🌏29)─1─明治22年、皇室典範。血(Y染色体)の神話に基づく正統な万世一系の男系父系継承。〜No.87 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 皇室の血族優先(ネポティズム)は、依怙ひいき、縁故、身びいきとは違う。
   ・   ・   ・   
 日本のこころ
 公益財団法人 日本文化興隆財団
 皇室まめ知識
 皇室典範とは
 皇室典範とは何か
 現行の皇室典範は、昭和22年1月16日、一般の法律のひとつとして公布され、5月3日に施行されました。新憲法に対応して、天皇と皇族に関する事項を規定している根本法で、第1章「皇位継承」、第2章「皇族」、第3章「摂政」、第4章「成年、敬称、即位の礼大喪の礼皇統譜及び陵墓」、第5章「皇室会議」から成っています。
 「皇位継承」について
 第1章「皇位継承」は1条「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する。」より始まり、皇位継承の順序を詳細に規定(第2条・第3条)。第4条には「天皇が崩じたときは、皇嗣が直ちに即位する。」と規定されており、今上天皇も、昭和天皇が昭和64年1月7日午前6時33分に崩御された後、「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」を行われ、ただちに即位されました。「剣璽」とは、神話の時代より現在に至るまで皇室に伝わる三種の神器(八咫神鏡=やたのかがみ・草薙剣=くさなぎのつるぎ・八坂瓊曲玉=やさかにのまがたま)のうちの剣のお写しと曲玉を指しており、「剣璽等承継の儀」とは、天皇の御印である「御璽(ぎょじ)」と国の印章である「国璽(くじ)」が剣璽と共に継承される儀式です。
 退位、皇位継承、摂政についての規定
 一方、退位についての規定はありません。
 幕末までは、天皇は自分の意思で譲位され、太上(だじょう)天皇(=上皇)となることができましたが、退位は「象徴」としての地位と矛盾するという理由で認められていません。
 第2章「皇族」では皇族の定義がなされており、第5条で「皇后、太皇太后、皇太后親王親王妃内親王、王、王妃および女王を皇族とする」と定められています。
親王内親王については、嫡出の皇子、および嫡男系嫡出の皇孫まで、つまり二世までとなっており、三世以降の嫡男系嫡出の子孫は王、女王と呼ばれます。旧皇室典範では皇玄孫(こうげんそん)、つまり四世までを親王内親王と定め、五世以下を王・女王と定められていたのが、ぐっと範囲が狭められたことになります。
 また、旧皇室典範で禁止されていた天皇および皇族の養子は引き続き禁止され、女子および嫡子でない子の相続も認められていません。
 第3章「摂政」では、天皇が成年に達しないとき、また国事行為を自ら行えない場合に摂政を置くと規定され、就任する順序が定められています。平安時代からの摂政は、幼少の天皇に代わって、臣下が政務を行うというものでしたが、旧典範からは、天皇の大権を代行する役割となりました。昭和天皇は皇太子時代に、体調のすぐれない大正天皇の摂政として公務に当たられました。
 皇位継承においては女子は認められていないものの、摂政となるには問題がありません。旧皇室典範では、女子に配偶者がないことが条件となっていましたが、現行の皇室典範ではそうした規定も外されています。
 天皇、皇太子、皇太孫の成人は18歳
 皇室における“成年”については、一般国民と同じように、他の皇族が20歳で成年を迎えるのとは異なり、「天皇、皇太子、及び皇太孫の成年は十八年とする。」と第4章第22条に規定されています。第23条は敬称に関する規定であり、天皇、皇后、太皇太后、皇太后の敬称は「陛下」、それ以外の皇族の敬称は「殿下」と定められています。
 皇位の継承があったときに行う「即位の礼」は第24条で定められ今上天皇の場合は、諒闇(服喪期間)の明けた平成2年11月12日に行われました。
