💖24)─4─ポーランド・ユダヤ人難民を保護した神戸市民と神戸空襲の地獄。〜No.102 

日本とシオンの民 戦前編

日本とシオンの民 戦前編

  • 作者:栗山 正博
  • 発売日: 2007/08/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 「善因善果、悪因悪果」はウソである。
 日本では幾ら自己犠牲的に人助けをしても、いい事は起きず、むしろ悪い事しか起きなかった。
 ポーランドユダヤ人難民を保護した神戸は空襲で焼け野原となった。
 人を助けても、殺される時は殺される。
 殺される時は女性や子供も関係なく殺される。
 人道貢献した神戸市民は生きたまま焼き殺された。
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 昔の日本人と現代の日本人は別人の日本人である。
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 神戸大空襲は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍が繰り返し行った神戸市およびその周辺地域に対する戦略爆撃・無差別攻撃の総称。特に兵庫区や林田区など西神戸に大きな被害を出した1945年(昭和20年)3月17日と、東神戸および阪神間の町村を壊滅させた同年6月5日の爆撃を指して用いられることが多い。

 被害面積は神戸周辺都市部の21%に及び、戦災家屋数14万1,983戸、総戦災者数は罹災者53万858人、死者7,491人、負傷者1万7,002人とされるが、これは確定的なものではなく実際はさらに膨大な被害であったと推測されている。神戸市の人口1000人当たりの戦争被害率は47.4人であり、人口および面積から換算した被害率としては当時の五大都市の中でも最悪の数字であった。
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 杉原千畝「命のビザ」ゆかり 神戸に歴史伝える石垣
 時計2020/1/22 05:30神戸新聞NEXT
 杉原千畝「命のビザ」ゆかり 神戸に歴史伝える石垣
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 戦前の「神戸ユダヤ共同体」に隣接していた石垣=神戸市中央区山本通1
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 戦前の「神戸ユダヤ共同体」に隣接していた石垣=神戸市中央区山本通1
 戦時中、外交官杉原千畝(1900~86年)が発給した「命のビザ(査証)」に救われたユダヤ難民のうち、多くが身を寄せた神戸市中央区に、今もユダヤ人が訪れる石垣がある。戦前の姿をとどめる石垣の西隣に、難民支援の拠点だった「神戸ユダヤ共同体(通称ユダヤ人協会)」の異人館があったからだ。ビザの発給から80年。石垣所有者らが今春、神戸とユダヤ人の歴史を後世に伝えようと、掲示板を設置する。(段 貴則)
 神戸は開港後からユダヤ人貿易商らが渡来し、12年ごろには同共同体やシナゴーグユダヤ教会堂)が設立された。39年、ナチス・ドイツポーランドへ侵攻後、リトアニアに避難したユダヤ人に対し、領事代理だった杉原は本国の方針に反し、日本経由の亡命を助ける「通過ビザ」を発給。同行の家族を含め約6千人とも言われる命を救い、その多くが神戸に滞在した。ユダヤ人協会が、住居や生活資金の提供、亡命に関する相談などに応じた。
 石垣は高さ約2メートル、長さ約25メートル。異人館は空襲で焼失したが、石垣は無事だった。現在、異人館が建っていた土地半分と、石垣が残る土地は、神戸電子専門学校を運営する学校法人「コンピュータ総合学園」が所有し、同校校舎が建っている。
