🌏40)─1─日本の疫病対策は明治12年の屈辱から始まった。後藤新平の検疫事業。〜No.115  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 

 日本の歴史とは、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火など複合的災害多発地帯で如何にして生きてきたかという日本民族日本人だけの歴史である。
 日本の歴史を見れば、現代起きている深刻な出来事の大半が過去にも起きており、歴史を見れば初めての事ではなく、そして想定外な事ではない。
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 日本を疫病史。
 明治時代。日本人は朝鮮人アイヌ人を感染症から救っていた。
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 2020年7月号 Voice「歴史論争 渡辺惣樹
 対処法は本に書かれている
 スターリンチャーチルルーズベルトの3人は先の戦争の三巨頭と称されている。読書の量は前者2人が圧倒的であった。チャーチルは、ハーロー挍時代は成績不良の問題児だったが、読書だけは好きだった。著述にも熱心で多くの書を残している。但(ただ)し、彼の書は、自身に都合の悪い事件は捨象(しゃしょう)されているので歴史書としての価値は低い。ルーベルトは読書はほとんどしなかったから、コメントに値(あたい)しない。
 いちばんの読書家はスターリンであった。マルクスレーニンの著作はいうまでもなく、プラトン哲学書クラウゼヴィッツ軍学書などを熟読した。ゴーゴリトルストイらの文学書にも目を通し、蔵書は2万冊を超えていた。
 『戦争ともなればこれまでに経験したことのないシチュエーションに置かれるのが常である。それでも多くの本を読み、その内容をしっかり記憶していれば、自身がいかに振る舞いどのような決断をすべきかはどこかに必ず書かれている』
 この言葉には真理がある。だからこそチャーチルルーズベルトスターリンに手玉にとられたのであろう。人間の一生は短い。自身の経験だけでは対処できない事件は頻繁(ひんぱん)に起きる。国家指導者ともなれば毎日のようにそうした事件は起きよう。スターリンの読書に対する姿勢には一目(いちもく)置かざを得ない。
 コロナビールス禍も多くの日本人には初めての経験だが、歴史を振り返れば、日本が外国から侵入する道の病原菌に襲われたことは幾度もある。当時の為政者がいかなる行動をとったかを拙著『日米衝突の根源』(草思社)に書いたことがある。
 明治初期のコレラ
 南北戦争北軍を率いたのはユリシーズ・グラント将軍だった。後に大統領となると高関税政策をとり、米国発展の基礎を築いた(任期:1869~77年)。
 任期を終えると世界漫遊の旅に出た。そのグラントが長崎港に入ったのは1879年6月21日のことであった。彼を迎えたのは天皇の名代(みょうだい)、伊達宗城伯爵だった。同地での6日間の歓迎行事を終えた一行は横浜に向かった。当初の 予定では途中神戸に寄港するはずであったが、同港周辺でコレラの発生が伝えられると、予定を変更し清水港に向かった。グラントは、当時駿府に蟄居(ちっきょ)していた徳川慶喜の居宅近くを人力車で巡ったと記録されている。
 コレラは1877年夏、清国アモイで発生していた。この情報を受けて長与専齋(内務省衛生局長)は、直ちに、水際での検疫体制を強化した。寺島宗則(外務卿)は、各港での検疫方針をハリー・パークス英公使に伝えた。公使は傲慢だった。英国臣民は英国法に従うのみとして協力を拒否した。これに他の列強も追随した。当時横浜(外国人居住地)におよそ1,400人が暮らしていたが患者10名がみつかり4人が死んだ。この病は全国に広がりこの年6,800人以上がコレラで死んだ。グラント訪問時には、いったん収束した病原菌が再び暴れだしていた。
 憤った大統領
 1879年7月11日、ドイツ蒸気船『ヘスペリア』が横浜にやって来た。明治政府は規則通り避病港(横須賀港近く)に暫(しばら)く留め置き感染者のいないことを確認してから上陸許可を与える方針であった。しかしドイツ領事館は、この要請を聞かず軍医に乗客を診察させ罹患者なしと結論付けると、横浜への回航を決めた。当時日本にいた独軍艦『ウルフ』にエスコートされる念の入れようだった。この事件の顛末(てんまつ)を東京に入っていたグラントは聞いた。グラントは、『もしこんなことをアメリカでしたら、ドイツの戦艦は一発で撃沈され海底に沈んだろう』