 第25条では「大喪の礼」は「天皇が崩じたときに行う」と定められており、現行の皇室典範下での初めての昭和天皇の「大喪の礼」が、国事行為として平成元年2月24日に行われています。ちなみに、伝統を忠実に守るために、また政教分離にも配慮して、一部の儀式は国の行事としてではなく「皇室の公的行事」として行われました。
 ほかに旧皇室典範では規定されていながら、現行法では規定されておらず、「皇室の公的行事」として行われたものには、「大嘗祭」、「立太子の礼」などがあります。
 第4章第27条では陵墓について定められており、「天皇、皇后、太皇太后、皇太后を葬る所を陵、その他の皇族を葬るところを墓」と、はっきり区別されています。
 第5章では皇室会議について定められています。議員は10人。皇族2名、立法府4名(衆議院参議院の議長と副議長)、行政府2名(首相、宮内庁長官)、司法府2名(最高裁判所長官およびその他の裁判官)から構成され、原則として出席者の過半数の賛成によって議決されますが、皇位継承の順序変更などの重要事項の場合には3分の2の賛成が必要となります。現在の皇族代表は、三笠宮崇仁親王・同妃両殿下が任にあたられています。
また、現在の皇室典範の公布と同時に、皇室経済法も公布されました。戦前の皇室経済は表向きに公表されることはほとんどありませんでしたが、11条から成る皇室経済法及び同施行法では、皇室経費の金額、財産の授受などについても明記されています。
 旧皇室典範との違い
 明治22年大日本帝国憲法と同時に公布された旧皇室典範憲法と対等の効力を有し、その改正・増補は皇族会議および枢密顧問(天皇の最高の諮問機関)の諮詢を経てなされ、議会の議決を経る必要はないとされていました。
 これは典範に「皇室の家法」としての性格を認めて皇室の自立性を謳ったものですが、いわゆる「宮中」と「府中」の区別を明確にし、「皇室の事務」と「国家の事務」が混淆しないことを目指しています。
 宮内大臣は内閣の一員ではなく、宮内官は政府の一般の官吏とは身分的に一線を画していたのもこのことの端的な表れです。
 これに対して、現典範は旧典範とは無関係に議会によって新規の法律として制定され、国会の過半数の議決によって改正されうる一般の法律と同等の効力しか有していません。この点が最も大きな違いです。
 内容的に見ても、旧典範が全12章62か条であるのに対し、現典範は全5章37か条とかなり簡略化されています。
 幼帝のご保育にあたる太傳(たいふ)や、皇族に対する訴訟・懲戒規定・元号・神器渡御(とぎょ)大嘗祭(だいじょうさい)に関する規定などは現典範ではなくなっていますし、皇室経済に関することがらは別の法律に委ねられました。
 皇室制度についてほぼ完璧に整備されていた旧典範
 また、旧典範では嫡出子のみならず、庶出子にも皇位継承権を認めていましたが、現典範は嫡出子のみに限っていますし、皇太子・皇太孫を除く皇族がその身分を離れる途を広く認めた点も大きく異なる点でしょう。
 もうひとつ違っている点は関係法令の整備状況です。
 現典範には、皇統譜令皇室経済法皇室経済法施行法宮内庁法・国事行為の臨時代行に関する法律・元号法しかありませんが、旧典範にはその下に皇室令と呼ばれる皇室に関する一群の法令が体系的に網羅されていました。
 そのうち主要なものを列挙すると――(旧)皇統譜令(皇籍)・登極令(皇位継承)・摂政令(摂政の設置)・立儲令(立太子)・皇室親族令(親族関係)・皇室成年式令(成年)・皇族身位令・皇族会議令など(皇族一般)・皇室祭祀令・皇室儀制令(宮中の祭祀・儀礼)・皇室喪儀令・皇室陵墓令など(葬制・墓制)・皇室財産令・皇室会計令など(皇室経済)等々とあり、皇室制度はほぼ完璧に整備されていたことがわかります。
