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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
昔の日本民族日本人は、現代の日本人とは違い、芯が強く、しぶとく、逞しかった。
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哀しみ、切なさ、辛さ、ひもじさから逃げず、寄り添って生きてきた日本民族日本人。
日本民族日本人は、幾度も巨大な災害に襲われるたびに甚大な被害を受け夥しい犠牲者を出したが、「悲劇の主人公」「悲惨な被災者」「哀れな人々」ではなかった。
日本民族日本人は、事実を正確に記録し、思いを素直に正直に日記として記憶に残した。
日本民族日本人は、被害者面して当然の権利のように同情を求めなかったし、御為ごかしのお涙頂戴話を最も嫌った。
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江戸時代の日本は、現代日本より激しく酷く厳しいブラック社会であった。
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日本列島は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
日本民族日本人は、災害や大火に襲われると一目散逃げるが、泣く事よりも笑う事が多く、泣く時は大声で泣かず小声でずすすり泣いた。
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2020年1月30日号 週刊新潮「読書万巻
ベルギー出身の研究家が繙(ひもと)く
外国人たちが見た江戸の災害
『オランダ商館長が見た江戸の災害』 フレデリック・クレインス 講談社現代新書
磯田道史・解説
評者・古谷経衡
近年、幕末を除く江戸時代の研究は、日本人研究者ではなく、むしろ海外出身研究者の手によるものが大きな比重を持ち、また注目されている。それは幕藩体制下で新教国の蘭英(のちに英国は除外)のみに通商権が認められていたからで、特に長崎・出島に居住するオランダ商館長の日記が、オランダ側に大量に現存していることが、海外の研究を発展させてきたのだ。母国人ではない第三者が前近代国家の風俗や事件を記録した資料は、何も増して客観性があり、新発見がある。そうした意味で『犬将軍』と長らく日本側で揶揄され、暗愚な将軍とされた5代綱吉の評価が、ベアトリス・M・ボダルト゠ベイリー氏(独出身)の手によって180度転換したのが好例である。ここでも、論拠とされたのは当時オランダ商館付医師を務めたケンペルの一次資料(日記)である。
本書は、ハーグ国立文書館に収蔵された歴代のオランダ商館長の日記に基づき、ベルギー出身の日本史研究家、フレデリック・クレインス氏が、特に江戸期に頻発した地震、火山噴火、市街を焼く大火、津波等の災害に焦点を絞って執筆した随一の江戸研究本である。驚くべきことに、歴代オランダ商館長の日記をもとにした細密な西洋画は、江戸の大火や地震、富士山噴火を画像資料として描き残しており、これだけでも江戸期の重層的な理解に繋がる。そして本書は、この時代の災害復興に忙殺される日本人庶民の姿だけではなく、あっけらかんと災害をやり過ごす町人の逞しさも描写する。
また災害に何とか人知で対抗しようとする行政の悪戦苦闘を描く行政史の一面も併せて持っている。1655年にオランダ商館長となったブヘリヨンを通じて、オランダ製の最新消火ポンプを輸入。実際、オランダ商館長側の記録にも、将軍・吉宗から『オランダ人はどのように消化するのか』と質問があった記録が残されており、日本でポンプが使用されることになった経緯がわかる。江戸の人々は、ただ呆然と自然の脅威の前に立ちすくむ無力な存在ではなかったことを、本書は教えてくれる。
その他にも縷々(るる)、歴代商館長と幕府行政官との災害に関する連絡と雑感が記されている。第三者による災害の描写は息をのむほどの迫力で、現代的災害の悲惨さと何ら変わるところがない。新書でありながら、江戸という世界を身近に感じ、知る上で第一級の読み物に仕上がっている。」
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徳川将軍は、古式に拘り誠意のない儀礼的朝鮮通信使より世界情勢の情報豊かなオランダ商館長との謁見を重視していた。
日本の目は、中華世界(中国・朝鮮)ではなく、世界・ヨーロッパに向いていた。
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2020年3月7日号 週刊現代「ブックレビュー
『オランダ商館長が見た 江戸の災害』 講談社現代新書
著者 フレデリック・クレインス 解説 磯田道史」
岡本哲志
東インド会社の商館長の『日記』から破壊と再生に励む日本人の姿が蘇る
