⚔50)─1─鎖国策は日本を破壊するキリスト教排除が目的であった。〜No.213 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}
 江戸時代のキリスト教抜き限定鎖国政策は正しい選択であった。
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 江戸幕府鎖国策は、世界経済との繋がりがきれて経済的に貧しくなったが、日本人奴隷売買を黙認する中世キリスト教を排除する為には必要悪な政策であった。
 徳川家康豊臣秀吉同様に教経分離の原則から、キリスト教布教抜きの利益優先の交易を望み、カトリックのスペインとポルトガルは拒否し、プロテスタントのイギリスとオランダは受け入れた。
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 徳川幕府は、諸大名が外国と交易して豊かになる事を嫌い、天下を取る為に外国の軍事支援を受けて攻めてくる事を恐れた。
 鎖国とは、外国勢力を国内に引き入れない、介入させない事が眼目であった。
 日本は、ムガル帝国の二の舞にはならずにすんだ。
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 日本には、崇拝・信仰や哲学・思想はあっても、宗教や主義主張はなかった。
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 日本人は明治に近代化されるまで、日本を日本国という国家とは思っていなかったし、自分たちを大和民族日本民族であると信じていなかった。
 日本にはアイデンティティーなどなかった為に、鎖国を断行しなければ国民国家はもちろん近代国家にもなれず消滅した可能性が高い。
 江戸初期頃まで、日本国土には反ヤマト王権反朝廷反天皇意識が土着信仰的に残っていた。
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 西洋諸国は、他国からの移住者が自国の国王・国家元首・首相になる事で急成長した。
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 日本は地理的条件・学問的知識・伝統文化的素養などから、民族の歴史という箍(たが)が外れれば自然な風の流れから西洋ではなく中華(中国・朝鮮・琉球)に向かう。
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 宣教師や修道士によるキリスト教布教は、天使のような敬虔な心の善意であって、悪魔のような邪悪な心の悪意ではなかった。
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 2020年1月2日・9日60周年記念新年特大号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 [近世篇]
 近世篇まとめ2
 鎖国体制の意味
 近世日本の一番大きなエポックは、鎖国(海禁)だと僕は思います。
 もっとも、現代の識者のなかには、いわゆる四つの口が世界に開いていたことを強調する人もいます。
 アイヌとの交易を行っていた松前藩、朝鮮と交流した対馬の宗氏、島津の琉球、それからネーデルラント(オランダ)や中国と交易していた長崎。だから江戸時代は鎖国ではなかったという意見もあります。
 ところが、鎖国否定論の人も、『幕末に開国があった』ことを認めています。『開国』は鎖国の反対概念ですから、開国はあったけれど鎖国はなかったという理屈は、やはり難しいと僕は思います。大局的に見て、『江戸時代は鎖国されていたんやで』と考えていいと思います。
 この鎖国について、僕は学校では『キリスト教の日本への広がりを防ぐため』と習いました。
 それも理由になるでしょうが、自由な交易がなければ、幕府と諸大名の力関係が変わらないというところがキモだったと思います。幕府は450万石、最大の大名の加賀前田家でも100万石ですから、石高の差は圧倒的です。しかし外様(とざま)の大名などが交易で大きな利益を上げると、そのパワーバランスが変わる恐れがありました。
 それから第二のキモは、諸外国が日本が鎖国を長く続けることをなぜ許したのかという視点です。
 中国の明も鎖国(海禁)しましたが、やがて北虜南倭(ほくりょなんわ)が起こりました。
 北方のモンゴル族、南方の倭寇(日本・中国・朝鮮の東南アジア海域で活躍する海民の共同体)に悩まされます。
 中国はお茶や絹、陶磁器など、世界中の人が欲しがるもの(世界商品)を持っていますから、鎖国すると北からも南からも買い物に人々が押し寄せてきます。
 江戸幕府鎖国しても、北虜南倭は起きませんでした。なぜか。世界商品がなかったからです。