 掲示板は、同学園の福岡賢二常務理事や神戸外国人居留地研究会の岩田隆義理事、石垣そばにある一宮神社の山森大雄美宮司を中心に準備を進めている。日本語、英語、ヘブライ語で石垣周辺が「人道支援の地」だった歴史を紹介。歴史家デイビッド・クランツラーが著書に記した「神戸には反ユダヤ主義はなかった。あったのは、あたたかい思いやりとやさしさばかりだった」も添える。
 また、石垣のある同校校舎は阪神・淡路大震災時、約200人の被災者を受け入れ、多くのボランティアが避難生活を支えた。「戦前のユダヤ人だけでなく、大災害の避難者を助け合う土壌は25年前の神戸にもあった」(福岡常務理事)として、震災の記述も掲示板に刻むという。
 3人は「戦争の色が濃くなっていく時代にあって、誰も排除せずに受け入れ、救いの手を差し伸べた人たちが神戸にいたことを、次世代に受け継ぎたい」としている。
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 神戸新聞社
 肉親奪ったホロコースト ユダヤ教ラビ、一族の壮絶な過去 2020/08/14
 第2次世界大戦の嵐が欧州を吹き荒れる1940~41年、神戸の街にナチス・ドイツの迫害を逃れる人々が押し寄せた。駐リトアニア領事代理・杉原千畝氏の発給した「命のビザ」を手に、一時滞在したユダヤ人難民。その数は4千人以上といわれる。
 外国人の多い神戸には、12年ごろ既に、ユダヤ人のコミュニティーが形成され、シナゴーグユダヤ教会堂)が設立された。国内でユダヤ教組織があるのは現在も東京と神戸だけだ。
 その「関西ユダヤ教団」のシナゴーグ神戸市中央区北野町4)を訪ねると、ラビ(指導者)のシュムエル・ヴィシェドスキーさん(35)が迎えてくれた。
 ニューヨーク出身でイスラエルで学び、2014年に来神。神戸とユダヤ人の関係を語る上でも避けられない戦争の話を巡り、ヴィシェドスキーさんは「日本の人に知ってもらいたい」と、これまで公にしてこなかった一族の壮絶な過去に触れた。
 「私の祖母は、ホロコーストユダヤ人大量虐殺)で家族を殺されたんです」
 ◇   ◇
 祖母のリブカさん(96)は1941年、ソ連レニングラード(現サンクトペテルブルク)で、兄の家族と暮らしていた。
 同年6月、ナチス・ドイツ軍がソ連に侵攻。レニングラードは包囲され、解放までに飢えや寒さで命を落とした人は、約100万人ともいわれる。
 「軍人だった兄の助けで、祖母たちは包囲戦の前に脱出できたが、兄は飢餓作戦の犠牲となった」
 だが、リブカさんたちが逃れた故郷の小さな村も、既に安全な場所ではなくなっていた。「ナチが『特別行動部隊』を設置していたのです」
 特別行動部隊(アインザッツグルッペン)は、前線後方の占領地域でユダヤ人や共産党員ら「敵性分子」を銃殺する任務を負って、組織された。
 「村のユダヤ人は大きな穴を掘らされ、その穴は銃殺されたユダヤ人の死体で埋め尽くされました」
 両親と7人きょうだいの家族のうち、生き延びることができたのは、リブカさんともう一人だけだった。(杉山雅崇)
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 第2部 都市のモザイク
 【9】パンと風見鶏 ユダヤの苦難発想の種
 手塚治虫の代表作「アドルフに告ぐ」の中で神戸のドイツパンが描かれている。北野の異人館街を思わせる神戸らしい風景が数多く登場。主人公の1人はパン店を営む一家の息子だ。神戸で100年近い歴史を持つ老舗「フロインドリーブ」を訪ねて物語の世界に思いをはせる。
 パンはパンでもどっしり重い。フランスパンよりもあっさりと、イギリスパンよりもみっちりとした風味が食べていると癖になる。