 当時のアメリカはドイツと戦えるほどの海軍力はなかったが、グラントは感染症に対する国家の防疫姿勢は断固たるべきであるとの国際常識を語ったのである。軍艦に脅かされていようが、横浜での対応は厳しくできたはずだった。
 歴史の高みに立って安易に当時の指導者の弱腰を詰(なじ)るわけにはいかないが、防疫には『政治家や官僚の胆力』が試されることを示している。スターリンが未経験の事態への対応策は必ず既読の本の中に書かれていると豪語したのはこういうことを言うのだろう。彼は『悪の帝国ソビエト連邦』を築いた男である。しかし、『なにせ初めての経験なので』と阪神・淡路大震災後に語った元首相よりは頼もしく思えるのが情けない」
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 2020年5月号 WiLL「いつそ安倍独裁ならよかったか
 阿比留瑠比
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 大局を見誤るな
 『われわれは、すべての起こり得る危険に対して備えることはできません。われわれは最も重大なものに力を集中し、他の面では損害を受ける覚悟をしなければなりません』
 第二次大戦前、ボールドウィン内閣の財務省だったチャーチルは、ナチスドイツの脅威を念頭にこう演説しました。政府はときに些細(ささい)な過ちを犯すこともあるでしょうが、大局で間違いがなければ評価すべきなのです。
 ……
 野党の批判は支離滅裂
 国内で感染が拡大し、死者が出てもなお、野党は『桜を見る会』について追及していました。ところが、さすがに世論をきにしてか、方針転換して安倍政権の新型コロナウイルス対応に批判の矛先を向けるようになった。しかし、野党の批判は支離滅裂、矛盾だらけです。ダイヤモンド・プリンセス号については『対応が遅い』と言いながら、休校要請は『拙速な対応だ』と批判していた。いったい何をすれば満足するのか。結局、政権批判ありきなのです。
 中国と韓国からの入国制限について、立憲民主党蓮舫議員は『実効性も未定』『なぜ中国と韓国なのか』『エビデンスを示してもらいます』とまくしたてた。
 対してノーベル賞受賞者山中伸弥教授は、
 『エビデンスを待っていたらいつまでも対策はできない。人類初の経験で、エビデンスなんかどこにもない。その間、何もしなかったら手遅れになる』
 とコメントしました。見事な〝論破〟です。」
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 天災は予想可能だが、疫病・感染症は予測不能である。
 事態の急変に合わせて、走りながら対応策を実行し、成功ならそのまま進め、失敗なら次策に切り替えて対応する。
 瞬時の暇なく、臨機応変に行動する事が求められる。
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 野党には、国政を論じる能力はなく、国政を担当する資格もない。
 野党は、大人の政党ではなく、大学の政治サークルか政治クラブにすぎない。 
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 現代の日本人は、昔の日本人に比べて明らかに劣っている。
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 現代の日本人は、戦前までの失敗を反省し、反面教師としてその反対を行っている。
 つまり、日本民族日本人を「犯罪者」として信用せず、権限を制限して、自由を与えない事である。
 それが、護憲派人権派の主張である。
 彼らの最終目的は、民族所縁の全てを日本国家から抹消する事である。
 故に、戦前の日本が残した人道貢献や実績は認められず歴史の闇に葬られている。
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 政治家が求められ真の覚悟とは、緊急事態宣言・非常事態宣言・戒厳令布告を実行する覚悟、死刑を命じる覚悟、戦争を始めて兵士を戦場に送り出して戦死させる覚悟、抗戦派ラカに暗殺されても戦争を終わらせる覚悟である。
 現代日本の政治家には、責任を一身に引き受けて実行するという覚悟がない。
 つまり、現代日本人は武士道を持った武士でもなければ百姓根性を持った百姓でもない。
 同様に、日本民族日本人女性である手弱女、大和撫子、そして女武者、女傑、姐御もいない。
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 2020年5月号 Hanada「武漢肺炎、日本は負けるな!