 織田信長が登場した頃、石見銀山佐渡金銀山などから銀がたくさん産出されて、世界中から商人がたくさんやって来ました。
 それから100年ぐらいたって鎖国する頃は、ちょうど金銀を掘りつくしたタイミングでした。その後は別子銅山の銅や海産物ぐらいしか日本には売るものがなかったのです。
 『日本には、たいしたものがないで』と思われたので、鎖国を続けられたのですね。
 19世紀に入ると、中国との交易上の地政学的な視点から、世界の目に日本が映るようになります。
 体制維持のシステムとして
 江戸幕府は、国内に江戸を拠点とするいくつかの街道を整備しましたが、軍事上の理由から大河川に橋を架けなかったので、移動には費用と時間がかかりました。
 各藩の海軍力を抑えるために船の大きさを制限しています。
 諸藩が幕府に歯向かえないよう、様々な規制をしていたのですね。
 ところが、各藩の領民支配については、それぞれの領主たちに任されていました。
 裁判にしても、薩摩(鹿児島)の領民は島津家が、加賀(石川)の領民は前田家が
裁いていたのです。
 つまり封建体制の徳川政権は、かなり分権的でした。現代のアメリカ合衆国のように、州の権限が市民の生活レベルではものすごく強い。
 幕末、アメリカなどと結んだ通商条約では、外国の領事裁判権を認めて日本の裁判権を放棄したと批判されますが、幕府の体制そのものが各藩の領事裁判権を認めていました。
 幕府は450万石やでといっても、そのポケットマネーで日本全体を治めようと思ったら、お金が足りません。
 だからしょっちゅう幕府は財政が苦しくなっているのです。
 徳川幕府は『キモのところはオレが仕切るけど、あとは独立採算でよろしくやってや』というシステムでした。封建制というのは、そういうことだと思います。
 鎖国は統治者である幕府が、各藩に対して実力で上回る体制をいつまでも維持するために、必要だったのでしょう。
 鎖国の結果、日本にとって一番不幸だったのは、鎖国の200年の間に西洋で、人類史を大きく変えた産業革命ネーションステート国民国家)という二大イノベーションが起きてしまったことです。
 鎖国が破れたとき
 連合王国(イギリス)の経済学者アンガス・マディソンが『世界経済史概観』という本で、『1990年購買力平価国際ドル』を基準に世界のGDPを計算しています。
 その表によれば、1700年、鎖国が完成した頃、日本をGDPは153億9,000万ドル、世界全体が3,714億2,800万ドルで、日本のシェアは4パーセントを超えていました。
 ところが明治維新直後の1870年には、日本は253億9,300万ドル、世界が1兆1,109億5,100万ドル、日本のシェアは2パーセント台に落ちています。
 江戸時代の日本も多少は成長していましたが、18世紀の連合王国からはじまった産業革命によって、欧米諸国の成長スピードが桁違いだったので、相対的に日本のシェアが半減してしまったのです。
 マディソンさんは、『鎖国政策は安全保障上の考慮によるものであったが、経済成長の可能性に重大な制約となった』と断言しています。
 また18世紀末、連合王国からの独立戦争を戦ったアメリカの市民や、フランス革命でフランス国王を倒したフランスの市民は、メディアの浸透によって、国家に対して『オレたちの国やで』という国民意識を持つようになりました。
 彼らは『自分たちの国は自分たちでつくるんや』と、国政や軍隊に積極的に参加するようになります。
 こうして成立した近代的な国民国家では、中央政府がすべての税金を一元的に集約し、国軍を一元的に掌握します。産業革命国民国家が組み合わされることで、強大な国家権力が生まれました。
 幕府や各藩がそれぞれ財布を管理して、それぞれ武士を食べさせている体制が敵うはずがありません。
 1853年、日本にアメリカのペリーがやってきたとき、幕府の老中首座に阿部正弘という人がいたのはとてもラッキーなことでした。
 阿部正弘は、日本が欧米の列強に遅れをとっていることを正しく理解していたと思います。
 だから阿部正弘が行った『安政の改革』は、明治維新の先駆としてその後の日本の進路に、大きな影響を与えました。
 講武所(陸軍の前身)、長崎海軍伝習所(海軍の前身)、蕃書調所(東京大学の前身)などをつくって、開国・富国・強兵というグランドデザインを描いたのです。
 下級幕臣勝海舟や長崎の商人だった高島秋帆など、身分にかかわりなく有為な人材を登用しました。
 朝廷や大名、江戸の町の人々の意見を求め、五箇条の御誓文の『万機公論に決すべし』を地でいっています。近代国家を目指した明治政府が行った政策のひな形のほとんど全てを、阿部正弘が用意したのです。
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 こうして終わりを迎えた江戸時代は、時代小説などではいまも大人気です。ではその時代に、みなさんは生まれてみたいと思いますか?
