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ディアナ号:3本マストの2,000トン級木造帆船、船長53.33m、幅14.02m、大砲52門、約500名の乗組員が乗るロシアの最新鋭の戦艦。
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2022年8月号 WiLL「日本の心とディアナ号
小名木善行
北海道・知床半島沖で遊覧船が沈没しました。海難事故といえば、思い出すのは安政元年のロシア軍艦ディアナ号事件です。ニコライ1世の命で日本にやってきたこの船は、幕府の指示で伊豆の下田に入港しました。そこで東海大地震に遭遇するのです。地震によって起きた津波は、高さ23メートルに達し、ディアナ号は大破してしまいました。
プチャーチンの要請を受けた幕府は伊豆の戸田(へた)村を修理地と定め、ディアナ号を曳航(えいこう)することにしました。曳航は由比ヶ浜の漁民たちが漁船100隻あまりで巨大なディアナ号に綱に結んで引っ張りました。ところが由比ヶ浜と戸田の中間地点くらいのところで、再び高波に襲われてしまうのです。ディアナ号は、船体に大穴を空けて沈没してしまいました。
幕府は戸田の船大工たちに命じて、プチャーチンが持っていたディアナ号の設計図を元に、代替船を建造するとことにしました。全長24.6メートル、排水量88トンの大型軍艦です。前例のないこの艦を、なんと日本の船大工たちは、たった3カ月で建造しました。この艦が日本ではじめて建造された本格的西洋式木造大型帆走軍艦です。
ディアナ号以上に素晴らしい艦となったこの船に感動したプチャーチンは、戸田の船大工たちへの感謝をこめて、船を『ヘダ号』と名付けました。
ちなみにこの建造作業では、木材の加工はまったく問題なく手際よく行われたのですが、ボルトは、それまで日本にはなくて、製造にとても苦労したそうです。一方ロシア側は日本の船大工の使う墨壺の便利さに感嘆したとか。
こうして戸田号の建造に携わった舟大工たちは、西洋式大型艦の製造について、竜骨からの組み上げや、タールの抽出方法、船底銅板を張る際にタールを用いる技法など、建造に欠かせない種々の技術を習得しました。なかでも中心人物となった戸田の船大工の上田寅吉は、これを機に長崎海軍伝習所に入学。文久2年には榎本武揚らとオランダへ留学し、さらに明治維新後、横須賀造船所の初代工長として維新後初の国産軍艦『清輝』の建造を指揮しています。
また同じく建艦の手伝いをした船大工の嘉吉の倅の菊三郎は、江戸に出て隅田川で、和舟に小さな蒸気エンジンを乗せて観光蒸気船の商売を始めました。隅田川に昔ながらの和舟しかなかった時代です。江戸っ子たちが大喜びして、蒸気船は連日行列ができるほど大当たりとなりました。これによって菊三郎はたいへんなお金持ちになるのですが、子供の頃家が貧しくて母が内職で毎日明け方近くまで下駄の鼻緒を作る仕事をしていた、そんな苦労して自分を育ててくれた母の恩を決して忘れまいと、名字を緒明(おあけ)と名乗りました。そのおかげか緒明家は、造船王として大成した菊三郎の後も、静岡銀行頭取を出したり、また、いまのご当主の母親はなんと西郷隆盛のお孫さんなのだそうで、代々隆盛を極めているのだそうです。
さて、この頃明治新政府はたいへんな金欠状態でした。そこで空き地になっていた東京湾の四号台場を払い下げるという話が榎本武揚から聞いた上田寅吉は、緒明菊三郎にその話を持ちかけました。土地を買い取った緒明菊三郎は、そこに我が国初の本格的西洋式の『緒明造船所』を築きました。こうして日本は以後、造船大国の道を歩みます。
どのような苦難災難に見舞われても、そこからまた立ち上がる、どこまでも真面目に誠実を尽くして技術を磨く。人の縁を大切にし、お互いに誠意をつらぬいていく。そうすることで私たちの先輩たちは日本を築き、発展させてきました。再び日本が立ち上がるためには、先人たちのように、私たちもまた何があってもくじけない。何があっても負けない日本人の心を取り戻すことではないかと思います。」
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JPF笹川平和財団
OPRI海洋政策研究所
ホーム > OceanNewsletter > 日本最初の洋式船「戸田号」の建造とロシア人との友好
