🎑99)─1─江戸の日本漢方はエジプト産ミイラを万能薬として食べていた。~No.210No.211 

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 日本は、中国古典医学を独学で学び独自に発展させ日本漢方を生み出した。
 江戸時代の医療は、医学に基ずく日本漢方と蘭方、非医学的な密教及び山伏など宗教的加持祈祷療法、土着的呪い療法など数多くあった。
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 中国古典医学には、常識では考えられないとんでもない治療法が数多あった。
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 朝鮮医学は、日本漢方と違って中国医学を勤勉に学び忠実に治療を行った。
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 2020年4月2日 msnニュース PRESIDENT Online「江戸の人々が「エジプト産ミイラ」を薬として珍重していたワケ
 河合 敦 2020/04/02 15:15
 © PRESIDENT Online ※写真はイメージです(写真=iStock.com/KriveArt)
江戸時代は鎖国していたというが、実際にはオランダや中国などを通じてさまざまな輸入品が手に入った。中でも“万能薬”として重宝されていたのが「ミイラ」だ。歴史研究家の河合敦氏は「江戸時代の人々はけがや病気を治す薬としてミイラを食べていた」という――。
 ※本稿は、河合敦『禁断の江戸史 教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。
 鎖国中の江戸時代に輸入雑貨屋が存在した
 江戸時代は鎖国していたというが、長崎におけるオランダや中国(明→清)、釜山における朝鮮とは、かなりの大規模な交易をしている。だから、さまざまな舶来品が国内に流れ込んできており、お金さえ出せばそれらを手に入れることができた。
 なんと、唐物屋といわれる、いわゆる輸入雑貨屋も存在したのである。『摂津名所図絵』(寛政八~十年・一七九六~九八)には、大坂の唐物屋の店内が描かれている。それを見ると、西洋の椅子やワイングラス、中国製の壺、孔雀の羽などが所狭しと並んでいるし、客寄せのためエレキテル(オランダの医療器具)の実験がおこなわれている。
 また、寛政の三美人など美人画で有名な喜多川歌麿には「俗ニ云(いう)ばくれん」と題した作品がある。その女性は、袖をまくり上げて二の腕をあらわにし、左手でむんずと蟹を手づかみにし、右手でワイングラスを持って酒を飲んでいる。そんな姿が描かれるほど、舶来品のグラスは一般的なものだったのである。
 そうした輸入品の中で、大きな話題になったのが、享保十三年(一七二八)に将軍吉宗が輸入した動物だ。そう、象である。吉宗は海外の動植物にとても興味を持っており、これ以前にもオランダからアラビア種の馬を輸入、南部馬と掛けあわせて体格の向上をはかっている。
 天皇に見せるため象に「従四位」の官位
 吉宗は中国人の呉子明に白い象を所望したが、それが手に入らなかったようで、呉はベトナムから普通(灰色)の象のつがいを連れてきた。このときベトナム人の象使いも同行。ただ、長崎に上陸した牝象(五歳)のほうは舌のできものが悪化して死んでしまった。翌年三月、牡象(七歳)は長崎を発(た)った。途中の京都で中御門天皇が、どうしても象を見たいと希望した。ただ象は畜生で穢れた存在。宮中に入れることはできないので、なんと朝廷は、この象に従四位を叙したという(異説あり)。
 大名でいえば、城持ち大名に匹敵する地位だ。こうして四月二十八日、象は天皇に拝謁。続いて霊元上皇、さらに貴族たちも見学した。このおり象は、前足をたたんで挨拶したり、みかんの皮を鼻でうまくむいて食べるなど芸を見せたと伝えられる。
