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2020年11月28日号 週刊現代「新書DEカルチャー
江戸の『給付金』
麻疹、コレラなどの感染症が流行した江戸時代、ときの政権はどう対応したのか。『江戸幕府の感染症対策』(安藤優一郞著)はコロナ禍と通底する、当時の幕府は危機対応を解き明かす。
江戸幕府の給付金制度は現在から見てもよく出来たものだった。まず1782年に起こった『天明の大飢饉』を教訓に、金や米を大量に備蓄。これをその後、飢饉だけではなく、感染症といった非常時に備えるための原資とした。
また、それだけでなく、詳細な『困窮者名簿』を作ることも怠らなかった。これにより、個々に合わせて、給付額を増減させた。さらに疫病が流行した1802年には独り者には300文、2人暮らし以上は1人あたり250文を約29万人にわずか12日間で給付。今の政府より、ずっと迅速だったのである。」
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左翼・左派・ネットサハには、江戸時代はもちろん日本民族中心の歴史が理解できない。
それは、右翼・右派・ネットウハも同様である。
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過酷な自然の中で甚大な災害に幾つも襲われても、日本民族日本人は自然を信頼し人を信用しきっていた。
日本民族日本人は、最悪な自然災害の中を必然として奇跡を得て生き抜いたのではなく、活力と勢いで幸運を引き寄せ偶然を掴み取って逃げ切った。
日本民族日本人の特性は、自然や人を信じきり、身も心も命さえも委ねきり、そして明日の為に今日を生きる事である。
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日本列島は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時的に頻発する複合的災害多発地帯であった。
江戸時代、日本社会は中国社会のように崩壊し地獄のような内戦になる事はなかったし、西洋のような動乱や暴動や人民革命も起きなかった。
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関東とくに江戸は水害に弱い大都市であった。
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BOOKウォッチ
コロナ「危機管理」は江戸時代に学べ!
2020/10/25
江戸時代は天下泰平と言われるが、天変地異、自然災害などに苦しめられた。最たるものは「疫病」だった。今の言葉で言えば「感染症」だ。何度も大流行があった。病の原因も対策も治療法もわからなかった時代に、幕府はどう対処し、パンデミックを乗り切ったのか。本書『江戸幕府の感染症対策――なぜ「都市崩壊」を免れたのか』(集英社新書)は、その詳細を明らかにする。コロナ禍に直撃されている現代の私たちにも大いに参考になる。
天然痘・麻疹・インフルエンザ・コレラ・・・
著者の安藤優一郎さんは1965年生まれ。歴史家。文学博士(早稲田大学)。早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。主に江戸をテーマとして執筆・講演活動を続け、『大名屋敷の謎』『江戸っ子の意地』(ともに集英社新書)、『渋沢栄一と勝海舟』(朝日新書)、『お殿様の人事異動』(日経プレミアシリーズ)、『江戸の不動産』(文春新書)など著書多数。
本書は以下の構成。
プロローグ 感染症の歴史
第1章 江戸の疫病と医療環境
第2章 将軍徳川吉宗の医療改革と小石川養生所の設立
第3章 江戸町会所の"持続化給付金"
第4章 幕末のコレラ騒動と攘夷運動の高揚
第5章 種痘の普及と蘭方医術の解禁
エピローグ 感染防止と経済活動の維持
