🏞81)─3─『新論』。尊皇原理主義による攘夷と鎖国。徳川幕府の制限付鎖国政策とキリシタン弾圧は正しかった。~No.332No.333No.334 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 現代の日本人と昔の日本人は、別人に近い日本人である。
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 正常な日本的民族主義と高度な近代的天皇制度は、低能低俗下劣な右翼思想ではない。
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 天皇の神聖と日本の存続を脅かす危険な宗教勢力が3つあった。
 それは、中世キリスト教会と仏教の浄土真宗日蓮宗であった。 
 明治維新後に起きた廃仏毀釈キリスト教禁教令解除が送れたは理由はここにある。
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 天皇教とは、排他的不寛容なキリスト教の宗教侵略から、日本国の神性・霊性日本民族の心・精神、日本人の魂・霊を護る人工的防波堤であった。
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 武士にとって庶民(百姓や町人)は愚民であった。
 水戸学が恐れたのが、庶民(百姓や町人)が利益・金儲けの為に外国に靡いてキリスト教に帰依して、天皇を裏切り、日本に害をなし、日本を売り飛ばし、日本を滅ぼす事であった。
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 最も天皇を敬愛していたのは、極貧層の非人・エタや山の民・海の民・川の民などの賎民達であった。
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 2017年12月号 新潮45「水戸学の世界地図 片山杜秀
 29 江戸の〝鎖国〟と水戸の〝鎖国
 なぜ、天皇は『もとより大地の元首』なのか。原点は、聖徳太子以来のロジックにあった。
 攘夷とは夷を討ち、追い払う意。夷とは外国であり、特に西洋であった。西洋でも水戸学がとりわけ貶(おとし)めたかったのはアメリカだったに違いない。水戸学の反米的性格は、1825(文政8)年3月に成った会沢正志斎の『新論』で確認される。
 夷とは中国の中華思想に基づく観念である。中華文明圏にとっての外国はおのれと対等なものではない。中華とは中に華がある。外に優れている。華の外は劣位に置かれる。中華は世界の中心であり、中心の外側は東西南北に等しく広がっている。夷も中華の外の全方位に存在することになる。
 夷という字には、ほぼ同義の字も多くある。夷を狭義に用いるときは、東西南北のうち東に居る夷と結び付けられる。東夷という。和語にすれば『あずまえびす』である。北にいる夷は北狄で、同様に西戎、南蛮となる。するとアメリカは日本にとって東夷だろうか。が、水戸学はアメリカを日本の東にある国だとはどうしても認めたくなかった。
 水戸学も一種の中華思想である。天皇の居る日本が世界最高の国柄を有する。そう考える。だが、方位観は中国の中華思想とは異なっている。日本は世界のいちばん東にある国だからこそ世界で最高。劣った世界はすべて日本の西側にある。そのように自国を位置づける。
 なぜなら、水戸学は天皇の世界に冠たる性格を、太陽とつなげて思念するからだ。天皇は太陽神の子孫である。そうであるがゆえに至尊だ。会沢正志斎の『新論』はこう書き出される。『謹按神州者太陽之所出、元気所始、天日之嗣、世御宸極、終古不易、固大地之元首、而万国之綱紀也』
 日本は神の国。太陽が世界に最初に出でる島国だから。太陽は世界に元気をもたらす。その島におわす天皇は天日之嗣、太陽の化身だ。太陽である限り、天皇も不滅である。永遠である。しかも太陽はこの世の光と気を与える宇宙で最上位の存在なので、太陽と等号で結ばれる天皇も世界の頂点に位する理屈だ。
