🏞121)─2─江戸幕府は南海トラフ巨大地震で衰退し滅亡した。~No.484 ㊺ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2023年9月12日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「じつは怖いのは「津波」と「揺れ」だけじゃない…かつての「南海トラフ巨大地震」がもたらした甚大な被害
 幕末、「安政南海トラフ巨大地震
 安政東海地震安政南海地震が発生する前年、1853年3月11日(嘉永6年2月2日)午前10時過ぎ、嘉永小田原地震(かえいおだわらじしん・M6.7~7)が発生。小田原城下や塚原(現在の南足柄市塚原)、金子(現在の足柄上郡大井町金子)などが、現在の震度に換算して震度7に相当する激しい揺れに襲われたと推定されている。この地震小田原城天守閣が大破し藩主の屋敷、蔵、石垣などが損壊。三の丸の藩校集成館(しゅうせいかん・現在の小田原市立三の丸小学校付近)では、学んでいた少年たち数十人が倒壊建物の下敷きになったが、全員救助されたという。被害が多かったのは武家屋敷町の幸田(こうだ・現在のお堀端通り付近)、揚土(あげつち・現在の谷津口付近)と竹の花町(現在の竹の花通り付近)、町方では甲州街道筋の須藤町(すとうちょう)、大工町(だいくちょう)などの比較的軟弱地盤地域。主な被害は、全壊家屋1,032戸、半壊家屋2,477戸、死者24人とされている。箱根、根府川関所の建物も一部損壊し、箱根など341ヵ所で斜面崩壊が発生。江戸城でもこの地震で大手門(現在のパレスホテル前付近)の渡櫓(わたりやぐら)内の壁が全て落下した。まさかこの2年7か月後、死者1万人の安政江戸地震(首都直下地震)が起きるとは、この時はまだ誰ひとり夢にも思っていなかった。
 【マンガ】「南海トラフ巨大地震」が起きたら…そのとき目にする「ヤバすぎる惨状」
 嘉永小田原地震から4か月後の1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、米国東インド隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー(以下「ペリー」)が率いる黒船4隻(蒸気艦のサスケハナとミシシッピー、帆走艦プリマスサラトガ)が、江戸湾口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に突然姿を現し、開国を迫った。大砲を備え、黒煙を吹き上げ、迅速に疾走し示威行動を取る黒船に、当時の日本人たちは度肝を抜かれたことは想像に難くない。脅威を感じた幕府は、老中首座の阿部正弘が命じ品川台場(お台場)を築造。江戸防衛のための「海防建議書」を提出した伊豆韮山代官の江川英龍に命じ、洋式の海上砲台を建設させる。以前からの「開国派」と「攘夷派」の対立は、一層激化していく。翌月の8月22日、今度は軍艦4隻を率いてロシア海軍中将エフィーミー・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(以下「プチャーチン」)が長崎に入港。
 翌年1854年(嘉永7年)は、1月3日、前年に続きロシアの軍艦4隻と共にプチャーチンの長崎再入港から始まった。2月11日、ペリーも米国の軍艦9隻を率い浦賀に再来。江戸湾に入り、米艦は時報、祝砲、礼砲などと称し、空砲の轟音を轟かせて威嚇。3月1日、幕府は異国船見物禁止令を布告。3月31日、日米和親条約締結。4月24日、吉田松陰が黒船密航を試み、翌日幕吏に捕らえられる。5月2日、京都女院御所より出火し京都御所全焼。7月9日、安政伊賀上野地震(M7級)発生。10月14日、日英和親条約締結。そして、安政東海地震の前日12月22日、下田(静岡県下田市)で日露交渉が開始される。
 この年、幕府は215年間続けてきた鎖国政策を一転し、開国へと歴史の舵を大きく切る。しかし、砲艦外交に屈しての国家政策転換や、米国に一方的最恵国待遇を与えるという屈辱的な条約締結は、討幕運動に拍車をかけ、幕府の威信凋落を招き、14年後の幕府崩壊・明治維新につながっていく
 多事多難・世情騒然の幕末。その天下動乱に追い打ちをかけたのが安政東海地震安政南海地震の連続地震。つまり、安政南海トラフ巨大地震である。嘉永7年11月4日と11月5日に起きた地震なので、当時の文書には「嘉永七年の地震」と記録されているものもあり、本来は嘉永地震と呼ぶべきものだが、前年から相次ぐ外国船来航と武力背景の高圧的開国要求、内裏炎上、連続地震(東海地震・南海地震)など、度重なる天変地異や災異払しょくのため、嘉永7年11月27日(1855年1月15日)に元号を「安政」に改める。歴史年表には、安政東海地震安政南海地震(共に安政元年)と、両地震とも安政を冠しての地震名で呼称されている。
 前置きが長くなったが、まずは安政東海地震
