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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現代の日本人には歴史力がない。
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軍部が昭和天皇に不服を抱いたのは、昭和天皇が貞明皇后の教育方針で育てられたからである。
貞明皇后は、裕仁皇太子を軍人らしからぬ天皇に育てた。
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昭和天皇(ヒロヒト天皇)の歴史的評価は、日本はおろか諸外国・世界では既に定まっている。
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昭和天皇に対する暗殺テロ事件。テロリストは不敬罪で死刑。
大正10(1921)年11月25日 20歳で摂政に就任し(摂政宮)大正天皇の名代として公務をこなし始める。
大正12(1923)年9月1日 関東大震災。
多数の朝鮮人テロリストは、皇族殺害目的で被災地東京に潜入した。
12月27日 虎ノ門事件。虎ノ門附近で狙撃されるが命中しなかった。犯人は死刑。
無政府主義反天皇派日本人は、皇族を暗殺しようと狙っていた。
大正13(1924)年 久邇宮邦彦王第一女子の良子女王(香淳皇后)と御成婚。
大正15(1926)年12月25日 25歳で第124代天皇に即位する。
昭和3(1928)年 台中不敬事件。台湾を訪問していた義父・久邇宮邦彦王を朝鮮人テロリストの朝鮮人趙明河(チョ・ミンハ)が襲撃したが暗殺に失敗した。犯人は死刑。
昭和7(1932)年1月8日 桜田門事件(李奉昌大逆事件)。キリスト教系朝鮮人テロリストによる昭和天皇爆殺失敗事件。犯人は死刑。
犯人の朝鮮人テロリストは、上海・フランス租界の大韓民国臨時政府(現・韓国の前身)内抗日テロ組織(韓人愛国団)のメンバーであった。
日本軍は、報復として上海を攻撃した。第1次上海事変。
朝鮮人テロリストは、キリスト教に改宗していた。
アメリカ・キリスト教会の多くが反天皇反日であった。
日本人共産主義テロリストも、昭和天皇を殺害しようとつけ狙っていた。
4月29日 上海天長節(昭和天皇誕生日)爆弾テロ事件。犯人は死刑。
第一次上海事変停戦を妨害するのが目的であった。
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現天皇家・皇室は、国内外の敵から狙われ、存続が脅かされている。
それ故に、万世一系の男系父系天皇・天皇家・皇室を守るのは中庸の日本民族日本人だけである。
右翼・右派・ネットウハは関係ない。
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天皇が激務や重い責務から逃れて退位する時は、天皇が死ぬ時であった。
昭和天皇が戦争責任を取って退位しなかったのは、当たり前の事であった。
その道理が現代日本人には理解できない。
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日本は世界で信用されていないし、日本人は世界で愛されていない。
天皇家・皇室の男系父系世襲制で女性蔑視だとして、世界から嫌われている。
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国内外のメディア・報道機関は、天皇・皇族の名誉を傷付け、天皇家・皇室を貶めるような、真実無視で皇室バッシングや皇族スキャンダルを量産して流している。
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2020年10月25日号 サンデー毎日「皇后の覚悟
貞明皇后からたどるプリンセスたち 工藤美代子
第四部 賢母
(1) 裕仁親王誕生