 すると、『もとより大地の元首』とはどういう意味か。これぞ水戸学の世界地図である。というか、まずは西洋の世界地図そのものである。日本はヨーロッパ人の描く世界地図では極東に描かれるのが常。いちばん右端。最も辺境。それを太陽の最初に出る場所と考えてひっくり返す。辺境ではなく元首である。東の果ては太陽の元気を真っ先に受ける土地。だから世界に冠たる場所だ。太陽に特別な価値を認めると、東夷は中華に化ける。古代日本の聖徳太子以来のロジックの反復である。
 水戸学の中の西洋
 『大地の元首』というときの元首も単に最高位の意ではない。世界地図に人体図のイメージを重ねたレトリックである。ユーラシア大陸を人が横に寝た姿にたとえる。すると日本は世界の首や頭に見えないか。顔なら目や耳や鼻もあるだろう。感覚器に恵まれている。この世を最も正しく深く認識できる。
 とすれば、ヨーロッパは何だろうか。正志斎は『脛足の賤』と形容する。中国やインドやロシアが胴体とすれば、西の果てのヨーロッパ半島は足に当たる。足だから智慧がない。ただ動く能力を発達させているだけだ。それが産業文明であり、機械文明であるということだろう。ヨーロッパは足の足たる所以ばかりを膨らませ、航海術を発達させる。『四?を奔走』し、『諸国を蹂躙』する。踏み荒らし、蹴り上げる。理性なき純粋暴力としてのヨーロッパ。これを討たずに何とする。攘夷断行である。
 そして正志斎はついにアメリカに言及する。『海中の地、西夷、名づけて亜墨利加州と曰ふものに至っては、すなはちその背後なり』
 ヨーロッパ大陸を人体とすれば、アメリカは足としてのヨーロッパ半島から大西洋を挟んで遠く切り離されている。西の果ての果て。人体の背後の遙か彼方に孤立してある人でなしがアメリカ。正志斎の位置づけは東夷でなく西夷。極西にあって、人間の知能とはまるで縁のない野蛮の究極が、アメリカ大陸とその地の住人である。アメリカを、日本から見て太平洋の向こうの東の国とは決して認めない。正志斎の断固たる態度だ。
 正志斎も水戸学の面々も、当然ながら地球が円いと分かっている。方位も相対的であり、日本の西にひたすら突き進めば、東から日本に戻ってきてしまうことを、よく理解している。『新論』で正志斎もこう述べている。『地は天中に浮いた球体であり、球に端はなく、どこが中心でどこが端かなどということは、物理的には意味がない』
 だが、正志斎は続ける。『物には自然の形状がある』。この場合の自然とはネーチャーではない。人の世界の中で意味付けられた形態のことである。正志斎は日本という場所の人文地理的な意味を問う。
 天皇の祖先は日本の天地創造神話の時代まで遡れる。そのような国がユーラシア大陸の東のへりにある。そこまで長い血筋の伝統を保って今日までこの世に存在する国は他にない。おまけに祖先は繰り返すが太陽神である。太陽神と血の繋がっている。もちろん日本の更に東に日本と類似した国を発見できるわけもない。それらの理由によって、人文地理的性格においての日本の極東的性格は揺るがない。現代人が単に便宜上引いてるつもりの日付変更線は、文明の優劣を決定する絶対文明線とでも呼ぶべき線として説得力を持つのだ。そんな理屈が展開される。
 『新論』の提示する世界地図は、幕末維新に向けての水戸学の転換を端的に明らかにしている。徳川光圀以来の水戸学は最初から既に尊皇思想であった。が、そこでの天皇の永続性は、天皇自らが自覚的に儒学の考える絶対の正義を日々に実現し続けることによって担保されるのだった。中国で易姓革命が絶えず王朝の交替が止まらないのは、皇帝が正義から逸脱するゆえであり、日本に易姓革命が起きないのは、天皇の徳が危機の時代にもギリギリのところは保たれ続けていたからだ。そう説明するのが、かつての水戸学であった。
 けれど『新論』になると、もうはっきりと違っている。太陽が上り続けるかぎり、天皇もまた不滅。天皇絶対神と化す。天皇を戴く日本の地は世界の頭だとまで宣言する。
 キリスト教を防げ
 後期水戸学の学者たちは本気だったのか。心底から神懸かってしまったのか。そんなはずはあるまい。彼らとて18世紀、19世紀の知識人である。アメリカを日本の東と認めないなどという子供騙しを自ら信じ込むはずはない。この論法はやはり方便だ。日本の『愚民』を西洋にそそのかされる前に囲い込んでしまうために作り上げられた、緊急避難的論理なのだ。『新論』が大津浜事件の直後に慌てて書かれたことからも、それは想像される。
