🏕44)─4─幕府・大名は天災で甚大な被害がでると、財政を傾けてまで領民を助けた。~No.91 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 江戸時代の日本はブラック社会であったが、中国や朝鮮の様な阿鼻叫喚の生き地獄ではなかった。
 日本人と中国人・朝鮮人とは全然違う。
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 江戸時代甚大な災害が発生すれば、公助として幕府や諸大名は領民を助け、共助として世間(社会)・地域は町内と住民を助け、自助として自分と家族・身内・親族を助けた。
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 民族特有の物の哀れや惻隠の情は、自分の考えで世間体を大切にした昔の日本人にはあったが、社会に縛られ同調圧力や場の空気で我を忘れる現代の日本人にはない。
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 2021年9月19日 CASTニュース「江戸時代の大名は災害が起こると、財政を傾けてまで領民を守った!【防災を知る一冊】
 9月1日は「防災の日」。1923(大正12)年9月1日に関東大震災が起きてから、もうすぐ100年になろうとしている。また、近年は9月に大型台風が上陸したり、長雨が続いたりして、各地で風水害も発生している。9月は防災、自然災害、気候変動、地球温暖化をテーマにした本を随時、紹介していこう。
 地震や台風などの自然災害は毎年のように甚大な被害をもたらしているが、江戸時代も事情は同じだった。社会制度が今とは異なる当時、地方の行政機関である藩は、どのようにして被災者を救ったのか――。
 有能な為政者は藩財政を傾けてまで、金銭給付や食料配布、建材支給、無償の医師派遣を迅速に行い、さらには犠牲者鎮魂の儀式まで催していたという。三重大学副学長の歴史家がお膝元の藤堂藩を中心にその実相を読み解いたのが、本書「災害とたたかう大名たち」(KADOKAWA)である。
 「災害とたたかう大名たち」(藤田達生著)KADOKAWA
 大名は災害とどう戦ったのか!?(写真は、藤堂高虎像)
 藩の年間収入を上回る金を領民に
 著者の藤田達生さんは、三重大学副学長で教育学部・大学院地域イノベーション学研究科教授。「藤堂高虎論」「信長革命」などの著書がある。
 藤堂藩は、伊勢・伊賀などで32万石を有する大藩だった。嘉永7年(1854)6月15日に阪神・淡路大震災と同規模の安政伊賀地震が発生した。災害対応の記録が詳細に残っており、災害時の被災者支援は手厚かったことがわかる。
 伊賀領における死者数は597人、負傷者は965人、全壊家屋2028軒、半壊家屋4357軒(藩士分を除く)という被害だった。
 地震当日、上野町人に対して仮小屋を安全な場所に設置することが許可され、資材と食料が給与され、町や村に対して被害調査がなされた。翌16日には、最低限の避難場所の確保と、震災の被害状況の第一報が江戸の藩主へ伝達された。
 その後も死者1人につき米1俵が渡され、全壊した家には町方では1軒につき金2両(26万円)と米4俵、郷方では1軒につき金3両(39万円)と米1俵が渡されるなど、手厚く保護された。
 安政伊賀地震において藤堂藩が伊賀領の領民に渡した金の総額は2万5643両(約33億円)にも上った。藩の年間全収入は3万5600両(約46億円)だったから、その72%に相当する莫大な支出だった。ほかにも伊勢領などがあったから、優に年間収入を超えたと予想される。幕府から2万両を借りたことがわかっているので、借金をしてまで藩士や領民の生活復興を優先した、と藤田さんは評価している。
 なぜ藩は領民を保護したのか?
