🏞94)─6・B─シーボルト台風は過去300年間で最大級。犠牲者約2万人。負傷者約2万人。〜No.358 ㉞ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本人は、健忘症が強く、歴史を教訓にして学べないほどに過去の出来事を綺麗に忘れる。
 その傾向は、現代の日本人に強く、そして深刻である。
   ・   ・   ・   
 日本列島は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時的に頻発する複合的災害多発地帯であった。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は高度な科学力・グローバル力を持っていても歴史力・自然力・文化力・宗教力・民族力などのローカル力が弱い為に、数万年、自然災害の中を生き抜いてきた縄文人日本民族と、数千年、弥生人日本民族を支えてきた現人神・神の血筋(子孫)の日本天皇、そして皇道「八紘一宇」精神が理解できない。
   ・   ・   ・   
 シーボルト台風
 近代的な気象観測が始められる以前の台風であり、発生や消滅の時期は定かではない。しかし、各地の報告書を総合すれば、新暦9月18日の午前2時頃に現在の長崎県西彼杵半島に上陸し、55km/hの速さで北東に進行、関門海峡に至った後山口市付近に再上陸し、中国地方を縦断したものと思われる。当時長崎にいたシーボルトは、オランダ屋敷が倒壊する直前に952hPaの最低気圧を観測している。勢力や風速に関して、気象学者の高橋浩一郎は九州来襲時の中心気圧は900hPa、最大風速50m/s、総雨300mmと推測。一方、小西達夫は中心気圧は935hPa、最大風速55m/sと推測した。過去300年間に日本を襲った台風の中では最大級のものとされている。
(台風災害史より抜粋)
   ・   ・   ・    
 1800年〜1865年 寛政・天保小氷河期。
 冷夏が発生し、凶作が続き、慢性的な食糧不足で人々は満足に食べられず飢えていた。
   ・   ・   ・   
 文政11(1828)年9月17日 シーボルト台風
   ・   ・   ・   
 天保4(1833)年・1835年・1836年・1838年は大凶作で、天保の大飢饉が起き、多くの餓死者が出た。
 大金を持っていても食べ物は買えなかった。
   ・   ・   ・   
 嘉永6(1853)年2月2日 小田原地震。 
   ・   ・   ・   
 安政年間の百姓一揆は、179件。
 安政:1854年11月27日~1860年3月18日
   ・   ・   ・   
 安政元年(1854)4月6日 京都大火。京都御所焼失。
 6月15日 伊賀・伊勢・大和地震
 南海トラフ地震
 11月4日、安政東海地震
 11月5日、安政南海地震
 11月7日 豊予海峡地震
   ・   ・   ・   
 安政2(1855)年8月3日 仙台地震
 首都直下型地震。10月2日 安政江戸地震と江戸大火。死者、1万人。
   ・   ・   ・   
 安政3(1856)年7月23日 陸奥地震
 7月~9月 江戸降雪。
 7月23日 陸奧沖地震
 8月26日 北海道駒ヶ岳噴火。
 9月23日・24日 安政江戸台風。江戸暴雨風と巨大高潮。死者、約10万人。
   ・   ・   ・   
 安政3年・安政4年 東北の飢饉。
   ・   ・   ・   
 安政5(1858)年2月26日 飛騨・越中地震
 2月10日 江戸大火。
   ・   ・   ・   
 安政5(1858)・安政6年 江戸でコレラ大流行。死者、20万人。 
   ・   ・   ・   
 慶応期の百姓一揆は、498件。
 慶応:1865年4月7日~1868年9月8日。
   ・   ・   ・   
 慶応3(1868)年・明治元年 江戸幕府滅亡。
   ・   ・   ・   
 パブリネット:消防署検索シーボルト台風(文政11年)
 近代的な観測記録では、伊勢湾台風をはじめとした「昭和の三大台風」が多くの高潮被害を発生させた原因として知られていますが、日本には古来多くの台風が接近し、数々の高潮被害を発生させてきました。ここでは、その一例として1828年(文政11年)に発生したシーボルト台風についてご紹介します。
 国際問題の発覚に繋がった大型台風