 パンの街・神戸でも指折りの老舗「フロインドリーブ」のドイツコッペは、吉田茂元首相が神奈川県大磯町の自宅へ毎週のように届けさせたという逸品だ。
 創業者は、ドイツ人のパン職人ハインリッヒ・フロインドリーブ。第1次世界大戦中、中国・青島で捕虜となり日本の収容所に。解放後、1923(大正12)年に来神し、翌年ハンター坂近くの洋館に店を開いた。
 その波乱の人生は半世紀後、NHK連続テレビ小説「風見鶏」のモデルとなり、「風見鶏の館」のある北野異人館街は脚光を浴びた。ブームも冷めやらぬ83年、神戸のドイツパンと風見鶏が描かれたもう一つの壮大な漫画連載が始まる。
 「アドルフに告ぐ
 戦争への怒りが込められた、手塚治虫の代表作だ。
 神戸をたびたび訪れた手塚治虫
 アドルフ・ヒトラーユダヤ人-。
 「アドルフに告ぐ」は、ヒトラーの秘密を巡る、神戸の二人の少年の物語だ。一人はナチス高官の父と日本人の母を持つアドルフ・カウフマン。もう一人はユダヤ人のパン店の息子アドルフ・カミル。ナチスによるユダヤ人迫害の中で、二人の友情は無情にも引き裂かれていく。
 実際、神戸の外国人にはユダヤ人がいた。シナゴーグユダヤ教会堂)があり、ユダヤ人協会があった。1940~41年、いわゆる「命のビザ」で4千人以上のユダヤ難民が神戸に一時滞在したという。
 「流氓(るぼう)ユダヤ」と題して、関西のアマチュア団体「丹平(たんぺい)写真倶楽部(くらぶ)」が彼らを撮影している。その中には手塚治虫の父、粲(ゆたか)もいた。
 十数年前、丹平メンバーの未発表ネガが発掘され、手塚少年が写っていると話題になったことがある。
 「おやじに連れて行かれたのは私で、兄貴はいなかった」と証言するのは、2歳違いの弟の浩さん(86)。「三宮の駅から山手の方へトコトコと行った記憶がある」。撮影場所とされるユダヤ人協会はまさに、駅北側の山本通にあった。
 ただ、宝塚に住んでいた手塚治虫も神戸には「よく行って、日本離れした雰囲気に魅力を感じていた」と書いている。神戸とユダヤ難民の史話にも関心を示し、「アドルフ」の発想の種となったのかもしれない。
 さらに、フロインドリーブのパンも設定のヒントになったのでは-。そんな想像も膨らむ。
 港町への深い思い入れ
 激動のストーリーの背景には、見覚えのある風景が描かれている。
 例えばカウフマン邸。塔屋に立つのは風見鶏。ベランダを飾る幾何学模様の窓は「萌黄(もえぎ)の館」そのものだ。
 「北野の異人館の特徴を組み合わせて描かれているんです」。今夏に開催された手塚治虫展のイベント“聖地探訪”ツアーで、自身も熱烈な手塚ファンという神戸市立博物館学芸員、川野憲一さん(43)が解説した。今はなきドイツ人社交場「クラブ・コンコルディア」、元町商店街のスズラン灯、そごうや大丸の建物も写真を下敷きにしており、物語にリアリティーを与える。
 「国際的な神戸を舞台に設定したからこそ、さまざまなイデオロギーを持つ人物が絡み合う物語に厚みを持たせることができた」
 川野さんはそう指摘する一方、神戸に対する手塚の思い入れも込められていたと考える。
 象徴的なせりふが、物語の後半、明石の軍需工場を襲った米軍の空襲シーンにある。被害を受けなかった神戸の街並みを見下ろし、日本人であるカウフマンの母がつぶやく。
 「(爆弾を)神戸へ落とさなかったのは/神戸が空から見てすごくきれいだったからだと思うわ」「神戸は日本でいちばん美しい港だわ/モダンでしゃれてて暖かで平和な町よ」
 現実には明石に続き、神戸も空襲で焦土と化した。ただ逃げ惑うことしかできない人々の姿が描かれる。手塚が神戸への愛着を語らせたカウフマンの母も、直撃弾を受けた家屋の下敷きになり、命を落とした。
 モダン、おしゃれ、暖か、平和
 「神戸は、フロインドリーブのホームタウン。何があっても、離れるなんて発想はなかったわ」。3代目社長のヘラ・フロインドリーブ上原さん(72)が、創業からの苦難の歴史を振り返る。