江戸時代に日本人を苦しめた感染症は、天然痘・麻疹・インフルエンザ・コレラなどだ。最盛期には人口100万を超えたという江戸は、過密都市ゆえに、とりわけ被害を受けやすかった。一度の流行で数万人が亡くなることも珍しくなかった。しかし、都市崩壊のような事態には至らなかった。それはなぜだったのか。どのような対策が講じられていたのか。過去の自身の著作や多数の先行書も参照しながら、為政者がリーダーシップを発揮した幕府の対応ぶりをリアルに描き出す。
朝鮮人参を密かに入手
各章の解説の中で、まず注目すべきは「第2章 将軍徳川吉宗の医療改革と小石川養生所の設立」だろう。
8代将軍吉宗(在職1716年~ 1745年)は、今でいうところの「理系」の人。同時に「実学」にも関心が高かった。例えば天文学に興味を持ち、オランダから取り寄せた望遠鏡で天体観測したり、自分でも天球儀をつくったりしている。「医学」「薬学」にも詳しく、自分で薬を調剤するほどだったという。
とくに吉宗が力を入れたのは薬草の研究だ。全国各地にどんな薬草があるか、くまなく調査を命じた。そんな中で吉宗が効能に注目し、執心したのが「朝鮮人参」だ。当時、朝鮮と交流していた対馬藩を通して密かに朝鮮人参の種を入手、日本国内での栽培、増産に成功している。朝鮮は当時、最大の輸出品として朝鮮人参を厳重に管理していたから、いまでいう「産業スパイ」だ。
江戸には以前から「御薬園」という幕府直轄の薬園があった。それが吉宗の時代に大幅に拡張され、薬草の大量供給に貢献した。現在は東大の小石川植物園になっている。
さまざまな「和薬」の類別も定められた。新たに使用を認められた薬が35種、今後さらに使用させたいものが10種、使用禁止22種などだ。入手可能な薬や簡単な治療法を記した『普救類方』が出版され、全国の書店で販売された。基礎的な医療知識を広めることが、病への対応力アップにつながると考えたからだ。
このほか吉宗の享保の改革でよく知られているものに、小石川養生所がある。無料で診察が受けられ入院もできる施設だ。山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』などで有名だ。安藤さんには『江戸の養生所』(PHP新書、2005年)という著書もあり、得意分野だけに詳しい。
こうした事業に吉宗が前向きだったことについて安藤さんは、「病気から人々の生命を守ることは将軍(幕府)の責務という意識を強く持っていたからである」と書いている。
「御救金」や「御救米」
幕府はさらに、病気のために生活困難に陥った者に対し、給付金を支給するようになる。有名な松平定信の寛政の改革では、特に経済的支援に重点が置かれた。いわば江戸時代の「持続化給付金」だ。その事務局として、江戸町会所が設置される。大飢饉や流行病で社会が動揺した時は、町人人口の半分を超える約30万人に給付金を支給して生活をバックアップしたこともある。白米を給付するなどの救済活動も行われた。
1792年には町奉行所が、「困窮者名簿」を作成している。各地区の名主たちに対し、「70歳以上の独り者のうち、手足が不自由で世話をする者がおらず、飢えに苦しんでいる者」「10歳以下の子どものうち、両親がおらず世話するものがいない者」「若年層のうち、貧しく長患いの上、世話する者もおらず飢えに苦しんでいる者」の名前の報告を求めている。該当者には「御救金」が支給されるというわけだ。のちに、「世帯主が長患い」「家族が病気」などの事例も付け加えられた。
本書では実際に「御救金」や「御救米」の給付を受けたのはどういう人だったか、個々の具体例が一覧になり詳しく紹介されている。
大火の時は「御類御救」、飢餓や疫病の流行などの非常時は「臨時御救」もあった。インフルエンザの流行時などでも実施されている。1802年の場合、約29万人にわずか12日間で給付が完了している。現代よりも素早い。平時から財政の節約、備蓄などを心掛け、非常時対応をしていたことについても詳しく記されている。
遊郭などの客商売が打撃
