⚔32)─1─天正地震が徳川家康を救った。豊臣秀吉とナマズ。京の大仏。~No.138No.139 * 

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 小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄徳川家康陣営の間で行われた戦い。
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 豊臣秀吉は、徳川家康との戦いの準備を進めたが天正地震で甚大な被害を受けた為に断念し、和議を進めた。
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 歴史秘話ヒストリア - NHK
 2021年2月3日放送
 「災害と日本人 先人はどう向き合ってきたのか」
徳川家康の危機を救ったのは、史上最大級の内陸地震天正地震だった!?ほかにも江戸時代の浅間山大噴火で大きな被害を受けながら、奇跡の「復興」を果たした村人たちの絆。そして関東大震災を経て「防災」に人生をかけた地震学者の思いを紹介。東日本大震災から10年。歴史上、数えきれないほど起き、そのたび日本人ひとりひとりの暮らしはもちろん、日本そのものの行く末をも左右した地震津波・噴火などの巨大災害に迫る。
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 天正地震は、天正十三年十一月二十九日(1586年1月18日)および同年十一月二十七日(1月16日)に日本の中部で発生した巨大地震である。主に前者の地震についてを天正地震、後者は天正越中地震と呼ぶ。
 天正地震(てんしょうおおじしん)あるいは天正の大地震(てんしょうのおおじしん)とも呼ばれる。また、各地の被害から長浜大地震(ながはまおおじしん)、白山大地震(はくさんおおじしん)、木舟大地震(きふねおおじしん)、天酉地震とも呼ばれる。
 『東寺執行日記』、『多聞院日記』など多くの古記録に記載され、『梵舜日記』(別名『舜旧記』『舜舊記』)には約12日間にわたる余震が記録されている。
 概要
 被害地域の記録が日本海若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ歴史上例のない大地震であるため、震源域もマグニチュードもはっきりした定説はなく、いくつかの調査が行われているが震央位置も判明していない。なお、11月27日に前震と考えられる地震と11月30日に誘発地震と考えられる地震が発生した。
 戦国時代末期の豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期であったため、統治機構の混乱から文献による歴史資料が残り難い時代背景であった。しかし、三河にいた松平家忠の日記によると、地震は亥刻(22時頃)に発生し翌日の丑刻(2時頃)にも大規模な余震が発生。その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて地震があったことが記載されている。
 震源
 近畿から東海、北陸にかけての広い範囲、現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県富山県滋賀県京都府奈良県三重県越中、加賀、越前、飛騨、美濃、尾張、伊勢、近江、若狭、山城、大和)に相当する地域にまたがって甚大な被害を及ぼしたと伝えられる。また阿波でも地割れの被害が生じており、被害の範囲は1891年の濃尾地震(M8.0-8.4)をも上回る広大なものであった。そのことなどからこの地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている。しかし、ひとつの地震として複数の断層が連動して活動したのか、数分から数十時間をかけて活動したのかは議論が分かれている。

 フロイス『日本史』(5、第60章、第2部77章)
 「ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。
 その後40日間一日とて震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛もよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。
 若狭の国には、海に沿ってやはり長浜と称する別の大きい町があった。揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が遠くから恐るべきうなりを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。
 (高)潮が引き返すときには、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑み込まれてしまった。」

 『イエズス会日本書翰集』
 「若狭の国には海の近くに大変大きな別の町があって町全体が恐ろしいことに山と思われるほど大きな波浪に覆われてしまった。そして、その引き際に家屋も男女もさらっていってしまい、塩水の泡に覆われた土地以外には何も残らず、全員が海中で溺死した。」