[KEYWORDS] 戸田号/日ロ交流/近代造船
宝泉寺 住職◆伊藤一雄
名古屋大学理学部事務長◆伊藤正彦
ロシア帝国の極東外交で活躍した人物として知られるロシアのプチャーチン提督は、日露和親条約を締結するなど幕府との外交交渉にあたっただけではなく、民間レベルで日本と友好関係を築いていた史実はあまり知られていない。
軍艦ディアナ号の遭難、戸田の船大工が作った初の洋式船「戸田(へだ)号」、プチャーチン提督らと戸田村民との友好の歴史について紹介したい。
はじめに
静岡県沼津市戸田(へだ)(旧田方郡戸田村)は、東側に達磨山(981.9m)などの山々があり、西側に駿河湾と内海の戸田湾に面する西伊豆の漁村である。駿河湾は、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界が接する地震が発生しやすいところである。今から155年ほど遡る嘉永7年(1854年)11月4日に安政の東海大地震(マグニチュード8クラス)と言われる巨大地震が起こっている。この地震に運悪く遭遇したロシアのプチャーチン提督が率いる軍艦ディアナ号は、地震による津波により沈没している。以下に、プチャーチンの来航とディアナ号の遭難、戸田付近の船大工が作った初の洋式船「戸田(へだ)号」、プチャーチンらロシア人と戸田村民との友好の史実について紹介したい。
プチャーチンの来航とディアナ号の遭難
嘉永6年(1853年)7月ロシアの使節プチャーチン提督は、軍艦4隻を率いて長崎に来航し、国書を長崎奉行に提出し出航した後、再び、翌年10月ディアナ号単艦で下田に入港した。その目的は、北海道・千島・樺太方面の国境問題を解決することと通商条約を結ぶことであった。ところが、11月4日の朝9時ごろ大地震が起こった。港内に碇泊中のディアナ号は、津波(波の高低差約11.6mと記録)で艦底を破損し激しく浸水した。この津波で大砲の下じきとなり水兵1名が死亡、2名が重傷を負った。
大きな損傷を受けたディアナ号は、沈没の恐れもあり修理が急がれたが、下田では英仏の軍艦に見つかる危険があったため、伊豆半島の浦々を調査した結果、戸田浦(田方郡戸田村)を修理地として決定した。理由は、御浜岬が突き出ており内側は砂浜で良湾であること、三方が山に囲まれていて交戦国の英仏の目に触れにくいことなどであった。ディアナ号は戸田浦へ向かうため下田を出航したが、途中で大しけに遭い、戸田と反対方向へ押し流され、宮島村(富士市)沖合で沈没した。日本人の献身的な救助活動により1名の死者もなく全員上陸できた。
上陸したロシア人約500名は陸路戸田村へ入った。プチャーチンやスリゲート公爵など上官は宝泉寺を宿所とし、士官は本善寺に、他の者は付近に長屋4棟を急造して3カ月余の戸田村の生活を始めた。プチャーチンは宝泉寺に百余日滞在し、日露交渉に当たる一方、造船を指揮した。5回の会談の結果、12月21日には下田長楽寺で日露和親条約の締結に至っている。
「戸田号」の建造
ディアナ号が沈没し、代船の建造が必要になったため、造船場所として戸田港牛が洞が建造地として決定された。設計は、技術将校モジャイスキー大尉指導のもとに、工学士、士官が担当し、これに日本人大工が同席した。設計にあたっては、所持品の中にあった『海事集録』(1849年第1号)という雑誌が参考にされた。作業は露天で、テーブル代わりに樽を逆さまにして戸板をのせ、その上で行われた。日本側も西洋式造船術を会得する絶好のチャンスと考えて積極的に協力した。設計図ができあがると、仕事は日に夜をついて強行された。日本側からは戸田の7人の船匠(船大工の棟梁)、船大工約40人、人夫150人が招集された。日本側の者は、洋式造船は未経験で何もわからず、直接帆船の建造に参加したのはこのときが初めてであった。
この船の建造を開始したのは安政元年(1854)12月24日であったが、仕事は順調に進行し、設計から百日余の翌安政2年3月15日ころに竣工した。この船はプチャーチンにより「戸田号」と命名された。2本マストの帆船で87トン、50人乗りで建造費は三千百両二分と記録されている。