 感染症と日本人 知られざる闘いの歴史
 八幡和郎
 正しかった安倍政権の対応
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 抜本的な改革のチャンス
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 新型コロナウイルスについては、私も各方面で持論を展開してきたが、本稿では前記のような総論に加えて、ふたつの論点に絞って深掘りしたい。
 ひとつは、日本における感染症との闘いの歴史とその比較。もうひとつは、これを機会にマイナンバーカードの所持義務化など、国民一人ひとりの統一的管理を諸外国並みにできるようにすることが待ったなしの課題である。ということである。
 日本における感染症対策の成功例として模範的だったのは、日清戦争後において帰還兵によるコレラ菌持ち込み阻止した後藤新平である。
 幕末における開国に伴う最大の疫病襲来は、コレラであった。コレラはインドの風土病だった。1817年にカルカッタ(現カルカタ)から最初の世界的流行が起こった。
 日本はまだ鎖国の時代だったのでたいした余波はなかったが、ペリー来航のあとの安政年間である1858年には最初の大流行があり、開国政策に対する悪いイメージを与えた。明治になってからも、1879年と1886年に大流行が起こり、明治時代全体で見ると37万人が命を落としている。
 このうち、1879年の流行は西南戦争の帰還兵が広めたとされている。そこで、1895年に日清戦争が終わったときには、中国大陸から帰還する兵士23万人余がコレラチフスなどを持ち込まないように食い止めるのが焦眉(しょうび)の急だった。
 後藤新平の検疫事業
 この時に責任者となったのが、のちに台湾総督府民政長官、満鉄総裁として辣腕(らつわん)を振るい、関東大震災の復興にもあたった後藤新平だった。後藤は仙台藩家老のミニ城下町だった岩手県水沢に生まれ、医師となってドイツ留学ののち、内務省衛生局長となった。
 だが、相馬事件という政治スキャンダルに巻き込まれる。最終的には無罪放免になったものの、不遇だったところに、軍医石黒忠悳(ただのり)が児玉源太郎陸軍次官に推薦して、臨時陸軍検疫部事務官長として帰還兵23万人の検疫に当たった。
 後藤は検疫所や隔離病舎などの施設を下関の彦島に153棟、大阪の桜島には109棟、そして、広島宇品港沖合の似(に)ノ島には139棟建てた。とくに、似ノ島の施設はわずか3カ月で土地の造成から始まって突貫工事で完成した。武漢の救急病棟もそうだが、こういうときには精緻(せいち)さより火事場のバカ力がものをいう。
 まず、沖に停泊した船で検査官が『臨検』し、患者は運搬船で隔離病舎に移す。健康だという兵士は似ノ島の検疫所に送り、風呂に入れ、その間に衣服や携行品はボイラー(消毒汽缶)を使って蒸気で消毒、あるいは薬品消毒するが、輸送船内に一人でも感染者がいたら、隔離施設に五日間留め置かれた。
 このときにボイラーの試験を頼んだのが、コレラ菌を発見したドイツの細菌学者コッホのもとで学んで帰国していた北里柴三郎だった。
 この頃、日清戦争の兵士たちを悩ませた脚気(かっけ)の原因を細菌と主張したのが東京大学の緒方正規や陸軍軍医のドンだった森鴎外で、ビタミンBの不足だとしたのが海軍軍医の高木兼寬だった。結果的に鷗外の大失策になったわけだが、このときに北里は細菌説を批判して東京帝国大学に居づらくなり、福澤諭吉の援助で独立し、それがのちの慶応大学医学部につながっていく。
 そういう意味で、北里は陸軍のなかでは不都合な人物だったが、後藤はあえて北里に依頼したわけである。3カ月でこの検疫事業は終了し、結果、23万2,346人が検疫を受け、真性コレラ369人、疑似コレラ313人、腸チフス126人といった罹患者が見つかっている。
 それでも、この年に4万人もコレラだ死んでいるが、この頃としては平時より少し多いくらいであったのだから、この後藤の大作戦は成功したというべきだし、この手腕に感服した児玉源太郎は、下関条約で獲得した台湾の総督に任じられたときに、後藤を民政局長として抜擢することになった。
 加藤厚労相の妥当な判断
 厳しい検疫というのは。現場としては非常に抵抗が強いものなのである。なにしろ西南戦争のときも、戦勝気分でのぼせている兵士を隔離できなくてコレラの流行につながったくらいだ。
 近年でも、2014年にエボラ出血熱対策でアフリカに派遣された医療従事者が、自国へ戻った際に強制される隔離処置について、潘基文(バンギムン)国連事務総長は『感染からやっと身を守って帰国した医療従事者は、人類に貢献してくれた類(たぐい)まれな人々だ。彼らに科学的根拠のない制限を適応すべきではない。その無私の尽力が踏みにじられてはならない』と厳しく批判している。