 もともとは元号から「文政の大風(ぶんせいのおおかぜ)」、または干支の子年に発生した台風であるため「子年の大風(ねのとしのおおかぜ)」と呼ばれた台風でしたが、この台風がシーボルト事件(持ち出しが禁止されていた日本地図をドイツ人学者が持ちだそうとしていた事件)の発覚に繋がった説により、1961年(昭和36年)からは「シーボルト台風」と呼ばれるようになっています。
 災害の発端
 近代的な観測がなされる以前の情報ですが、当時の各藩による報告からの推測では、1828年(文政11年)9月18日(当時の旧暦では8月10日)未明に、長崎県西彼杵半島に台風が上陸し北東に進行、関門海峡付近の山口市あたりを経て中国地方を縦断したと考えられています。なお現代では、気象学者により最低気圧は900ヘクトパスカル程、最大風速は50m/s程であったと推測されています。
 被害の規模
 正確な記録は残されていませんが、死者数は全体でおよそ20,000人(行方不明者も含むと考えられます)、負傷者数も約20,000人だったとされています。
 強い雨を伴ったと記録にありますが、特に甚大だったのは強風の影響だったとする説が根強く、強風による吹き寄せ効果で有明海、及び博多湾で高潮が発生したとされており、その波は最大で4m(有明海)にも及んだと推測されています。また、周防灘や博多湾でも3mを超える高潮が発生したとされています。
 なお、シーボルト台風では伊万里焼の産地も被害を受けており、窯の損壊や焼失などが多く発生し、窯から漏れた火による焼死者が多かったと、当時の佐賀藩の記録には残されています。
 被害が大きくなった原因
 日本の歴史では、江戸時代に分類される時代に発生した自然災害です。到底近代的とは言えない時代ですから、現代とは比較にならない稚拙な防災体制であったことが被害を大きくしてしまった最大の原因と言えます。
 堤防などはなく自然のままの環境であり、また家屋は燃えやすい木材が中心であったこと、そして避難体制ができていなかったことは、当時としては仕方なかったのでしょう。
 総括とその後の対策
 死者数の規模は約20,000人とされていますから、日本の歴史上で最大級の被害を受けた大惨事がシーボルト台風です。この台風では有明海博多湾、周防灘を中心に港湾で3~4m級の高潮が発生したとされています。現代は伊勢湾台風(台風の規模としてはシーボルト台風よりも強力だったと推測される)を教訓とした防災体制が全国に整っていますが、この周辺はもともと強力な台風により高潮被害を受けやすい地形であり、江戸時代に大規模な悲劇があったという点は、後世まで語り継いでいきたい教訓です。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 シーボルト台風は、グレゴリオ暦1828年9月17日、(旧暦文政11年8月9日)に日本に襲来し、九州地方や中国地方にかけて大被害をもたらした台風である。襲来した文政11年が戊子に当たることから、子年の大風(ねのとしのおおかぜ)とも呼ばれる。有明海博多湾などで高潮が発生し、佐賀藩だけで死者が約1万人、九州北部全体で死者約1万9千人に達する被害が出た。
 名称の由来
 この台風は襲来年の干支にちなんだ「子年の大風」、あるいは元号にちなんだ「文政の大風」の名で長年呼び習わされていた。後に気象学者の根本順吉は、この台風によって当時日本に滞在中だったドイツ人学者・シーボルトの乗船が座礁し、船の修理の際に積荷の内容物が調べられたことで日本地図の国外持ち出しが発覚、世に言うシーボルト事件に至った事実に着目。そこから1961年、この台風に「シーボルト台風」の名を与えた。
 なお、シーボルト事件に関しては1996年に出された論文で、1828年8月9日(グレゴリオ暦)の暴風雨でオランダ船が座礁したが、オランダ側の資料などから座礁船の積み荷から地図などが発見された事実はないとして旧来の蘭船積み荷発覚説を否定する説が出されている。オランダ商館長の日記や長崎商人の中野用助による報告書の写しなどからシーボルト事件は江戸で露見したとする江戸露見説が有力になっている。詳細はシーボルト事件の項参照。
 概要