 1824(文政7)年5月、水戸藩領内の大津浜に西洋人たちが上陸してきた。水戸学者たちは最初、彼らをロシア人と疑った。日本を開国させ属国化しようと狙っている最右翼の国はロシア。18世紀末から水戸学者たちはそのつもりで対応策を練ってきた。が、大津浜の異人はイギリス人だった。アメリカ船も日本近海に現れている。ロシア、イギリス、アメリカ、その他。『四?』を奔走する多くの西洋諸国が日本を狙っている。彼らのやり方は『愚民』を洗脳して味方に付けることだ。日本の一般民衆をキリスト教化し、内乱を発生させて、国家を転覆しようとする。それが西洋の侵略の典型的な方法と、水戸学者たちは考えていた。いや、徳川家康も、二代将軍秀忠も、三代将軍家光も、幕府のイデオローグの林羅山も、そう思っていた。だからこそ三代将軍の時代に、いわゆる鎖国がなされた。キリスト教を防げば西洋からの侵略はかなり食い止められる。日本の為政者や知識人に、江戸時代初期から広く共有された認識だった。
 水戸学者たちの中にロシア脅威論を広め、会沢正志斎が『新論』で示すような攘夷の態度の先駆をなしたのは、18世紀末の寛政期に蝦夷地を探索した木村謙次だろうが、彼は1793(寛政5)年の『北行日録』にキリスト教について次のように記している。
 『耶蘇ノ教平帝ヲ以テ真主トシ、嘗テ他神ヲ拝セス、日蓮親鸞カ徒ノ専ラ弥陀妙法ヲ念スル如シ』
 キリスト教を、日蓮日蓮宗親鸞浄土真宗と並べている。3つに共通するのは排他性と破壊性である。日蓮なら何妙法蓮華経親鸞なら南無阿弥陀仏キリスト教なら『父と子と聖霊の御名によりアーメン』あるいは南無天帝。南無は絶対的な帰依を意味する。日蓮妙法蓮華経という経典を、親鸞なら阿弥陀仏という仏を唯一無二とする。キリスト教でも三位一体の神が絶対である。3つの信仰はどれも徹底している。妥協を知らない。日蓮は他の経典を認めない。親鸞阿弥陀仏一本槍である。キリスト教も不寛容な宗教と言われた。神仏混淆、あれもこれものおおらかさはない。排他的である所以である。
 すると破壊性とはどういうことか。たとえば親鸞である。その教えは仏教の中では浄土教の系統を継いでいる。本来の仏教は自力救済であり、自ら悟りを求めて修行せねばならない。悟れば仏になれる。でも悟りは容易ではない。幾ら修行しても悟れぬということはある。高僧でも惑う。仏門に入っても道程は遠い。これでは宗教として行きづまる。もっと容易に救いの道が開けねば信者の獲得は難しい。そこで浄土教が現れた。浄土教の経典『無量寿経』は、阿弥陀仏という無限の慈悲を持つ仏が、悟れない者も救済して、自らのかたちづくる西方浄土にひとりでも多くを引き取りたいと願っていると教える。そこから『無量寿経』は信仰マミュアル本になる。出家修行者となって布施とか精進とかに励み、西方浄土に往生することを常に念じていれば、臨終のとき、阿弥陀仏とその弟子たちが迎えに来ると教える。そこまで出来なくても、僧侶から戒を受け、布施をし、阿弥陀仏を信じ、出家者を厚遇し、寺を建てれば、西方浄土に入れてもらえると教える。
 このように浄土教は仏教の間口を広くした。が、それでも厳しい修行が課せられたり、寺を建てたり、寄進したり、選ばれた人物や有産階級でなくては西方浄土にはなかなか辿り着けそうもなかった。ところが親鸞はこの浄土教を民衆化した。普通の人間、一般の民衆は、愚かしく、弱く、罪深く、自力で悟れるわけもない。そこで、自らの非力、どうしようもなさ、ただ、それだけを自覚する。そして、阿弥陀仏に詫び、救いを願う。その詫びと願いには、瞑想も修行もいらない。寺を建てずとも寄進ができずともよい。人を殺し、物を盗み、淫欲に耽(ふけ)っては、おのれはなんと下らなく罪深いのかとおののき、心の底から阿弥陀仏に詫びる気持ちを一生のうち一瞬でも起こし、南無阿弥陀仏と一度でも唱えれば、それだけで阿弥陀仏の慈悲がその人に及び、その人は、死後、西方浄土に往生できると教える。