 1854年12月23日午前9時~9時30分ごろ、熊野灘遠州灘沖から駿河湾震源とされるM8.4の安政東海地震が発生。現在の震度に換算すると、甲斐甲西(現在の山梨県アルプス市)、駿河相良(現在の静岡県牧之原市)、遠江袋井(静岡県袋井市)で最大震度7の極めて激しい揺れと推定されている。家屋の倒壊は甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・近江(滋賀県)・摂津(大阪府)・越前(福井県)・加賀(石川県)にまで及ぶ。とくに駿河湾岸沿いと甲府盆地信濃まで揺れによる震害は著しく、震源域が宝永地震のときよりもさらに駿河湾奥から内陸にまで入り込んで動いたのではという推定がある。震度4以上の範囲は東北南部から中国・四国までに及び、震源域の長さは約300キロメートル、南海トラフの東側領域が動いた地震と推定されている。
 駿府城(静岡市)では、門や櫓(やぐら)の大部分が倒壊、石垣が崩れ三の丸も崩壊。城下の武家屋敷や民家など、駿府の町は壊滅状態となった。駿府安東(すんぷあんどう・静岡市)では熊野神社の拝殿は倒壊し本殿も大破した。北安東(きたあんどう・静岡市)では、地割れから湧水が噴出し地震井戸と呼ばれ、その後飲み水に利用されるようになったという。江戸時代に書かれた地震関連書物『続地震雑纂(ぞくじしんざっさん)』によれば、三島宿の宿内は一軒残らず潰れ、町中で一町余り焼失、水を噴出す場所もあったという。沼津宿も潰家多数、沼津城も大破損。吉原宿付近では泥水が3メートル近く吹上げ、岡部宿では泥土が噴出、本郷付近では硫黄臭のする鉱泉が出るようになったとされる。これらの各地で地殻変動液状化現象が起きたものと推定されている。
 また、尾張(愛知県)でも、名古屋城の門・塀および屋根が破損し、城下では武家屋敷・町屋・寺社なども破損倒壊、4人が圧死した(『御城書』)。さらに摂津(大阪北西部と兵庫県南東部)においても四天王寺清水寺舞台が崩れ、舟場稲荷の西鳥居が破損した(『松平家文書』)という。
 大地震×大津波×大火
 津波の「津」は、船着場や渡し場を示す港などを意味する。「津波」とは津(港)に押し寄せる異常な大波をいう。津波は海底で発生した地震などによって引き起こされる。海底地盤の隆起、沈降、地滑りなどで、その周辺の海水が変動し四方八方に伝播する現象だ。海水面の上下動が大規模であれば、湾や沿岸に達して破壊力の大きな大津波となる。
 安政東海地震後の津波は、房総半島沿岸から土佐にまでに及んだ。房総半島の銚子(千葉県銚子市)でも漁船が遭難して3人が死亡している。とくに津波被害が大きかったのは、伊豆下田、沼津、三保、相良、舞阪(まいさか)、新居、伊勢志摩、熊野灘沿岸までの広範地域。
 安政東海地震震源域でもある駿河湾(最深部約2,500m)は、相模湾(最深部約1,600m)、富山湾(最深部約1,000m)と並び、日本三大深湾のひとつといわれる。フィリピン海プレートユーラシアプレートの境に位置し、最深部は駿河トラフとも呼ばれ、1,000メートル以上の深い海底峡谷が湾口から湾奥部まで南北に連なっているため、深海魚を含む魚種豊富(約1,000種)な超優良漁場として沿岸を潤してきた。
 一方で海が深いほど津波は早く来る。津波の伝搬速度は海の水深に比例する。海底の形状や地形にもよるが、一般的に水深が深ければ津波の速さは速くなり、浅くなれば遅くなる(津波の速さ(m/秒)=√(g×h)=√(9.8m/秒2×水深(m)))。例えば、水深200メートルだと、津波の速さは時速約160キロメートだが、2000メートルだと津波の速さは時速約500キロメートルにもなる。そのため、南海トラフの東側(駿河湾トラフ側)の領域が震源であれば、地震発生後数分~十数分で津波の第一波が湾岸に到達する可能性がある。
 安政東海地震後、伊豆半島には昼過ぎまでに何十回となく津波が襲来し、大波は3波で、そのうち第2波が最大だったという。以下は各地の推定津波高。鴨川(千葉県鴨川市)3~4メートル、江戸前(東京湾)1~1.2メートル、武蔵生麦(神奈川県横浜市)1~2メートル、福浦(神奈川県湯河原町)7メートル、網代(静岡県熱海市)3メートル、内浦(静岡県沼津市)7メートル、下田(静岡県下田市)5.7~6.7メートル、舞阪(静岡県浜松市)4.9メートル、大湊(三重県伊勢市)5~6メートル、鳥羽(三重県鳥羽市)5~6メートル、甲賀(三重県志摩市)で10メートル、錦浦(三重県大紀町)6メートル、二木島(三重県熊野市)8~9メートル、賀田(三重県尾鷲市)7~8メートルといわれる。
 志摩半島国崎町(くざきちょう・鳥羽市)の常福寺境内にある石碑『常福寺津波流失塔(じょうふくじつなみりゅうしつとう)』の碑文には、「於當村浪高彦間而七丈五尺」と刻まれ「村に約22.5メートルの津波が押し寄せたが、犠牲者は6名のみであった」という。この村は明応地震(1498)の大津波で甚大被害を出し、その教訓を活かし沿岸部から高台に村ごと集団移転していたので、安政東海地震では大津波襲来でも被害が少なかったものとみられている。この国崎町は国内最古の防災集団移転の成功事例といわれる。