本書は、オランダのハーグ国立文書館が所蔵する史料、東インド会社のオランダ商館長が残した『日記』を骨子に、主に性格が異なる6人の商館長の克明な体験記おひも解き、江戸の災害を語っている。日記は自国とアジアの本部への報告として義務付けられたものだ。
鎖国する日本で、徳川将軍への謁見が義務として加わる。幕末まで166回も繰り返された将軍拝謁に、彼らは数ヵ月の長旅と江戸逗留で多発する江戸時代の火事や地震をリアルタイムで体験した。本書では、商館長が遭遇した災害と彼らの性格を交差させ、日記の魅力を倍増させる。都市の破壊と再生に励む人たちの姿が現在に蘇る。
特に1章と3章のスト-リー展開は充分のめり込めた。著者が『冷静沈着』と称するザハリアス・ワーヘナールは明暦の大火の渦中にあって、生死の境をさまよう。関東大震災の記録フィルムを幾度か観る機会があり、その画像と同じ環境下に投げ込まれたワーヘナールの体験が生々しく迫る。三陸の地震津波後、数十回現地を訪れ調査した。『勤勉な』ヒデオン・タントが東海道で体験した被災風景と重なり、日記からあぶり出される文面のリアルさに触れる。
本書を読み進めると、幕府が派遣した貿易事務に係る通詞と税関吏を兼ねた役人、『通詞(つうじ)』が道中オランダ人の一切の世話をしていたことに驚く。明暦の大火で死に直面したワーヘナールは『奉行所の役人と通詞たちは自分の安全よりも我々の安全を大事にしてくれた』と感謝する。しかも、一命を落としてまでオランダ人の安全な場所への移動を最優先させた事実は、江戸時代の世襲化された武家社会を実に的確にいいあらわして興味深い。
直接『日記』の価値に辿り着くには、二百数十年にわたり書き綴られた膨大なオランダ語の史料から、核心的な部分を抽出する気の遠くなる作業が伴う。だが本書は『日記』に書かれた新たな歴史発見をより立体的に、しかも容易に入り込める工夫があり嬉しい。歴史の重苦しさを消し去る本書はまさに好著といえる。」
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2021年3月11日 MicrosoftNews sorae「太陽活動が低下したマウンダー極小期には前触れがあった? 年輪の高精度な分析が示唆
左:第24太陽活動周期の極大期を迎えた2014年4月の太陽。右:第25太陽活動周期の開始を告げる極小期を迎えた2019年12月の太陽(Credit: NASA/SDO)© sorae 左:第24太陽活動周期の極大期を迎えた2014年4月の太陽。
右:第25太陽活動周期の開始を告げる極小期を迎えた2019年12月の太陽(Credit: NASA/SDO)
武蔵野美術大学の宮原ひろ子氏らの研究グループは、木の年輪に含まれている炭素の放射性同位体を高い精度で分析した結果、17世紀から18世紀にかけて太陽活動が低下した「マウンダー極小期」と呼ばれる時期に先立ち、40年ほど前から太陽の活動周期が通常よりも長くなっていたことが明らかになったとする研究成果を発表しました。
■マウンダー極小期が始まる3つ前の周期は約16年続いていた
太陽にはおよそ11年の周期で変化する活動周期の存在が知られており、現在は2019年12月に始まった第25太陽活動周期にあたります。研究グループによると、太陽の活動には約11年の基本的な周期に加えて数百年から数千年のスケールで変動する長期的な周期も存在しており、過去1000年間では太陽活動が5回低下したことが樹木の年輪や氷床コアの分析から示されているといいます。
研究グループは今回、望遠鏡の発明以来記録されてきた黒点の観測データが充実しているとともに活動低下の規模が比較的大きかった1645年~1715年のマウンダー極小期について、直前の太陽活動の変化を明らかにするべく、国内2か所で採取されたスギの年輪に含まれている炭素の放射性同位体「炭素14」の濃度を調べました。
地球上に一番多く存在する炭素の質量数は12ですが、質量数が14の放射性同位体である炭素14もわずかながら存在します。樹木が取り込む二酸化炭素(CO)のなかには炭素14からなるものも含まれていて、年輪には炭素14の痕跡が残ります。地球の自然界に存在する炭素14は主に地球の大気へ飛来した宇宙線によって生成されますが、宇宙線の強さは太陽活動の強弱にともない変化するため、年輪中の炭素14濃度は太陽活動を調べる手段として利用されています。
左上のグラフにおいて赤色でプロットされているのが今回の研究で示された炭素14濃度の高精度なデータ、灰色は過去の研究で示されたデータ。右下のグラフで黒い線で示されているのが復元された太陽黒点数の変動を示す(Credit: Miyahara et al.)© sorae 左上のグラフにおいて赤色でプロットされているのが今回の研究で示された炭素14濃度の高精度なデータ、灰色は過去の研究で示されたデータ。
右下のグラフで黒い線で示されているのが復元された太陽黒点数の変動を示す(Credit: Miyahara et al.)
