➰4)─2─貞明皇后は関東大震災の被災者を慰問された。〜No.10No.11No.12 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 昔の日本は、現代日本に比べてはるかに危機管理能力がたかく、迅速にして的確な行動を行っていた。
   ・   ・   ・   
 明治後期から大正にかけて、アメリカ・カリフォルニア州を中心に人種差別による排日運動が激しくなり、日系移民に対する嫌がらせが酷かった。
 大正7(1918)年 スペイン風邪大流行。
 大正3(1914)年6月~大正7年11月 第一次世界大戦
 大正7年~大正11(1922)年 シベリア出兵。
 大正8(1919)年3月~大正9年 朝鮮における万歳事件、3・1独立暴動。
 日本人は、一瞬にして狂暴に朝鮮人に恐怖した。
 日本の警察・憲兵隊・軍部は、朝鮮人テロリストによる摂政宮裕仁皇太子暗殺計画の情報を得て、身辺警護と不逞朝鮮人監視を強化していた。
 大正9(1920)年3月~5月 尼港事件。共産パルチザン(遊撃隊)・朝鮮人・中国人からなる約4,300人(ロシア人3,000人、朝鮮人1,000人、中国人300人)は、ニコライエフスク港(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)を襲撃し日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)351人、日本人居留民383人、日本人以外の現地市民6,000人の一部を虐殺した。
 大正12(1923)年9月1日 関東大震災
 上海の朝鮮人テロリスト組織は、テロリスト多数を被災した東京に潜入させた。
 朝鮮人惨殺事件。
 12月27日 虎ノ門事件。無政府主義者・難波大助によ暗殺失敗事件。
 戦後歴史教育、特に権威を否定する人々は、昭和天皇が無事であった事に安堵せず、むしろ失敗し処刑された難波大助の心情を理解し同情している。 
    ・   ・   ・   
 関東大震災時、摂政宮裕仁皇太子は22歳と若かったが、国家元首として、阪神淡路大震災東日本大震災当時の政府・議会、政治家・官僚よりも数段も立派であった。
   ・   ・   ・   
 過激派マルクス主義達は被災地東京で共産主義暴力革命を目論んだが、飾り物ではない裕仁皇太子や貞明皇后ら皇室の精力的な被災者慰問でその隙がなかった。
   ・   ・   ・   
 命を捨てても天皇・皇族・皇室を守るという熱烈な勤皇派・尊皇派は、下級武士、貧しい庶民(百姓・町人)、身分低い芸能の民(歌舞伎役者・旅役者)、山野を渡り歩く異能の民・異形の民(修験者・虚無僧・放下僧{ほうかぞう})、迫害される賤民(非人・穢多)、差別される部落民(山の民・海の民・川の民)らであった。
   ・   ・   ・   
 天皇家・皇室を、崇拝する日本人は2割、嫌悪する日本人は3割、何となく有っても無くても何方でもいいと思っている日本人は5割。
 良い日本人は2割、悪い日本人は3割、中間で付和雷同的な日本人は5割。
   ・   ・   ・  
 天皇・皇室の存在意義を説明できる日本人は、昔は多くいたが現代では少ない。
   ・   ・   ・   
 2020年3月29日号 サンデー毎日「皇后の覚悟  工藤美代子
 貞明皇后からたどるプリンセスたち
 第一部 節度  (三)労う側に立つ
 震災や戦争、そして天皇崩御という難局にあって、皇后としてこの国でどのような役割を果たすべきかを考え続けた貞明皇后。時に厳しく、時にやさしく、そして常に弱い者に心を寄せる気持ちを持ち続けた。
 さらに戦前の天皇は、大元帥として陸海軍を統帥し、戦争指導をする地位にあった。したがって、一般の家庭とは家族の間の距離感がまったく違っていた。昭和天皇には、母親である貞明皇后に対してと同様、兄弟の間にもはっきりとした区別がある。そして、平時と違う戦争末期は何かと難しい人間模様となったのではないか。
 孤独で、寂しかった昭和天皇
 殿下(三笠宮殿下) そこが一番難しいところかもしれません。おっしゃるように日本陸軍と海軍の最高統治者は大元帥である天皇でした。天皇大日本帝国憲法によって日本を統治したのですが、この憲法のモデルがドイツ帝国憲法だったことは注目するべきことです。ドイツ帝国は、絶対主義的なプロイセン王国が中核となって成立した国家です。昭和に入って西園寺公望が中心になって、元老として天皇にアドバイスするようになりましたね。西園寺はイギリス式の『君臨すれども統治せず』といった天皇をイメージした立憲君主制を目指すように見受けられました。結果、昭和天皇は基本的に絶対主義的なドイツ式憲法に準拠しながら、実際にイギリス式に変容せざるを得ないという大きな矛盾を抱えてしまわれたのではないでしょうか。