プチャーチンと部下47人は、3月22日この戸田号で帰国の途につき、7カ月後の11月末に首都サンクトペテルブルグに到着している。その他は、下田に入港していたアメリカ船を雇い、2月に159名の部下をペトロパブロフスク・カムチャツキーへ先発させており、残りの乗組員300名程は、戸田号出航後、ドイツ船で帰国し、途中でイギリス船に拿捕され捕虜となっている。なお、下田で1名、戸田で2名のロシア人が死亡している。
「ディアナ号」の模型(戸田造船郷土資料博物館所蔵)
「戸田号」の模型(戸田造船郷土資料博物館所蔵)
ロシア人と戸田村民との友好
滞在中のロシア人に対しては、「もらうな、やるな(与えるな)、つきあうな」という禁制があったにもかかわらず、戸田村民は人情豊に面倒をみた。マホフ神父の記録の中にも、「かれらは客好きで善良である。オランダ人以外の外国人を入国させないという法をまげてまで、私たちを愛想よく迎え、住居を提供して、生活に必要なものをすべて持ってきてくれた。かれらは友情に厚く同情心に富み、私たちは滞在中、誰一人として侮辱を受けた者はいない。常に好意と尊敬を示し、日本を去るときにも友情を示し別れを惜しんでくれた」と記している。
おわりに
「露國人之墓」(宝泉寺)
その130余年後の平成4年(1992年)9月12日には、プチャーチン提督のひ孫に当たるディミトリー・プチャーチン夫妻が宝泉寺や戸田造船郷土資料博物館※1ほかを訪問している。また平成17年4月16日には、日露修好150周年記念式典が下田市のまどが浜海遊公園で開催され、式典には、小泉総理、ロシュコフ駐日ロシア大使、町村外務大臣、小池北方対策担当大臣らが挨拶に立ち、再びディミトリー・プチャーチン夫妻と当時の交渉役であった江戸幕府川路聖謨(としあきら)勘定奉行の子孫とともに、河津桜の記念植樹を行った※2。このように戸田村とは今日においても友好関係が続いている。宝泉寺のしだれ桜の下に「露國人之墓」が北の方角に向いて祀られている。亡くなった水兵の母国に帰ることができなかった、家族と再会できなかった無念が伝わってくるが、日々住職らが供養している。(了)
● 『全国の伝承江戸時代 人づくり風土記(22) ふるさとの人と知恵 静岡』社団法人農山漁村文化協会、1990
● (社)日本船主協会HP日本に近代造船技術をもたらしたロシア軍艦ディアナ号の遭難事件
※1 戸田造船郷土資料博物館
※2 首相官邸HP「日露通好条約の締結150周年式典(H17.4.16)」
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下田市
プチャーチンによるディアナ号来航と「安政の大津波」
プチャーチンの来航
ロシア使節の提督プチャーチンは嘉永6年(1853)、日本の開港と北方領土の画定を求めて長崎に来航しますが交渉は実らず、一旦日本を離れます。
ペリー艦隊が嘉永7年(1854)6月に帰国して4カ月後の10月15日、プチャーチンは新鋭船ディアナ号に乗って、下田に来航します。
ディアナ号は3本マスト、2,000トン、52門の大砲と488名の乗組員が乗るロシアの最新鋭の戦艦であり、日米和親条約の締結を聞き、再び国境画定を含む日露和親条約の締結を目的として開国の町下田に来航したのです。1週間ほど遅れて、日本側全権大目付・筒井政憲(つつい まさのり)と勘定奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)が、応接係として急遽下田に派遣されてきます。
ロシア側との事前交渉がもたれた後に第1回日露交渉が11月3日福泉寺(ふくせんじ)にて開かれます。
安政の大津波
第2回目の日露交渉を約束して別れた次の日、嘉永7年(1854)11月4目午前10時ころ、突然大地震とともに大津波が下田湾を襲います。地震は2回、津波は幾度となく押し寄せ、町内の家屋はほとんど流失倒壊し、溺死者等122人、戸数875戸のうち841戸が流失全壊、30戸が半壊、無事の家はわずかに4戸しか残りませんでした。また、波が下田富士の中腹まで駆け上がり、大船が「本郷たんぼ」まで押し流されたとも言われています。
この津波により下田の町は壊滅状態の大惨事でした。湾内が空になるほど潮のひいた後、停泊していたディアナ号も津波に巻き込まれ、42回転したとも伝えられています。
マストは折れ、船体は酷く損傷し、浸水も激しく、甲板の大砲が転倒して下敷きになり、死亡した船員も出る惨状でした。このような災害の中、ロシア側は、その日の夕方、津波見舞いに副官ポシェートと医師を同行させ、傷病者の手当ての協力を申し出ています。この厚意に応接係・村垣範正(むらがき のりまさ)はいたく感服したと伝えられています。