 幕藩体制の根本理念は、天下の領知権(国土領有権)を、天から天下人や将軍が預かり、彼らが器量に応じて領知権を諸大名に預ける、という「預治思想」にあった、と解説する。
 天下統一後、諸大名は戦国時代とは違い地方社会に君臨する王ではなく、官僚として国務の一翼を担う存在と位置づけられた。このことを象徴する次のような文章がある。
 「全国の大名家の中には、江戸時代を通じて10回以上も国替を経験した家があることが知られている。それが可能だったのも、城郭や武家屋敷が公儀(幕府)からの預かり物として位置づけられていたことによる。つまり城郭から武家屋敷に至るまでが、『官舎』として管理されていたのである」
 藤堂藩では城郭や武家屋敷はもとより、町人屋敷に加えて百姓家屋までが管理されていた。「田畑は公儀の物」あるいは「公田」という理解だった。したがって、災害がおこれば、困っている百姓を救済するのは当然の使命だった。
 領地領民を守り藩主との信頼関係を構築することこそ、支配の安定化に不可欠と認識したからだ。だが、それが次第に揺らいでいく。
 「預治思想」に基づく幕藩体制において、定期的な移動である参勤交代や、不定期ではあるが国替や役職の移動が基本にあった。しかし、さまざまな災害が続き、その復旧に莫大な費用がかかると移動が妨げられた。
 災害が続き藩は自立、幕末へ
 藩の財政が苦しくなると、幕府に借金をしたが、天明年間(1781~89)移行、幕府は深刻な財政危機によって、例外はあったが基本的に借金を受け付けなくなっていた。その結果、西国の外様大藩(薩摩藩長州藩など)を中心に藩の自立化が進められた。
 藩財政の立て直しのために特産品の専売化などを進めて、雄藩化が図られていった。国替や参勤交代も十全には行われなくなっていった。権威が低下した幕府に代わって朝廷との結びつきが意識された。こうして幕末を招いたのだ。
 「災害時こそ大名にとって支配の正当性を演出する絶好の機会」と藤田さんは書いている。災害時の生活保障の手厚さが、日常における両者の信頼関係の強化につながり、ひいては年貢の安定的な確保をもたらしたからだ。
 しかし、うち続く災害によってこれが守られず、一揆や打ちこわしが頻発し、やがて江戸幕府は崩壊した。
 コロナ禍の現在、災害から民を守れないと見切られた国はどうなるのだろうか。政治の機能不全がポストコロナ時代の歴史の転換をもたらすかもしれない、と藤田さんは書いている。
 ひと握りの特権層だけが優遇され、「新自由主義」が生み出した格差による国民の分断が進んでいる。江戸時代の大名がすべて藤堂藩のように手厚く領民を保護した訳ではないが、基本は同じだろう。江戸の大名たちの立派さを知るにつけ、現代の為政者はなすべきことを行っているのか、という不信感が募る。(渡辺淳悦)
 「災害とたたかう大名たち」
 藤田達生
 KADOKAWA
 1870円(税込)」
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 YAHOO!JAPANニュース
 「災害が災害を招く」江戸期に学ぶコロナ時代のヒント
 9/13(月) 11:10配信
 日経BizGate
 「城作りの名人」といわれた藤堂藩初代藩主・藤堂高虎が築いた伊賀上野城三重県伊賀市、8月)
 新型コロナウイルスの感染拡大だけでなく、台風の水害など予期できない困難が国内を襲っている。実は江戸時代も災害など困難の連続に直面していた。「天下太平」のイメージとは裏腹に地震、火事、疫病、干ばつ、水害と、徳川幕府と全国の各藩は災害対策に忙しかった。将軍家のお膝元である江戸の街は優れた減災・救済システムを確立し、さらに一歩進んだ復旧対策を構築した有力藩もあったという。ウィズコロナ時代におけるマネジメントのコツは、日本の近世にあるかもしれない。藤堂藩(現三重県)の復興対策について、三重大学藤田達生副学長に聞いた。
 ――新型コロナウイルスの対策を巡り、ワクチン接種などで政府と地方自治体のすれ違いが表面化しました。
 「江戸時代は、合戦という最悪の人災こそなくなったものの、自然災害が相次ぎました。東アジアの天候不順が冷害や干ばつを招き、『寛永の大飢饉(ききん、1641年)』の引き金となったという研究があります。享保の飢饉(1731年)や天明の飢饉(1782年)の原因には虫害が指摘されています。人々の衛生状態が悪化すると、疫病の流行につながりました。災害が災害を招くのです。大地震でも町や村が倒壊し社会が荒廃します。安政江戸地震1855年)の後にはコレラが流行しました」
 徳川幕府が作った「災害救済マニュアル」
 オンライン取材を受ける藤田達生・三重大副学長
 ――江戸期は慶長地震(1605年)に始まって元禄、宝永、安政など各地で十数回の大地震を経験し、飢饉は「江戸の4大飢饉」など大小合わせ百数十回に及ぶといわれます。江戸の街は火事も多く「大火」と記録されるものだけで約50回。江戸城天守閣や本丸御殿が焼失したケースもありました。
 「徳川幕府は減災・復興対策をシステム化させていきました。被災した人々を収容する仮小屋の設置、粥の炊き出しなどの『御救い』です。復興に向けては金銭・米の拠出や貸借も行いました。近隣大名や旗本に加え寺社・大商人など民間からの支援体制も整備していきます。いわば『救済マニュアル』を作成したのです。江戸時代後期に地震や火事が頻発しましたが、スピーディーに対策を講じました」