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 京の大仏(きょうのだいぶつ)は、京の方広寺(現・京都市東山区)にかつて存在した日本の大仏。
 豊臣時代から江戸・徳川時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、江戸時代には日本三大大仏の一つに数えられた。江戸の後期も天保年間になって再建された4代目は昭和の後期まで存続していたが、昭和48年(1973年)、失火により焼失した。
 本項では、大仏を主題に、大仏殿(方広寺大仏殿)についても述べる。
 造営の歴史
 秀吉による造営
 天正14年(1586年)、豊臣秀吉天正地震を機に奈良の東大寺に倣(なら)って大仏の建立を計画し、大仏殿と大仏の造営を始めた。文禄4年(1595年)、大仏殿がほぼ完成し、高さ約19メートル(長さの比較資料:1 E1 m)の木製金漆塗坐像大仏 が安置された。文禄5年、安房国の大名であった里見義康が正木頼忠らの家臣と共に上洛した際にも、この大仏が記録されている。
 しかし、慶長元年(1596年)に起きた慶長伏見地震により、開眼前の大仏は倒壊した。このとき秀吉は大仏に対し「おのれの身さえ守れないのか」と激怒し、大仏の眉間に矢を放ったと伝える。慶長3年(1598年)、秀吉は法要を待たずに死去し、同年、大仏の無い大仏殿で開眼法要が行われた。
 大仏殿は高さ約49メートル、南北約88メートル、東西約54メートルという壮大なものであり、また境内は、現在の方広寺境内のみならず、豊国神社、京都国立博物館妙法院智積院そして三十三間堂をも含む広大なものであった。大仏殿は、現在、豊国神社が建つ位置にあった。
 秀頼による造営
 秀吉の子豊臣秀頼が遺志を継ぐ形で、豊臣家家臣の片桐且元を担当者として今度は銅製で大仏の再建を行ったが、慶長7年(1602年)11月、鋳物師(いも-じ)の過失により仏像が融解して出火し、大仏殿は炎上した。これには、「放火による慶長9年(1604年)の焼失」とする異説もある。
 慶長13年(1608年)10月には再び大仏および大仏殿の再建が企図された。大仏殿の創建は慶長15年(1610年)から行われ、徳川家康も諸大名に負担その他を命じ、自身も米の供与や大工・中井正清を送っている。また、大仏に貼られる金の板金は江戸で鋳造されている(『当代記』)。6月には地鎮祭が行われ、大仏殿と銅製の大仏は慶長17年(1612年)に完成した。
 慶長19年(1614年)には4月、梵鐘が完成し、南禅寺の禅僧文英清韓に命じて銘文を起草させ、落慶法要を行おうとしたところ、7月に徳川家康より梵鐘の銘文について「不吉な語句がある」との異議が唱えられ、法要中止の求めがあった。これが、豊臣家と徳川の争いに発展し、両大坂の陣を経て豊臣家の滅亡に繋がる、世に言う「方広寺鐘銘事件」である。
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 YAHOOJAPAN!ニュース
 過去を学び将来に備える:歴史に影響を与えた戦国時代の地震
 福和伸夫 | 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
 2016/8/2(火) 16:10
 戦国時代
 戦国時代には沢山の地震が起きました。戦乱の中、地震による混乱が拍車をかけたように感じます。1467年の応仁の乱や、1493年の明応の政変から、信長、秀吉、家康が天下をとり、大坂の陣に至るまで、百年余りにわたって戦乱の時代が続きましたが、この間、多くの地震が発生し、歴史の変化にも影響を与えたようです。
 戦乱の時代に突入して起きた明応の地震(1498年9月20日
 明応地震南海トラフ地震の一つと考えられており、大きな津波被害を出しました。当初は、東海地震と考えられていましたが、近年、南海地震も一緒に起きた可能性も指摘されています。
 この地震では、淡水湖だった浜名湖の南岸が津波によって切れて、湖が遠州灘とつながり、今切ができたとされています。また、浜名湖の湖口にあった角避比古神社のご神体が津波により流されたそうです。後日、流れ着いたご神体を祀った細江神社は、地震の神様としても有名です。
 現在の三重県津市である安濃津津波によって大きな被害を受けました。鎌倉では、大仏の大仏殿が津波で流されたと言い伝えられています。ただし、1495年9月3日に起きた地震が関東地震で、その津波が原因だとの指摘もあります。また、1948年7月9日には西日本で大きな地震が発生していたようで、南海地震との関連も議論されています。
 なにせ500年以上前のことですから、明快な結論は得られていないようです。いずれにせよ、戦国時代の始まりの時期に、大地震が連続して発生したことだけは確かなようです。
 その後、戦乱の時代が続いたため、地震記録を残した古文書は十分に残っていません。1502年1月28日に越後、1510年9月21日に摂津・河内、1520年4月4日に紀伊・京都、1525年9月20日に鎌倉、などで地震の記録が残されています。戦乱の時代を収めた織田信長が生まれたのは1534年、今川義元桶狭間で破ったのは1560年、命を落としたのは1582年ですが、この時期には大きな地震は無かったようです。
 多くの武将を痛めつけた天正地震(1586年1月18日)