 津波駿河湾西側や遠州灘では引き波から始まったというが、伊豆半島沿岸では潮が引くこともなく、いきなり押し波(津波)が襲来したという。津波は国内にとどまらず、約12時間後にはアメリカ西海岸・サンフランシスコに達し、波高1フィート(約30cm)の検潮が記録されている。
 安政東海地震の特徴は、地震後広範囲に大津波が押し寄せたことと、各地で大規模火災が発生したことである。とくに東海道筋を中心に火災が発生し、三島から白須賀(湖西市の南西部)まで宿場町が軒並み丸焼け(大火)となり、信州(長野県)松本でも城下の家がほとんど倒壊し、その後の大火で約350棟が焼失したという。
 とくに東海道の主な宿場町は壊滅的な被害を受けている。三島(静岡県三島市)、蒲原(静岡市清水区)、江尻(静岡市清水区)、掛川(静岡県掛川市)、袋井(袋井市)などの建物はほぼ全壊状態だったという。その上、火災延焼で多くの宿場町や城下町が全壊焼失している。
 駿河国清水湊(静岡市清水区)の小前惣代が提出した『乍恐以書附奉歎願候(おそれながら かきつけをもって たんがんたてまつりそうろう)』を現代文に意訳すると、「地震の揺れと同時に家屋土蔵などが全壊し、すぐに複数個所から出火、折からの強風によって町全体が灰燼に帰した。清水八ケ町760軒皆焼失、土蔵170ヵ所も焼失」と書かれている。『駿府太夫町の町頭萩原四郎兵衛手記』では、「駿府(静岡市葵区)は、4,417軒のうち578軒 (約16%)の家が燃えた」とされる。また、蒲原宿の小金村(こがねむら・静岡市清水区)でも地震の揺れと火災により、1軒残らず崩れ焼失したという。『続地震雑纂(ぞくじしんざっさん)』には、三島宿一町余り焼失、蒲原宿・江尻宿大方焼失、掛川宿はほとんど焼失と書かれている。
 東海地震は社会が活動を始めた時間帯(午前9時~10時)の地震で、火を使っていた店などもあり、また直下型地震のように揺れが激しかったことで、多くの建物が倒壊し出火し、一部地域では強風が延焼拡大させたものと推測されている。
 1923年の大正関東大震災の時も、亡くなった人(約10万5千人)の87.1%が地震後の火災による焼死。現在の建築基準法では外壁や屋根などには一定の耐火・準耐火性能の基準が定められているが、地震で建物が損壊すれば、出火・延焼拡大しやすくなる。揺れが収まった後の火の始末・ガスの元栓確認と、火が出たときの初期消火が二次災害防止の重要要素となっている。
 さらに続きとなる記事<ロシアの軍艦が「津波」で大破した…かつての「南海トラフ巨大地震」の「衝撃的な様相」>では、幕末の南海トラフ巨大地震について解説します。
 山村 武彦(防災システム研究所 所長)
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 日本人は、中国人、朝鮮人、ロシア人とは違う。
 「日本では、大きな地震など災害が発生するたびに、大小のフェイクニュースが広まることがあった」は、ウソである。
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 江戸時代までの被災地では、大正時代の関東大震災現代日本のような流言蜚語・デマ・フェイク・風評を垂れ流す「悪意」の愉快犯や「善意」の正義の味方は少なかった。
 同じ日本人といっても、昔の日本民族と現代の日本人とでは別人のような日本人である。
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 明治新政府は、大災害で打ちひしがれた弱小国日本を周辺諸国からの侵略、ロシア・清国・朝鮮の軍事侵略とキリスト教の宗教侵略から守る為に、天皇を中心に一致団結して近代的軍事国家へと暴走した。
 歴史的事実として、日本は被疑者であって加害者ではなかった。
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 日本国・日本民族には、西洋のキリスト教史観、中華の儒教史観、中東のイスラム教史観さらに近代のマルクス主義史観・共産主義史観は通用しないし、ある意味、百害で一利もない。
 リベラル左派やエセ保守には、日本の歴史が理解できない。
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 9月12日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「誰もが絶望する…日本人が意外と知らない「南海トラフ巨大地震の歴史」 日本の敗戦、江戸幕府終焉の引き金に…
 宮地 美陽子
 首都直下地震南海トラフ巨大地震、富士山大噴火……過去にも一度起きた「恐怖の大連動」は、東京・日本をどう壊すのか。
 発売たちまち重版が決まった話題書『首都防衛』では、知らなかったでは絶対にすまされない「最悪の被害想定」が描かれている。その衝撃の内容とは?