 ――幕府は火消し組の制度化、放火への厳罰化、大名屋敷や寺社を移転しての火よけ地・広小路の確保、瓦葺(かわらぶき)や土蔵造りの採用による不燃化などを推進しました。減災対策が法整備や都市計画に及んだのですね。
 「幕府は被災した大名らに対しても無利子で貸し出す『拝借金』などで支援しました。ただ江戸後期には幕府自体が逼迫(ひっぱく)し、大名は将軍からの財政出動を当てにできなくなりました。各藩は独自の対策を構築する必要に迫られました」
 「そのときに手本となったのが、参勤交代先の江戸で実体験した復旧システムでした。参勤交代はもともと大名に対するけん制策だったのですが、中央の先進的なノウハウを各地に普及させる効果もあったのです」
 江戸期にあった医師の無料派遣、心のケア
「災害とたたかう大名たち」(角川選書)。合戦という最悪の人災はなくなったが江戸期の大名は災害対策に駆け回った
 ――伊賀・藤堂藩(現三重県)の復興対策を最先端のケースのひとつと分析していますね。32万石という大藩で、遠隔地の外様大名が多い中では例外的に京都に近接し、幕府と信頼関係がありました。安政伊賀地震1854年)はマグニチュード7.2の直下型地震で、死傷者は1500人を超え全・半倒壊家屋は約6400軒とされます。
 「藤堂藩は被災当日、城下の火除け地に仮小屋の設置を許可し、玄米粥の炊き出しや味噌を配給しました。この時代は、まず領民からの訴えがあってから動き出すのが通例でしたが、待たずに救済対策を始めました。雨露をしのぐ竹や渋皮も支給しました。江戸を倣って、町民による火消しシステムなどは、すでに導入していました。情報収集も迅速で、被災翌日には被害状況をまとめた第一報を江戸藩邸の藩主に送っています。町や村に1人1日玄米2合の『御救米』を配給し、家屋の被害を受けた者には別途追加しました。藩主の指示を受けて金銭も配給しました。医師の無料派遣も行いました」
 「幕府の救済対策は、金銭と米穀の支給が基本でした。一方、藤堂藩は民家の再建も援助し、建築には被災した人々を当てて当面の失業対策としました。肝心なのは人々の心のケアも手掛けたことです。1年後に犠牲者への供養、法要を藩が執り行っています。疫病が流行したときには薬を配布したり、町人総出の練り踊りも開催し、藩主が現場で観覧し褒賞金を与えました。政治の見える化ですね」
 ――復興費用はどれくらいだったのでしょうか。
 「領民に対する金銭の支給だけで約2万5000両と、藤堂藩の1年間の収入の7割を超えました。全体では優に年収を超えたでしょう。財政破綻を半ば覚悟した支援でした。当面の不足分は京・大坂などの豪商からの借り入れなどに頼りました。幕末に各藩の財政がひっぱくした原因は、よく消費経済の発展による藩主らの奢侈(しゃし)に求められます。しかしこうした復興経費も藩政を圧迫したのです」
 「先進的な藤堂藩以外で、ユニークな復旧対策を講じた大名に善光寺地震(1847年)の松代藩(10万石)・真田幸貫がいます。マグニチュード7.4の直下型地震で死傷者が約5000人。地震による直接的な被害のほかに、犀川の決壊で約6500軒に泥水が流入しました。仮小屋と御救小屋の設置、スピーディーな被害状況の把握は藤堂藩と同じですが、真田幸貫は絵師を派遣して詳細な被害絵図を作成させました。被災した善光寺の参拝客も領民・領民以外の区別無く救済措置を取りました。ちょうど7年に1度のご本尊開帳の年に当たっていて各地からの参拝が多かったのです。災害後を見据えた処置でした」
 ――災害を受けた各藩の財政立て直しはどうしたのでしょうか。
 「まず殖産興業です。藤堂藩では空き地や河川堤にウルシ・コウゾなどを植林し、武家屋敷などでミカンや柿の果実栽培、藩有林でシイタケの商品化、養蚕業の奨励などを進めました。人材を育成し、士気を高めるための藩校も設立しました。すべてが順調だったわけではありません。急速な改革は革新派と守旧派の対立を生み、農民にも変化を強いることから一揆も起きました」
 「節約だけではダメ。第1次産業の奨励だけでも足らないということです。ただ、災害対策を契機とした幕府からの経済的な独立が、思想的な自立につながった面は見逃せません」
 (聞き手は松本治人)」
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 世界大百科事典 第2版「救小屋」の解説
 すくいごや【救小屋】
 近世に飢饉,火災,風水害などの災害時,貧窮の罹災者を収容する目的で建てられた仮小屋。また,災害に際して罹災者が集中的に出た都市社会では,罹災窮民の飢えを補うため,施行粥などの炊出し小屋もたびたび設置され,近世初頭にはこれも御救小屋と称された。しかし,貧窮者の市街浮浪を抑止するため,その全生活を管理する御救小屋と,飯米の一時的施与のみを目的とする炊出し小屋とはその社会的機能を異にするため,後年ははっきり分化した。
 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「救小屋」の解説
 救小屋 すくいごや