江戸時代は富士山噴火、浅間山噴火、安政の大地震などの天変地異が相次いだ。地球が寒冷期だったこともあり、冷害や飢饉も繰り返された。さまざまな災厄の中でも、原因不明の疫病は、とくに人々を不安にさせた。
社会活動全般が大きな制約を受けたのは今と同じだ。1803年の麻疹流行では、芝居小屋などの興行、鰻屋、蕎麦屋などの外食、呉服屋、風呂屋、遊郭などの客商売が打撃を受けたことが『麻疹戯言』(式亭三馬作)に出ているそうだ。200年後のコロナ禍とも重なる。
安藤さんは、江戸時代と明治時代の感染症対策を比較し、「江戸時代は幕府が手厚い生活支援をしていた事実が際立つ」「医療による対応には限界があった以上、生活支援により社会の秩序を維持したいという願いが込められていた」と解説している。これに対し、明治政府は何よりも防疫に力を入れる。消毒と隔離が基本になり、江戸時代のように対象者が広範囲に及ぶ生活支援策は見受けられなかったという。1890年ごろから世界的に、病因や病原菌の研究が急進展したこともあるだろう。
こうした幕府の「医療支援」「経済支援」も、幕末の黒船、大地震、疫病、大小の火災による波状襲撃には耐えきれなかったようだ。時代は一気に開国、維新へと突き進んでいく。
BOOKウォッチでは関連書を多数紹介済みだ。『病が語る日本史』 (講談社学術文庫)は江戸時代の疫病についても詳しい。『感染症の近代史』(山川出版社)は江戸後期から明治にかけて、日本で流行した感染症とその対策についてまとめたもの。『流行性感冒――「スペイン風邪」大流行の記録 』(東洋文庫)は、100年前のスペイン風邪に日本がどう対処したかの貴重な記録だ。本書と併せて読めば、江戸・明治の日本人が、限られた知識の中で最善を尽くそうとした姿が実感できる。
『オランダ商館長が見た 江戸の災害』(講談社現代新書)は主として江戸の地震、噴火、大火などの災害について、オランダ商館長の報告を振り返っている。江戸では深川地区に、普段から火災の後にすぐに再建築ができるだけの資材が備蓄されていたという。隅田川の対岸なので、火が及ばない可能性が高かった。『「江戸大地震之図」を読む』(角川選書)は、安政の大地震を主題にした有名な絵巻についての論考だ。『日本美術の底力』(NHK出版新書)には葛飾北斎が「疫病退治」の大作を描いていたことが出ている。『神木探偵――神宿る木の秘密』(駒草出版)には感染症の厄除け怪木も登場する。
『倭館――鎖国時代の日本人町』(文春新書)には将軍吉宗が朝鮮人参の苗そのものを所望し、対馬藩が苦労して入手、献上した話が出てくる。
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THE POVERTIST
途上国の貧困と開発を深掘りするオンラインマガジン
Friday, November 20, 2020
国際
江戸時代に学ぶ途上国の食糧政策と現金給付
Sunday, 1 May 2016 10:01 pm by Kazuyuki Fujiwara
江戸幕府が飢餓の際に被災地へ治安維持軍を置かなかった理由
「イラク・シリア難民へWFPがデジタルカードで現金給付“(2016年5月1日付)」で指摘のとおり、現金給付による当該地域の食糧価格の上昇リスクを回避する為に、事前の市場調査とその後の市場価格・需給モニタリングも重要ですね。冲方丁著「天地明察」(角川書店)の中で、会津若松藩主として藩政に、また、四代将軍家綱の輔弼役として幕政に尽力した保科正之公が、飢饉の際に被災地に治安維持のための軍政を置くことは食料不足・食糧価格高騰を加速させ(それが治安悪化に繋がりかねない)として反対し、治安維持軍を置かなかったという内容の記述があり、気になっていました。先進的な人物であり、学ぶところが大きいと思いました(ただし、批判もあるようです)。
会津藩政
(1)社倉制度の創設(飢餓対策):豊作年に年貢米に加え備蓄米を調達し、凶作や飢饉時に被災者に貸し出し、利息2割で豊作時に返済(備蓄米は7千俵から5万俵へ増大)。火事被災者、領外からの入民、新田開発農民へも社倉米を支給(既にWFPのP4PやFood For Assetを実践していた?!)。