 これが現世の位階ある秩序を保とうとする者からすれば、とてつもなく破壊的なのだ。南無阿弥陀仏と唱えれば、阿弥陀仏大慈悲心の前で万人は平等になる。天皇も将軍も大名もない。貴賤がなくなる。平等な人々の作る信仰の共同体が生まれる。アナーキーユートピアの夢を人々の心に紡ぐ。だから一向一揆なのである。浄土真宗は内乱を起こす。浄土真宗の総本山、摂津石山本願寺は、織田信長の最大級の敵であった。
 日蓮もそうである。妙法蓮華経の世界観は浄土教系の経典とまるで違う。釈迦がこの汚れきったように見える地上の現世を、実は仏国土、極楽と化そうとする深い計画を有していると教える。その妙法蓮華経のみを信じよと日蓮は説く。他の教えを捨てろと言う。そこに末法思想が組み合わされる。万人が妙法蓮華経だけに帰依し、釈迦の大慈悲心に思いを致し、この世をユートピアにする社会的実践運動に励まなければ、世界は暗黒にとざされる宣言する。妙法蓮華経の信仰の共同体の前には天皇も将軍も大名もない。破壊的性格を帯び得る点では浄土真宗に負けない。しかも極端に不寛容である。
 木村謙次はキリストを、日蓮親鸞と同等に見た。信ずる者は救われ、信じぬ者や異教徒は地獄に墜ちるというのがキリストの教えである。不寛容である。日蓮宗折伏の姿勢を思わせる。またキリスト教には原罪の思想がある。アダムとイブが絶対神を裏切って禁断の実を食べ楽園を追放され、以来、アダムとイブの子孫であるすべての人間は罪を背負った弱き者である。親鸞の考え方と似ている。さらにキリスト教は神の怒りによる世の終わりを説く。日蓮末法の強調を連想させる。そして教会では信徒は平等である。神の前では人は同じ。天皇も将軍も大名もない。破壊的である。豊臣政権も江戸幕府も秩序を紊乱するキリスト教の危険性を強く警戒せざるを得なかった。そしてついに起きたのは三代将軍家光の代の島原の乱である。
 木村謙次は恐れを込めて天草四郎の時代を振り返る。『外妖幻ヲ假テ其説ヲ衒ス、其教愚人ヲ欺ク……若シ其説ノ差だ是ナラハ天草ノ群賊首ヲ刀刃ノ下二落ストキ南無サンタマリト異口同音二叫フ声山河ヲ動カス二至レトモ天主コレヲ救エス、天帝将士ヲ罰セス是ヨリシテ草賊ノ患永ク止メハ彼国ノ教ハ乃虚言誣妄二アラスヤ』
 キリスト教のおしえは奇蹟の話に満ちている。それを江戸時代の人々が批判しようとすうとき、繰り返される漢字は妖や幻と相場は決まっていた。キリスト教徒の願ったその奇蹟は島原の乱では起きなかった。異教の神は幕府の軍勢を罰せられなかった。木村謙次はそれを以て『虚言誣妄』の邪教と決めつけようとする。しかしピント外れである。一向一揆の殉教者が阿弥陀仏に救われる予定になっているのと同様に、キリスト教の殉教者には天国の門が開かれているのだから。
 鎖国の理由の捏造
 織田信長から徳川家光までの武家政権の歴史は、この三つの破壊的性格を帯びた勢力、日蓮の教えと親鸞の教えとキリストの教えを、如何に抑圧し馴化(じゅんか)するかの歩みでもあったと言える。キリスト教についてはついに力ずくで日本から叩き出した。江戸幕府鎖国政策の最大の理由は、幕府の治世を脅かし、内乱を惹起するキリスト教の排除という一点に尽きるだろう。それは武家政権存続のための基本策であり、17世紀の江戸幕府キリスト教の侵入を武威に依拠して退ける実力を有していた。
 しかし、日本が鎖国をしているあいだに、西洋の科学技術は更新を重ねた。18世紀末からの日本の海防の危機はそうして訪れた。水戸学者は武力による海防が破られるときの思想による国防を考えねばならなくなった。もしも再び日本の『愚民』にキリスト教の布教が行われたとしても、日本人の心が浸蝕されないような排他的信仰を、日蓮でも親鸞でもないかたちで作り上げる。それが藤田幽谷と東湖の父子や会沢正志斎らの作った『天皇教』であったろう。