 韓国やイタリアのような感情重視の風土があるところで新型コロナウイルスの感染が爆発的に増えたのも、偶然でなさそうだ。韓国人ほどでないにせよ、感情に流されやすい日本人も他山の石とすべき逸話だ。
 ……
 さて、日本に及んだ最初の疫病の波は、6世紀からの天然痘である。天然痘古代エジプトのファラオにも感染例があるが、東アジアでは古代インドからシルクロードを通じての交易や、仏教伝来に伴ってやってきたようだ。
 日本にも6世紀に朝鮮半島から伝わり、天智・天武両帝の曾祖父にあたる敏達天皇天然痘で亡くなられた。奈良時代には大流行して、光明皇后の兄である藤原四兄弟が全滅したことで知られる。このときには、新羅使節の来日時期と重なっていたため、彼らが感染源ではと疑われた。
 そののち何度も流行があるが、1796年にイギリスのジェンナーが牛痘(ぎゅうとう)による安全なワクチン接種を実用化し、この普及で急速に下火になっていった。江戸時代にも天然痘で死ぬ人も多く、孝明天皇もそうだったといわれているくらいだから、日本人の関心は深かった。」
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 現代日本歴史教育は、戦前の内務省と軍部の行った業績の全てを悪=犯罪行為として否定し抹消したが、その中に疫病対策・検疫体制・防疫給水事業も含まれていた。
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 明治時代の欧米列強は傲慢で横柄で、日本を劣等国家と侮蔑し、日本人をアジアの野蛮人と差別し見下していた。
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 弱肉強食の国際社会が理解できない無知な日本人は、愚かにも、フランスの「自由・平等・博愛」や自由民主主義などに感激したが、裏のおぞましい宗教的人種差別を見ようとしなかった。
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 歴史力のない現代日本人には、当時の日本人が国際社会・欧米列強さらに清国(中国)から受けた屈辱感が理解できない。
 その意味で、現代の歴史教育は無意味に近い。
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 昔の日本人が賢く優れていたからといって、現代の日本人も賢く優れているとは限らない。
 その証拠が、2020年の武漢ウイルスに対する政府の後手後手対応と議会が続けた呆けた議論の失態である。
 日本政府の大失敗は、親中国派媚中派が計画した中国共産党国家主席国賓招待にこだわって中国人旅行客の入国禁止をしなかった事である。
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 革新派やメディア・報道機関は、武漢ウイルス感染拡大の恐れがあるからと言う理由での中国人旅行客の入国禁止は中国ヘイトだと騒いだ。
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 現代の日本人は、作家が新奇な思い付きで創作した時代小説を好んで読むが、公文書や記録を基にした歴史書は読まない為に歴史力がない。
 歴史力がないのは、高学歴出身知的エリートに多い。
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 日本人が好んで口にする「温故知新」や「初心忘るべからず」そして「賢者は歴史を学び教訓とし、愚者は自分の経験を手本として行動する」は、ウソで、本心ではない。
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 道徳・倫理・修身の教育が必要なのは、子供ではなく大人、特に団塊の世代である。
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 日本は、昔も今も疫病・伝染病が蔓延し夥しい日本人の命を奪っていた。
 つまり、日本の歴史において疫病・伝染病において想定外など存在しない。
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 古代。疫病や天災が起きるのは、皇帝・天皇・国王など統治者の不徳とされた。
 日本では、天皇が皇祖皇宗や日本の神々に自らの不徳を認めて謝罪し、神々の怒りによって発生した疫病や天災を鎮めて民草を死の苦しみから救ってくれるように祈った。
 それが、皇室祭祀・宮中祭祀である。
 日本国民日本人も、八百万の神々に自分の過ちを認め、謝罪し、穢れ・邪心を祓い、心の声で浄く正しく美しく生きる事を誓い、頭を垂れ参拝して霊力で疫病や天災を鎮めてくれる事を願い、子孫が神々との誓約を忘れないようにするために祭りを残した。