結婚後ほどなくしてお世継ぎを産んだ貞明皇后だったが、手元に置いて我が子を慈しむことはできなかった。だが、母として、皇后として、惜しみない愛情を注いだ。後の昭和天皇となる裕仁親王の養育について見てみよう。
親の背中を見て、子どもは育つとよく言われる。それは子どもが親そっくりに育つという意味ではない。ましてや、親が理想とする人物になるということでもない。そうではなくて、子どもは親の何気ない言動の積み重ねを日常的に見ながら育つから、成長過程において決定的な影響を受けることが多い。そして、とかく病気がちだった大正天皇の場合、もっぱら子どもたちは母親の背中に人間としてのロールモデルを見いだしていたのではないだろうか。
明治34(1901)年4月29日に誕生した裕仁親王は、やがて天皇になる運命を担っていた。母親である節子(さだこ)妃が重い責任を感じるのは当然だった。
同年5月1日付の東京日日新聞には『皇孫降誕を奉祝す』という見出しの記事が載っている。そに一部を抜粋してみたい。
『皇太子殿下御齢22に達せられて此頃は御健康も一入勝れ給ふと承はるさへ最と喜ばしき折柄なるに今 妃殿下熊羆の瑞夢に應じて親王を挙げさせ給ふ此親王殿下こそ 天皇陛下第一の皇孫に●らせられ行く行くは正しく一天万乗の位に立ち給ふべき御方なれ而かも 皇太子皇太子妃の両殿下はいづれも御齢に富せ給ふをもて今より後●數々の御子達をもうけさせ給ふ(以下略)』
この記事の意味は明らかだ。もともと病弱だった皇太子は22歳(満21歳)になったのは喜ばしい。妃殿下は子宝に恵まれ男の子を産んでくれた。この赤ちゃんこそ明治天皇の初めての皇孫であり、一天万乗の位を継いで、ゆくゆくは天皇になるお方だ。しかも、皇太子夫妻はまだお年が若いから、これからもっと何人もの子どもをもうけてくれるに違いない、という内容である。
現代だったら、ここまで断定的な書き方をするのは難しいかもしれない。健康状態は個人情報であり、触れるのは微妙だ。また、皇位継承者1位の初めての子どもが男児だからといって、必ずしも天皇になるとは限らない。さらに、皇太子夫妻はまだ若いから次々と子どもを産んでほしいというのでは、まるで女性が子どもを産む機械とでも思っているようだ。それでは皇太子妃の人権はどうなるのかと、世間の激しい批判を浴びかねない。
しかし、明治34年とは、まだお世継ぎを求めることが妃殿下の人権侵害にはならない時代だったのである。16歳で皇孫を産んだ節子妃の達成感も大きかったろう。
迪宮(みちのみや)裕仁親王は、生まれた時の身長が1尺6寸8分(約51センチ)、体重は800匁(約3,000グラム)だった。当時としては普通か、やや大きい赤ちゃんである。きわめて安産であり、節子妃は午後7時ごろ御産所に入り、午後10時10分には元気の良い産声が響いた。
自分の手で育てることの不安
それから現在まで、昭和天皇の生涯については実に多くの書物が刊行されている。史実を綿密に検証したものとしては、小田部雄次『昭和天皇実録評解』『昭和天皇実録評解2』の2冊がきわめて重要で信頼の置ける資料と言えよう。これは平成26(2014)年に宮内庁が公開した『昭和天皇実録』を筆者が丹念に精査し、懇切に評解したものである。同書に依拠(いきょ)しつつ、昭和天皇の幼少期について述べてきたい。
生まれる前から、裕仁親王の養育担当者は海軍中将で枢密顧問官の川村純義伯爵に決まっていた。皇孫の養育にあたり、川村は次のような所信を表明している。『心身共に健全なる発育』『物を恐れず人を尊むの性情を御幼時より啓発』『難事に耐ゆる習慣を養成』『御幼時より英仏其他(そのた)重要なる外国語の御修得御練習』などだった。川村家での養育は明治37(1904)年8月12日に純義が67歳で亡くなった後も、同年の11月9日まで続けられた。
後年になって、語り草となったのは、生後2ヵ月余りで、川村のような謹厳実直で、しかも温厚な人物が養育にあたったからこそ、昭和天皇は一点の私心もない玉のような性格になったという評価があった。だが、その一方で他家に預ける風習を苦々しく見ていた人がいたのも事実である。