日露和親条約
津波後3日目の嘉永7年(1854)11月7日から、プチャーチンは、副官ポシェートに長楽寺で事務折衝を始めさせます。13、14両日玉泉寺で全権交渉を行い、それから条約草案の事務折衝を続けます。
14日から長楽寺で全権との交渉が続き、安政元年(1855)12月21日、日露和親条約9ヶ条と同付録4ヶ条がロシア使節プチャーチンと日本側全権・筒井政憲(つつい まさのり)、川路聖謨(かわじ としあきら)、下田奉行・伊沢政義(いざわ まさよし)とのあいだで締結されます。
この条約の第2条では、両国の国境が「今より後、日本国と露西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。(中略)カラフト島に至りては、日本国と露西亜国の間において、界を分たず是迄仕来りの通りたるべし。」と初めて定められました。
昭和56年(1981)、日本政府は閣議了解をもって、国境条項を含むこの条約が、平和的に調印されたこの日を「2月7日 北方領土の日」とすることを定めました。(安政元年12月21日。この日は西暦で1855年2月7日にあたります。)
ディアナ号の沈没とヘダ号の建造
嘉永7年(1854)11月4日、M8.4にも及ぶ地震に伴う大津波により、大破して遠洋航海が不能になったディアナ号は、修理港と決まった伊豆西海岸の戸田へと向かいますが、激しい波風に押し流されて駿河湾の奥深く、富士郡宮島村沖に錨をおろします。
ここで装備や積荷のほとんどをおろしたディアナ号は、地元漁民の決死の協力で再び航行を試みますが、艦は浸水激しく失敗して駿河湾で沈没を余儀なくされます。
乗員およそ500人は全員救出されて無事戸田に収容されました。乗艦を失ったプチャーチンは、直ちに帰国用の代船の建造を幕府に願い出て、幕府もこれを許可、修理する予定だった戸田で代船の建造が決定されます。天城山の木材を使用し、近郷の船大工を集めて日露共同で日本最初の洋式造船が始まったのです。
完成した船は「ヘダ号」と名づけられ、建造に参加した船大工は洋式造船の技術を習得する絶好の機会に恵まれます。プチャーチンはディアナ号の遭難にもめげず、下田にとって帰り、日露会談を続行させました。
ロシア使節団の帰国
帰国する艦船を失ったプチャーチン一行は三陣に別れて帰国しています。第一陣は安故2年(1855)2月米国の商船フート号を雇い、159人を乗船させ帰国の途につきました。
第二陣は戸田で建造された新造船「ヘダ号」で、同年3月プチャーチン以下48名が乗船して、故国に向かって出帆します。残りの第三陣270人余は、米国船のグレタ号を傭船して同年6月戸田港を出帆しました。しかし、グレタ号はオホーツク海でイギリスの軍艦に発見され、全員捕虜として捕らえられます(クリミア戦争の最中で、ロシアとイギリスが対立していたため)。その後、香港、英国本土へ移され、ロシアに送還されたのは、クリミア戦争が終結し、講和した後でした。
更新日:2010/03/12
このページに関するお問い合わせ: 観光交流課: 下田市東本郷1-5-18: Tel 0558-22-3913: Email kankou@city.shimoda.lg.jp
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沼津市
造船資料室
2008年7月7日更新
幕末戸田の「開国」と「海廊伝説」
チャーチン提督
嘉永7(1854)年、ロシア皇帝の命を受けたプチャーチン提督は、日本と正式な国交を結ぶため、ディアナ号に乗って下田にやってきました。
11月4日の朝、安政東海大地震が起こり、それに伴う津波に襲われ、ディアナ号は舵や船底に大きな被害を受けました。
自力で航行できなくなったディアナ号は、伊豆西海岸の戸田港で修理することになりました。戸田港は御浜岬によって波風から守られ、砂浜は遠浅で、巨大な船の底部を横倒しにして修理するのに適していました。クリミア戦争で英仏と戦 っていたロシア軍にとって、御浜岬は敵国に見つかりにくい環境を造り出していたのです。