 この頃、江戸の町は騒然となっていた。象がやってくるという噂が広がったからだ。そして翌五月、六郷川を舟橋(舟を繋ぎ、板を渡して臨時につくった橋)で渡った象が江戸府内に入ってきた。
 糞を薬にし、死後の骨まで有料展示していた
 江戸っ子は珍獣を一目見ようと、その周囲に群がった。それ以前から象を題材とした錦にしき絵や人形、双六などが飛ぶように売れ、『象志』、『馴象編』といった本まで続々と出版された。いわゆる象フィーバーが起こったのである。
 さて、江戸城内で将軍吉宗は象と対面した。残念ながら、そのときの感想は残っていないが、その後、大名や奥女中の見物も許された。それからの象は、浜御殿(現在の浜離宮)で飼育されることになった。ただ、大食いなので飼育代に莫大な費用がかかり、吉宗も飽 きてしまったようで、民間に払い下げられることになった。
結果、中野村の農民源助らが面倒を見ることになったのだが、源助らは商魂たくましく、象の糞を麻疹・疱瘡の薬だと売りさばき、さらに象を見世物にして拝観料を取ったとされる。さらに象が死んだあとも、その頭蓋骨や牙を「象骨」と称し、湯島天神などで展示して金を徴収したのだった。まさに骨までしゃぶられたわけだ。
 江戸人は薬としてミイラを食べていた
 江戸時代の珍しい輸入品としてミイラがある。関西大学の宮下三郎教授によれば、寛文十三年(一六七三)、オランダ船が約六十体のエジプトのミイラを持ち込んで売り払った記録が残っているという。記録に残っていないものを含めたら、江戸時代に相当多くのミイラが日本に入ってきたのは間違いない。
 二〇一九年十一月から二〇二〇年二月にかけて国立科学博物館で特別展「ミイラ」が開催されたが、わずか三カ月足らずで三十万人を突破する人気である。これまで何度もミイラ展が開かれていることからも、ミイラが日本人に人気だとわかる。
 ただ、江戸時代にミイラが輸入されたのは、展示して見物させることが目的ではない。なんと食べるためだったのである。ミイラを買い取ったのは薬屋や医師たち。そう、ミイラは薬として珍重されていたのである。では、いったいどんな病気に効き目があるのか?
 貝原益軒の『大和本草』(宝永六年・一七〇九)は、日本内外の千三百六十二種の動植物・鉱物の効能などをまとめた大著だが、その中に木乃伊の項目がある。そこには、次のように記されている。
 「打ち身や骨折箇所に塗る。虚弱や貧血に桐の実の大きさに丸めたミイラの丸薬を一日一、二度ほどお湯で服用する。産後の出血、刀傷、吐血、下血のさいに服用する。気疲れ、胸痛、痰(たん)があるときは、酒や湯と一緒に飲む。しゃくり胸痛も同様。虫歯には患部の穴に蜜を加えてミイラをつける。頭痛、めまいは湯とともに服用。毒虫や獣に咬まれたときは粉末にして油を加えて塗る。妊婦が転んで気を失ったときは、ミイラを火で炙って、そのにおいをかがせるとよい。痘疹が出たときは、身体を温めてから服用する。食あたりはお湯で、二日酔いは冷水で服す」
 いかがであろうか、ミイラが万能薬だったことがわかるだろう。
 防腐剤に「天然の抗生物質」が使われていた
 「そんな馬鹿な」と思うだろうが、薬効があるのは確かである。エジプトのミイラには腐敗を防ぐために防腐剤が塗られているが、その主成分はプロポリス。そうミツバチの巣からほんのわずかしか採取できない有機物質で、最高の健康食品として高価な値段で売られている。
 プロポリスは、テルペノイド、フラボノイド、アルテピリンなどで構成され「天然の抗生物質」と呼ばれ、抗菌作用が強く、滋養強壮に効くとともに、ピロリ菌を抑えるので、確かに胃腸炎には効果があるはず。迷信ではなく、本当に病気に効いたからこそ、江戸時代の人びとはミイラを輸入したのである。
 ちなみに当時の人びとは、ミイラが人間の死体だと知っていて服用したのだろうか。じつは、知っていたのである。ただし、なぜ人間がこのような乾燥状態になるのかについてはよくわかっていなかったようだ。『大和本草』では、諸説を紹介している。