 この排他的信仰はキリスト教とかなり同型的とも思える。天皇を超時間的・超歴史的に、西洋人にとってのキリスト教の神のようなものと位置づけようとする。現人神のうちの人より神の性質を重視する。その天皇は肉体を有する。キリスト教では、父であり物理的実体のない神と、子であり肉身のキリストと、両者を結び付ける媒介としての聖霊とで三位一体だと言う。現人神の天皇は、神であり人であり、両者は血に宿る神性によって矛盾無く媒介されると解すれば、これも三位一体のロジックで解されるように思える。甚だ大胆かつ乱暴に述べてしまえば、キリスト教の神に太陽神の天照大神を充て、キリストに日本に常に現前する当代の天皇を充て、媒介項として聖霊に血筋を充てると、天皇教の三位一体説が出来上がる。かくして天皇は絶対となり、肉身でありながら歴史的現実を常に含み込みつつなおかつ超越できるという信仰を導き得るのだが、絶対は唯一であってこそ絶対であり、二物あっては相対になるので、他の絶対は絶対に認められない。キリスト教が入ってはいけないことになる。
 ここから水戸学は鎖国の理由を、歴史をさかのぼって捏造する。天皇絶対の観念を守るためにキリスト教は排除されねばならなかったし、今後も鎖国は続けられなくてはならない。ここに尊皇と攘夷は不可欠のものになる。これが尊皇攘夷という四文字熟語の思想的理路であろう。尊皇でありながら西洋キリスト教世界に対して開国するという思想は原理的にはありえない。尊皇は攘夷と鎖国としかセットにならない。寛政期からの水戸学が繰り返し確認してゆくのはこの一点である」
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 徳川幕府は、海外交易特に南蛮・オランダとの交易を続けたが、日本人奴隷交易を正当取引とする中世キリスト教会・宣教師・修道士・白人キリスト教徒商人(スペイン人・ポルトガル人)と主君・国王を殺害して他国から外国人王公を連れてきてイギリス国王に即位させて恥じない不忠者のイギリス人は排除した。
 キリシタン弾圧、島原の乱、そして隠れキリシタンは、こうして生まれた。
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 日本は、決して一方的に悪かったわけではなく、キリシタン弾圧は日本人奴隷交易を撲滅させる為にやむを得ない宗教弾圧であった。
 キリシタン弾圧を信仰の自由を侵害する人権無視の犯罪というのなら、日本人奴隷交易は人道的犯罪ではないというのか。
 徳川幕府は、日本を統治する権力者として、日本人奴隷交易を止めさせる為に暴力的に宗教弾圧であるキリシタン弾圧を行い、キリシタンを見つけ出して処刑した。
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 現代日本は、宗教弾圧でキリシタンを処刑した祖先を告発しながら、白人キリスト教徒商人に奴隷として売られ異国で非業の死を遂げた罪なき哀れな日本人を無視している。 キリシタン弾圧を声高に叫ぶ良心的と言われる現代日本人ほど、醜悪な匂いを撒き散らす嫌らしく穢らわしい日本人はいない。
 日本人による宗教弾圧を声高に非難するが、中世キリスト教会の日本人奴隷交易から目を逸らして口にしない。
 島原の乱天草四郎そして雲仙の陰惨なキリシタン虐殺を取り上げても、日本人が奴隷として海外に売られた哀れな現実をなかったものとして抹消する。
 そうした人の仮面を被りながら人の心を持たない日本人が多数存在する。
 自分は正しいと思い込んでいる日本人ほど、哀れな人間はいない。 
 現代日本にはそうした日本人が蔓延り、神代から受け継がれてきた古き良き日本の心・まこと・まごころ・もののあわれなどは言霊と共に消えうせ、そして死んでいる。
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 14世紀、15世紀の世界の海は海賊が暴れていた為に、商船は海賊船に備えて武器を装備していた。
 日本人奴隷を乗せた商船が海賊船に襲われていた可能性があり、襲われれば殺されるか、連れ去られ売られたかもしれない。
 あるいは、嵐に遭って難破し、商船は沈没して、溺死したかもしれない。
 最悪、アフリカ人奴隷のように航海中に病気になって海に捨てられたかもしれない。
 だが、現代日本人は、売られていった日本人奴隷の事など誰も気にしていない。
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 キリシタン弾圧を非難する現代日本人には無関係だが、奴隷とされた当時の日本人には、西洋・世界に対して報復権や復讐権はあった。