ところが、ディアナ号は、戸田へ回航する途中で強い季節風にあおられ、田子の浦沖まで流されてしまいました。周辺の漁民も協力し、なんとか曳航しようとしましたが、とうとう沈没してしまいました。プチャーチンと約500名の乗組員たちは、2日間をかけて陸路戸田へ到着しました。
ディアナ号模型
そしてロシア人が帰国するための船の建造が始まりました。ディアナ号の船内から持ち出されたスクーナー型帆船の図面を元に、設計図の作成に取り掛かりました。しかし、当時幕府にロシア語のできる通訳はおらず、ロシア語からオランダ語、そして日本語に訳して会話をしました。長さの単位も、船の構造もまったく異なるため、作図には大変苦労しました。
さまざまな障がいを乗り越え、約100日後、日本初の本格的洋式帆船が完成しました。プチャーチンは戸田の人々への感謝をこめて、この船に「ヘダ号」と名づけ、安政2(1855)年3月22日、ロシアに向けて旅立ちました。途中英軍艦に追跡させるなどの危険にさらされながら、当時の首都ペテルブルグに到着したのは、7ヶ月後の11月でした。
ヘダ号模型
その後、幕府の命により、戸田で6隻の同型の船が建造されました。この船は、当時戸田村が属していた君沢郡から「君沢型」と呼ばれました。続いて江戸石川島で4隻の君沢型船が建造され、ここにも戸田から船大工が派遣されています。さらに長州藩(山口県)や田原藩(愛知県)、江戸や大阪へ招かれた船大工たちが、西洋式造船技術を広めていったのです。
オリガ・プチャーチナ
明治20(1887)年、プチャーチンの娘オリガ・プチャーチナが、父の受けた厚情に謝意を表するため戸田を訪れました。オリガは、関係者に記念品を贈り、造船所跡地や宿舎となっていた宝泉寺などを見学しました。後にオリガの永眠に際し、遺言により100ルーブルが戸田村へ寄贈されました。
昭和44(1969)年、戸田村が造船郷土資料博物館を建設するにあたり、当時のソビエト連邦政府から、500万円の寄付を受けました。さらに翌45(1970)年には、大阪万博が開催され、ソ連館に展示されていたディアナ号の模型とステンドグラスが、閉会後戸田村に贈られ、現在も当博物館に展示しています。
このページに関するお問い合わせ先
戸田造船郷土資料博物館・駿河湾深海生物館
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ファクス:0558-94-2384
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月尾嘉男 TBSラジオ 「日本全国8時です」
ディアナ号遭難事件 (TBSラジオ 「日本全国8時です」 2016.5.26)
今日・明日の2日間、伊勢志摩で主要国首脳会議が開かれます。
この会議は「G7」と呼ばれ、日本、アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの7カ国の首脳と欧州連合(EU)の代表が参加します。
1975年に第1回がフランスで開かれてから、毎年、各国回り持ちで開かれていますが、1997年の第23回からはロシアが加わって「G8」となっていました。
ところが、2014年の会議からは「G7」に戻っています。
これは2014年2月に発生したウクライナ騒乱に乗じて、ロシアがクリミア半島を強引にロシアに編入したことから、ロシアを制裁する意図で参加国から外した結果です。
そのような状況について、読売新聞がフランス国立工芸院のクザビエ・ロフェール教授にインタビューした内容が5月22日に掲載されています。
その要旨は、今回の会議の主要な議題の一つがテロ対策と難民問題であるが、テロ組織について重要な情報を持っているのがロシアであり、中東の和平には欠かせない国である。
そのためには会議の参加国とロシアとの関係を修復する必要があるが、日本以外の参加国はロシアとの関係を断っている。
しかし、日本は5月6日にも安倍総理大臣がプーチン大統領とロシアのソチで非公式会談をしたように、欧米諸国とロシアの仲介をできる可能性のある国であり、期待するということです。
さらに難民問題についてはトルコが鍵となる国であるが、欧米諸国はトルコを人権問題で批判ばかりしているので、トルコとの協議が難しい状況にある。
そして、書かれてはいませんが、トルコは中東で日本ともっとも友好的な国であるということも暗示しているのではないかと推察されます。