 たとえば、砂漠を往来していて悪い風のために人びとは砂の中でとろけてミイラになるという説。けれど著者の益軒は、この説を否定し、「罪人ヲトラヘテ薬ニテムシ焼」きにしたのがミイラだと考えている。まったく見当はずれだが、なかなかユニークだ。
 ちなみに我が国にも東北地方を中心に即身仏の風習があり、アジアでも中国西部や中央アジアを中心に各地にミイラ信仰が残っている。
 人魚や河童のミイラが作られていたワケ
 さて、江戸時代はミイラを輸入したが、じつは日本からもミイラを輸出しているのである。しかもそのミイラは、人間ではなかった。人魚や河童、鬼、龍といった化け物や妖怪のミイラなのだ。
 もちろん、そんな妖怪のミイラが実在するはずもなく、本物ではなくつくり物だった。たとえば、人魚のミイラなどは、猿や猫の頭と鮭や鯉の尾をくっつけ、手をつくって精巧に作成されている。
 ちなみに日本の人魚は、西洋のそれと違って首から下が魚なので、とてもグロテスク。しかも女性より男のほうが多いのが特徴だ。もともとは輸出品ではなく、両国などに林立していた見世物小屋に展示するために職人たちによって創作されたものだといわれる。妖怪のミイラをつくる職人集団がいたのだ。現在でも各地の寺社に少なからず保管されているのは、必要なくなったあと、さすがに廃棄するのには忍びなく、奉納したからだろう。旧家が所蔵しているのは、たぶん珍しいということで購入したのかもしれない。
 そんなわけで輸出品ではないのだが、きっと、あまりに本物らしくつくられているので、外国人が面白いと思って、お土産に買っていったのだろう。とくに医師として来日したシーボルトなどは何体も購入しており、いまでもオランダのライデン国立民族学博物館には、日本から持ち込まれたミイラが保管されている。
 マリー・アントワネットも愛用した日本の工芸品
 このほか、日本の伝統工芸品である漆器も江戸時代に大量に輸出された。とくに螺鈿(らでん)の家具はヨーロッパ貴族にとても好評で、マリー・アントワネットも愛用していた。日本産の陶磁器(主に伊万里焼)も「イマリ」と呼ばれ、中国の陶磁器「チャイナ」に代わって大人気になり、世界中に愛された。オランダ東インド会社の特注を示す「VOC」のロゴが入った伊万里焼も数多くヨーロッパの博物館に現存している。陶磁器を輸出するさい品物を包んだ保護材は、浮世絵の反古紙が多かった。
 これで浮世絵の素晴らしさに目を見張ったヨーロッパ人たちは、日本が開国すると、来日してお土産として購入し、それがマネやゴッホといった印象派の画家たちに絶大な影響を与えた。
 いずれにせよ、鎖国していたとされる江戸時代にも、多くの珍しい品々が輸出入されていたのである。
 ---------- 河合 敦(かわい・あつし) 歴史家 1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院卒業。高校教師として27年間、教壇に立つ。著書に『もうすぐ変わる日本史の教科書』『逆転した日本史』など。 ----------
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 中国医学(ちゅうごくいがく)とは、中国を中心とする東アジアで行われてきた伝統医学である。東洋医学中医学、中国伝統医学とも呼ばれる。近年は欧米でもTraditional Chinese medicine (TCM、伝統中国医学)の名で、補完・代替医療として広く行われている。アーユルヴェーダ(インド伝統医学)・ユナニ医学(ギリシャ・アラビア医学)と共に三大伝統医学に数えられ、相互に影響を与えたと考えられている。
 中国地域に伝わる伝統医学は多様であるが、中華人民共和国の成立以降整理され、中医学の名で統一理論が確立された。そのため日本では、中華人民共和国で整理された医学体系を「中医学」とし、それ以前を「中国医学」として区別する場合もある。少数民族土着の医療との対比において、主に漢族が実践してきたものであると考えることもできる。
