラは九州から東海道に及んだものの、江戸に達することはなかった。3回目の世界的流行は再び日本に波及し、安政5(1858)年から3年にわたり全国各地を襲った。明治に入っても2~3年間隔でコレラの流行が続き、1879年、1886年には死者が10万人を超えた。
 緒方洪庵(1810-1863)は、備中足守藩士の子として生まれ、医学を志した。大坂で中天遊に、江戸で坪井信道、宇田川玄真に学び、また長崎に遊学した。その後大坂で蘭学塾「適塾」を開いて後進の指導に当たった。この適塾から幕末、明治にかけて活躍した大村益次郎福沢諭吉橋本左内大鳥圭介、長与専斎等が輩出した。一方洪庵は種痘法の導入、普及に尽力し、大坂に除痘館を設け、分苗を行った。
 また、コレラ流行の安政5年にはいち早くそれに関する医書を刊行するなどして啓蒙を図った。文久2(1862)年、幕府に召し出され、奥医師兼西洋医学所頭取となり、法眼に叙せられたが在職僅か10ヶ月で死去した。
 霍乱は激しい下痢や嘔吐を伴う病気として理解されており、今日の急性腸炎赤痢などを含む古い名称であるが、19世紀にはコレラの別名として用いられることが多かった。
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 ウィキペディア
 コレラ(Cholera、虎列剌)は、コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とする経口感染症の一つ。治療しなければ患者は数時間のうちに死亡する場合もある。

 コレラの歴史
 コレラの感染力は非常に強く、これまでに7回の世界的流行(コレラパンデミック)が発生し、2006年現在も第7期流行が継続している。2009年1月29日現在、ジンバブエで流行中のコレラの死者が3000人に達し、なお増え続けている。
 アジア型は古い時代から存在していたにもかかわらず、不思議なことに、世界的な流行(パンデミック)を示したのは19世紀に入ってからである。コレラ原発地はインドのガンジス川下流ベンガルからバングラデシュにかけての地方と考えられる。最も古いコレラの記録は紀元前300年頃のものである。その後は、7世紀の中国、17世紀のジャワにコレラと思われる悪疫の記録があるが、世界的大流行は1817年に始まる。
 1817年、カルカッタに起こった流行は、アジア全域からアフリカに達し、1823年まで続いた。その一部は日本にも及んでいる。1826年から1837年までの大流行は、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。1831年、ドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルコレラ禍のためにベルリンで死去しており、1832年にパリでコレラが流行した際には、辣腕政治家として知られたカジミル・ペリエフランス首相が死亡した。以降、1840年から1860年1863年から1879年、1881年から1896年、1899年から1923年と、計6回にわたるアジア型の大流行があった。しかし1884年にはドイツの細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見され、医学の発展、防疫体制の強化などと共に、アジア型コレラの世界的流行は起こらなくなった。
 だがアジア南部ではコレラが常在し、なお流行が繰り返され、中国では1909年、1919年、1932年と大流行があり、またインドでは1950年代まで持ち越し、いずれも万人単位の死者を出すほどであった。一方、エルトール型コレラ1906年シナイ半島のエルトールで発見された

 日本におけるコレラ
 日本で初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が日本に及んだ1822年(文政5年)のことである。感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられているが、その経路は明らかでない。九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった。2回目の世界的流行時には波及を免れたが、3回目は再び日本に達し、1858年(安政5年)から3年にわたり大流行となった。
 1858年(安政5年)における流行では九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで10万人が死亡したという文献も存在するが、後者の死者数については過大で信憑性を欠くという説もある。1862年文久2年)には、残留していたコレラ菌により3回目の大流行が発生、56万人の患者が出た。この時も江戸には入らなかったという文献と、江戸だけでも7万3000人〜数十万人が死亡したという文献があるが、これも倒幕派が政情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多い。
 1858年(安政5年)の流行は相次ぐ異国船来航と関係し、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、中部・関東では秩父三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを眷属とし、憑き物落としの霊験を持つ眷属信仰が興隆した。眷属信仰の高まりは憑き物落としの呪具として用いられる狼遺骸の需要を高め、捕殺の増加はニホンオオカミ絶滅の一因になったとも考えられている。
 コレラが空気感染しないこと、そして幕府は箱根その他の関所で、旅人の動きを抑制することができたのが、江戸時代を通じてその防疫を容易にした最大の要因と考えられている。事実1868年(明治元年)に幕府が倒れ、明治政府が箱根関所を廃止すると、その後は2 - 3年間隔で数万人単位の患者を出す流行が続く。1879年(明治12年)と1886年明治19年)には死者が10万人の大台を超え、日本各地に避病院の設置が進んだ。1890年(明治23年)には日本に寄港していたオスマン帝国の軍艦・エルトゥールル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われた。また1895年(明治28年)には軍隊内で流行し、死者4万人を記録している。
 このような状況が改善され、患者数も1万人を切ってコレラの脅威が収まるのは、1920年代になってからである。その後は、第二次世界大戦直後にアジア各地から日本軍復員兵や引揚者の帰国が始まると、彼らによって持ち込まれたコレラで、多数の死者を出した。 コレラ患者が出ると、検疫のために40日間沖に留め置かれる。この船を俗に「コレラ船」と呼び、これは当時の俳句や川柳で夏の季語にもなるほどだった。1960年代頃まで使われていた。
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