 発生確率が高まる南海トラフ地震
 南海トラフ沿いの地域は100~150年の周期で大規模地震が発生しており、前回の襲来から約80年が経過した今日、発生確率は日を増すごとに高まっている。
 南海トラフは、静岡県駿河湾から九州の日向灘沖までのフィリピン海プレートユーラシアプレートが接する海底の地形を形成する区域を指す。
南海トラフ沿いのプレート境界では海側のフィリピン海プレートが、陸側のユーラシアプレートの下に1年あたり数センチの速度で沈み込む。その際のひずみが蓄積され、ユーラシアプレートが跳ね上がることで発生する地震南海トラフ巨大地震だ。
 歴史の転換と重なる過去の南海トラフ地震
 テレ朝news 【動画】“すべる地層”関東一円に 土砂災害が作った湖から警告【関東大震災100年】
 南海トラフ巨大地震は一体、何が怖いのか。真っ先に挙げられるのは国民の半分が被災する「異次元の被害レベル」だ。
 政府は東日本大震災以降、「想定外」をなくすため、被害想定は起こり得る最大規模の地震で見積もっている。2013年5月の「南海トラフ巨大地震対策について(最終報告)」では、「まさに国難とも言える巨大災害」という強い表現で警鐘を鳴らしている。
 「最大クラスの巨大地震津波については、千年に一度あるいはそれよりもっと発生頻度が低いものであるが、仮に発生すれば、西日本を中心に甚大な被害をもたらすだけでなく、人的損失や国内生産・消費活動、日本経済のリスクの高まりを通じて、影響は我が国全体に及ぶ可能性がある」。
 誰もが絶望する…日本人が意外と知らない「南海トラフ巨大地震の歴史」 日本の敗戦、江戸幕府終焉の引き金に…
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 過去の南海トラフ巨大地震の発生は、歴史の転換期と重なる。前回は1944年12月に南海トラフの東側で「昭和東南海地震」が発生し、そのわずか37日後に、内陸直下の地震三河地震」を引き起こしたとされる。
 この二つの地震は戦時下であったため地震の大きさに比べ十分な資料が残されておらず「隠された大地震」とされる。二つの地震の間には、名古屋への初の本格空襲があり、現在の名古屋ドームの場所にあった日本一の飛行機のエンジン工場が被災するなど重工業地帯が甚大な被害を受け、日本の敗戦を早めたとも言われる。2年後の1946年12月には南海トラフの西側を「昭和南地震」が襲った。
 歴史上、さらに一つ前の南海トラフ巨大地震は、江戸時代に起きた1854年12月23日の「安政東海地震」、翌日の「安政南海地震」で、その翌年に首都直下の「安政江戸地震」が起きた。
 さらに1856年には安政の台風、1858年にはコレラが流行し、度重なる災害が江戸幕府の終焉の引き金の一つとされている。
 この巨大地震の特徴は、超広域で強い揺れとともに巨大な津波が発生し、避難を必要とする津波の到達時間が「数分」という極めて短い地域が存在することにある。
 先の「最終報告」は、その被害が「これまで想定されてきた地震とは全く様相が異なるものになると想定される」と位置づける。今風に言うならば、まさに「次元の異なる」「異次元」の被害が生じると予想されているのだ。
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 8月28日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「ロシアの軍艦が「津波」で大破した…かつての「南海トラフ巨大地震」の「衝撃的な様相」
 山村 武彦防災システム研究所 所長
 防災・危機管理アドバイザープロフィール
 ロシア軍艦を回転させた津波
 函館での交渉を拒否されたあと、伊豆下田へ回航の要請を受け、遣日全権使節プチャーチンが乗ったロシアのフリゲート艦ディアナ号(帆船)は、1854年12月3日に下田港に単艦で入港した。ディアナ号は3本マストの2,000トン、大砲52門、488名の乗組員が乗船するロシアの最新鋭戦艦だった。プチャーチン日米和親条約の締結を聞き、国境画定を含む日露和親条約締結を目的として下田湾(静岡県下田市)に停泊中だった。
 交渉が開始された翌日12月23日、安政の南海地震が発生する。ディアナ号の『航海誌』には、9時15分に突き上げるような海震(海底の地震動が海水を伝播し真上の船を揺らす現象)と思われる震動が約2~3分継続したという。その約20~30分後に沖合から押し寄せた津波によって膨れ上がった海が下田の町を押し包んだ。数多くの船や家が山に向かって流され、船などの漂流物で建物がさらに破壊され流されていった。地震は2回、津波は昼までの2時間余に7~8回押し寄せ、そのうちの第2波が最大で波高は約5.7~6.7メートルといわれる。波は下田富士の中腹まで駆け上がったと伝えられている。下田の家屋のほとんどが流失倒壊し、全戸数875戸のうち841戸が流失全壊、30戸が半壊、無事だった家はわずか4戸しかなかったという。そして、溺死などによる死者は122人に上った。
 【第1回から読む】「次は西日本大震災」…まさに次の国難南海トラフ巨大地震」は本当に起きるのか