研究グループによると、炭素14の濃度として年輪に記録されている太陽活動の変動の振れ幅は大気の影響により弱められていて、これまでは特に11年周期のような短い周期の変化を精細に復元することが難しかったといいます。研究グループは分析システムの改良と重複測定により従来の約4倍まで分析精度を高め、1年の分解能で炭素14を分析することで、各周期の長さを精密に復元することに成功しました。
分析の結果、1601年から始まった周期は通常の約11年に対して約5年という短さだったものの、その次のマウンダー極小期が発生する3つ前にあたる周期は約16年という異例の長さだったことが明らかになったといいます。さらに、約16年続いた周期から2つ後の周期(マウンダー極小期が発生する直前)も、通常より長い12~15年続いていたことが判明したとされています。
■太陽内部の循環が太陽の活動を左右する重要なパラメータの可能性
太陽の構造を示した図(Credit: JAXA)© sorae 太陽の構造を示した図(Credit: JAXA)
当時の活動周期が通常よりも長かったことについて、研究グループは太陽内部の対流層(太陽の目に見える表面である光球の下にある層)における子午面循環との関連を指摘しています。
研究グループによると、11年周期の活動の長さは子午面循環の速度と関係していることがこれまでに示されているといい、通常よりも長い活動周期は対流層の子午面循環の速度低下を示唆するといいます。18世紀末から19世紀初頭にかけて太陽活動が低下したダルトン極小期(1798年~1823年)では発生直前の活動周期が1つだけ延びていたものの、数十年に渡り黒点数が減少したより規模の大きなマウンダー極小期の場合は3周期(約40年)前から太陽内部の循環に変化が生じはじめ、ゆるやかに活動が低下した可能性を今回の分析結果は示唆するとしています。
研究グループでは、太陽の活動が低下する要因は幾つかあるものの、太陽内部の循環が活動を左右する重要なパラメータであることが今回の結果から強く示唆されるとしており、今後も過去の太陽活動の復元を通して活動の低下・回復の仕組みに関する理解が進むことを期待しています。また、1996年から12年4か月続いた第23太陽活動周期以来、現在の太陽活動はやや低調な傾向にあることから、今後の太陽活動に注視する必要性にも言及しています。
関連:木の年輪をもとに1000年分の太陽活動を連続復元した研究成果が発表される
Image Credit: Miyahara et al.