(2)「負わせ高」の廃止:耕作不可能地まで田畑と見なして年貢を課していた税を廃止し、減収が予測されるも、逆に、農民が藩に隠蔽していた田畑を申告し、結果増収。
(3)90歳以上の高齢者へ扶持米の支給(年金制度のはしり?!、当時受給資格対象者151人)
(4)赤ん坊の間引きの禁止
(5)相場米買上制開始、升と秤の統一
幕政
(1)玉川上水の開削:武州羽村/多摩川から約43kmの水路を造って四谷大木戸「水番所」から地下を通して市中へ給水、江戸城下の生活用水確保、また多摩地方の水田稲作ための農業用水確保
(2)大火における迅速な被災者救済:1657年1月の江戸の大半(6割)を襲う明暦の大火/振袖火事/丸山火事により、当時の人口80万人 (町方30万人) 中、10万人以上の焼死者が出た事件。幕府天領からの年貢米100万俵以上を保管する隅田川沿いの米倉に火がついた際には「米の持ち出し自由」として避難民たちを火消しに転じさせ、また持ち出された蔵米が救助米となるという一石二鳥の策を打ち、米倉は全焼を免れた。難民救済のために、各地で炊き出し、全焼被災民へ再建費として総額16万両を供与。参勤していた諸藩を国許に帰らせ、江戸出府を延期し、江戸の人口を一時的に減らし、需給の調整をはかることで物資高騰を抑制した。また、江戸市民の救済を優先するため焼け落ちた江戸城の天守閣を再建せず。
(3)防災対策・都市復興:退路確保のため主要道路の道幅拡幅(6間(10.9m)から9間(18.2m)へ)、火除け空き地として上野広小路を設置、芝・浅草両新堀の開削、神田川の拡張、避難路確保のため隅田川に橋/両国橋を架設。
ただし、バラマキ政策だと言う批判もあるようです。社倉の制度は飢饉対策として良い結果ももたらすも、一方で年利2割の金利収入を財源化しようとする狙いもあり、後に強制貸付と結びつけ、庶民を苦しめる弊害もあったとか。後に、藩財政逼迫、年貢増徴による一揆も起きたとの由。
後の天明の大飢饉の際、藩札の大量発行等により深刻な財政危機にあった会津藩は、社倉米でも足りなかった。5代目藩主松平容頌に仕えた家老の田中玄宰は、藩経済回復のために、殖産興業の奨励をし、醸造、会津漆器の改良、養蚕業、鯉の養殖の育成に取り組んだ。貴重なタンパク源である鯉養殖技術を研究・確立・普及させ、飢餓対策。米沢藩などの他藩へも普及。
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Japan Local Government Centre (JLGC) : London > 調査・研究 > スピーカーシリーズ > 歴史にみる災害救済と復興
調査・研究
スピーカーシリーズ
歴史にみる災害救済と復興
2008年08月20日
●テーマ:「歴史にみる災害救済と復興」
●日時:2008年8月20日(水)14:15~15:30
●講師:神奈川大学教授 北原糸子先生
ご講演要旨
【災害支援に今望まれるもの】
「災害は進化する」という言葉があります。時代の変化に応じて人や社会が受ける被害のあり方も変わると解釈すれば、昨今の日本の災害救援の変化はまさにそれを示しているように思います。
クレアロンドンでどんな話題を提供したらよいのだろうかと迷っていた時、朝日新聞朝刊オピニオン欄(2008年8月7日)に “震災復興には地元が考えたメニューで“(上村靖司氏)という興味深い記事がありました。ここでは、阪神大震災では住宅再建費用の支援が中心だったが、その後の新潟中越地震では、「激甚災害」指定による多額の資金が提供された。中越地震では、牛産業や温泉、棚田などの、豊かだった「なりわい」の環境が破壊され、生活困難となった。その後の岩手・宮城内陸地震では、都市型災害とは異なり住宅被害は少ない。政府の資金援助を受けても、最初の3年にバブルのような資金が溢れ、それで終わってしまうことが予想されたため、中越地震で被害を受けた山古志村などの被災地では、「激甚災害」指定による多額の資金援助だけには頼らず、自分たちで考えたオーダーメード支援への復興資金を選択したことを紹介、被災者サイドからの選択的復興メニューへの今後の可能性が示されているように思えました。