明治34年9月16日に裕仁親王を拝診したエルヴィン・フォン・ベルツは、日記に自分の思いを記した。
『5時、川村伯のところへ。この70歳にもなろうという老提督が、東宮の皇子をお預かりしている。なんと奇妙な話だろう!このような幼い皇子を両親から引離して、他人の手に託するという、不自然で残酷な風習は、もう廃止されるものと期待していた。だめ!お気の毒な東宮妃は、定めし泣きの涙で赤ちゃんを手離されたことだろう』(『昭和天皇実録評解』)
実際には、ベルツが思うほど奇妙な話ではなく、日本の皇族、華族やヨーロッパの王室にもあった風習だった。母として節子妃が悲しみを感じなかったとは思えないが、それ以上に自分の手だけで育てることには不安があったのではないだろうか。嘉仁(よしひと)皇太子は病弱であり、『難事に耐ゆる習慣』などを養育できるかどうかわからない。自身も4歳までは実家を離れ高円寺の農家に預けられた経験を、節子妃は忌まわしいものとはとれていなかった。
明治35(1902)年6月25日には次男の淳宮(あつのみや。後の秩父宮)雍仁(やすひと)親王が生まれた。やはり川村邸に預けられることとなった。2人一緒に青山離宮内御座所の皇孫仮御殿に移ったのは、裕仁親王が4歳になろうという時期だった。
この頃には、すでに未来の天皇の資質の片鱗(へんりん)が見えていたようだ。長與善郎が書いた『自分のうけた印象』(著者代表・安倍能成『天皇の印象』昭和24年刊)にはビビッドな観察が示されている。
日露戦争の最中、長與は母と妹と共に迪宮、淳宮兄弟に会える機会があった。場所は神奈川県の箱根宮ノ下、富士屋ホテルの別館。長與は中学生だったという。
『濃く太く秀でた御眉宇の間に、何となく一抹の暗鬱(グルーミー)な翳が漂ひ、それが實に日本皇室特有の御風丰(ごふうぼう)となつてゐる』
『御幼少ながら、子供らしい呑氣さとか、軽佻な位の朗かさとか、がむしゃらさといったものとは、對蹠(たいしょ)的に緣の遠い、どこかお内氣なといふ程の荘重な威が既に具(そな)はつていらつしゃる』
長與は一見しただけで未来の天皇の人柄に対して、信頼や愛着の気持ちが湧くのだが、同時に『このお方の御運命はどうも明るく、御幸運なものらしくない』
とも感じている。これは昭和20(1945)年の敗戦から程ない時期に書いた文章だからかもしれない。
しかし、川村が全身全霊を込めた養育が、功を成したのは間違いなかったようだ。裕仁親王の保母だつた足立タカ(後の鈴木貫太郎夫人)によると、『川村さんは皇孫さんを度を越して立派な御方にお育てしたいというので非常に苦心をされた』(鶴見俊輔、中川六平編『天皇百話・上の巻』)とのことである。
国家元首としては心もとない
皇孫仮御殿に移ってからも、自由奔放な弟宮に比べると、裕仁親王は抑制の利いた思いやりのある子どもだったらしい。
『幼少時代の裕仁が、以後も女系の曾祖母である中山慶子、祖母である柳原愛子と親しく頻繁に接していたことが、「実録」の随所に描かれている』(『昭和天皇実録評解』)とあって、親族からの愛情もたっぷりと注がれていた様子がわかる。
立場上、そうしばしば会えなかったが明治天皇が皇孫を可愛がることは有名で、玩具などもわざわざ外国に注文していた。厳しい明治大帝の前に出ると、たいがいの人が緊張して小さくなってしまうのだが、裕仁親王だけは平気で、『おじじさまこれ拝見』などと置物を手にして言ったという(『天皇百話・上の巻』)。
淳宮、光宮({てるのみや}後の高松宮宣仁{のぶひと})と弟も増えて、節子妃のピアノに合わせて子どもたちが歌を歌い、嘉仁皇太子も加わる情景は、まさに幸せを絵にかいたような家庭だった。
明治45(1912)年、裕仁親王は明治天皇の崩御により11歳で皇太子となる。そして、陸軍歩兵少尉、海運少尉に任官した。これは当時の皇族身位令で満10歳に達したら陸軍及び海軍の武官になることが義務づけられていたためだった。
動物や植物に興味を示し、理科や歴史は好んだが、小説類には関心を示さなかったと『昭和天皇実録評解』にはある。どちらかというと理系で、情緒にあまり偏りのない青年に育ってゆく様子が読み取れる。