ここからが今日ご紹介したい話ですが、日本とトルコとは明治時代初期、日本とロシアとは江戸時代末期に友好関係を築く事件があったのです。
トルコと関係する事件は「エルトゥールル号遭難事件」ですが、これは大変に有名なので簡単に紹介させていただきます。
トルコの前身であるオスマン帝国海軍の木造の軍艦「エルトゥールル号」が明治23(1890)年6月に明治天皇に親書を奉呈するために横浜港に到着しました。
これはオスマン帝国の最初の親善訪日使節団として大歓迎されましたが、イスタンブールからの長旅であったため、船体の損傷や乗員の多数がコレラにかかって消耗していたため、ようやく9月に出発することになります。
その状態を見て、日本側は台風の季節が過ぎてからの出港を勧めたのですが、様々な事情から出港し、結果として台風に遭遇し、和歌山県の紀伊半島沖で座礁し沈没してしまい、587名が亡くなりますが、一部が大島の断崖に辿り着きます。
そのとき現在の串本町(当時の大島村)の住民が総出で救助し、漁村の貧しい生活にもかかわらず、衣類や備蓄の食料を提供して69名が助かり、その後、日本海軍の「比叡」と「金剛」が生存者をイスタンブールまで送り届けたという事件です。
この結果、トルコは日本に友好的になりますが、さらに事件に衝撃を受けた山田寅次郎という日本人が義捐金を集め、2年後に自身でトルコに届けに行き、熱烈な歓迎を受け、現在に到るまで、大変な友好国になります。
それより36年前の嘉永7(1854)年11月、全権使節プチャーチンが乗船するロシアの軍艦「ディアナ号」が日本と和親条約締結の交渉のため、伊豆半島の下田港に停泊していました。
ところが第1回交渉を行なった翌日、安政東海地震が発生し、津波によって船体が破損し、約500人の船員が冬の海に投げ出されますが、漁民が総出で救助し、全員無事でした。
ディアナ号は修繕すれば航海可能と判断され、船大工の居る西海岸の戸田(へだ)港に回送されますが、強烈な西風により戸田港に入ることが出来ず、富士川河口付近まで流されてしまいます。
乗員は地元漁民に救助され、ディアナ号は漁師が多数の手漕ぎの小舟で海上を牽引して戸田まで到達しようとしたのですが、結局、強風で沈没してしまいます。
そこで乗船していたモジャイスキー士官が中心になって設計図を描き、地元の船大工を指導しながら、ディアナ号の20分の1の100トン程度の2本マストの木造帆船を建造します。
そのとき日本側の指揮を摂ったのが、最近、世界遺産に登録された韮山の反射炉を建造した江川太郎左衛門英龍でした。
構造は当時の和船とは違う中心に竜骨を通した西洋式の船でしたが、日本の船大工は優秀で、ほぼ100日で国産最初の洋式帆船を完成させ、この「ヘダ号」と名付けられた船でプチャーチン以下47名がロシアに帰国し、残りはロシアが自身で手配したアメリカの商船で無事帰国しました。
この行動はロシアに大変感謝されたことは勿論ですが、 日本にも多大の利益がありました。
戸田では習得した技術で同じ型の船を6隻建造し、幕府が佐渡や箱館に配備しましたし、建造に参加した戸田の船大工は長州藩(山口)や田原藩(愛知)に招かれて洋式帆船の建造を指導し、さらに一部は江戸の石川島にあった水戸藩の造船所でも指導し、石川島播磨重工業(現在のIHI)の前身となる石川島造船所の成立に貢献しています。
日本が戦後、世界最大の造船王国になった契機はディアナ号の遭難にあったということになります。
このディアナ号に関係する貴重な資料は戸田の岬の先端にある「戸田造船郷土資料博物館」に展示されていますので、伊豆半島に行かれたときに立寄られることをお薦めします。
その後、ロシアとは日露戦争と第二次世界大戦で戦うことになり関係は良好とは言えませんが、トルコは第二次世界大戦の末期の1945年2月に対日宣戦布告をしたものの現在では緊密な友好関係にあります。
今日、御紹介したような友好の歴史を背景に、日本もフランスの学者が期待するような役割を果たすことを検討してはどうかと思います。
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現代の日本人は、戦後民主主義教育における歴史教育を高得点を取る目的で丸暗記させられた為に江戸時代・徳川幕府を正しく理解できない。
戦後民主主義教育は、キリスト教価値観とマルクス主義価値観(共産主義価値観)で作られている。