 ハンター坂の店から神戸市内に約10店舗を構えるまでに成長したが、戦争で全てを失った。バラックから再出発し、「風見鶏」の放送を経て北野の異人館街に出店した直後に、阪神・淡路大震災で被災。現在は、旧神戸ユニオン教会の建物に本店を移して営業を続ける。
 度重なる災禍を乗り越え、1世紀近くの歳月を共に歩んできた神戸の街。「モダン、おしゃれ、暖か、平和。どれもイメージにぴったりね」。ヘラさんがうなずきながら、漫画のせりふを繰り返す。
 そして、最近知ったエピソードを明かしてくれた。フロインドリーブを訪れる、手塚の姿を覚えている従業員がいたという。「ドイツコッペを買ってたのかしらね。詳しくは分からないんだけど」
 神戸の多彩なモザイクから放たれた個性的な光は、時代を超えて重なり合い、輝きを増していく。(記事・小川 晶、田中真治 写真・大山伸一郎、大森 武)
 【神戸とユダヤ
 神戸には開港後からユダヤ人が渡来し、20世紀初頭にはコミュニティーがあったとされる。1912年にシナゴーグユダヤ教会堂)が設立され、23年の関東大震災で横浜などからの移住も進んだ。第2次世界大戦中には、駐リトアニア領事代理の杉原千畝氏が発行した「命のビザ」でユダヤ難民が神戸を経由して亡命。神戸市文書館は、外交史料館の資料を基にユダヤ難民の滞在分布図を作成、昨秋の企画展で公開した。95年には「神戸・ユダヤ文化研究会」が創設された。
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 望海波日記
 神戸のユダヤ
 2016年12月18日 歴史物 コメント (1)
 神戸のユダヤ
 戦前の神戸にはサッスーン一族など、有力なユダヤ系市民がいた。欧州からシベリアを経由して日本にやってきたユダヤ人難民の8割近くが神戸に身を寄せたのは、このような事情による。

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 2015年秋の朝日新聞記事
 第2次世界大戦中、外交官だった故・杉原千畝氏が発給した「命のビザ」でナチス・ドイツの迫害を逃れてきたユダヤ難民を、神戸で 支えた人たちがいた。米国 のホロコースト博物館でボランティア講師をしている ユダヤ人男性とその妻が27 日、神戸を訪れ、当時の支援者の娘らに感謝を伝えた。 「あなたたちの支援を永久に忘れません。心の底からありがとうと伝えます」 米国に住むサイ・スタットマウアーさん(72)とジョアンさん(71)夫妻は、神戸市灘区の筒井篤子さん(91)らに語りかけた。夫妻は杉原氏のビザで救われた先人の足跡をたどり、ゆかりの人に謝意を伝えたいと来日した。1940年、リトアニア領事代理だった杉原氏は、ユダヤ難民に外務省の指示に反して日本通過ビザを発給。6千人ともいわれる人が欧州から福井・敦賀にたどり着いた。このうち約4600人が米国などへ渡る前、ユダヤ人コミュニティーがあった神戸に一時滞在したとされる。
 筒井さんの父、故・斉藤源八さんは当時、今の神戸市長田区にあった教会の牧師 斉藤さんらはユダヤ難民にリンゴを配るなどの支援を続けたという。当時は学生だった筒井さんは、「父はユダヤの人たちが国を持てるよう祈っていました。 私も当時、神戸港から出航するユダヤの人を教会の人たちと見送りました。迫害から逃れて神戸に来たユダヤの人たちはとても朗 らかでした」
 ユダヤ難民の大半は41年秋ごろまでに出国。翌年春に斉藤さんは 特高警察に逮捕され、その後に教会も閉鎖された。
 だが、神戸でのユダヤ難民支援について神戸市が まとめた市史に記述はなく公的な記録はほとんど残されていないという。神戸の ユダヤ人コミュニティーを 研究し、両者の面会を橋渡しした元神戸女子大非常勤講師の岩田隆義さん(74)は「証言者も少なくなり、ユダヤの人たちが神戸に残したかすかな痕跡は今たどらなければ失われる」と訴える。