皇太子となってからは弟たちと離れて東宮仮御所に住むようになったが、卓上電話が設置され、毎夕10分ほど弟たちと会話をした。これは現代ならパソコンでメールができるようになったのと同じほど画期的なことだったかもしれない。その2ヵ月半後には御殿内で扇風機を使用し、無線電信玩具で遊んでいたというのだから、なんとも最先端の生活ぶりである。
しかし、大正時代に入ると裕仁親王の身辺も忙しくなったようだ。『昭和天皇実録評解』の著者は次のように書く。
『「実録」には、少年裕仁の人格的な未完成部分もいくつか記録されている。少なくとも皇太子時代の裕仁は、軍部や政界の重鎮たちからは将来の大元帥、国家元首としていささか心もとなく思われていた面があり、そのため、学習院初等科卒業後も東宮御学問所を設置して学びを継続され、さらには欧州旅行での「帝王教育」も計画されたのである。その間も、裕仁は言葉が少なく(吃音{きつおん}ぎみであり、近眼で、姿勢が悪いことは「実録」にも記されており、そうしたことからくる心的要因もあったのかもしれない)、できるだけ多くの軍人・官僚・政治家らと接することが求められた』
皇太子の教育方針を巡った対立
あまりにも多くの大人たちの期待や思惑に囲まれて育つ皇太子が気の毒にも見えてくる。しかし、それが未来の天皇の宿命でもあった。
その中で節子皇后は傍観していたかと言えば、決してそうではなかった。川瀬弘至『孤高の国母 貞明皇后』の中に、節子皇后と山県有朋(元老・陸軍元帥)との間に教育理念の衝突があったことが記されている。
大正7年のある日、山県が東宮武官長の奈良武次に言った。
『東宮(裕仁皇太子)もやがて大元帥となられる。ついては先帝(明治天皇)の如く、御自ら部隊を指揮された如くに御教育申し上げねばならない。東宮御所での御生活はどうなっておるのか。たまには射撃訓練や鴨猟などもさせるべきだ』
山県の意向を奈良は東宮大夫の浜尾新に相談した。すると数日後に浜尾から返事があった。
『山県閣下のお考えも分かるが、射撃訓練や鴨猟には皇后陛下が反対しておられる。皇后陛下は、「帝王のお徳は仁愛でなければならない、徳は禽獣にも及ぶ」として、東宮に射撃や鴨猟を進めないでほしいという思し召しだ・・・』
これ以外にも山県は皇后と皇太子の教育方針を巡って対立することは多々あったという。山県は日清、日露、第一次世界大戦で勝利を収め、世界の列強の仲間入りを果たした日本の軍人であり政治家だ。国家のリーダーとしての攻撃姓を皇太子に求めるのは、時代の流れと言えよう。一方母親として、節子皇后は徳を重んじ、殺戮は禽獣といえども嫌った。後の昭和天皇の人柄に関しての評価は、平和主義、民主主義的であり、穏健な考えの持ち主であったというものが多い。
それはやはり、母親の万物に対する優しい思いやりが影響を与えたからだろう。しかし、そんな節子皇后が初めて挫折を味わったのが、皇太子の結婚問題だった。常にポジティヴであり、病身の大正天皇にも力の限り尽くした皇后は、いつしか宮中で大きな権力を手にしていた。それでも、大切な長男である天皇となる息子の結婚は思いのままにならなかったのである。」
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平成12(2000)年 東京で開廷した「女性国際戦犯法廷」は模擬裁判であったが、国内外から反天皇派が集まり昭和天皇とA級戦犯達を被告人死亡で弁護士なし弁護証拠なしの一方的審判で「有罪」判決を下し、世界に向けて宣言した。
日本のテレビや新聞紙などのメディア・報道機関は、無批判で「昭和天皇有罪判決」を報道した。
安倍晋三ら少数の政治家や保守派は批判した。
日本全体では「昭和天皇有罪判決」を無言で受け入れた。
共産主義者、左翼・左派、反天皇反日的日本人達は、「正義が示された」と歓喜して受け入れた。
現代の日本人とは、命を捨てても天皇・皇室を守ろうとした昔の日本人とは違うのである。
それが、現代日本、現代日本人の偽らざる本音である。