 1828年9月に九州西岸を北上したと考えられる台風である。9月17日(旧暦8月9日)、ドイツ人のシーボルトが出島で952hPaの気圧を観測したとの記録が残っており、後に気象学者の根本順吉が「シーボルト台風」と命名した。気象学者の高橋浩一郎の推定によれば、九州来襲時の中心気圧は900hPa、最大風速50m/s、総雨量300mmで、過去300年間に日本を襲った台風の中で最強のものとされる。また、小西達男の推定によれば、中心気圧は935hPa、最大風速は55m/s程度とされる。有明海博多湾・周防灘などで高潮が発生し、佐賀藩だけで死者が約1万人に達する被害が出た。
 近代的な気象観測が始められる以前の台風であり、発生や消滅の時期は定かではない。しかし被害地域の藩が作成した報告書により、大体の進路が推測できる。久留米では四時半(午前0時)ころから暴風となり、北東風から東南に、門司では亥の刻(午後11時)に吹き始めた巳午(南南東)の風が寅卯(東北東)に変ったと言う。これら各地の報告書を総合すれば、新暦9月18日の午前2時頃に現在の長崎県西彼杵半島に上陸し、55km/hの速さで北東に進行、関門海峡に至った後山口市付近に再上陸し、中国地方を縦断したものと思われる。なお、当時長崎にいたシーボルトは、オランダ屋敷が倒壊する直前に952hPaの最低気圧を観測している。
 勢力や風速に関して、気象学者の高橋浩一郎は九州来襲時の中心気圧は900hPa、最大風速50m/s、総雨量300mmと推測。一方、小西達夫は中心気圧は935hPa、最大風速55m/sと推測した。過去300年間に日本を襲った台風の中では最大級のものとされている。
 平成3年台風第19号や平成11年台風第18号、平成16年台風第18号など近代の著名な風台風と似た進路を取ったため、暴風や高潮による被害が顕著であった。有明海では最大で4mもの高潮が発生し、6千町歩の耕地が水没、埋没。暴風などによる家屋の全半壊は約5万軒に上る。さらに磁器の名産地・伊万里では操業中の登り窯が損壊、漏れた炎が暴風に煽られて町をなめつくし、1,200軒を焼失、115人の焼死者を出した。以上は佐賀藩のみの被害である。また、周防灘、博多湾でも3mを超える高潮が発生したと推定されている。
 いずれにせよ、平安時代の989年に近畿地方を襲ったとされる台風(永祚の風)、1281年、弘安の役のいわゆる「神風」で元の兵士10万人が溺死した事件、1856年に関東地方を襲い10万人余りの死者を出した台風(安政3年の大風災)とならんで、日本史上最大級の被害をもたらした台風といえる。
 各地の被害
 肥前国佐賀藩
 耕地の水没・埋没6,021町歩、家屋全壊33,490軒、同半壊14,565軒、大火での焼失1,173軒、死者8,550人、負傷者8,665人、牛馬の斃死753頭、橋の流出250ヶ所、土砂崩れ2,828ヶ所、往来筋だけでの倒木320,295本、破船105艘、堤防の決壊294ヶ所。
 肥前国大村藩
 家屋全壊3,000余軒、同半壊1,720軒、死者3,107人、焼失家屋318軒、牛馬の斃死107頭、土砂崩れ31ヶ所、耕地の水没1,200石余、壊船1,921艘。
 肥前長崎と近隣の村落(天領
 家屋全壊2,780軒、同半壊1,049軒、死者45人、負傷者103人、破船283艘、石垣の崩壊428ヶ所、焼失家屋86軒、さらにオランダ屋敷が倒壊。
 筑後国柳川藩
 新田6万石に海水が流入、死者3,000人以上、負傷者1,800人以上、全壊家屋1,630軒、流出家屋3,200軒。牛馬の斃死、倒木に関しては「調方行き届かず」。
 筑後国久留米藩
 家屋全壊10,078軒、城下町並びに周辺村落での出火473軒、死者208人、負傷者563人。牛馬の斃死、倒木、石垣の崩落、橋梁の被害に関しては「調方行き届かず」。
 筑前国福岡藩
 博多湾で顕著な高潮。家屋全壊22,018軒、同半壊17,132軒、死者2,353人、負傷者3,420人、破船420艘。福岡城の御殿が全壊、二の丸・櫓が半壊。
 豊前国英彦山
 英彦山神宮の本殿が大破。神殿の扉が筑前国まで吹き飛ばされたという。
 豊前国小倉藩
 小倉城城下のみで、家屋全壊318軒、死者53人、負傷者107人、破船18艘。その他の地域は不明。
 長門国長州藩
 下関だけで、家屋半壊412軒、死者65人、負傷者200余人。海側の石垣、塀、土蔵は残らず崩壊、流出。
 九州や中国地方には他にも多数の藩や天領があり、北陸の加賀藩や東北の仙台藩にも被害の記録が見受けられることから、全国で2万人以上の死者を出したことは確実である。
   ・   ・   ・