 湾内が空になるほど潮がひいた後、停泊していたディアナ号は湾内にできた大きな「渦」に巻き込まれ、錨を引きずりながら42回転したと伝えられる。ディアナ号のマストは折れ、船体は大きく損傷し浸水も激しく、甲板の大砲が転倒して下敷きになった船員が死亡したという。『ロシア海軍省の記録』には、「右舷の砲門が顛覆(てんぷく)して水兵ソボレフが下敷となって死亡し、下士官テレンチェフは足を挫折し、水兵ヴィクトロフは腰から下に裂傷(れっしょう)を受けた」と記述されている。船倉に海水が溢れ、食糧も軍用物資などもずぶぬれになってしまう。そうした混乱の中でも乗員たちは、流されてきた屋根の上にいた意識不明の下田の住民(老婆)を助け上げている。ディアナ号にとって何よりの致命傷は、艦を支える竜骨の一部がもぎとられ、舵まで失ってしまったことだった。応接係 古賀謹一郎氏の『西使続記』には、「毎分一尺五寸宛も浸水しているのに、27人の水兵は鐘の合図で整然と交代しながら、ポンプ、滑車、革桶(かわおけ)で、浸水を汲み上げ、昼夜寸時も休まない。若しこれが我が国の船であったならばとっくに沈没していただろう」と、艦を守ろうと昼夜兼行で必死に働く乗組員たちを遠望し記録に残している。
 このような甚大被害を受けたにもかかわらず、プチャーチンはその日の夕方、津波災害の見舞いとして、副官ポシェートを筆頭に外科医や通訳を下田に上陸させ、負傷した住民たちへの応急手当を申し出る。手当てを受けた人たちはロシアの医師たちを神様のように拝んだという。この対応に幕府の応接係・村垣範正(むらがき のりまさ)は、いたく感服したと伝えられている。
 ディアナ号沈没
 津波により大破し航海不能となったディアナ号は、自力航行できず、曳航され修理のため下田港から戸田港(へだみなと)に向かう途中に強い西風に煽られ、やむなく駿河湾の奥深く宮嶋村(現在の富士市)沖に停船した。そこで大砲などの銃器、弾薬、装備、積荷などのほとんどを荒天の中陸揚げした。1855年1月7日午前6時過ぎ、ディアナ号は地元漁民たちの小舟約100艘による曳航を再開。約3時間で5海里(約9km)進むが、強風にあおられ波浪高く激しく浸水し田子の浦三四軒屋(たごのうら さんよんけんや・富士市)沖で座礁沈没。幕府はディアナ号曳航中の難破に備え、救助用として六百石積みの船を伴走させていた。
 この船には、幕府の役人とロシア人18名が乗り、指揮はロシアのエンクヴィスト大尉が取っていたといわれる。沈没船の乗員たちは、小舟による懸命な救助活動でほぼ全員が救出され、伴走船などで無事戸田などに収容される。こうした幕府の対応に『ディアナ号航海誌』には、「同情心のある日本人たちは、このときとても親切にしてくれて、艦が航行中に難破した場合の救助用として大きなボートを私たちに用意してくれた」と感謝の気持ちが記述されている。日本側の記録のひとつ、庵原郡寺尾村の小池太三郎が記した『年代記話傳(ねんだいきわでん)』では、「ヲラシア船(ロシア船)の儀は翌日朝、新浜村、三四軒屋浦に漂着仕候(ひょうちゃくつかまつりそうろう)碇(いかり)を卸し(おろし)、相繋ぎ(あいつなぎ)申し候」と書かれている。また『田子浦村誌』では、「航行中連日の暴風怒涛(どとう)に遭ひ(昔時は冬季西風連日吹き荒らみたりし由)入港することを得ず。當村宮島字三軒屋(さんげんや・富士市三四軒屋)沖に来り坐州(ざす)して動かざるに至れり」と書かれている。
 また、沼津藩の祐筆(藩主に侍して文章を書く役職)山崎継述(やまざき つぐのぶ)の『嘉永七甲寅歳 地震之記』では、「戸田にうつらんとす折から俄に西南の風暴しく吹出て戸田に入る事を得ずして雄勢崎(おせざき)より駿河の国小須(おす)の湊に吹入らる異船はもとより破損して艪揖(ろかじ)もなく海上をのるになやミければ(中略)我船も大に破し原宿の海一本松と云所に漂着す(略)異船悉く(ことごとく)風波にくだかれ其夜のうちに檣(はばしら)も打れ水上の船飾りもミな破れて千本の浜にながれよる遂に異舶ハ小州の沖合いにしづミたり」と書かれ、田子浦の小須(おす)ノ沖合いで沈んだことが地図に描かれている。(引き上げられたディアナ号の錨は、今も静岡県富士市宮島にある三四軒屋緑道公園に置かれている)。
 乗艦を失ったプチャーチンは、直ちに帰国用の代船建造を幕府に願い出て、幕府もこれを許可。日本で50人~60人乗り程度の小型帆船を造り、上海から本国に救援を要請するつもりだった。修理予定だった戸田港で代船建造が決定され、幕府も全面協力に乗り出し、韮山代官(にらやまだいかん)で洋学者でもある江川太郎左衛門を世話係にする。ロシア兵は2組に分散し幕府の役人と共に陸路戸田に向かう。護衛の小田原藩に警護されながら行軍。沿道には多数の見物人が押し寄せ、珍しい行列を見守った。戸田では伊豆天城山の木材を使用し、近郷の船大工を集めて日露共同で日本最初の洋式造船が始まった。完成した船は「へだ号」と名づけられ、建造に参加した船大工は洋式造船の技術を習得する絶好の機会になった。
 日露和親条約と「北方領土の日
 これほどの大災害直後も、国家間の交渉は続けられていく。プチャーチンはディアナ号の遭難にもめげず、日露会談を続行する。英米に後れを取った和親条約締結の外交交渉に、すさまじい執念を見せた。