Source: 武蔵野美術大学 文/松村武宏」
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昔の日本は、公・御上をあてにせず、他人を頼らず、自己責任・自助努力・自己救済が鉄則であった。
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税金としての年貢を納め御上の諸役を強いられていたのは、百姓であって町人ではなかった。
町人は自由人であったが、百姓の自由は制限され、武士には自由はなかった。
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昔の日本人は良い意味での言霊を信じていたが、現代の日本人は悪い意味での言霊にこだわっている。
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昔の日本は、絶えず起きる異常気象によって凶作となり、いつ餓死に襲われるかと怯えていた。
現代日本は、飽食化して食べ物を粗末に扱い、餓死の恐怖を忘れ、山ほどの食べ物を残飯として捨てている。
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自然災害多発地帯に生きる定めの日本人は、災害は防げないものと諦め、被害を如何に減らし(減災)、克服し(克災)、速やかに復旧・復興するかに腐心した。
山田方谷「至誠惻怛」
「義を明らかに為手利を計らず」
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サムライ日本人の美意識とは、幾ら悲しく苦しく切なくとも「顔で笑い心で泣き」、決して心の動揺を相手に見せず、胸に抱いて平静を装った。
本当に悲しい時は、口に出さず沈黙し、全身で泣いた。
そして、何もなかった様に日常を大事にした。
災害を忘却したわけではなく、悲しみや切なさを心の中に仕舞い込み、災難を一種の神として昇華させて向き合ったのである。
日本神道の多種多様な神格を持った八百万の神々は、数多の災害を風化させず後世に言い伝える為に生まれた。
日本の多神教は、過酷な実生活を生きてきた日本民族の叡智の結晶である。
日常生活が破綻したら、泣き言を漏らさず、愚痴をこぼさず、恨みを抱かず、ひたす地道に復旧・復興に一心不乱となって仕事に打ち込んだ。
自然災害多発地帯では、廃墟と化した非日常より有り触れた日常を大事にした。
関東大震災後も、原爆投下後も、敗戦後の焦土となった国土でも、日本人は何もなかった様に「無いなら無いなり」「有れば有るなり」に普通の生活を始めた。
他人が持っていて自分が持っていなくとも、他人は他人で自分は自分と割り切り、妬まず「そんなもの」として諦念して、他人から奪って自分のモノにしよとは思わなかった。
もし本当に欲しければ、努力して持てる様になろうとした。
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日本列島は、過去の歴史を振り返れば、何時何処で未曾有な巨大被害をもたらすか分からない大地震が起きてもおかしくない島国である。
巨大地震が必ず起きる島国に生きる者は、自分達の力で生き抜く為に、自分で考えて工夫して行動した。
座って助けをつ事は、許されなかった。
どんな被害に襲われるかを覚悟して生き、今できる対策を立て行動し、災害から復興する長期的な計画を考えて努力しなければならない。
869年 貞観地震。M8.3〜8.6。
878年 相模・武蔵地震。M7.4。
887年 仁和地震。東海・東南海。M8〜8.3。
1605年 慶長地震。東海・南海・東南海。M7.9〜8
1611年 慶長三陸地震。M8.1。
1615年 慶長江戸地震。M6.5。
1619年 肥後八代地震。
1625年 肥後熊本地震。
1891年 濃尾地震。M8〜8.4。
1894年 明治東京地震。M7。
1896年 明治三陸地震。M8.2〜8.5。
1923年 関東大震災。M7.9。
1933年 昭和三陸地震。M8.2〜8.5。
1944〜46年 昭和南海・東南海地震。M7.9〜8。
日本の太地は、地震と火山で絶えず揺れ動いていた。
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自然災害による三大飢饉
1、第114代中御門天皇。
享保の飢饉。1732年。
2、第119代光格天皇。
天明の飢饉。1782〜87年。
東北全体で10万人以上が餓死した。
3、第120代仁孝天皇。
天保の飢饉。1832〜36年。
・第109代明正天皇。
寛永の飢饉。1641〜42年。
幕府と諸藩は、積極的に農民保護政策をとった。