わたしは、これはこれからの災害復興では被災者自身が選択的、主体的に取り組む道筋を示唆したものとして新鮮な思いで記事を読みました。では、なぜ、わたしがこうした記事に注目したのかといえば、これまで日本の災害史のなかで被害を受けた社会や人がどのようにして立ち直ってきたのかを歴史的に調べて参りましたが、なかなかその実態が掴めないという思いがしていました。もしも、被災者自身の主体的復興メニューというような視点が社会に共有されることになれば、そうした見方で災害を見直してみようという機運が強くなると感じたからです。
そこで、本日は折角の機会でもありますから、日本の災害史のなかであまり取り上げられていない災害の跡の人と社会の動きを中心にお話をさせていただこうと思います。ただし、防災の専門家でもないし、そうした基礎的訓練も受けているわけではないので、具体的に役立つことは至って少ないと思ってください。
まずは自己紹介。私は歴史研究者ですが、2003年から中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会に属して、過去の大きな災害についての実証的な報告書を作成してきました。現在これまでに完成した約20冊の報告書は、内閣府のホームページで読むことができます。そのなかから、わたし自身が執筆に関わった事例から救済、復旧、復興に関わる歴史的な事例を紹介させていただき、日本の災害救済の伝統や災害文化といったことについてお話をします。ここでは、江戸の幕末の二つの大災害である安政東海地震(1854年)、安政江戸地震(1855年)、そして近代社会に入って近代化に邁進しようとした明治政府の出鼻がくじかれた濃尾地震(1894年)、そして首都を壊滅させた関東大震災(1923年)について、災害救済の歴史や伝統はどのように変わったのか、あるいは変わらずじまいであった点はなにか、どうしてなのかなどを考えてみたいと思います。そして、最後にGHQ占領下でのカスリン台風災害を取り上げ、日本の伝統的救済と彼我の違いについても考えます。
【安政東海地震】
安政東海地震(安政元年11月4日=1854年12月24日)、マグニチュード8.4(推定)、揺れはゆっくりであるが被害の大きい、プレート地震でした。幕府の統一的な被害統計というものは存在しない時代でしたが、犠牲者は約3000人と推定されています。
ここでは下田湊の事例を紹介します。下田湊は99人の犠牲者、871軒の流失家屋、ちょうど前日の11月3日にロシア艦隊を率いてきたプチャーチンとの日露交渉が開始されていました。海軍士官モザエスキーが描いた津波の絵が残っています。この津波の被害に対する幕府の救済は、厚いものでした。下田町他3カ村(柿崎、岡、中)1218軒へ1万両の復興資金(無利息10ヵ年賦返済の義務)、波除堤の再築 2902両、外国人への日用品販売から得られる利益の一部を冥加金上納として、これを財源に復興資金確保、番所設置による雇用対策などが当時日露交渉に直接あたった勘定奉行の川路聖謨(かわじとしあきら)らが案出した優れた救済策でした。
幕府が下田へ厚い救済策を行った背景には、江戸を開港しないで済むよう、津波で失われた下田町を復興させ、この江戸に近いけれども隔絶した立地条件の湊を交易場としてを死守したいという事情がありました。しかしその後は下田湊が閉鎖され、神奈川が開港(安政6年2月)し、結局下田には3000両の借金だけが残ることになってしまいました。
【安政江戸地震】
安政2年10月2日(1855年11月11日)、マグニチュード7と推定される内陸直下型地震が発生。神田小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川地域は震度6強、山の手台地は震度5と推定され、震害が大きく、地盤災害としての様相が強い地震でした。