 だからこそ、戦争末期における貞明皇后の苦悩は深かったのだと理解できる。4人の親王昭和天皇秩父宮様、高松宮様、三笠宮様)もそれぞれ成人していた。皇族として、また軍人として、天皇と意見の相違もあった。
 ──高松宮様は戦争全体の終結に関するようなことを積極的に申し上げておられたようですが。
 殿下 そういう話は聞きました。高松宮は海軍軍令部勤務でしたし、戦争指導のことについての高松宮自身の意見も昭和天皇にお話ししたんで、ご機嫌があまりよろしくなかった、ということです。昭和天皇と私とは私的には兄弟に違いありませんが、公的には君臣でもあり、大元帥と一少佐という関係でもありました。公私を峻別(しゅんべつ)される方でしたから、結果的には孤独で、寂しかったと推察します。それを紛らわす唯一の道が、生物学の研究だったのではないでしょうか。

 弟宮が語る『孤独で、寂しかった』昭和天皇の姿からは、その背後に佇(たたず)む貞明皇后の苦悩もまた窺(うかが)い知ることができる。
 戦前、戦中、戦後を通じての貞明皇后の骨格を考えると、まずは大正天皇の后(きさき)としての責任感、その後は昭和天皇の母宮としての覚悟を示すことに立ち位置を定めたと思われる。すべての時代を通して言えるのは『労(ねぎら)われる側』から『労う側』への変容ではなかったか。
 その『労う側』へ立つための修練が、皇太子妃の時代に培われた。
 まずは、天皇一家を支えるのが最も重要な役割である。4人の親王の母宮として、その育成に心血を注ぐのはもちろんだが、病弱な大正天皇に尽くすのが、とにかく最重要課題だった。そこには当然ながら政治、経済、文化といった各方面への目配りがあった。
 無名の人々にこそ寄り添う
 だが、その先に見据えていたのは、社会において、華やかな脚光を浴びることのない人々に対するシンパシーだった。皇族にしかできない福祉や慈善活動について考え、常に心を砕いた。
 貞明皇后が逝去した当日、最も楽しみにしていたのが勤労奉仕団へのご会釈だった。全国各地から除草や清掃のために訪れる奉仕隊員たちに直接会って労いの言葉を掛ける。その前日の夜には分県地図で、挨拶をする人々の出身地に丸印をつけた。それから、その地方の歴史、地理、産業などについて調査をしておく。だから、いつも午後2時近くまで参考書をひもといていたという。
 翌日になると奉仕隊員たち、貞明皇后が気さくに声を掛けてくれて、自分たちの生まれた故郷についての知識も豊富なのに驚嘆する。この時代であるから、マスコミの報道を通じて、国民が皇后のなさりようを事前に知る由(よ)しもない。せいぜい遠くから一礼できたらと思っていたからだ。貞明皇后はおざなりの会釈の作柄について質問したり、戦没者の遺族がいれば彼らの暮らしぶりについてしみじみと尋ねたりした。
 こうした貞明皇后の流儀は、『国民に寄り添う』ことを超えるものだった。常に希望していた国民との意思の疎通が、戦後になってようやく叶(かな)ったことに対する素直な喜びの表れだった。貞明皇后にとっての国民とは、政治家や外国からの賓客、あるいは財界人たちだけではなかった。農村や漁村、そして都会の片隅に暮らす無名の質朴な人々こそが常に寄り添いたい国民だったのである。
 だからこそ、戦前から国民が困難に直面した場合の行動は素早かった。とりわけ関東大震災の時の動向は際立っていた。
 大正12(1923)年9月1日の正午近くに関東地方を大地震が襲った。東京とその近隣の地域の被害は甚大で、実に死者行方不明者は10万5,000人以上といわれる。その多くが火災による死者だったのは今でもよく知られている。
 学習院初等科の2年生だった三笠宮殿下は、天皇、皇后と共に日光に滞在していた。その日の記憶はきわめて鮮明であった。
  
 殿下 あの時は田母沢(たもざわ)御用邸の付属邸というのがあって、小さい時は夏の間そこで過ごしていました。地震の時は昼食をしていました。午前11時58分でしたか、あわてて庭に飛び出しました。
 ──お庭というのは天皇、皇后様とは別のお屋敷でしょうね。
 殿下 そう、御用邸とは田母沢川を隔てていますから少し離れています。結構揺れたことだけは覚えています。