 1582年本能寺の変の翌年1583年に、秀吉による大阪城の築城が始まりました。豊臣秀吉徳川家康との小牧・長久手の戦いは1584年、この激動の時代に起きたのが天正地震です。近畿から中部を襲った内陸の大地震で、阿寺断層、庄川断層、養老・桑名・四日市断層などが連動して起きたと考えられています。若狭湾や伊勢湾で津波の記録もあるので、海の断層も動いたのかもしれません。被害地域の広さは、内陸最大の地震と考えられている1891年濃尾地震より遙かに広域にわたります。
 この地震では、近江の長浜城が全壊して山内一豊の一人娘与祢が圧死し、越中では木舟城が倒壊して前田利家の弟・秀継夫妻が死亡しました。さらに、飛騨では、帰雲山の山崩れで帰雲城が埋没し、内ヶ島氏が滅亡しました。この他にも、美濃の大垣城が全壊焼失し、伊勢の長島城や尾張の蟹江城も壊滅、清洲城液状化の被害を受けました。このように、多くの戦国大名に被害が及びました。
 地震の時、秀吉は、明智光秀が作った坂本城に居ましたが、慌てて大坂に逃げ帰りました。寒川旭先生によると、この地震の後、伏見城の普請に際して、地震ナマズとの関係を手紙に残したのが、地震ナマズを結びつけた最初の記録だそうです。また、秀吉が大垣城に前線基地として家康を攻めようとした矢先に、天正地震が起きたため、秀吉は家康と和解することになりました。
 その後、1590年小田原征伐、1592年文禄の役と続いた後、1596年に浅間山の噴火と慶長の3地震が発生しました。実際にはこれらは文禄時代に起きたのですが、災いを気にしてか、文禄から慶長に改元されました。
 伏見城を倒壊させ清正を復活させたと言われる慶長伏見地震(1596年9月5日)
 秀吉の晩年に慶長伏見地震が起きました。前日9月4日には豊後地震が起き、津波によって大分の多くの家屋が流失し、瓜生島の80%が陥没したと言われています。さらに、9月1日には、四国の中央構造線で.慶長伊予地震が起きたと言われています。5日間の間に大地震が3つ起きるという歴史上稀に見る事態でした。
 伏見地震では京都の被害が最も多く,明からの使節を迎える予定だった伏見城天守も大破しました。この地震に絡んで、歌舞伎の演目「地震加藤」も作られました。小西行長との確執で謹慎処分中だった加藤清正が、秀吉の身を案じて伏見城に駆けつけ、謹慎処分が解かれ、その後の戦乱で大活躍したという物語です。地震後、明との講和が頓挫し、1597年に慶長の役が始まり、清正は再び朝鮮に出兵し、翌1598年秀吉の死後、日本に撤退します。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍側に加わり、その後、熊本城や名古屋城を築きました。その熊本城が4月に起きた熊本地震で被災しました。
 ちなみに名古屋城は、1610年に家康の命で築城を始めました。清洲城から城下町ごと熱田台地の北西端に高台移転をしたもので、清洲越と呼ばれています。この背景には、豊臣の大坂方に対抗する政治情勢や、1586年天正地震での液状化の被災、五条川のほとり故の水害危険度の高さなどが関係したと思われます。築城に際して清正は最も重要な天守の石垣作りに携わりました。
 慶長地震(1605年2月3日)と慶長三陸地震(1611年11月2日)
 家康が1603年に征夷大将軍になり、江戸幕府が開府した後に慶長地震が発生しました。一般には、この地震は、南海トラフ地震の一つと考えられていますが、津波の被害が顕著で揺れの被害記録が余り残されていないことから、震源に関しては南海トラフ以外にも色々な説が示されています。また、1624年に完成した53の宿場を通る東海道は、慶長地震津波被災地を避けているように見えます。
 1611年には、慶長三陸地震が起きました。この地震では、北海道も巨大津波に襲われたとの指摘があり、2011年東北地方太平洋沖地震と同様の巨大地震だった可能性があります。丁度400年で巨大地震が繰り返したことになります。この地震の後、仙台藩の藩主だった伊達政宗は様々な復興事業を行いました。その内容については、以前に記したYahooニュース「東日本大震災で活きた伊達政宗の時代の地震教訓」を参照下さい。
 その後、1614年11月26日に越後や関東、東海、近畿、四国などで広域に被害を出す地震が発生したようですが、震源も含め不明な点が多いようです。この直後、1614年12月19日、木津川口で戦火を交え、大坂冬の陣が始まりました。そして、大坂夏の陣で、1615年6月4年に豊臣秀頼淀殿が命を落としました。次の地震の活動期まで、しばらく地震の静穏期が続き、その間、徳川は盤石の体制を固めていきました。
 福和伸夫
 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
 建築耐震工学や地震工学に関する教育・研究の傍ら、地域の防災・減災の実践に携わる。民間建設会社の研究室で10年間勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科で教鞭をとり、現在に至る。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。
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