🏞121)─1─安政の江戸台風と徳川幕府の衰滅。民族伝統文化の自助・公助・共助。~No.483No.484 ㊺ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本人は、健忘症が強く、歴史を教訓にできないほどに過去の出来事を忘れる。
 その傾向は、現代の日本人に強く、そして深刻である。
  ・   ・   ・   
 日本列島は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時的に頻発する複合的災害多発地帯であった。
   ・   ・   ・   
 関東とくに江戸は水害に弱い大都市であった。
   ・   ・   ・   
 日本における政権交代や権力者交替は、新旧の権力闘争ではなく自然災害で起きていた。
   ・   ・   ・   
 日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略し領土を拡大できなかったのは、多発する巨大な自然災害と人口数が増えず低迷していたからである。
   ・   ・   ・   
 台風は、虐殺を繰り返していた蒙古・高麗連合軍を撃退し日本を救ってくれた神風であったが、江戸幕府にとっては滅亡をもたらした悪神風であった。
 「日本人は神風を信じていた」あるいは「日本は神風に守られていた」は、大ウソである。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は高度な科学力・グローバル力を持っていても歴史力・自然力・文化力・宗教力・民族力などのローカル力が弱い為に、数万年、自然災害の中を生き抜いてきた縄文人日本民族と、数千年、弥生人日本民族を支えてきた現人神・神の血筋(子孫)の日本天皇、そして皇道「八紘一宇」精神が理解できない。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は御上に弱いが、江戸庶民(百姓や町人)は御上に強かった。
   ・   ・   ・   
 2016年9月23日 YAHOO!JAPAN「死者10万人と書かれた資料もある160年前の安政江戸台風 自然災害が続きすぎて江戸幕府の終焉
饒村曜 | 気象予報士
 昔の改元は1月1日に遡って改元
 嘉永7年は6月15 日(1854年7 月9 日)に奈良地震で死者1500 名以上、11月4日(12月23 日)に安政東海地震で死者3000~4000名、11月5 日(12月24 日)に安政南海地震で死者数千名という大きな被害が発生しています。
 このため、安政改元となるのですが、昔の改元は、今のように改元された時から新しい元号を使うのでほなく、改元されると、その年の1月1日に遡って改元となります。
 このため、嘉永7年6月15日に起きた東海地震は、安政という新しい元号ができたことにより、安政元年6月15日に起きた東海地震ということになり、安政東海地震と名付けられています。安政南海地震も同様です。
 安政2年の地震安政3年の台風
 安政改元されても災害が相次いでいます。それも、幕府の財政基盤である東日本を中心にです。
 安政2年10月2 日(1855年11月11 日)には、相模湾震源とする南関東直下地震により死者4000 ~1万人という被害が発生しています。安政の大地震、あるいは、単に江戸地震と呼ばれる地震です。被災地は江戸を中心とする関東平野南部の軟弱地盤のところで、深川などの海の埋立地や日比谷から神田の埋立地では大きな被害が発生しました。しかし、江戸城の西側に広がる台地の被害は軽微でした。
 そして、今から160年前の安政3 年8 月25 日(1856 年9月23 日)には、台風で関東地方が暴風雨となり、「其惨害、実に乙卯の震災 (江戸地震)に倍する」と称せられるほどの被害が発生しています。