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連合国(国連)は、昭和天皇をヒトラーと極悪非道の戦争犯罪者として認定し、一部では死刑などの極刑を求め、非人道的天皇制度を廃絶し、戦争の始めた天皇家・皇室を消滅させる事を要求していた。
国際世論は、君主制で遅れた日本を、進んだ人民による自由と民主主義の国家に改造すべきだと訴えていた。
新生日本の為にも、昭和天皇に対する厳罰が求められた。
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昭和天皇は、通訳なくイギリス国王や諸外国の元首や癖のある大使らと臆する事なく高度な会話が自由にできるほどに英語が堪能であった。
戦前の憲法が定める天皇主権に基づく最終決定権者で、朝起きてから寝るまで寸暇もないほどに公務が詰まり、国家元首として政治や経済や社会の国内状況や外交の国際情勢そして、大元帥として戦争の戦況推移や作戦の説明を理解し、国民の最高位保護者として関東大震災の被災地や空襲の焼け野原に立ち、ローマ教皇に匹敵する最高位祭祀王であった。
激務な日々の中でも、日本を代表する文人として才能溢れる優秀な歌人であり、科学者として世界の専門家の間に名が知れ渡った生物学者であり、個人としてゴルフ・乗馬などの多趣味を楽しんでいた。
昭和天皇に匹敵するマルチ的に活躍する日本人は、戦前でも、戦後でも、まして現代でも、如何なる高慢ちきな高学歴出身知的エリートにもいない。
誰一人としてその足下にも及ばない。
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英米派親ユダヤ派の昭和天皇は、皇室外交としてローマ教皇やイギリス国王などの西欧諸国の王家とのつながらりを重視し、ソ連・共産主義のスターリンやナチス・ドイツのヒトラーなどの独裁者を嫌っていた。
昭和天皇は、マルチの才能を駆使して日本国の平和と発展、日本国民(日本民族)の安寧と幸福の為に務めていた。
皇室外交の秘密として、親ユダヤ派の明治天皇の御代からアメリカ大統領に定期的に書簡を送りアメリカとの友好関係を絶やさないように腐心していた。
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昭和天皇が偉大だったのは、嘘、誤魔化し、言い訳、狂言、詭弁、不誠実などを見苦しく醜態を晒しながら吐かず、誹謗中傷に反論・抗弁・泣き言をせず、起きた事については自己弁護せず、弱音を吐かず、愚痴を控え、死を覚悟し、勇気を以て踏ん張って責任から逃げず、他人に押し付けず・擦り付けず、御崩御されるまで不動の信念で義務を全うされた事である。
今どきそんな日本人、特に高学歴出身知的エリートと自慢する政治家・官僚そして経営者・企業家、メディア・報道機関、学者などにはいない。
昭和天皇を踏ん張らせたのは、2000年以上継承されてきた血筋としての世襲制天皇家・皇室の遺伝子である。
つまり、昭和天皇を正しく評価できる現代日本人がいない、と言う事である。
その証拠が、女系母系天皇即位・女系母系宮家新設を推進する日本人の増加である。
現代日本人は「天皇の帝王学」と軽々しく語るが、その実、現代日本人は「天皇の帝王学」を正しく理解する能力がない。
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左翼・左派を中心とする反天皇派日本人達は、天皇制度廃絶と天皇家・皇室消滅の為に、崩御した後も天皇の戦争責任及び天皇の戦争犯罪で昭和天皇を極悪の天皇と子供たちに教えている。
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現代の日本人は、悪い事はしないが良い事もしない。
当然、昭和天皇が行ったような人種差別反対・民族差別反対、避戦平和主義・積極的自衛戦争、歴史的人道貢献はしない。