 ……」
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 2019年3月号 Voice「経済大大破局に備えよ 
 偉大なる反面教師・アメリカ  吉見俊也
 トランプ登場は『突然変異』ではない。
 レーガノミクスアメリカ分裂の出発点だ。
 なぜ『暴君』が人びとに支持されるのか
 ……
 拙著『大予言』(集英社新書)にも記したが、現在の世界情勢は17世紀初頭に似ている。16世紀、世界中で人口が増えて、経済が成長した。銀の取引を中心に貿易が盛んになり、グローバリゼーションが進んだ。
 しかしそんな拡張期も、17世紀初頭にバブルが弾けるように終わりを告げた。人口増加の頭打ちや、銀採掘に翳(かげ)りが見ることも要因に挙げられる。そのときになにが起きたかといえば、各国が扉を閉じて、壁をつくりはじまたのだ。日本のいわゆる鎖国は極端な例だが、ヨーロッパも、スペインとポルトガルが中心のグローバリゼーションの時代から、フランスやイギリスを軸とするリージョナライゼーション{地域主義)の時代へと転換をはじめた。現在の国際情勢を想起せずにはいられない。」
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 1608年6月 教皇パウロ5世は、崇高な愛の福音を受け入れない罪人である異教徒日本人の魂を救済する為に、全ての修道会に対して異教国日本での布教活動を強化する様に小勅書を発布した。 
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 ローマ・カトリック教会は、キリスト教に改宗した日本人を奴隷にする事を禁止したが、異教徒日本人を奴隷とする事は黙認した。
 キリスト教は、隣人愛信仰で人を助けた面と聖戦で人を見捨てた面の両面を持っている。
 現代日本人は人を助けた面を見、当時の日本人は人を見捨てた面を見ていた。
 国際社会は、日本のキリシタン弾圧は信仰の自由と人の命を侵害した非人道的凶悪犯罪と認定している。
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 宣教師や修道士達は、日本人を奴隷にしない為に布教に力を入れ、日本人を地獄のような戦国時代から救い出そうと慈善活動を進めていた。
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 戦国時代は地獄であった。
 日本人は残酷な人間である。
 日本人は合戦で乱取りをして人を拉致し合戦がなければ盗賊・野党となって人攫いをし、強制連行した人を中世キリスト教会・白人キリスト教商人に奴隷として売って金儲けをしていた。
 戦国大名は、人殺しに使う火薬を購入する為に日本人を奴隷として売りとばして、合戦=殺し合いを止める気はなかった。
 明智光秀は、主君・織田信長をその権化のような大名と見ていた。
 日本とは、何でもありの悲惨な国であった。
 日本仏教は、生まれ付き悪人である日本人の荒んだ心を癒やし救う為に「悪人正機説」や「仏性同体」や「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」などという詭弁を弄した。
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 江戸時代は、誰も助けてはくれない非情で非人間的ブラック社会であった。
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 日本民族日本人は、人間らしく生きる為ならば豊かさを捨て貧しさを喜んで受け入れた。
 「宵越しの金は持たぬ」という着た切り雀的痩せ我慢を「粋」とした。
 金は使い切って蓄財しないのが、日本民族日本人の生き方であった。
 「児孫(じそん)のために美田(びでん)を買わず」
 日本民族日本人の家族観は、親は親、子は子として、頼らず、依存せず、切り離れて個別に生きる事である。
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 強引に言えば、奴隷制度を容認するキリスト教国家との交易を続ける事は、ウイグル人チベット人・モンゴル人・少数民族のジェノサイド・虐殺を行っている中国共産党と貿易を続ける事ににている。
 金儲けの為ならば、自分に関係ない他人の生き死になど無視する、という事である。
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 江戸時代の日本を例えれば、インドのムガル帝国であって、中華帝国=中国や朝鮮王国とは違う。
 もし、鎖国政策で国を閉ざさなければ、薩摩の島津や仙台の伊達ら有力大名が西洋諸国と交易して豊かになって大軍を編成し、天下を取る為に徳川幕府を攻撃する恐れがあった。
 歴史的事実として、イギリスはインド国内のマハーラージャ(大王、藩主、土侯)を領地安泰・金・利益・特権などで味方に付けてムガル帝国を滅ぼし、ビクトリア女王を初代インド皇帝に即位させ、インドを植民地にした。
 もし、徳川幕府鎖国をしなければ、日本はインドと同じ末路を辿った可能性が高い。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として売っていた。
 ローマ・カトリック教会バチカン)は、日本をポルトガルの植民地にすること認めたが、本題は日本をキリスト教国に改造する事であって、必ずしも植民地にする必要を求めなかった。
 スペインやポルトガルの対日占領戦略は、本国から大軍を派遣するのではなく、日本人キリスト教徒を使って反乱を起こして属国にすることであった。
 つまり、日本人キリスト教徒による宗教戦争を起こそうとしたのである。
 日本に於ける布教活動はその為であり、キリスト教に改宗した日本人は20万人~100万人と言われている。
 当時の日本の総人口は約1,500万人である。
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