 (大川洋輔、金井和之)
 父親が神戸でユダヤ人の世話をした筒井篤子さんと、戦前の写真を見ながら交流するユダヤ人夫妻27日午後、神戸市中央区、 水野義則撮影。 神戸に逃れてきたユダヤ人にリンゴを配る牧師たち(斉藤真人さん提供)
 「大戦中 ユダヤ難民支えた神戸へ」2015.10.28 wed 朝日新聞 p37
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 KOBEの本棚 第22号
 -神戸ふるさと文庫だより-第22号 1997年3月20日
 編集・発行 神戸市立中央図書館
 神戸に来たユダヤ
 一九四〇年七月末リトアニアナチスドイツのポーランド侵攻を逃れた何百人ものユダヤ人が、首都カウナスの日本領事館につめかけた。ソ連、日本を経由し、第三国へと逃れるためである。
 日本外務省は彼らに対する日本経由のビザ発給を拒否したが、当時の領事杉原千畝は、処分覚悟の独断で彼らにビザを発行した。この頃リトアニアソ連に併合され、各国領事館には退去命令が出されていた。残された短い時間のなかで、杉原は六千人分のビザを発行した。それは、彼がカウナスを去る列車の中まで続いたという。
 ビザを手にしたユダヤ人たちは、モスクワからシベリア鉄道ウラジオストクへ、そしてハルピン丸に乗船し、第一陣が敦賀に上陸したのが十月六日であった。神戸のユダヤ人協会やホーリネス教団の尽力により、彼らは神戸の地で長かった逃避行の疲れを癒し、安住の地を求めてアメリカやパレスチナへと旅立って行った。こうしてナチスドイツの手を逃れて日本にやって来たユダヤ人は、じつに一万五千人にのぼった。
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 朝日新聞デジタル>記事
 命つないだ神戸のリンゴ ユダヤ難民4600人支える
 大川洋輔、金井和之
 2015年10月28日 17時25分
 第2次世界大戦中、外交官だった故・杉原千畝(ちうね)氏が発給した「命のビザ」でナチス・ドイツの迫害を逃れてきたユダヤ難民を、神戸で支えた人たちがいた。米国のホロコースト博物館でボランティア講師をしているユダヤ人男性とその妻が27日、神戸を訪れ、当時の支援者の娘らに感謝を伝えた。
 「あなたたちの支援を永久に忘れません。心の底からありがとうと伝えます」
 米国に住むサイ・スタットマウアーさん(72)とジョアンさん(71)夫妻は、神戸市灘区の筒井篤子さん(91)らに語りかけた。夫妻は杉原氏のビザで救われた先人の足跡をたどり、ゆかりの人に謝意を伝えたいと来日した。
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 毎日新聞
命のビザ
 神戸の記憶 第二次大戦中、ユダヤ難民4000人滞在 証言・記録、市が募集
会員限定有料記事 毎日新聞2016年4月2日 大阪夕刊
 ユダヤ人難民たちにリンゴを配る牧師たち=斉藤真人さん提供
 第二次世界大戦中、外交官の杉原千畝(ちうね)(1900〜86年)が発給した「命のビザ」でナチスから逃れたユダヤ人難民が、神戸で滞在していたことについて、神戸市が調査に乗り出した。40〜41年に4000人以上が神戸で過ごしたとされるが、多くの資料は空襲で焼失し、当時を知る市民の多くは90代。「放っておけば記憶は失われる」と証言や記録の収集を始めた。【久野洋】
 市は寄せられた情報を検証し、研究者の見解も求めたうえで、今年度内をめどに市史の別冊にまとめる。
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