 それが、本当の言霊信仰である。
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 日本の伝統的祭りである祇園祭は、荒ぶる神・須佐之男命の霊力で疫病を封じの為に始められ祭祀である。
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 現代日本は、神聖な伝統的な祭り・祭祀を、金儲け・人集め・経済効果を上げる収益目的のショービジネスのイベントに貶め、私欲・個人欲などの強欲で冒涜している。
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 現代日本人と昔の日本人とは、別人の日本人である。
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 近代日本医療の権威には、内務省衛生局、帝国大学医学部、陸軍軍医部、海軍軍医部の少なくとも4つが存在し、学説や治療方法をめぐって反目したり協力したりしていた。
 それが、ある意味で医学・医療における硬直化を防いでいた。
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 2020年の武漢肺炎が蔓延したダイヤモンド・プリンセス号の検疫作業の任務に当たっていた厚労省の職員は、任務終了後、隔離処置を取らず、元の部署に戻って普通業務に就いた。
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 現代日本人は、昔の日本人と違って歴史力が弱い為に歴史的知識(経験知)は乏しい。
 特に、戦前を「悪」と切り捨てている高学歴出身知的エリートは歴史力も歴史的知識(経験知)もない。
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 戦前の日本で感染病が蔓延し犠牲者が発生すれば、鬼より怖い内務省が指令官庁として強権を発動して疫病対策を実施し、陸海軍や日本赤十字などの医療機関が一致協力した。
 感染者の人権を一時停止して隔離施設に収容し、感染者収容施設を地元民の反対を押し切って強引に設置した。
 内務省は内政における最強の中核官庁であったが、敗戦後GHQによって解体され、現代日本には存在しない。
 つまり、現代日本には真の中核官庁は存在しない。
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 平成26年版 厚生労働白書
 第1章 我が国における健康をめぐる施策の変遷
 本章では、明治時代から21世紀初頭までの我が国における健康をめぐる施策の変遷に ついて、第1節では衛生水準の向上が中心であった時代、第2節では積極的な健康づくり 施策が始まった時代、第3節では健康づくり対策が本格化した時代、と3つの時代に分けて概観していく。
 第 1節 衛生水準の向上が中心であった時代
 本節では、まず健康をめぐる施策が衛生水準の向上を中心として行われていた昭和30 年代頃までの取組みについて説明する。
 1 明治時代~戦時中までの衛生行政
(1)近代衛生行政の発足 我が国における衛生行政は、1868(明治元)年に政府が西洋医学採用の方針を発表した頃より軌道に乗り始めたとされる。その後、1872(明治5)年、文部省内に医務課が設置され、1874(明治7)年には医療制度や衛生行政に関する各種規定を定めた我が国最初の近代的医事衛生法規である「医制」が発布された。「医制」は、「国民の健康を保護し、疾病を治療し及びその学を隆興すること」を目的としており、その発布は近代的な衛 生行政の第一歩であった。1875(明治8)年には、衛生行政の所管は内務省に新設された衛生局へ移管され、以後、1938(昭和13)年の厚生省の誕生まで衛生行政分野は、主として内務省が担当した。
(2)急性感染症対策(コレラ対策) 我が国は、明治維新後の文明開化政策の中で、積極的に諸外国との交流を行ったが、その結果、コレラなどの疫病が海外から流入することとなった。これに加えて、低劣な都市の衛生環境等も影響して、たびたび疫病が流行したため、明治初期~中期までの衛生行政 の重点はコレラなどの急性感染症対策に置かれた。 明治10年代にはコレラが大流行し、1879(明治12)年には、患者数16万人、死亡者 数は10万人を超え、明治最大規模のものとなった。このような事態に対し、明治政府は 予防体制の整備を急ぎ、同年「虎列刺(コレラ)病予防仮規則」を、1880(明治13)年 には「伝染病予防規則」を定め、統一的かつ恒常的な感染症予防対策が初めて行われるこ ととなった。これらの対策により、コレラの流行は、明治中期以降、落ち着きを見せた (図表1-1-1)。