 {江戸大風雨 城中を始として市中大小の家屋殆ど損破せさる莫く芝 高縄 品川 深川 洲崎等の海岸は風浪の被害有り 本所出水床上に及ぶ 永代橋 新大橋及ひ大川橋 何れも損所を生じ築地西本願寺 芝青松寺 本所霊山寺の佛殿を始として 神社佛閣の或は潰倒し 或は破損する者少なからず 共惨害 実に乙卯(安政二年)の震災に倍すと称せらる  出典:東京市史稿}
 {二十三日微雨。二十四日、二十五日、続いて微雨。二十五日、暮れて次第に降りしきり、南風烈しく、戌の下刻より殊に甚だしく、近来稀なる大風雨にて、喬木を折り、家屋塀墻を損ふ。又海嘯により逆浪漲りて、大小の船を覆し、或ひは岸に打上げ、石垣を損じ、洪波陸へ溢濫して家屋を傷ふ。この間、水面にしばしば火光を現はす。此の時、水中に溺死怪我人算ふべからず。暁丑時過ぎて風雨漸く鎮れり。始め程は少時雷声を聞く。又風雨の間、地震もありしなり。 出典:武江年表}
 江戸湾の高潮で10万人の死者という記録もある
 安政3年の台風は、伊豆半島付近から江戸のすぐ北を通過し、江戸湾では大きな高潮被害が発生しました。しかも、このときに、地震も大火も発生しています。高潮だけでも大変なのに、地震と大火が加わっての災害でした。当時の瓦版には、火災も描かれていますので、かなりの大火であったと思われます。
 「近世史略」によると死者10万人余となっています。しかし、「安政風聞集」では、その被害について、「家ごとの損失は地震のときの十倍にもなるが、幸いにして人の死亡は去年の十分の一もなかった。」と記録されています。前年の安政江戸地震の死者が4000~1万人ですから、これの10分の1なら、400~1000人となります。
 東京市史稿の2倍なら、8000~2万人となります。
 このように死者数には大きな差があり、正しいかどうか確かめるすべはありませんが、かなりの死者がでたことは確かです。
 そして、旧暦の25日ということは小潮のときの高潮です。これが一週間前の満月のとき、あるいは、一週間後の新月のときの大潮のときの高潮であったなら、もっと大きな被害になったと思われます。
 安政3年は、東北地方で凶作となっでいますが、この凶作は翌年も続き、江戸幕府にとってふんだりけったりの災害が続きました。
 幕末の動乱で江戸幕府があっけなく終焉をむかえた理由はいろいろ考えられますが、財政基盤である東日本で、これだけの自然災害が相次げば、幕府の財力がどんどん消耗し、倒幕の動きを阻止できなかった遠因となったことは十分予想できます。
   ・   ・   ・   
 現代日本人には、江戸時代が理解できないし、徳川幕府を悪し様に批評する資格はないし、江戸文化を持ってはいない。
   ・   ・   ・   
 徳川幕府は、鎖国をして他国・隣国からの支援を一切受けなかった。
 江戸庶民は、閉鎖ブラック社会で、孤独に、孤立して、自力で生きていた。
   ・   ・   ・   
 1800年〜1865年 寛政・天保小氷河期。
 冷夏が発生し、凶作が続き、慢性的な食糧不足で人々は満足に食べられず飢えていた。
   ・   ・   ・   
 文政11(1828)年9月17日 シーボルト台風
   ・   ・   ・   
 天保4(1833)年・1835年・1836年・1838年は大凶作で、天保の大飢饉が起き、多くの餓死者が出た。
 大金を持っていても食べ物は買えなかった。
   ・   ・   ・   
 嘉永6(1853)年2月2日 小田原地震。 
   ・   ・   ・   
 安政年間の百姓一揆は、179件。
 安政:1854年11月27日~1860年3月18日
   ・   ・   ・   
 安政元年(1854)4月6日 京都大火。京都御所焼失。
 6月15日 伊賀・伊勢・大和地震
 南海トラフ地震
 11月4日、安政東海地震
 11月5日、安政南海地震