 日本では、漢方医学中国医学と同じものと捉える人も多いが、漢方医学は中国から伝来した医学が日本で発展したものであり、重視する理論や診断法、使用する生薬量などに違いがある。日本、朝鮮半島チベットなどの中国周辺の医学は、中国医学の影響を濃く受けて発展した。公文書に漢文を用いた中国・日本・朝鮮半島では書籍の翻訳が必要なかったこともあり、医学書の交流も盛んであった。東南アジアの伝統医学は、中国医学アーユルヴェーダ両方を取り入れたものが多い。

 漢方医学
 詳細は「漢方医学」を参照
 漢方医学(和漢方・和方):日本で発達した中国医学系の伝統医学の呼称である。中国を起源とする伝統医学は、古代から断続的に日本に伝来していたが、大陸で失われた古文献や古い技術も維持されたものがあり、現在では鍼灸・生薬ともに、中国医学とは趣を異にする物に発達している。例えば、中国では腹診は廃れたが、漢方医学においては重視されており、逆に中国で重視される脈診は日本ではあまり重んじられない。薬用量も、中国で使われる量に比べ、生薬を輸入に頼っていた日本の量は3分の1程度である。また重視される文献や理論も異なっている。
 日本の中国医学系伝統医学は、江戸時代に蘭方に対して用いられた漢方または漢方医学という名が、一般的に使われている。漢方医学鍼灸も含む場合もあるが、現在は漢方薬による治療のみをさすことが多い。日本においては鍼灸は医師・鍼灸師がおこない、漢方薬は医師・薬剤師がおこなう分業になっている事もその一因と考えられる。日本では中国や韓国と異なり、伝統医の国家資格は存在せず、専門教育もほとんど行われていない。
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 漢方医学(かんぽういがく)または漢方は、狭義では漢方薬を投与する医学体系を指す。また漢方は、漢方薬そのものを意味する場合もある。広義では、中国医学を基に日本で発展した伝統医学を指し、鍼、灸、指圧なども含む。現在日本の東洋医学業界では、古典医学書に基づく薬物療法漢方医学経穴などを鍼や灸で刺激する物理療法を鍼灸医学、両者をまとめて東洋医学と呼んでいる。
 5・6世紀に中国から日本に中国医学が伝来したといわれる。漢方医学は、明に留学した僧医などによって、金・元の医学が導入されてから徐々に独自性を持つようになり(後世派)、16世紀室町時代以降に発展し、活発な貿易が行われた安土桃山時代に一般に普及した。(これは、日本では生薬の多くは輸入する必要があり、海上ルートの確立が欠かせなかったためである)陰陽五行説の影響の大きい後世派に対し、江戸時代にはこれを批判して実証主義的な古方派が台頭し、のちに2派を統合した折衷派が生まれた。現在の漢方医学にも3派の名残がみられ、特に古方派の影響が大きいといわれる。
 漢方医学では、伝統的診断法によって、使用する生薬の選別と調合を行う。このように処方された生薬方を漢方薬と称す。漢方薬の一部は1976年(昭和51年)から保険薬として収載されており、現在では漢方薬を使った治療が広く行われている。しかし日本には、中国や韓国のような伝統医の国家資格は存在せず、1883年(明治16年)以降、医師国家試験の課目にも漢方医学は含まれなかった。そのため漢方医学の体系的な知識を持つ医師は少なく、漢方薬が西洋医学的発想で使われるなどの問題も散見される。
 明治政府により日本の医療に西洋近代医学が採用され、漢方医学は著しく衰退した。日本の医学教育では、漢方医学を始めとする伝統医学の教育は100年以上ほとんど行われなかったが、2001年に、医学部の教育内容ガイドラインの到達目標に「和漢薬を概説できる」が加えられたことで、全国の大学で漢方医学の講義が徐々に行われるようになってきている。

 呼称