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 大陸の正統性は血筋ではなく武力と財力によるが、日本の正統性は非武力非財力の血筋であった。
 日本民族日本人は、平和・安定・秩序を保つのに最適なのは武力や財力ではなく血筋と考え、その血筋の正統性を日本中心神話・天孫降臨神話の血脈に求めた。
 血筋の源泉は、神徳であった。
 神の血筋を担保とする天皇は、神の裔・神の子孫であり、神聖不可侵として別格の扱いを受けてきた。
 それが、人にして人であらざる尊き存在、現人神の所以である。
 武力や財力は血を招くが、血筋は血を求めない。
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 武士は、庶民(百姓や町人)を金儲けに目の色を変えて奔走する強欲と馬鹿にし、分別や道理が分からず礼節をわきまえない愚民と軽蔑していた。
 庶民(百姓や町人)は、武士を生産しない、ただ偉そうに飯を食うだけの穀潰しと馬鹿にしていた。
 さんぴん侍(三一侍)。
 武士と庶民(百姓や町人)は、お互いに信用せず、見えない所で反目し合っていた。
 その反目関係は、江戸時代から明治時代に引き継がれ、昭和初期・敗戦まで社会に色濃く暗い影を落とし、1980年頃まで消える事なくおぼろながら存在していた。
 2000年頃には、武士的気質が完全に消滅し、庶民(百姓や町人)的気質が日本を覆った。
 武士の生き方とは、「武士は食わねど高楊枝」、「赤貧洗うがごとし」である。
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 日本の制限付鎖国政策は、中国の中華儒教的陸禁・海禁政策や朝鮮の中華帝国盲従的鎖国政策とは本質からして異なっていた。
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 中華世界(中国・朝鮮)に対しては、友好・善隣ではなく、敬して遠ざける外交政策をとった。
 中国人商人の長崎寄港は許したが、朝鮮人商人の寄港は拒絶した。
 つまり、中国人と朝鮮人の自由な入国・上陸及び移動・居住を拒絶したのである。
 朝鮮通信使は、友好使節ではなかった。
 朝鮮通信使の報告書には、日本への悪辣な罵詈雑言が並べたてられている。
 朝鮮通信使の実態は、友好親善使ではなく日本侮蔑使である。
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 2017年11月25日 産経ニュース「【黒田勝弘の緯度経度】「朝鮮通信使」の裏表 日本を警戒、自国に入れず一方通行だった
 パリの本部で開幕した国連教育科学文化機関(ユネスコ)第39回総会(ロイター)
 クイズ風に「日本のメディアで韓国駐在の特派員になった第1号は誰でいつか?」といえば、われわれの業界でも知っている人はそういない。答えは「半井桃水(なからいとうすい)で明治14年(1881年)」である。
 半井桃水という人物は日本文学史に名前が残っていて、五千円札の肖像になっている樋口一葉と一時、恋仲だったことで知られる。青年時代に大阪朝日新聞の通信員(特派員)として初めて韓国・釜山に派遣されたのだ。
 出身が長崎県対馬で、江戸末期に父にしたがって対岸の釜山にあった対馬藩の出先である「倭館」に滞在し韓国語にも通じていた。彼は韓国の古典ラブストーリー「春香伝」も翻訳し新聞に連載した。これが日本の新聞小説の草分けといわれる。
 大阪朝日新聞は当時、新興紙で苦戦中だったが、「今後、朝鮮半島は商売になる」と思っていたビジネスマン(輸入商)の村山龍平が経営を引き受けた後、隣国情報のほか相場情報や連載小説を載せるなどビジネス感覚で面白い大衆紙にして人気が出た。半井桃水起用もその一環だった。
 日本の新聞界はその後、朝鮮半島が舞台の日清・日露戦争で多数の従軍記者を送り込み大受けするが、その現地報道のスタートは対馬出身者による釜山通信員だったというわけである。