 11月7日 豊予海峡地震
   ・   ・   ・   
 安政2(1855)年8月3日 仙台地震
 首都直下型地震。10月2日 安政江戸地震と江戸大火。死者、1万人。
   ・   ・   ・   
 安政3(1856)年7月23日 陸奥地震
 7月~9月 江戸降雪。
 7月23日 陸奧沖地震
 8月26日 北海道駒ヶ岳噴火。
 9月23日・24日 安政江戸台風。江戸暴雨風と巨大高潮。死者、約10万人。
   ・   ・   ・   
 安政3年・安政4年 東北の飢饉。
   ・   ・   ・   
 安政5(1858)年2月26日 飛騨・越中地震
 2月10日 江戸大火。
   ・   ・   ・   
 安政5(1858)・安政6年 江戸でコレラ大流行。死者、20万人。 
   ・   ・   ・   
 慶応期の百姓一揆は、498件。
 慶応:1865年4月7日~1868年9月8日。
   ・   ・   ・   
 慶応3(1868)年・明治元年 江戸幕府滅亡。
   ・   ・   ・   
 2019年 10月12日 Nnote「【江戸時代の台風(「颶風(ぐふう)」)と台風対策~勝海舟の『氷川清話(ひかわせいわ)』より】見えてくるのはいかに徳川時代の防災に対する心構えと対応が素晴らしかったか見えてきます。
 コバタケ
 【江戸時代の台風(「颶風(ぐふう)」)と台風対策~勝海舟の『氷川清話(ひかわせいわ)』より】見えてくるのはいかに徳川時代の防災に対する心構えと対応が素晴らしかったか見えてきます。
 皆さま 台風19号が上陸してきます。何事もなく無事通過することを願うばかりです。さて久しぶりに自宅にいます。
 じゃあ江戸時代は?少し調べてみました。
 ■江戸時代に関東地方を襲った「安政3年(1856年)の台風」江戸が壊 滅!?の凄まじさ歴史上の台風といわれています。死者は10万人出したといわれています。
 その前に 実は「台風」という名称が使われるようになったのは1956年(昭和31年)と、最近のことです。それまではどう呼ばれていたのでしょうか?
 平安時代は「野分(のわき・のわけ)」と呼ばれていました。風が野の草を吹いて分けることからこの名称が付きました。あの『源氏物語』にもその名称を確認することができるそうです。江戸時代になると「颶風(ぐふう)」と呼ばれるようになり、明治時代になって「大風(おおかぜ)」や「颱風(たいふう)」と今日にも通ずる呼び方になりました。
 歴史上で有名な台風が「弘安の台風」。1281年(弘安4年)、この台風が日本に侵攻してきたモンゴル軍を襲い、撤退に追い込みました。このことから「神風」とも呼ばれたこと日本史で習ったかと思います。
 「安政3年の台風」は1856年9月23日から24日の夜にかけて関東地方を襲った台風。非常に強い勢力を持ったまま、伊豆半島付近から江戸の西側を通過したそうです。恐るべきはその猛烈な風でした。風による被害だけでなく、それによって引き起こされた高潮と洪水が江戸の町を襲ったそうです。被害は江戸をはじめ、関東の広い範囲に及び、約10万人もの死者を出したそうです。ーJapaaanー参照
 ■勝海舟さんの談話より
 今回は、明治二十九年に、東北で津波が起きたときに、勝海舟さんが明治政府と江戸時代の対応の比較を述べた文章をご紹介します。いくら天下太平の江戸時代とはいえ、地震津波・台風・洪水・飢饉・火事・疫病は頻繁にやってきていたので、徳川幕府という軍事政権の対応や考え方が分かって興味深いものがあるのです。
 参考文献【『氷川清話(ひかわせいわ)』 勝海舟著 講談社学術文庫P175より】
 ★難民の救済
 天災とは言ひながら、東北の津浪(つなみ)は酷(ひど)いではないか。