 その当時、秩父宮は麻布の歩兵第3連隊に勤務していて、土曜から日曜にかけてだと思うんですが、高松宮と一緒に日光に来て私のいる付属邸にお泊まりだったんです。ところが、大震災が起きたので、秩父宮は連隊に帰らなければいけない。毎日、日光駅へ行っては列車が出るのを待っては戻ってくるということで、数日間はそんなことを繰り返していました。
 
 偶然ながら、地震のあった日は昭和天皇を除く3人の親王が両陛下と共に日光に滞在していた。交通手段も通信手段も遮断され、すでに大正10(1921)年の11月に摂政宮となっていた皇太子の、帝都での安否が心配だった。東宮侍従だった甘露寺受長(おさなが)が皇太子の命を受けて2日の午前11時には日光に着いたと、川瀬弘至『孤高の国母 貞明皇后』にある。また、『牧野伸顕日記』を見れば震災の日に、宮内大臣だった牧野が日光に滞在していたのがわかる。これには理由があった。8月24日に首相の加藤友三郎の病死を受けて、後任に山本権兵衛の就任がようやく決まった。それが8月30日である。同じ日に『大に安心せり』と記した牧野は天長節奉祝のため日光へ向かった。31日に両陛下へ拝謁。その後『皇后宮へ拝謁。諸事言上に及ぶ』とあるので、新たな首相に関する説明をしたのだろう。そして、まさに帰ろうとしたところを大地震に見舞われた。この日は旅館に泊まり、翌日東京の途についたのである。
 国難に際しての強い決意
 その晩の午後8時には天幕を張って、新首相の親任式が行われた。牧野はこれに同席して『閣員への面会、本件に付御思召次第を内話』とある。なんと、地震発生の翌日の9月2日には日光の両陛下の『御思召』はきちんと内閣の全員に伝わっていたのである。もちろん、両陛下は安泰であり、3人の親王たちにも怪我などないと報告された。
 今になって思うと、なんという危機管理能力かと驚かされる。
 そして9月29日、貞明皇后は意を決して東京へ向かった。天皇の容態は一進一退であり、とても移動はできなかった。摂政宮がいるものの、なんといってもまだ22歳の若さである。大災害に対する対応への不安があったのだろう。
 すぐ10月になるのだから、秋の装いで出かけたらと勧める女官たちを遮って『被災者はまだ着のみ着のままでいるでしょう。わたくしも今しばらくこのままでいます』と答えた。夏の装いのまま上野駅へ到着すると宮城へは直行せずに、上野公園自治館内の被災者収容所を皮切りに翌日は陸軍第一衛戍(えいじゅ)病院、慶応病院、青山病院をまわり、病人たちを慰問した。それ以後は足を休める暇もなく負傷者が入院している病院、あるいは家を焼かれた難民たちが住む公園のテント村やバラックなどを積極的に訪れ、励ましの言葉を掛け続けた。
 いつしか秋も終わり12月19日になって、沼津の御用邸へ向かうまで、ついに夏服を着替えようとはしなかった(『貞明皇后主婦の友社編)。
 この時点で、皇后の覚悟は定まった。飾り物の皇后ではいない。社会的な弱者を自ら率先して労う側に立ちたい。国難に際して、そう強く決意したのではなかったろうか。」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 貞明皇后1884年明治17年〉6月25日 - 1951年〈昭和26年〉5月17日)は、日本の第123代天皇大正天皇の皇后(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。諱は節子(さだこ)。お印は藤。旧名は、九条 節子(くじょう さだこ)。
 昭和天皇の母、明仁上皇)の祖母、徳仁(第126代天皇)の曾祖母にあたる。元華族。公爵・九条道孝令嬢。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后する最後の例である。
 2020年(令和2年)1月1日現在の皇室で皇統に属する構成員11名(徳仁明仁及び全ての親王内親王、女王)及び元皇族7名(元内親王、元女王)の雑系も含めた最近共通祖先にあたる。
 皇后時代 
 1912年(明治45年・大正元年)7月30日、明治天皇崩御に伴う、夫・嘉仁親王皇位継承践祚)により皇后となる。3年後の1915年(大正4年)11月10日に京都御所にて御大典が行なわれたが、皇后は第4子(澄宮、のち三笠宮)を懐妊中のため欠席した。
 昭憲皇太后の後継者として、蚕糸・絹業を奨励し、自身も養蚕(皇后御親蚕)に取り組んだ。救癩事業(ハンセン病)に尽くし、灯台守を支援したことでも知られる。皇室や神道祭祀のしきたりや伝統を大切にした一方で、野口幽香、後閑菊野など近代女子教育の研究家を相談相手に宮中に招いた。