 大地震・大津波から3日目の1854年12月26日(嘉永7年11月7日)から、プチャーチンは、副官ポシェートに事務折衝を指示、玉泉寺でも全権交渉を行い、その後も条約草案の事務折衝を続け、1855年2月7日(安政元年12月21日)、津波被害を免れた下田の高台にある長楽寺で、日露和親条約(9ヶ条)と同付録(4ヶ条)がロシア遣日全権使節プチャーチン提督と、幕府側全権・大目付筒井政憲(つつい まさのり)と勘定奉行川路聖謨(かわじ としあきら)により締結された。
 この時、交渉に当たった川路聖謨は、アメリ使節ペリーの武力を背景にした恫喝的態度とは対照的で、紳士的に日本の国情を尊重しつつ交渉を進めようとしたロシア使節プチャーチンに大変好感を持ったといわれる。川路はプチャーチンについて、「軍人としてすばらしい経歴を持ち、自分など到底足元に及ばない真の豪傑である」と心からの敬意をもって評している。プチャーチンも川路について、「鋭敏な思考を持ち教養ある紳士的態度で、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた一流の人物」と報告書に記している。ロシア船に対する箱館、下田、長崎の開港、ロシア領事の駐留と双方の領事裁判権最恵国待遇などが取り決められた。
 そして、条約第2条では、両国の国境を「今より後、日本国と露西亜(ろしあ)国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。(中略)カラフト島に至りては、日本国と露西亜国の間において、界を分たず 是迄仕来りの通りたるべし。」と初めて千島列島の日露国境を択捉島、ウルップ島(得撫島)の間と定めた。つまり、国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島、歯舞(はぼまい)島、色丹(しこたん)島の北方四島は日本の領土と、ロシアが国際条約で正式に認めたのである。その126年後の1981年(昭和56年)、日本政府は閣議の了解をもって、国境条項を含む条約が平和的に調印されたこの2月7日を「北方領土の日」と定める。しかし、北方四島は1945年太平洋戦争・終戦以降、ロシアが一方的に自国領土として不法に実効支配を続けている。それに対し日本政府は、北方四島の領有権は日本に有りと主張し、今も返還を求め続けている。
 ちなみに、プチャーチン一行は3陣に分かれて帰国。第1陣は1855年3月に米国の商船フート号を雇い、159人が乗船し帰国の途に就いた。第2陣は戸田で建造された新造船「ヘダ号」が、同年4月プチャーチン以下48人を故国に送り届けた後、函館戦争に参戦。第3陣270人余は、米国船グレタ号を傭船し、同年7月に戸田港を出帆。しかし、グレタ号はオホーツク海で英国の軍艦に発見され、ロシア兵は全員捕虜として捕らえられてしまう(クリミア戦争中で、ロシアと英国が対立していたため)。その後、捕虜となったロシア兵たちは香港、英国本土へ移され、ロシアに送還されるのは、クリミア戦争終結・講和(1856年3月)後だったという。
 1858年7月、プチャーチンは再度来日し「日露修好条約」を締結後、江戸城で将軍家世子徳川慶福(家茂)に謁見。一連の日本との条約締結などの功績により、プチャーチンは海軍大将・元帥に栄進。のちに教育大臣にも任命される。日本政府からも日露友好への貢献が評価され、勲一等旭日章が贈られた。1883年10月、プチャーチンは79歳で死去。プチャーチンの死後、娘のオリガ・プチャーチン戸田村(へだむら・現在の静岡県沼津市)を訪れ、プチャーチンの遺言として、当時の村民たちの好意に感謝し100ルーブルを寄贈した。そして、2005年4月16日、日露修好150周年記念式典が下田市で開催される。式典には小泉純一郎総理大臣、ロシュコフ駐日ロシア大使、プチャーチンのひ孫ディミトリー・プチャーチン夫妻、川路聖謨の子孫らが参列し、河津桜の記念植樹が行われるなど、こうして幕末の安政東海地震時から始まった日露の交流。しかし、2022年2月24日、ロシアはウクライナに一方的な軍事侵攻を開始。この暴挙に岸田総理大臣は、「ロシアの行為はウクライナの主権、領土の一体性を侵害するもので、国際法に違反し、『ミンスク合意』にも反するものであり、断じて認めることはできず、強く非難する」などとコメントを発表。今やロシアは、日本にとって極めて危険な隣国になってしまった。
 さらに続きとなる記事<かつて「大阪」で「多数の溺死者」を出した、「南海トラフ巨大地震」が引き起こした「津波」の衝撃的な規模>では、過去の南海トラフ巨大地震について引き続き解説します。
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 5月30日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「南海トラフ巨大地震」で「日本」は「衝撃的な有り様」になる…その「ヤバすぎる被害規模」
 漫画原作者 よしづきくみち
 漫画家
 南海トラフ巨大地震が発生した場合、日本は甚大な被害を受けると予想されている。その被害規模は我々の想像を超えるものであり、影響は広範に及ぶ。具体的な被害予測について、内閣府が出している防災情報をもとに見ていきたい。
 漫画『南海トラフ巨大地震』より
 被害の大きい地域と死者数