 「伝染病予防規則」は、その後数次にわたって改正が行われたが、その間の伝染病学の 進歩も著しいものがあったため、同規則の在り方が再検討され、1897(明治30)年に「伝染病予防法」が制定された。 同法によって国内の感染症予防の制度が完成し、その後、しばしば改正はあったが、 1999(平成11)年4月に「感染症予防法」が施行されるまで、国内感染症予防の中心法 規となった。
(3)慢性感染症対策(結核対策) 明治中期の頃からは、都市労働者間での結核の流行など慢性感染症対策が問題とされ始めた。1899(明治32)年より、政府で死亡原因別死亡者数の統計が得られるようになり、 結核による死亡の実態が次第に解明されるようになった(図表1-1-2)。
 このような状況の下、政府は結核予防に関する法令の整備に乗り出し、1904(明治 37)年に「肺結核予防ニ関スル件」が公布された。この法令は、我が国で初めての結核 予防に関する法令である。しかし、その後も結核死亡者数は10万人以上で推移し、大正 中期頃までは増加傾向にあった。1919(大正8)年には、統一的な結核予防法規の制定を望む声の高まりを受けて、「結核予防法」が制定された。この法律の考え方は、急性感染症の予防対策に近く、感染源除去対策に重点が置かれた ものであった。また、1937(昭和12)年には、「結核予防法」の改正が行われ、初めて 結核患者の届出制度が設けられたが、届出対象者は「環境上結核を伝染させる恐れのある 患者」に限定されていた。
(4)戦時下における衛生行政
 1戦時体制への移行 我が国は、1937(昭和12)年の日中戦争の勃発に伴い、戦時体制に移行した。この時 期の衛生行政は、結核死亡率や乳児死亡率等の従来からの課題の解消に加えて、人口を増 加させ、国民の体力を積極的に向上させて国防の目的に資することが求められるような時 代背景を反映したものとなった。
 2保健所法の制定と厚生省の誕生 1937(昭和12)年4月、「保健所法」が制定され、国民一般を対象とする国の健康指 導相談の機関として、保健所が設置されることとなった。保健所は、国民の体位を向上さ せるため、地方において保健上必要な指導を行う所と規定され、1937年度には全国で49 か所、以後5年間で187か所が整備された。 翌1938(昭和13)年1月には、「国民の体力向上」や「国民福祉の増進」等を目的として、内務省から分離する形で厚生省が誕生し、以後、保健所に関する事項を含む衛生行政は、厚生省衛生局の担当となった。 1942(昭和17)年には、それまで地方長官*1の権限であった体力向上についての指示 や療養に関する処置命令の権限等を保健所長が有することとなり、この結果、保健所は単 なる指導機関ではなく、行政措置を行う機関としての性格も併せ持つこととなった。
 3国民体力法の制定と結核対策の進展 1940(昭和15)年に、未成年者の体力向上と結核予防を目標とした「国民体力法」が *1 地方長官とは、大日本帝国憲法時代における府県知事、東京都長官、北海道長官の総称である。
制定され、満17歳以上満19歳以下の男子(1942(昭和17)年以降は、満25歳以下の 男子)を対象に毎年体力検査が行われるようになった。検査内容は、発育及び体格を判定 する身体計測のほかに、疾病異常検診として特に結核に重点が置かれ、この後、長期にわ たって我が国の結核対策の基本となった手法であるツベルクリン反応検査・X線検査の集 団検診方式が採用された。なお、体力検査が結核検診に重点を置いて進められたことに伴い、工場鉱山の労働者に ついて行われていた労働関係法令に基づく健康診断や健康保険被保険者に対して行われて いた被保険者検診等においても、結核に関する集団検診方式が採用されることとなり、結核の集団検診の受診者は1年間に1千万人以上にも達した。
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 【連続シンポジウム】岡山発「わが国の政策課題への処方箋」医療政策と法一医療を取り巻く諸政策を中心として一
 衛生官僚たちの内務省衛生行政構想と伝染病予防法の制定
 小島和貴
 1 はじめに
 岩倉遣外使節団に随行した長与専斎は、米欧における医学教育制度を調査する中で、国家による「国民の健康保護」あるいは衛生行政に着眼した。この時、長与は米欧の衛生行政における医学等学術の「政務的運用」の重要性を見逃さなかったのである。そして帰国後、文部省医務局長として、その後、内務省初代衛生局長として、近代日本の衛生行政の形成に尽力するのであった。