 日本赤十字により、1920年大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした。皇后は4回、見舞金を下賜している。
 華族女学校時代の恩師石井筆子と、その夫石井亮一が経営する滝乃川学園(日本最初の知的障害者施設)を物心両面から支援し、それは生涯にわたって続いた。1921年(大正10年)に、滝乃川学園が園児の失火から火災を起こし、施設が焼失し、園児にも死者が出たことから、事業の継続を一時断念した石井夫妻に、内旨と下賜金を贈り、再起を促したのも皇后の尽力であった。そのため、学園では、創立者石井亮一・筆子夫妻、理事長の渋沢栄一に加え、貞明皇后を「学園中興の母」として語り継ぎ、今なお崇敬している。
 大正天皇が病に陥り、執務不全後は天皇に代わり皇室を取り仕切り、元老や重臣たちと渉り合った。
 1923年(大正12年)9月15日、関東大震災の被災者を慰問、日本の皇后が被災民慰問をする初のケースであった。
 1926年(大正15年・昭和元年)12月25日、皇后の手厚い看護も空しく、療養中の大正天皇葉山御用邸崩御。摂政を務めていた皇太子・裕仁親王皇位継承および皇太子妃・良子の立后に伴い皇太后となる。
   ・   ・   ・   
 貞明皇后(ていめいこうごう)は、日本陸軍がシベリアの戦場から救い出したポーランド人戦争孤児らが収容された医療施設を訪れ、温かい言葉をかけて労り励ました。
 ポーランド人戦争孤児達は、自主的に、戦場から救い出してくれた日の丸や旭日旗を涙を流しながら仰ぎみ、日本天皇貞明皇后・日本国への感謝から君が代を歌った。
 皇后や皇女達は、上から目線での見下すような哀れみではなく、災難に遭った人々への憐れみを吐露し、無償の愛による温かい手を差し伸べた。
   ・   ・   ・   
 貞明皇后や摂政宮裕仁皇太子達は、仁徳天皇聖徳太子光明皇后などの慈愛の大和心を体現するべく、被災した名も無く貧しく弱い人々寄り添うべく足を運んで励ましの声を掛けた。
 天皇の御威光・御稜威・大御心とは、無私無欲の浄き心であって俗欲に染まった私利私欲の政治権力ではなかった。
 皇道とは、唯一絶対の神聖を排他的に押し通す不寛容な宗教権威ではなく、八紘一宇の大家族主義から名も無き弱い人々への福祉や慈善活動を指す。
   ・   ・   ・   
 世界のボランティア活動は、キリスト教の隣人愛信仰による無償の奉仕であった。
 中華世界(中国・朝鮮)には、無償の奉仕やボランティア活動は存在しなかった。
   ・   ・   ・   
 日本の皇后・皇太子妃・皇族達は、歴史の事実、実際の言動、その振る舞い全てにおいて、中華皇帝(中国皇帝)や朝鮮王家の女性達とは違うのである。
   ・   ・   ・   
 世界の王国・帝国を築いた王侯は、例外なく、武力で侵略して征服した勝ち組の異民族であった。
 故に、国王や皇帝は他国出身者が多い。
 中華(中国)では、漢族中国人の王朝は秦・漢・魏・晋の歴代王朝以降では宋・明のみで、隋・唐・元・清は異民族征服王朝であった。
   ・   ・   ・   
 現代日本で、昭和天皇をとやかく評価・批評・判定できる日本人など誰いない。
 特に、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、学者・教育関係者に、その資格はない。
 歴史力の乏しい現代日本人には、数万年に及ぶ日本民族日本人の歴史は理解できない。
   ・   ・   ・   
 日本人共産主義テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に摂政宮裕仁皇太子(後の昭和天皇)や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
 軍国日本は、天皇・皇族をテロリストから守る為に、不敬罪そして治安維持法・国家反逆罪などを成立させて共産主義者無政府主義者・不逞朝鮮人などを取り締まった。
 日本の敵は、共産主義者無政府主義者を裏で操っているソ連中国共産党などの国際的共産主義勢力とキリスト教系テロリストを裏で支援しているアメリカ・キリスト教会であった。
 関東大震災は、日本を転覆させ天皇制度を廃絶しようとしている反天皇反日本の外国勢力にとっての好機であった。
 それ故に、日本政府はソ連からの災害支援を断り、国内の反天皇反日本勢力による暴力革命を警戒した。
 夥しい人々が犠牲になり甚大な被害をもたらす自然災害が発生しする度に、彼らは天皇統治の日本を破壊する為に暗躍した。
   ・   ・   ・