 政府の役人は、どんなことをして手宛(てあて)をして居るか、法律でござい、規則でございと、平生やまかしく言ひ立て居る癖に、この様な時に口で言ふ程に、何事も出来ないのを、おれは実に歯痒(はがゆ)く思ふよ。全体人間は幾(いく)ら死んで居るか、生き残りたる者はまた幾らあるか、おれは当局で無いから知らないけれども、兎(と)にも角(かく)にも怪我(けが)人と飢渇(きかつ)者とは、随分沢山あるに相違はない。
 この様な場合に手温(てぬ)るい寄附金などと言うて、少し計(ばか)りの紙ぎれを遣(や)つた処が、何にもならないよ。昔、徳川時代の遣り口と、今の政府の遣り口とは、丸で違ふよ。
 今では騒ぎ計(ばか)りいらくつて、愚頭(ぐず)々々して居る内には、死ななくてもよい怪我人も死ぬし、飢渇者もみんな死んでしまふよ。ツマリ遣り口が手温るいからの事だ。何と酷(む)ごたらしいぢやないか。
 徳川時代にはチヤント手が揃って居るから、イザと言ふこの様な場合になると、直(す)ぐにお代官が被害地に駆け附(つ)けて、村々の役人を集め、村番を使うて手宛をするのだ。
 先づ相応な場所を選んで小屋掛けをするのだ、此処で大炊(おおた)き出しをして、誰れでも空腹で堪(た)まらない者にはドン/\惜気(おしげ)もなく喰(く)はせるのだ、さうすると、この様な時には、少し位、身体の痛む者も、みんな元気が附(つい)て来るものだよ。
 炊き出しの米は、平生やかましく責立(せめた)てなくとも、チヤンと天災時の用意がしてあつて、何処(どこ)へ行きてもお蔵米がかこつてある。それだからイザ天災といふ時でも、苦労せずに、窮民を救ふことが出来るのだ。
 窮民に飯を喰はせなければ、みんな何処(どこ)かへ逃げて行つてしまふよ。逃げられては困るヂヤないか、どこまでも住み慣れたる土地に居た者を、その土地より逃がさずにチヤンと住まはしておくのが仁政と言ふものだよ。
 それから怪我人は、矢張り急場の間に合はせに幾らも大小屋を建て、みんな一緒に入れて置くのよ。さうして、村々のお医者はここへ集つて夜の目も眠らずに、急場の療治をするのだ。
 何でもこの様な時は素早いのが勝ちだから、ぐづ/\せずに療治していつたものだ。それゆゑ、大怪我人も容易に死な>かつたよ。
 徳川時代は、イクラお医者が開けないと言うても、急場になつてマゴ/\する様な者はなかつたよ。それに、なか/\手ばしつこい事をして療治するから、ドンナ者でも手遅れの為(ため)に殺す様な事はなかつたものだよ。
 左様(さよう)の風にやつて行くと津浪のために無惨なる者も憂き目を見る様な事が無くなつて来る。それから、三ヶ年も五ヶ年も、ツマリ被害の具合次第で納税を年賦にして、ごく寛(ゆ)るくしてやるのだ
 こう見てもいかに徳川時代の防災に対する心構えと対応が素晴らしかったか見えてきます。
 それは 思いやりとお互い様そして共生の文化だったかと思います♪
 かんながら ありがとうございます」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 安政3年の大風災は、江戸時代の1856年9月23日(安政3年8月25日)から24日にかけての夜間に、江戸を中心とする関東地方で発生した大規模な風水害である。江戸のすぐ近くを強い勢力の台風が通過したことにより、江戸の街一帯が暴風雨や高潮などの被害を受けたことによって発生した。また暴風雨に加えて、火災が起きたことも被害を拡大させた。
 この台風による死者数は諸説あり、資料によっても異なるが、最も多いものでおよそ100,000人とされ、日本の風水害によるものとしては史上最悪の被害とされている。
 なお、この災害を引き起こした台風は、安政江戸台風と呼ばれる。
 概要
 江戸では夕方から雨が降りしきり、成の主 (午後8時) 頃から南風が強まり、雷鳴がとどろき、亥の刻 (午後10時) 頃には、近年まれな大暴風雨となった。夜明けの午前4時頃になって風雨はようやく衰え、 人の歩行もできるようになった。
 『武江年表』には、この大風災について以下のように記されている[4]。