大名屋敷も江戸城西の丸にあった屋敷を中心、265藩のうち116藩が被災、屋敷焼失は23藩、犠牲者は2000人程度と推定されています。旗本・御家人屋敷の被害は、旗本数(4488家。18世紀の数字)と御家人数(12966家。同上)から推定すると、全体の80%が建物になんらかの損害を受けましたが、犠牲者の数値は不明です。隅田川東、旧礫川沼の埋立筋の屋敷には相当程度の被害が集中していました。町屋の被害は、建物被害が14,346軒と1724棟、死傷者約7000人(うち4000人が死亡)、吉原宿で火災が発生し1000人が焼死しております。当時の江戸の人口130万~140万人ですが、少なくとも1万人が亡くなったと推定されます。
この時期の幕府の救済をみると、開府以来の難問である外交問題が諸藩を巻き込み、大騒動となっていたこと、海岸防備の台場などを諸藩に命じていたため、資金的余裕はなく、きわめて限定された救済となりました。役職にある老中、若年寄、寺社奉行、町奉行などの屋敷が被害を受けたケースにだけ貸付金が許されています。旗本・御家人には禄高に応じた復興資金が貸し付けられました。町人へは、対応マニュアルに準拠し、お救小屋、握飯支給、困窮者へのお救米1ヶ月支給、その後の安値米頒布(町会所資金支出)が行われたが、幕府の救援策よりも、むしろ、民間相互の援助が大きいものでした。当時の江戸の町人社会は金持商人とその日暮らしの一般庶民で成り立っていましたから、富裕な商人は貧困層を救わなければ商売もうまくいきません。火事や病気の流行時に採られた救済マニュアルが地震の時にも援用され、富商が自ら居住する町内、抱屋敷、店子、出入りの職人などに対して家賃の免除、米や金を配るといった支援がなされました。
この時幕府のお救いや富商からの支援を受けたのは、その日稼ぎの人々で、町人人口の約6~7割(米価高値お救い米受給者の数35万人~40万人)です。特徴的なのは、被害の有無に関わらず、貧困層全体に対して行われたことです。民心を安定させ都市を持続させるための施策でもありました。お救い小屋は5、6ヶ所に建てられ、2500人程度の窮民が入ったにすぎませんが、これが建つことで救済が行われたという象徴的な意味がありました。
以上のような幕末の二大災害を見ますと、幕府は災害そのものに関心を持つ余裕もなく、また、復興資金を投入する余裕もありませんでした。多額の復興資金が投入された下田のケースは、開港問題条約湊として下田湊の維持を至上命令であったという特異例とすることができます。首都が大打撃を受けた江戸地震では、独自の救済、救援策が出たわけではなく、火事などの慣例化した災害マニュアル以外は出足の遅いものでした。民間相互の救済の方が早く、必要なところへ届いたという内容でした。ましてや防災などということに想いは及んでいませんでした。
つぎに近代国家と災害救済の場合についてお話します。
【濃尾地震】
濃尾地震は、明治24年(1891)10月28日に発生。震源地は根尾谷、震度8と推定、大森房吉による推定は「烈震」。死亡者は7273人、負傷者は17,176人。内陸地震では最大のものでした。ここでは被災者救済法として、凶作時の農民救済を主眼とした「備荒儲蓄法」(1880年成立)が適用され、救済金は、「備荒儲蓄法」による救済金計1,182,058円、恩賜金14,000円、主として新聞を通じて集められた義捐金総額は、岐阜県220,321円、愛知県80,000円でした。しかしながら、近代国家のインフラ整備途上であった鉄道、橋、レンガ造りの駅や工場が倒壊、明治政府は大変なショックを受けました。丁度第一回議会が開催され、国家予算が審議される仕組みが成立した時でしたが、野党の攻撃を恐れた政府は、審議を避ける方法として、勅令で岐阜・愛知県への震災復興土木費500万の交付を決定されました。これが後に大問題を生むことになり、2年後には国会が解散される破目になりました。
濃尾地震を受け、明治政府は国家による地震調査機関、震災予防調査会を立ち上げます。ここで本格的に地震現象そのものへの学術研究が行われることになり、世界に向けて学術的情報発信が行われることになりました。震災予防調査会は関東大震災に関する調査研究報告100号を出版して解散し、地震研究所が設立されることになります。