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薄情にも、豊作となった藩は凶作になった藩に米を送らず餓死を救わなかった。
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江戸時代には、「ヤマセ」(飢餓風)と恐れた北東の寒風で起きる冷夏で大凶作が発生して、大飢饉となり数百万人が飢餓に陥った。
弱肉強食の市場経済で、米商人が大量の米を安価で買い込み、被災地への支援輸送を断った為に数十万人が餓死した。
江戸時代の封建体制下で。幕府は、親藩や譜代大名には僅かでも救い米や救援金を融通しが、外様は潜在的敵である為に軍事力を付けること恐れてそれほどの支援をしなかった。 外様大名は、自己責任で自力救済を強いられ、先祖伝来の家宝や金になりそうな家財を叩き売って資金を造って、大阪方面で米などの食料の買い付けを行った。
米を買い込んでいた豪商や豪農は、大名の足下を見て高値で売るか、飢饉終了後の見返りを要求してた。
各大名は、繰り返し発生する凶作や自然災害に家臣の家禄を削って被災民を救済た上に、参勤交代や天下普請や幕府内の諸役に膨大の出費を強要された為に、頭を下げて豪商や豪農から多額の借金をしていた。
各大名は、財政面で豪商や豪農に支配されていた。
借金付けの中小大名は、質素倹約で、豪商や豪農以下の生活を余儀なくされていた。
その家臣であるサムライは、江戸幕府が成立して以来俸禄が上がる亊がなく、無役であれば役得が就かずさらに悲惨な極貧生活を送っていた。ごく一般的な町人や百姓と同等か、それ以下の惨状であった。
貧しい町人や百姓は、しばしば豪商や豪農の横暴に怒って邸宅を襲撃し、辺り構わず打ち壊した。彼等は、強奪はもちろん、放火も、殺害も起こさなかった。
サムライは、欲の面が張った豪商や豪農の自業自得として見て見ぬ振りをしたが、殺人・放火・強奪・強姦などの人の道に外れた犯罪行為を行えば厳しく取り締まった。
明治新政府は、農村での税収お上げると共に凶作対策として、冷夏に強く多収穫が望める稲の品種改良と農業技術の開発に全力を上げた。
近代的農業政策により、周期的に襲い来る冷夏で凶作となり飢餓が発生しても、最低限の食料生産が可能となり、餓死者を出すことはなかった。
近代的医学や衛生学が普及する亊で乳幼児の死亡が激減し、多産少死時代に突入して、日本の人口爆発が始まった。
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異常気象で飢饉が発生するや。被災民は、地元で藩の救済を得るか、乞食となって江戸・京・大阪などのエタ・非人部落に流れ込んで救済を受けた。
この為、エタ・非人部落の住民は自然災害で増減した。
藩にとって、大事な納税者である百姓は、給与を払い雇っているサムライ以上に救済するべき相手であった。
藩外に大量の百姓が流失しては、税収が減って財政難に陥る恐れがったからである。
自然災害が去った後。百姓が藩外から帰村して農業を再開しなければ、やはり税収は回復しない。 大名は、藩の死活問題として、家臣がどんなに貧困となって悲惨な困窮生活を送ろうとも、コメを生産する百姓の救済に全力を上げた。
飢饉の犠牲で減少した百姓を補う為には、エタ・非人出身者でも田畑を与えて水呑百姓などの零細農家に取り立てた。
昔ながらムラで生計を立てていたムラ人は、新参者の水呑百姓や零細農家を軽蔑し差別した。だが、時間と共に彼等を同じムラ人として受け入れた。
ムラ人は、災害が発生すれば同じ被害を受ける仲間として絆を強く持ち、逃げ出さない仲間として助け庇い励まし合いながら集団としての団結心を強くした。
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江戸には、芝新網町、下谷万年町、四谷鮫河橋が貧民街である。
貧民長屋は、3畳一間で一家が暮らした。
貸布団代が払えないほどの貧民は、長屋でむしろに包まれながら凍死した。
家賃を払えない貧民は、長屋を追い出されて橋の下で寝起きするか、絶望して自殺した。
明治初期における東京市内には約3,000戸の貧民長屋が存在し、約1万人の貧困者が住んでいた。
日本は、明日の命も分からない悲惨な貧民大国であった。
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山川出版社『詳説日本史』「百姓の小経営と暮らしを支える自治的な組織があり、農業生産のうえに成り立つ幕藩体制にとっは、もっとも重要な基盤であった」
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1604年 土佐に巨大台風が上陸。
1605年 東海・南海・西海道大地震。
大分、会津、三陸、京都などに地震が発生した。