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明治天皇は日清戦争・日露戦争に不同意であったし、大正天皇も如何なる戦争には賛同していないし、昭和天皇も日中戦争や太平洋戦争を命じてはいない。
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大欽定憲法である日本国憲法法は、天皇の権威を神聖不可侵と定めた。
討幕を成功させた伊藤博文ら下層階級出身の反逆者達は、天皇が旧佐幕派や敵対者に奪われない為と後醍醐天皇の様に親政で暴走しないように、天皇の権限を法律の中に封じ込めた。
同時に、天皇制度、天皇家・皇室を民族伝統文化として未来永劫存続させる為に安定継承を可能し、南北朝時代のように第2・第3のニセ天皇の出現を封じ込める為に、皇室典範で神話に基づく血筋・血統のみを唯一絶対の正統根拠とする万世一系の男系父系天皇(直系長子相続)を定め、戦乱・動乱・叛乱・謀反・混乱の原因となる女系を皇統・本流から排除した。
鎌倉幕府は後醍醐天皇の勅命で滅亡し、足利幕府は天皇に見放されて消滅し、徳川幕府は明治天皇の勅命で滅亡した。
日本の平和・安定・幸福の為には、天皇に穏やかな太陽の様な無心・無欲・無私の御威光を認めても、俗欲・個人欲・私欲を生み出す俗悪の政治権力と宗教権威を与えない事であった。
その為にも、皇統を優先し血筋・血統を消滅させる女系は忌避された。
日本民族中心神話・天孫降臨神話・高天原神話の最高神である女性神・天照大神の直系の子孫という血筋のみを正統とする血統・皇統を神聖不可侵とすれば、国内外の誰も万世一系の男系父系天皇を滅ぼしも天皇には即位できない。
正統天皇と正当天皇は違うのである。
日本民族伝統文化からすれば、女系母系天皇は正当偽天皇であって正統真天皇ではない。
女系正当偽天皇が誕生する時、日本民族中心神話・天孫降臨神話・高天原神話の最高神である女性神・天照大神の民族物語という伝統民族文化は消滅する。
日本天皇家・ヤマト大王家の科学的生物遺伝子(Y染色体)は、数千年前の弥生時代に定まったが、その源泉は数万年前の縄文時代に生まれている。
女系母系天皇即位・女系母系宮家新設を推進する現代日本人は、全ての事を正しく理解した上で行動している。
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英仏百年戦争は、女系継承権問題で勃発した。
イギリス・スペイン戦争は、エリザベス1世の女王正統性問題で起きていた。
オーストリア継承戦争は、女系領土継承問題で国際戦争に拡大した。
西洋諸国の諸王家や有力貴族は、政略結婚を繰り返し、国家の枠組み・国境・民族・言語・文化・宗教(カトリック教、プロテスタント、東方正教会、その他)を越えて血のつながった姻戚関係にある。
世界史に於いて、女系国王即位は正統性を巡る戦争に発展する危険性がある為に、国王即位は男系のみで、王位継承権も男系に限られていた。
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日本国内でも、左翼・左派・ネットサハ、反天皇反日的日本人達らを中心として昭和天皇の戦争犯罪と戦争責任を糾弾する歴史教育活動が盛んである。
国連の諸機関は反天皇反日の巣窟として、正統な男系天皇家の女系化改造できなければ女性差別として廃絶を求めている。
反天皇反日活動を後ろで動かしているのは、中国共産党と韓国そして左翼・左派・ネットサハの日本人である。
国内にも、反天皇反日的国際世論に従おうとする空気圧・同調圧力に弱い日本人が存在する。
特に、中国共産党に忖度する親中国派・媚中派の活動は活発である。
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昭和天皇の歴史的人道貢献とは。
東条英機・松岡洋右・板垣征四郎・松井石根らA級戦犯達は、親ユダヤ派で人種差別反対の昭和天皇の大御心・天皇の御稜威に添うべく、ヒトラーから逃げてきた数万人のポーランド・ユダヤ人難民を自己犠牲と無償で助け、上海ゲットーに保護し反ユダヤ派・人種差別主義者らのホロコーストから守った。