 南海トラフ巨大地震の発生後は、多くの地域で耐震性の低い住宅が倒壊し、多数の死傷者や要救助者が発生する。また、大津波警報が発令され、沿岸部では高い場所への避難が行われるが、それでも津波による多数の死者・行方不明者が発生することは避けられないだろう。さらに、津波により多くの住宅が流される。また揺れと津波によって火災が多くの場所で発生するが、道路の損壊・渋滞等により、消火活動は限定されると想定される。
 こうした状況の中、死者数は最大でなんと約32万人に上ると予想されている。これらの数値は、地震津波による直接的な被害だけでなく、その後の生活環境の悪化や医療体制の崩壊による間接的な被害も含んだ数字だ。
 ライフラインと交通施設の被害
 南海トラフ巨大地震が発生した場合、日本のライフラインと交通施設に深刻な影響が出ると予想されている。内閣府がまとめた情報によれば、被災直後には、最大約3440万人が断水し、最大約3210万人が下水道の利用が困難となる。また、停電件数は、なんと最大約2710万軒におよぶ。固定電話は最大約930万回線が通話できなくなり、携帯電話も大部分の通話が困難となることが想定されている。都市ガスも最大約180万戸の供給が停止すると予想されている。
 交通施設もまた、南海トラフ巨大地震の影響を大きく受ける。道路施設被害は約3万~3万1千箇所で発生し、鉄道施設被害は約1万3千箇所で発生すると予想されている。また、対象港湾の係留施設のうち約3千箇所で被害が発生し、対象防波堤延長約417キロメートルのうち約126~135キロメートルで被害が発生すると予想されている。さらに、中部国際空港関西国際空港高知空港・大分空港・宮崎空港津波浸水が発生すると想定される。
 発災直後には、日本全国で非常に深刻なインフラの問題が発生するといってよいだろう。こうした事態に備えるには、今のうちに備蓄などの対策をしておくことが非常に重要となる。
 漫画『南海トラフ巨大地震』より
 さらに発災後は非常に多くの避難者も発生する。断水の影響により、避難者は1週間後に最大で約950万人が発生すると想定されている。また、平日の12時に地震が発生し、公共交通機関が全域的に停止した場合、一時的にでも外出先に滞留することになる人は、中京都市圏で約400万人、京阪神都市圏で約660万人に上ると予想されている。
 医療機能もまた、南海トラフ巨大地震の影響を大きく受ける。重傷者、医療機関で結果的に亡くなる方および被災した医療機関からの転院患者を入院需要、軽傷者を外来需要とした場合、被災都府県で対応が難しくなる患者数は最大で入院が約15万人、外来が約14万人と想定されている。
 各都市の状況
 南海トラフ巨大地震の影響は、日本全体に及ぶと予想されているが、大都市ではどのような状況になるだろうか。
 東京都は、地震震源地からは離れているが、その影響は大きいと予想されている。道路の損壊、交通機関の停止などにより、都市機能が大幅に低下する可能性がある。また長周期地震動(揺れが1往復するのにかかる時間が長い大きな揺れ)により、高層ビルは非常に大きな揺れに襲われる可能性が高い。その場合、高層階では机などの設置物が激しく動くことで被害が生じる可能性がある。
 大阪府や愛知県では、地震津波の直接的な影響を大きく受ける可能性があり、特に、津波による被害が大きいと予想されている。名古屋市などの大都市では、東京同様に都市機能の大幅な低下が予想されているが、津波の影響を考慮すると、復旧までにかなりの時間を要する可能性が高い。また南海トラフ巨大地震では、揺れそのものが激甚であり、沿岸部でなくてもその影響は計り知れない。
 さらに連動して富士山の噴火の可能性も指摘されている。富士山が噴火した場合、溶岩流、火砕流、火山灰の影響により、人的被害に加えてライフラインや産業への被害がさらに増大する。
 南海トラフ巨大地震が発生した場合、その影響は広範に及び、日本全国に深刻な被害をもたらすことは間違いない。このような災害に備えるためには、まずその規模と影響を理解することが重要である。
 そして、それに基づいて適切な対策を講じることが求められる。それは、個々の家庭の防災対策から、地域社会や行政のレベルでの防災計画、さらには国全体での災害対策まで、多様なレベルでの取り組みを意味する。
 私たちは、南海トラフ巨大地震がいつ発生するかは予測できない。しかし、その発生が避けられない事実であること、そしてその影響が我々の生活に及ぼす影響が甚大であることを認識することは、我々にとって重要な課題と言えるだろう。
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 漫画『南海トラフ巨大地震
 2025年 2月11日 15時07分、「南海トラフ巨大地震」発生--。
 そのとき、名古屋港にいた主人公・西藤 命(さいとう めい)は、
 変わり果てた街の姿を目にする。
 「大津波警報」が発令されるなか、安全な高台へ逃げようとする命。
 ところが、そばには「ケガを負って動けない高齢者」が……。
 見捨てるか、それとも助けるか。
 迫られる究極の決断。
 そして襲い来る「見えない津波」の恐怖。
 いつか必ず起こる未曽有の災禍。そのとき、いったい何が起きるのか?
 どうすれば、生き延びることができるのか?