1641(42)年 寛永の飢饉。幕藩体制は、百姓から年貢を重要な財源としていた為に、年貢徴収を確保するべく村の復興と百姓の保護に乗り出した。
百姓は全人口の80%以上を占め、武士は約5%でしかなかった。
農村地帯に代官や郡代などを置いて支配させたが、ムラの自治は名主・庄屋といった本百姓に任せた。
慶安の御触書(1649年)「年貢さへすまし候へば、百姓ほど心やすきものはこれ無し」
百姓が力を持ってサムライ権力に楯突かない様に、小農家や零細農家を保護すると共に名主・庄屋の様な大農家を増やさない様に締め付けた。
本多正信「百姓は財の余らぬ様に、不足なき様に治むること道也」
サムライは、百姓と一向宗による土一揆に手を焼いた苦い経験から、百姓と宗教が結束して自立的権力を持つ事を恐れて締め付けを強めた。
下級武士は、安定した生活を送りだけの俸禄を得られなかった為に、内職として、商人や百姓から仕事を分けてもらって何とか生きていた。
サムライは、百姓や町人を差別して愚民と軽蔑しても、内職を止められたら家族を養う事が出来なくなった。
その為に、各地で起きる百姓一揆に手を焼いた。
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1645年から1715年の70年間。太陽活動の低下が黒点が減少し、地球はマウンダー極小期にあった。
北半球全体の気温は0.5度ほど低下して、イギリスのテムズ川がたびたび氷結した。
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1703年 元禄大地震。川崎から小田原にかけて甚大なる被害。
前後して、風水害が多発していた。
1854年 東海大地震。死者数千人。
11月5日 安政南海地震。和歌山県広川町。浜口梧陵は、津波が迫っている事を村人に知らせる為に、収穫間際で稲穂が実っている稲に火を付けて知らせた。
村人達は、命より大事な稲が燃えていたが、火を消す事よりも津波から逃げる為に避難した。
目先の利益に囚われて火を消しに走った村人は、津波に?まれて死亡した。
1855年 江戸大地震。死者7,000人以上。
1856年 江戸で大洪水。死者10万人以上。
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幕府や諸藩は、繰り返し発生する未曾有の自然災害に見舞われるたびに、被災した百姓や町民を救済していた。
サムライにとって、百姓や町民は租税を収める大事な領民であるだけに、死亡したり他領に逃げられて減少されては一大事であった為に、彼らを助けた。
大陸では、不足した労働力は侵略して強制連行した。
島国では、減少した領民の数だけの人間を海外から強制移住させられなかった為に、今いる人間を何としても救済しなければならなかった。
サムライが、百姓や町民を奴隷のように使役し、重税を掛けて搾取する事などできなかった。
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日本の封建領主と領民の関係は、大陸における専制君主と領民との関係とは、本質的に異なる。
世界の常識は、過酷な自然環境ゆえに日本では通用しなかった。
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日本の神道は、現世肯定の現世利益として、自分が今抱いている願望を絵馬にして奉納し、願望を叶えるに近い御守りや御札を幾つも購入し、身近に於いて飾っている。
日本人は、何か困った事があれば直ぐに「困った時の神頼み」としてお参りするが、だが、同時に神の霊験など信じていないしあてにもしていない。
自然災害の多い日本列島は、神頼みではどうにもならないほど過酷である。
自分が置かれている自然災害多発地帯という風土における宗教観や死生観や人生観に於いて、神は尊い存在として敬い奉っているが、神の力など信じてはいないしあてにもしていない。
日本人は、御大層な説教で神を説く者は「嘘」を言い触らす怪しげなののと敬遠し、信仰する為ではなく安心する為に神をお参りする。
日本でキリスト教などの万能な絶対神信仰が普及しないのは、その為である。
真っ当な神経を持つ神道的日本人は現世肯定として、体制不満のマルクス主義者のような無神論者でもないし、現世否定のキリスト教徒のような絶対神信仰者でもないし、労働蔑視の正統派儒教のような神仏嫌いでもない。
日本列島には、四季折々の豊かな自然があるが、同時に四季にあった自然災害と地震や火山といった天災が存在してきた。
如何に神を信じ、神に祈っても、その一つでもなくなる事はなく。
その時が来れば、容赦なく襲来して、甚大なる被害を出して人の命を奪う。
運が悪いと、犠牲者は数千人から数万人に及ぶ。
善人であれ悪人であれ、善い事して人に慕われようと、悪事を働いて人に嫌われようと、自然災害は全ての人に襲いかかる。