 {「八月二十三日、微雨。二十四日、二十五日、続いて微雨。二十五日、暮れて次第に降りしきり、南風烈しく、戌の下刻より殊に甚だしく、近来稀なる大風雨にて、喬木を折り、家屋塀墻を損ふ。又 海嘯により逆浪漲りて、大小の船を覆し、或ひは岸に打上げ、石垣を損じ、洪波陸へいつ濫して家屋を傷ふ。この間、水面にしばしば火光を現はす。此の時、水中に溺死怪瑕人算ふべからず。 (略) 翌二十六日朝より霽に属す (諸商人活業を休みこと数日なり。) 人家所々潰れたる、数ふべからず。寅卯両年の災に罹りし場所、家作の新らしきも潰れしあり。去冬の地震にいたみしは更なり。微塵になりしもの数を知らず。(略) ことに駭歎すべきは築地西本願寺の御堂なり。さしもの大厦なれども一時に潰れて、微塵とはなれり。此の辺、船松町、上柳原町、南本郷町、十軒町、南飯田町、南小田原町、深川洲崎、芝高繩、品川等の海岸は殊に風浪烈しく、人家を溺らし、或ひは逆浪にさそはれて海中へ漂汎し、資財雑具は見るが内に流れ失せたり。(略)」
 ─── 武江年表}
 各地の被害から、猛烈な台風は静岡県伊豆半島付近から上陸し、江戸のすぐ西(江戸城付近)を通過して、関東北部を経て東北地方へと進んだと推定されている。暴風と高潮による被害が大きく、現在の東京にとっても最悪の台風のコースであった。
 被害
 江戸城中をはじめ、諸大名、武家屋敷、大小の家まで壊れぬものはないほどであり、屋根瓦を吹き落とし、戸障子に至るまで吹き飛んだという。築地本願寺では、前年に発生した安政江戸地震では少し瓦が落下した程度であったが、この台風の暴風により全壊してしまった。浅草三社の前の鐘楼は、屋上が吹き飛ばされて跡形もなくなった。湯島天満宮では銅鳥居と神楽堂が倒れ、芝の青松寺、本所の霊山寺の本堂なども倒壊し、御廓内の松の大木も折れたという。大風の被害は市中全般に及び、安政江戸地震の際の被害よりもはるかに大きいものとなった。
 江戸をはじめ、現在の神奈川県や千葉県などでも暴風の被害が大きかった。しかし、同時に東京湾で高潮が発生。台風による気象潮は、 2.5 - 3.2mに達したという。深川、洲崎、本所や芝、高輪から品川海岸にかけては高潮で海のようになり、夥しい人家の被害となり、木場の木材は流失した。佃島では、西一丁目がことごとく破損し、永代橋の中程から東へ7〜8聞は、風浪により押し流された500〜600石の大船によって壊され、ついに往来止めとなった。大川端から大橋への往来へも、大茶船が12〜13隻ほど打ち上げられ、浜町辺りは高潮が床上2尺4〜5寸 (およそ0.8m) となった。浸水の水位は 、 船橋町役場で床上0.9 m、築地で0.9m、芝増上寺・深川・本所で1mに達したという。 至る所で、倒壊した家の柱や梁等が流れてきたため、水中を逃げようとしてもまともに歩けず、多数の負傷者が出た。高輪の海岸には、薩州家の軍艦が吹き付けた。近郊では、大森、鈴ヶ森、川崎から六郷の渡しまで高潮の被害が多かった。砂村や行徳、猫実(浦安)の辺りでも、高潮で家が流されたり、溺死したり、また逆浪に誘われて海上で漂流したりする人も多くいた。
 一方、芝片門前の壊れた家から出火して火災が発生し、火災は雨中に延焼して神明前町の辺りまで焼けた。さらに、四谷や代々木の辺りでも火災があり、大風雨中の火災だったために人々は逃げ惑い、死者や負傷者が多数出た。この大風災による死者は、近世史略によると10,0000人余りとなっているが、仮にこの死者数が正しいとすると、日本台風災害の死者としては最多となり、日本の風水害によるものとしては史上最悪の被害となる。
 その他
 「安政風間集」(安政3年12月出版・金屯道人編)の挿絵には、安政3年の大風災の様子を描いた絵図がある。この大風災を機会に、武江年表、震災動揺集などの本格的な災害史が作られるようになった。
   ・   ・   ・