 綿密な取材に基づいて描かれた「いつか起こる震災のリアル」。
 これは、「そのとき」が来る前に知っておかなければならない「現実」。
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 4月21日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「富士山噴火」は必ず起きる…通り過ぎた後は「すべて」を焼き尽くす「火砕流」の想像を絶する「高温」と「スピード」
 鎌田 浩毅京都大学名誉教授
 もし、いま富士山が噴火したら、なにが起こるのか、あなたはご存知ですか?――
 2011年3月に起こった東日本大震災は、富士山を「噴火するかもしれない山」から「100パーセント噴火する山」に変容してしまいました。
 富士山が噴火したとき、何が起こるのか? 火山の第一人者で、ニュース解説などでもお馴染みの地球科学者・鎌田 浩毅さんが解説します。今回は「火砕流」について取り上げます。
 火山の噴火で生じるのは、溶岩や飛んでくる噴石ばかりではありません。山肌を流れ降ってくる「火砕流」とはどういうものか、その恐ろしさなどについて、ご説明しましょう。
 *本記事は、『富士山噴火と南海トラフ』から、内容を再構成してお届けします。
 *好評の“いま富士山が噴火したら、なにが起こるのか”で、これまで取り上げた災害については、記事末尾の【関連記事】からご覧いただけます。
 【書影】富士山噴火と南海トラフ
 猛烈なスピードと高温で襲ってくる「火砕流
 火山が爆発的な噴火を起こしたときに、しばしば「火砕流」が発生する。火砕流とは、マグマの破片やガス、石片などさまざまな物質が一団となって流れる現象であり、ドロドロと流れる溶岩流とは違い、モクモクと、煙のような見かけをしている。
 だが、実際は決して見た目のように悠長なものではない。火口から噴き出した火砕流は、あたかも原子爆弾のキノコ雲が地表を横に這っていくように、猛烈なスピードで移動する。その速さは時速100キロメートルを上回る。
 そして、火砕流の温度は一般に、摂氏500度を超す。そのため、夜間に遠くから見ると赤く光りながら流れ落ちるのがわかる。これは雲仙普賢岳で1991年から約4年間にわたり発生した火砕流でも観察された。
 【写真】雲仙・普賢岳噴火で観察された火砕流1991年の雲仙・普賢岳噴火で観察された火砕流 photo by gettyimages
 すなわち火砕流は、高速で高温のきわめて危険な流れであり、通過した地域をすべて焼失し壊滅させてしまうのである。当然、富士山噴火の際にも甚大な被害が予想されるこの現象、まずは「火砕流とは何なのか」、その正体について検討していこう。
 火砕流の正体
 火砕流はさまざまな地形を乗り越えて、ときに何十キロメートルも離れた場所まで流れ下る。火砕流が凹凸のある地面を通過するときには、周囲の空気が火砕流の中に取り込まれて体積を膨張させる。火砕流の中に含まれるマグマ起源のガスも、体積の増加に寄与している。
 また、火砕流は上空に向かってフワフワと舞いあがることはなく、固体と気体とが拡散せずに一団となって地を這うように流れる。火砕流流動性が高い理由は、細かい火山灰と大量の気体を含んでいることにある。
 このように固体と気体とが攪拌しながら流れる状態を、粉体流という。火山灰とガスが激しくかき混ぜられることによって、大きな岩石まで運びながら火砕流は高速で流れるのである。
 【写真】フィリピンのルソン島・マヨン火山噴火で発生した火砕流2018年8月に起きたフィリピンのルソン島・マヨン火山噴火で発生した火砕流。同年11月に発生した台風により、火山噴出物が流されて、さらに大きな被害を生んだ photo by gettyimages
火砕流が最初に記録されたカリブの島の火山
 20世紀の初頭に、小規模な火砕流が初めて学術的に記述された。
 1902年、フランスの地質学者アルフレッド・ラクロワとフランク・ペレが、カリブ海に浮かぶマルティニーク島のプレー火山で発生した火砕流を調査したのである。
 【写真】マルティニーク島のプレー山とサン・ピエールの街。現在の姿と噴火時の様子写真上:西インド・マルティニーク島のプレー山と麓のサン・ピエールの現在の姿。サン・ピエールは、1902年の噴火で壊滅するまで、マルティニークの中心地だった 写真下:左は今まさに山を下ろうとする火砕流。右は火砕流により壊滅したサン・ピエールの街
 この火砕流は、サンピエールに住む2万9000人の住民を吹き飛ばし、死に至らしめたが、彼らの綿密な調査により、この噴火は火砕流現象のモデルとなった。
 火砕流が残した爪痕
 このとき、調査したラクロワ自身が撮影した、火砕流が通過したあとの市街地を写した珍しい写真が残っており、拙著『富士山噴火と南海トラフ』で紹介した。
 その写真でみると、背後の山から流れ下りた火砕流がどのような結果をもたらしたかが、克明に読みとれる。つまり、被災して廃墟と化した街は、流れに対して平行な方向の壁だけが残り、一方で流れがぶつかる方向の壁はすべてなぎ倒されていたのである。
 火砕流に並行な壁だけが続くサン・ピエールの通り。ラクロワ撮影の写真に及ばないまでも、その特徴の一端が垣間見えよう photo by gettyimages
 この惨事においては、地下の牢屋に閉じこめられていた囚人ほか数名だけが、火砕流の熱を免れて生き残ったとされている。
 では、日本一の高さと山容を誇りながら、いつ噴火してもおかしくない「活火山」である富士山では、どうだろうか。この富士山が噴火したら、はたしてどのような火砕流が発生するのかだろうか。
 まずは、富士山で起こりうる火砕流について予測するために、まだ記憶に新しい1991年に起こった雲仙・普賢岳で起こった噴火による火砕流について、詳しく検証してみよう。
   ◇   
 ひとくちに「火砕流」といっても、そのタイプもさまざま。続いては、雲仙・普賢岳で起こった噴火による火砕流を振り返りながら、どういったタイプの火砕流だったのか、どういった被害が生じたのか、いまだから解明された、当時の火砕流の威力を考えてみます。
 続く〈起これば激甚被害、しかも予測不可能な「火砕流」…実は「世界のあちこち」で日常茶飯事に起きていた!〉は下の【関連記事】よりどうぞ。
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 起これば激甚被害、しかも予測不可能な「火砕流」…実は「世界のあちこち」で日常茶飯事に起きていた! >>>
富士山噴火と南海トラフ――海が揺さぶる陸のマグマ
 【書影】富士山噴火と南海トラフ
 本書の詳しい内容はこちら
 2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震によって、富士山は「噴火するかもしれない山」から「100パーセント噴火する山」に変容してしまった。そのとき何が起こるのか。南海トラフ巨大地震との連動はあるのか。火山の第一人者が危機の全貌を見通す!
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