 江戸時代、飢饉(ききん)・水難・火災などの天災に際し、困窮民を救済する目的で建てられた施設。同様な施設は、すでに1421年(応永28)室町幕府の将軍足利義持(あしかがよしもち)によって京都五条河原に建てられた例などが知られる。江戸時代には、小屋の規模が数千人を収容するほど大きくなり、幕府をはじめ寺社や個人によっても建てられた。江戸の場合、1742年(寛保2)の隅田(すみだ)川の洪水では新大橋西詰や両国橋際に、1836、37年(天保7、8)の飢饉では神田佐久間(さくま)町一丁目地先などに、1855年安政2)の大地震では幕府による浅草雷門(かみなりもん)前はじめ5か所と上野輪王寺宮(りんのうじのみや)による救小屋が設置され、被災民を収容して食糧を与えた。施行米(せぎょうまい)など救援物資は、江戸の町会所や豪商などから供出させることもあった。また、救小屋では、収容民を稼ぎに出して賃金を取りまとめ、出所する際に復興資金として渡すことも行っている。1866年(慶応2)の江戸市中の打毀(うちこわし)では、蜂起(ほうき)した民衆が救小屋の設置を要求した。
 [馬場 章]
 『南和男著『幕末江戸社会の研究』(1978・吉川弘文館)』▽『南和男著『江戸の社会構造』(1969・塙書房)』
 [参照項目] | 飢饉
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 精選版 日本国語大辞典「御救米」の解説
 おすくい‐まい おすくひ‥【御救米】
 〘名〙 江戸時代、飢饉、災害などの被災者を救済するための応急施米。おすくい。
 ※財政経済史料‐二・財政・賑恤・災害救済・宝暦五年(1755)四月日「居宅不レ残致二類焼一候に付、願之通御救米被レ下候間」
 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
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 世界大百科事典内の御救米の言及
 【救米】より
 …江戸時代の困窮民に対する救恤(きゆうじゆつ)策の一つ。多くは飢饉,火災,水害などの災害時,罹災窮民のいっそうの困窮化を防ぐため,幕府,領主などによって与えられる救助米を指し,人々はこれを敬して御救米と称した。これに対して,民間で行われる救済の救助米は合力米,施行米と称される場合が多い。…
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 キリスト教世界で甚大な災害が発生すれば、キリスト教会が王侯貴族の領主、豪商・豪農などの富裕層・資産家からの多額の寄付を得て被災民達を助け、国家・政府や王侯貴族は他国からの侵略や国内の治安維持として犯罪者による暴動・略奪・強姦・殺人を取締と謀反人・反体制派・革命家らによる反乱・内戦を警戒した。
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 日本民族は「敵に塩を送る」故事が好きで、戦争を行っている敵国人であっても殺し合う敵兵と災害の被災者とはハッキリ区別し、敵兵は女子供であっても武器を持って攻撃してきたら容赦なく殺したが、被災者は敵兵でも武器を捨てれば哀れとして無条件で助けた。
 「窮鳥懐に入れば助ける」。
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日露戦争
2018-01-24
💖5)─3─明治の日本人は、撃沈したバルチック艦隊の特務艦イルティッシュ号から敵兵235人を救助した。~No.16No.17・ @ 
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日中戦争
2019-05-13
💖18)─1─河南省黄河防爆破と大洪水。溺死100万人以上。日本軍は中国人10万人以上を助けた。1938年〜No.68No.69No.70No.71・ 
2019-05-15
💖18)─2─河南省大飢饉。日本軍は戦争をしながら飢餓民約1,000万人を助けた。日本軍の敵兵虐殺事件。1940年No.72No.73No.74No.75・ 
2019-05-16
💖18)─3─日本軍は河南省救援物資輸送路を死守した。大陸打通作戦。泰緬鉄道。日本軍兵士の餓死・病死。1944年〜No.76No.77No.78No.79・ 
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日本陸軍防疫部隊が中国人を救った。
2020-06-14
💖19)─1─日本軍は中国軍が行った堤防破壊、井戸への毒やコレラ菌投入の尻拭いをしていた。〜No.80No.81No.82No.83・ 
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災害とたたかう大名たち (角川選書 651)
江戸時代の設計者 異能の武将・藤堂高虎 (講談社現代新書)
江戸の災害史 - 徳川日本の経験に学ぶ (中公新書)
日本人は災害からどう復興したか: 江戸時代の災害記録に見る「村の力」
大江戸災害ものがたり (学びやぶっく)
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 日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に石器時代縄文時代弥生時代古墳時代日本民族が住んできた。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
 神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
 神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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