戦後、ポーランド・ユダヤ人難民を助けた主要な日本人幹部は戦争犯罪者として処分された。
それが、国連・国際司法機関、そして国際法、戦時国際法の実態である。
戦前の日本が暴走した国際的孤立の道、世界に対する無謀な挑戦とは、昭和天皇が志した人道貢献・人種差別反対・避戦平和主義の実現であった。
それが、正統な男系天皇家・皇室に流れる、仁徳天皇や光明皇后からの「弱い者に対する慈愛」という皇道である。
天皇家・皇室の「慈愛」は、キリスト教の「博愛」、仏教の「慈悲」、儒教の「仁徳」、現代の「人権・道徳」に対して遜色ない信仰・哲学・思想である。
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昭和天皇は、生物学者として、原爆は無差別大量虐殺兵器であるとして、研究・開発・製造に猛反対し、即刻中止する事を東条英機首相や杉山元参謀総長等に厳命した。
原爆を研究開発せず・製造せず・所有せず・使用せず、は昭和天皇の意思であった。
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大正天皇の后であった貞明皇后は、関東大震災の被災者やシベリア出兵におけるポーランド人戦災孤児達に慈愛の情の深さを示した。
ポーランド人の親日・知日は、貞明皇后が示した慈愛の振る舞いによる。
日本陸軍は、シベリアでロシア人避難学童やユダヤ人避難民を助け出していた。
明治天皇の后であった昭憲皇太后も、女子教育・社会事業など数多くの貢献をおこない、病人や怪我人など弱い者に対する慈愛は国際社会でも高く評価された。
が、現代日本は正しく評価しないし、暗黒の行為として歴史の闇に葬った。
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昭和天皇を最も悪用している日本人が、反ユダヤ派で人種差別主義の右翼・右派・ネットウヨクである。
彼らに、昭和天皇の御名を語る資格はない。
戦前の日本を戦争へ暴走させたのは、人の命を軽視する狂信的な右翼・右派である。
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キリスト教系朝鮮人テロリストや日本人共産主義テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺するべくつけ狙っていた。
昭和天皇は、歴代天皇で最も命を狙われた天皇であった。
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韓国は、昭和天皇の子であり孫である現天皇陛下と皇族殿下らに、昭和天皇を惨殺しようとしたキリスト教系朝鮮人テロリストを処刑した事に対して土下座して謝罪する事を要求している。
韓国の「天皇の土下座謝罪」は正当要求であるとして支援する日本人が、リベラル派・革新派そして一部の保守派に存在する。
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昭和天皇の名誉を命に代えても守ろうとしない日本人は、日本民族日本人ではない。
現代日本のメディア・報道機関は、左翼系反天皇色が強く、伝統文化である天皇を必ずしも守ろうという強い意志はない。
その証拠が、2019年に名古屋市内で開催された愛知トリエンナーレで「昭和天皇の写真を焼き、その灰を踏み付ける」映像を表現の自由とした擁護した事である。
日本には、反天皇反日的日本人が高学歴出身知的エリート層に数多く存在している。
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女系母系天皇即位・女系宮家新設派によって、2000年以上受け継がれきた民族文化の血筋を正統とする万世一系の男系父系天皇は消滅しようとしている。
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