 これを思い出したのは最近、江戸時代に日本に派遣された「朝鮮通信使」の記録がユネスコ「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録されたことからだ。「朝鮮通信使」は両国関係がよかった時代の友好・交流の歴史として近年もてはやされていて、珍しく双方の民間団体の協力で登録が実現した。
 「通信」とは「信を通じる」の意味であり、ユネスコ遺産登録もそれはそれでいい話だが、ただこの歴史の実情も「朝鮮通信使」は日本を12回往来したのに逆に日本からの「日本通信使」は一度もなかったという、一方通行だった。
 日本は使節団に対し、対馬や博多から瀬戸内、京・大阪を経て江戸まで往復させ、国をオープンにしているが、朝鮮側は日本を警戒し使節団を自国には入れなかったのだ。そして明治になり大阪朝日新聞半井桃水・特派員も釜山止まりで首都には入れてもらえなかった。
 数百人規模の「朝鮮通信使」には文人墨客から歌舞音曲の一行も加わっていたので好奇心の強い日本人にたいそう人気があった。
 そこで今風に「韓流の草分け」などとヨイショする向きもあるが、江戸中期に一行を接遇した幕府の儒学者新井白石を主人公にした小説『市塵』で作家・藤沢周平は白石に、「過度のもてなし」は彼らに「奢(おご)りと文化的優越感」をもたらしているといわせ、彼らは秀吉時代に攻められた日本への恨みを文化で晴らそうとしている…と書いている。隣国同士の付き合いというのはなかなか難しい。
 話は飛ぶが半井桃水の故郷・対馬は今、韓国資本の進出で買い取られそうという現地ルポが最近、本紙に出ていたが、博多より釜山が近い対馬は昔から韓国への依存度が高い。今はもっと自由な国際経済時代なのだから、韓国資本に買い取られないためには日本人ががんばるしかない。済州島が中国に買い取られかねないと心配している韓国人の知人は「対馬も背後には中国がいるかも…」と言っていたが。(ソウル駐在客員論説委員黒田勝弘)」
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 日本が一番幸せで平和な時代は、中華世界、中国と朝鮮と国交を絶った時である。
 日本が最も豊かな時代は、ヒト(中国人・朝鮮人)の往来を禁じ、モノとカネのみの移動を認めた時である。
 日本にとって中華(中国・朝鮮)は、歴史的事実として反日敵日であって親日知日ではなかった。
 歴史を鑑とする、歴史を教訓とする、と言う事はその歴史的事実を正しく理解するという事である。
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 ヒトの往来を禁じたのは、中国人や朝鮮人が日本人より劣っているという差別意識からではない。
 むしろ、日本人よりも優れている点が多々ある事は認めていた。
 日本人と中国人・朝鮮人とは、水と油の様に馴染めず、友人の様に親しくなれないという事を肌身で感じていたからである。
 反日的敵日的な好まざる中国人・朝鮮人とは付き合わない、それが争いを避ける秘訣であった。
 事実、朝鮮とは奈良時代反日派統一新羅と、中国とは平安時代唐王朝と、それぞれ国交を絶っていた。
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 江戸時代の日本人は、現代の世界中を飛び回り外国語を巧みに話す日本人よりも、外国語が話せず外国に行った事がなくとも国際情勢に通じていた。
 つまり、徳川幕府の制限的鎖国政策をバカな政策であったと否定する日本人は、江戸時代の日本人に比べて劣っている。
 徳川幕府の制限的鎖国政策を否定する日本人は、偏執した中華儒教朱子学)的教養に毒された視野狭窄・思考停止の中国人的日本人であり、真っ当な思考力を持った正常な日本民族日本人ではない。
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 限定的鎖国政策が正しかったのは、西洋諸国が暴力で世界中で行った植民地戦争と原住民虐殺行為を見れば明らかである。
 インド帝国ビルマ王国、ハワイ王国・・・。


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