【関東大震災】
関東大震災は、1923年(大正12)9月1日午前11時58分発生、マグニチュード7.9。死者10万5千人、住家は全壊が多く10万9千余棟、半壊10万2千余棟、焼失はさらに多く21万2千余棟。9月2日、戒厳令(災害では初めて)、非常徴発令。臨時震災救護事務局が設置され、また震災の翌日には政府予備金950万円の支出が決定された。8月25日に首相が亡くなり後継内閣の組閣中でしたが、震災の翌日、山本権兵衛内閣が成立、後藤新平が内務大臣に就任しました。9月3日、戒厳令適用範囲を神奈川県下に拡張、朝鮮人に暴行迫害を加えないよう布告。9月4日、戒厳令を千葉、埼玉県下に拡大。9月5日、東京市内要所に検問所、自警団に朝鮮人迫害防止の告諭。9月6日、水道一部開通。ガスは少し遅かったものの、全体としてインフラの復旧が早かった。報道機関は、新聞社は13社中2社しか残らず、都心は新聞の発行の機能がほぼ停止した。NHKラジオ放送はまだ始まっていなかった。京橋、日本橋は90%以上が消失。
宮内庁には陸軍が撮影した震災直後の航空写真が残っている。9月2日から陸軍が写真撮影、日本橋、東京駅周辺、銀座、築地、大蔵省、帝国劇場前、避難所や臨時のポストや米国からのテント、バラックの仮設住宅など、時間の経過とともにある程度の空中観察が可能な写真が残されています。また、当時は一般の人々にも高価であるとはいえ、カメラが普及しはじめ、中央官庁、丸善、三越、白木屋デパートの残骸、あるいはや被服廠の焼死体の惨状など、写真絵葉書も出回り、東京や横浜に災害救援にきた地方の人々もこれらを故郷に持ち帰りました。
東京旧15区の罹災人口は、区によりかなり差があり、神田、日本橋、浅草、本所、深川などは高い。赤坂、四谷、牛込、小石川などは低い。府県別の死者数は、神奈川が32,838人、東京が70,387人。千葉、埼玉、山梨、静岡、茨城でも死者が出た。
義捐金は、60千万円という多額にのぼった。外国からのものが全体の36.6%を占めていますが、このなかには海外にいた日本人からのものも含まれています。
遷都かという噂も出たが、9月12日に「遷都不要」という天皇の詔勅が出て世情の安定が図られます。
復興策のモデルとしては、1906年のサンフランシスコ大地震を、関東大震災復興の反面手本とされ、後藤新平復興院総裁が招聘したアメリカの都市計画専門家のビアード博士が、10月7日来日し、復興計画案を提出、サンフランシスコ地震からの教訓により、土地の強制収用によって、計画的に道路、鉄道などの社会インフラを確保し、無計画な建築物の再建規制をせよというものでしたが、予算が30億から最終的に4億まで削減され、その理想はほとんど実現しなかったといわれています。
最後に戦後初期の事例を簡単に紹介しまして、話の結びとします。
【カスリン台風災害】
1947年9月16日、17日の台風。GHQ占領下の災害。最大の死者は、群馬県下の土砂災害によるものでしたが、東京へは利根川の洪水が及ばないことを基本に維持されてきた河川対策が葛飾区、江戸川区などの東京低地を洪水が襲ったことで見直されることになりました。また、戦争直後の災害であり、国民の食糧事情が極端に悪い時でしたから、GHQの援助物資が大いに活用されました。戦前からの災害救済法であった罹災救助基金の廃止に伴う新法災害救助法被災の地元機関が主体となり、救済協議委員会を組織し、救助を主導)が1947年10月18日に成立しました。ただし法律の成立時期の関係で、カスリン台風被害者はこの適用を受けませんでした。救助法成立についてのGHQのコメントは、日本の災害救助の歴史を振り替えさせる興味深いコメントを出して(9月26日 朝日新聞紙面)「国家が被害者に救助金を支給するという世界でも稀有な素晴らしい法律」と評価しています。
【日本の災害救済思想の伝統】