 長与の医学等に基づく学術を「政務的に運用」し、住民の健康保護を進めようとする構想は明治10年以降、コレラ対策を進める中で、中央衛生会が設置されるなど、具体化されていった。伝染病被害は甚大であり、明治12年コレラの流行が終息すると、その翌年には「医制百年史』等にて、「近代的伝染病予防法規がようやく成立」したとして高い評価のある伝染病予防規則が制定されるなど〔2)、法制度の整備が進んだのである。 長与は初代内務省衛生局長として約16年にわたり内務省の衛生行政の形成に尽力した のであるが、この長与が傾注した内務省の衛生行政を引き継いでいくのが後藤新平であった。そし後藤が衛生局長として伝染病対策等にかかわる中で制定されたのが、戦後も活用され続けることとなった伝染病予防法である。そこで本稿では、鶴見祐輔〔3〕、北岡伸一〔4〕、尾暗耕司(5}、笠原英彦(6)、御厨貴〔7}、姜克實、竹原万雄、等の議論に導かれながら、長与と後藤という近代目本を代表する二人の衛生官僚に着目LUO )、長与から後藤に引き継がれていく内務省衛生行政構想を踏まえながら、この伝染病予防法制定の意義を解明することを試みるものである。
 2 長与専斎の衛生行政論と伝染病予防規則の制定先に触れたように、明治4年岩倉遣外使節団に随行し、医学教育制度の調査に当たっていた長与は、米欧の地にあって近代国家における衛生行政の重要性に着眼した 。長与はこの時の模様を次のように『松香私志』に記している。

 国民一般の健康保護を担当する特殊の行政組織あることを発見しぬ、是れ実に其の本源を医学に資り、理化工学気象統計等の諸科を包容して之を政務的に運用し、人生の危害を除き国家の福祉を完うする所以の仕組にして、流行病伝染病の予防は勿論貧民の救済、±地の清潔、上下水の引用排除、市街家屋の建築方式より薬品染料飲食物の用捨取締に至るまて、凡そ人間生活の利害に繋れるものは細大となく収拾網羅して一団の行政部をなし、「サニテーツウェーセン(Sanitaets −wesen )」「オッフェントリへ、ヒギエーネ(offentliche Hygiene)」なと称して国家行政の重要機関となれるものなりき。

 長与は米欧の地における衛生行政について「国民一般の健康保護を担当する特殊の行政組織あることを発見」したとした。長与は流行病や伝染病の予防、貧民の救済、土地の清潔、上下水の引用排除という国民の健康にとって重要となる問題を行政上の問題とし、対応することの必要性を見いだしたのであった 。そしてその本源を「医学に資り、理化工学気象統計等の諸科を包容して之を政務的に運用し、人生の危害を除き国家の福祉を完うする所以の仕組」だとした。長与は国民の健康保護にとって、医学等の学術の知見を「政務的に運用」することが重要であり、その結果 、「人生の危害を除き国家の福祉を完うする」ことに繋がると考えたのである。また長与は、この医学等の学術を「政務的に運用」するにあたり、「あるいは警察の事務に連なり、あるいは地方行政に繋がり」と述懐しているように 〕、警察行政と地方行政との連携の必要性を認めるのであった 。
 長与は明治9年に再び渡米することとな り、笠原英彦が論じるように、当地では「自治衛生の大義」に触れ 、帰国後、この時の経験を踏まえながら自身の構想を「衛生意見」としてまとめ、大久保利通内務卿に提出した(14〕。この意見書の中で長与は、「国民の健康保護」に向けた施策を「介達衛生法」と「直達衛生法」の視点から整理している 。
 まず、「介達衛生法」に関しては、欧米の医制を研究した結果、「内国事務長官」や地方官、さらには 医師や薬舗等よりなる「医学議員」、そしてその議員を束ねる「医事監督」が連携しながら、「人民一般ノ健康二関スル事件」を「商量」するとした。次に「直達衛生法」については、「伝染病流行」を「直達衛生法中ノ最大緊要ナルモノ」と位置づけ、「衛生取締」や「区医」の活動に期待しながら、その対策を促した。しかし明治10年段階では「医事監督」をまかせることのできる「学者」が不足しており、また「各地衛生取締及ビ区医ノ設置未ダ備ハラザル」という状態にあった。そのため長与は 、「悪性ノ流行病アルトキハ施治ノ医者ヨリ之ヲ区戸長二報ジ区戸長ハ之ヲ管庁二申状シ管庁ハ直チニ近傍府県庁并二吾ガ衛生局二報牒シ病院医師ヲ派出シテ施療スルノー途アルノミ」と して、既存の「医師」が地方の伝染病対策にかかわることを期待していたのである 。そ して「医師」の活用を積極的に進め ようとする長与のこうした構想は、明治12年コレラ対策の中で、内務省の衛生行政として具体化されていくのであった。それは中央衛生会の設置に見て取ることができよう。中央衛生会は明治12年コレラ対策の最中にその必要性が認められ、まず設置されることとなったものである。
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