自然災害多発地帯に生きる者の宿命として、仕方がないとして諦めて受け入れるしかない。
昔の自然保護は、自然災害を如何にして減らし、被害を如何に最小限に食い止めるかであった。
災害は防げないという認識から昔の対策は、防災ではなく、減災であった。
考えられる事は全て行い、想定外であったとして逃げる事は、論外中の論外であった。
その為に、身分低い百姓までもが後世の子孫の為に記録をしたため日記を付けていた。
江戸時代の日本人の識字率が世界でトップクラスにあったのは、高度な文化が存在したからではなく、今そこに目の前に命の危険性が存在していたからである。
日本語や日本文字はこうして発達し、江戸幕府は災害対策の経験を全国で共有できるように徳川家の文体を各大名に強制した。
創意工夫をこらし、手先が器用で、物作りであるのもその為であり。
外国のモノを物真似するのも、生きる為であって、金儲けのためではなかった。
全ての事は、自然災害から如何にして助かって生きるかの選択にあった。
考えられる災害に対する方策を講じて、災害が襲ってくるのを待つ。
その緊張感をほぐすために、数多くの祭りを行い、多種多様な演芸を行い、歌い、踊り、笑い、そして喧嘩し、喜怒哀楽を出して過ごした。
日本のよく笑う伝統的な文化や芸能は、そうして生まれた。
日本の文化芸能は、朝鮮や中国から伝えられたものではなく、日本固有のものである。
日本民族の精神的支柱が、祭祀王の天皇であった。
庶民は、挙って天皇を慕い敬っていた。
天皇は、中国人でも朝鮮人ではなく、紛れもなく日本人である。
歴代天皇は、全ての神に対峙して直接祈れる唯一の資格者として、神祇地祇と皇祖皇宗に大御宝である庶民の安全と無事を祈り続けた。
将軍・大名・貴族などの支配者は、神仏への祈りは天皇に任せて、今そこにある自然災害から庶民を一人でも多く救い出し守る為に手を動かして陣頭指揮をとった。
彼らは、現代の政治家や官僚や専門家といわれる学者とは全く違うのである。
昔の日本人と現代の日本人は、全く異なる日本人である。
自然風土に於いて、日本には、世界的な独裁者や強力な指導者は生まれなかった。
日本は、戦乱よりも自然災害の方が多く、戦争による死者よりも自然災害による犠牲者の方が遙かに多い。
日本の自然災害は、朝鮮の様な権力闘争や中国の様な戦争を起こしている暇がないほど多発していた。
災害の渦中にいる庶民も、逃げださず被害者を助ける為に自己犠牲的に奮闘した。
天皇制度が、大陸の専制君主制度と異なり、滅びる事なく存続してきたのはこの為である。
日本の身分制度は、大陸の階級制度とは異なる。
生き残る為に、個性だからといって自分勝手に好き放題を許さなかった。
ムラの掟に叛けば、村人の命が危険に晒される為に村八分にし、葬式と火事の二分だけの付き合いとした。
全ての日本人が一致協力して自然災害を乗り切らなければ、生きて行けなかった閉塞された空間。
日本の集団主義は、殺戮と略奪目的の大陸的集団主義とは違うのである。
日本の助け合いは生きるか死にかの切羽詰まった極限状態で行われるものであって、余暇に自己満足的遊び的に奉仕するキリスト教的ボランティア活動とは本質で異なる。
没個性的に世間体を気にするのも、世の為人の為を大事にするのも、その為である。
山野に樹を植えたのは、緑が好きだからではない。
生きて行く為には、自然崩壊を防ぐ必要があったからである。
大陸は自然災害が少なかった為に自然破壊を繰り返して、金の為に木を乱伐して緑なき不毛の大地とし、便利の為に水の流れを好き勝手にいじって枯渇した大地とした。
大陸における自然破壊は、人は自然豊かな土地に移住するだけで脅威ではなかった。
ゆえに、世界的古代文明とは不毛な土地で廃墟の中に捨てられている。
神道的自然保護と大陸の自然保護とは、根本的に異なる。
誰かに助けて貰いたいと願う心の弱い日本人は、苦境を救ってくれない神道を敬いながらも、衆生を分け隔てなく救済してくれる仏教にすがった。
仏教は、排他的な一神教ではなく寛容な多神教的要素を持っていたがゆえに、日本人は受け入れた。
つまりは、駄目元でも多くの神や仏に頼み込めば、一つぐらい助けてくれる神や仏がいるだろうという安易な下心である。
真の仏教からすると、日本の仏教は異端である。
自然災害多発にって甚大な被害を蒙る逃げ出せない閉鎖的島国に於いて、大陸では非常識とされた異端の集まりでなければ生きていけなかった。
それ故に、日本は世界と異なり、普遍的価値観を持つ常識人に幾ら説明しても理解されずらい。
ムラの絆を大事にする日本の常識は、世界の非常識である。
だが。これら日本的なもの全ては、グローバル化によって現代日本から消え去りつつある。
古層の日本は、滅亡の一途を辿っている。
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