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昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人で、昔の日本人が偉かったからと言って現代の日本人も偉いとは限らず、むしろ現代の日本人は昔の日本人よりダメなとことが多い。
いい日本人は2割、ダメな日本人は3割、そちらとも言えない日本人は5割。
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現代の日本人と昔の日本人の違いを歴然と証明するのが、平成23(2011)年3月11日に発生した東日本大震災後の遅々として進まない復興の有り様である。
それと好対照が、慶長三陸大地震と大津波で甚大な被害を受けた伊達政宗と仙台藩であった。
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日本人は江戸時代後期から昭和前期にかけて幾度もロシア人を助けてきたが、日本人は一度たりともロシア人に助けられた事がない。
そればかりか、ロシア人は逃げ惑う数十万人の日本人難民(主に女性や子供)を虐殺し、女性なら10歳前後の少女から強姦し惨殺していた。
つまり、ロシア人にかけた善行は悪業として帰ってきた。
それに比べて、ロシアの侵略で苦しめられてきたトルコ、ポーランド、ウクライナなどは、日本に助けられた恩義を忘れる事なく数十年後でも日本か困っているとき恩返しとして日本国・日本人を助けた。
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戦国時代までの日本人は、いつ不運に襲われて死ぬかも分からない地獄のような社会で生きていた為に、はた迷惑な戦乱が起き、理不尽な自然災害、疫病、飢饉が発生すれば、「命あっての物種」として生きる為に裸1つで逃げ回った。
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江戸時代は戦のない平和な時代であったがそれでも生き辛いブラックな社会である事には変わりなく、理不尽な自然災害、疫病、飢饉は絶えず発生していた。
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日本民族は、人生とは「七転び八起き」と覚悟して、「生きていてこそ花は開く」「楽しみはこの世にあって死後の神仏の国にはない」として、理不尽な自然災害、疫病、飢饉の中を「七転八倒」しながら諦めず投げ出さず逃げに逃げて逃げ回って生き抜いてきた。
そして、「転んでもただでは起きない」を信条に甚大な被害をも垂らす自然災害、疫病、飢饉に襲われ、襲われながらも、生きる為に何かを教訓とし、生きるのに為に役立つ技術を見つけだし、技術を磨き発展させながら江戸時代を生きてきた。
それ故に、江戸時代といっても前期・中期・後期・幕末では全然違い、十年一昔であって、十年一日であったわけではない。
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日本民族は、善行を積めば良い事が起き、悪行を行えば悪い事が訪れるという因果応報を信じ、お天道様に恥じない、人に後ろ指を指されないように、たとえ人が見ていなくても「天知る・地知る・我知る」として、嘘を付かず、不正を働かず、真面目に仕事をし、素直に正直に生きる事を心情としてきた。
それを一言で言えば、ご先祖様(祖先神・氏神様)に恥じない生き方、「損をしてでも徳を取れ」である。
つまりは、痩せ我慢の赤貧信仰である。
日本の「世の為、人の為そして国の為」という公徳心はここから生まれた。
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一瞬の油断が命取りとなる自然災害、疫病、飢饉の中を逃げ回りながら生き残る為には、自己責任・自助努力・自力救済が大原則で、現代日本に蔓延っている貴方任せ、依存気質、甘え体質、事なかれ主義、前例主義、再挑戦を認めない減点主義、先送り、責任転嫁、責任逃れなどは許されなかった。
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