国家、為政者による救済の伝統が強い。災害防止よりも救済において為政者の力量を問うという姿勢が強い。天皇や藩主は普段は目に見えないが、災害救援の時その存在が見える。しかしながら、そうした象徴的な存在だけでは復興はできず、それを補う形での民間相互の救済が伝統的に強いことがわかる。メディアによる災害情報の流布はかなり早く行われる。しかし、現在問題となることは政治全般にもいえるが、防災に関しては、政治責任を問わない傾向が強く、したがって、災害救援についての検証というものが客観的に行われ、その結果が社会的に活用されることが少ないのではないか。今後求められるのは、救済の実態と有効性についての検証ではないかと思われる。
(質疑)
●(防災に対する政治責任を問わない背景について)伝統的には、自然現象はやむをえないという考え方がある。近代国家ではない江戸時代には、科学への目がなかった。濃尾地震のあと、理学工学中心の防災の考え方ができた。地震発生のしくみは、1970年代まで分かっていなかった。また、経験則上では、家屋を強くすることが防災につながると分かっていても、費用がかかり、なかなか実施されない。庄内地震のあと、液状化による家屋の被害がひどく、調査団が建築方法による対応を提案したが、1年後のフォローアップ調査時、その提案内容がまったく実施されていないことがわかったことなどはきわめて早い歴史的事例であろう。
●(1995年の阪神淡路大震災の特徴について)大都市、しかも起こるはずがないと思われていた場所での震災であり、エポックメーキングなものであった。衝撃的であった。また、神戸は富裕層のイメージが強かったが、やはりさまざまな人がおり、貧困層もいた。救済と復興について、この地震で、民間も一緒に考えていくという姿勢が生まれた。住宅再建支援法もできた。わが国の援助技術はすばらしいもので、輸出することもできるはずである。
●(朝鮮人の迫害について)朝鮮人と中国人は、強制連行された人々や出稼ぎに来た人々など、すでに多くいた。デマは横浜で発生しすぐに東京へ広がったといわれている。また、じわじわ広がるのではなく、一足飛びに周辺地域へ流布されている。今我々が考えてもあまり納得ができない現象だったが、東京周辺の実家へ戻った人々がデマを持ち帰ったため、被災地以外にもひろくデマが広がったのだろう。現在はインターネットで、誰もが情報を流すことができ、それをチェックする人もいない。災害時のデマという意味では、当時以上に危険といえるかもしれない。
(以上)
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西洋キリスト教文明圏諸国では、麻疹、チフス、ペスト、コレラなどの感染症や洪水、地震などの自然災害で被災者を救済する役目は、政府ではなく教会であった。
何故なら、生き死にに関わる救済は絶対神の特権であり、人では対応できない救いは絶対神の奇跡や恩寵がなせる技であるからである。
それは、絶対神の何かお考えがあっての計らいだからである。
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日本には、キリスト教会のような最終的にして最高の救済組織はなかった為に、「自助・共助・公助そして絆」で乗り越えるしかないブラック社会であった。
つまり、「自分を助ける者を助く」である。
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江戸幕府や各藩さらには村や町、神社や寺院は、後世の為に記録を公文書として残した。
人々は、日記などで書き記した。
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武士は、常在戦場、いざ鎌倉、いつ何時戦争が起きても狼狽えないように3年分の軍資金と兵糧米を蓄えるのが常識であった。
町人達は、大火や災害が起きても言いように建材と食料を確保していた。
それが、言霊信仰につながっていた。
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