 16世紀以降、西洋医学が日本に導入されて南蛮医学、紅毛医学と呼ばれたが、江戸中期には西洋医学をオランダ人がほぼ独占するようになり、蘭方または洋方と称された。これに対して、中国医学系の従来の医学を漢方と呼ぶようになった。幕末から国学と漢学を尊皇的に皇漢学といい、明治14年ころから和漢学と称されたが、それに伴い漢方も皇漢医学、和漢医学と呼ばれた。日清戦争以降、西洋と対になる東洋という用語が定着したと考えられており、昭和25年に日本東洋医学会が設立されて、東洋医学という呼び方も一般的になった。現在日本の東洋医学業界では、漢方医学(古典医学書に基づく薬物療法)と鍼灸医学(経穴などを鍼や灸で刺激する物理療法)を合わせて東洋医学と呼んでいる。
 中国医学との違い
 漢方医学は、「気血水」「虚実」などの理論や、「葛根湯」などの方剤(複数の生薬の組み合わせ)を中国医学と共有し、テキストとして中国の古典医学書が用いられる。しかし両者には多くの違いがあり、特徴としては具体的・実用主義的な点が挙げられる。
現在の漢方の主流である古方派では、中国医学の根本理論である陰陽五行論を観念的であると批判し排除したため、漢方には病因病理の理論がなく、証(症とも。症状に似た概念)に応じて『傷寒論』など古典に記載された処方を出すのが主流である。証を立てるための診断法としては、脈診を重視し腹診がすたれた中医学とは対照的に、腹診を重んじ脈診はあまり活用されない。また、使われる生薬の種類は中国より少なく、一日分の薬用量は中国に比べて約3分の1である。(これに対して、韓医学朝鮮半島)で使われる生薬量は中程度である。)
 漢方医学の処方は、『傷寒雑病論』(現在では、『傷寒論』(しょうかんろん)及び『金匱要略』(きんきようりゃく)と呼ばれる2つのテキストとして残る)を基本とした古い時代のものに、日本独自のマイナーチェンジを加えたものである。「温病」(うんびょう)など、明から清にかけて中国で確立した理論はほとんど漢方医学には受け継がれていない。
 世界における東アジア伝統医学
 中国医学を源とする医学は、中国(中医学)、日本(漢方)以外にも、朝鮮半島(古くは東医、現在の韓国では韓医学北朝鮮では高麗医学と呼ばれる)、ベトナム(南医学)などアジアの広い範囲で行われている[23]。東南アジアの伝統医学も、その多くがアーユルヴェーダと共に中国医学の影響を受けている。
 中国医学系の伝統医学は、代替医療統合医療の分野で世界的に活用され、グローバル化が進んでおり、標準化が課題となっている。アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアなどでも中国医学系の伝統医学(Traditional Chinese medicine (TCM))は注目され、広く実施されている。オーストラリアは西洋文化圏で最も中医学が発展しており、2012年には全国で中医の登録制度が実施された。アメリカでは50州の内44州で鍼灸が合法化され、カナダやイギリスでも中医診療所は増加傾向にある。アメリ国立衛生研究所(NIH)では、中医学中心に伝統医学の研究が行われ、アジアの生薬療法の研究に大きな予算が割かれている。アジアの伝統医学の研究は2003年の段階で、NIHの中のアメリカ国立補完代替医療センター(NCCAM)と国立がんセンター(NCI)を合わせて250億円ほどの規模で行われており、その成果はアメリカに独占されている。中心地である日中韓の伝統医学は、共有する部分も大きいが理論・用語・処方に様々な違いがあり、政治的な影響もあり足並みはそろっていない。これは、アジアのハーバルメディスン(漢方薬)の標準化を目指すアメリカに対し、アジアの伝統医学にとって大きな不安材料となっている。日本は政府・医学会共に、中国医学の国際化・アメリカ主導の標準化の流れに関心が薄く、中国、韓国、香港、台湾などと異なり伝統医学を扱う政府のセクションは存在しない。国際的にも漢方への理解は低く、外交面で大きく立ち遅れているのが現状である。2019年にTCMが初めて盛り込まれた疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD)を世界保健機関(WHO)が承認した際は物議を醸した。
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