 この現行法の不備を補うために、たとえば歌会始講書始の儀、皇族の成年式やご結婚の儀、立太子礼、昭和天皇香淳皇后のご葬儀・今上陛下の即位のご大典などが旧皇室令に準拠して行われてきたのです。
   ・   ・   ・   
 日本大百科全書(ニッポニカ)
 サンプルページ
 皇室
 天皇と皇族の総称。狭義には内廷(天皇一家)、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。
 皇族(皇親)の範囲は、明治以前は大宝令(たいほうりょう)によって定められた。それによれば、天皇の兄弟姉妹および皇子、皇女を親王(しんのう)とし、皇孫、皇曽孫(こうそうそん)(天皇のひまご)、皇玄孫(こうげんそん)(天皇のやしゃご)を王、皇玄孫の子たる五世王は王名を称することはできるが皇親の範囲に入らないと定めた。女子については内親王(ないしんのう)、女王の称も用いた。また、二、三、四世王を親王に対して諸王と総称した。ちなみに親王、王の配偶者は、内親王、女王でない限り皇親とは認められなかったようである。この皇族の範囲は、一時拡張の傾向を示したが、徐々に空洞化した。[小田部雄次
 大日本帝国憲法下の皇室
 明治維新後、大日本帝国憲法公布に伴う皇室典範の制定により、新たな皇族制度が生まれた。つまり、1889年(明治22)の皇室典範は、皇族の範囲を、太皇太后(たいこうたいごう)、皇太后、皇后、皇太子、皇太子妃(ひ)、皇太孫、皇太孫妃内親王、王、王妃、女王とし、皇子より皇玄孫に至るまでは男を親王、女を内親王、五世以下は男を王、女を女王とした。なお、皇室典範制定以前からの世襲親王家(宮家)は、そのまま親王とし、皇族にした。
 大日本帝国憲法の下で、皇族は一般臣民とは区別され、固有の財産と特権が与えられた。成年の皇族男子は原則として陸海軍人となり、貴族院議員の資格をもち、親王は枢密院会議に列した。もっとも永世皇族主義では皇族が増えすぎるので、1907年の皇室典範増補により、王は新たに家をおこして華族となることができるようにした(臣籍降下)。
 大日本帝国憲法下では、皇室に関する事項は国務から区別され、帝国議会が関与することは許されなかった。皇室事務は天皇が総攬(そうらん)し、宮内大臣がこれを輔弼(ほひつ)した。皇室事項を規律する法としては、皇室典範をはじめとし、登極令、皇室親族令などの皇室令が制定された。皇室には原則的に通常の国の法令は適用されず、天皇の財産たる御料を中心とした膨大な皇室財産も国有財産から区別され、議会の統制を受けなかった。皇室事務費用は国庫より支出される定額の皇室経費のほか、御料財産によってまかなわれた。皇室関係の重要事項は、成年以上の皇族男子で組織する皇族会議で審議された。
 動産・不動産からなる皇室財産は、明治維新以後に設定された。明治政府は皇室の経済的基礎を確立する必要に迫られ、1884年から1890年にかけて莫大(ばくだい)な皇室財産が蓄積された。つまり、政府所有の日本銀行横浜正金銀行日本郵船会社株の皇室財産への編入佐渡(さど)、生野(いくの)両鉱山の皇室への移譲、350万町歩(ちょうぶ)の山林原野の皇室財産編入などが行われた。宮城、皇居、御所、各離宮、木曽その他の御料地、正倉院(しょうそういん)宝庫などは、世伝御料として天皇に永世に伝えられるものとなった。
 さらに1890年以降は、定額300万円の皇室費が毎年国庫より支出され、日清戦争で獲得した償金約3億円のうち2000万円が皇室会計に繰り入れられた。また皇室費は、日露戦争後、450万円に増額され、第二次世界大戦終戦まで毎年支出された。
 なお、大日本帝国憲法下における天皇家は、明治天皇睦仁(むつひと)、同妃美子(はるこ)(昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう))、大正天皇嘉仁(よしひと)、同妃節子(さだこ)(貞明皇后(ていめいこうごう))、昭和天皇裕仁(ひろひと)、同妃良子(ながこ)(香淳皇后(こうじゅんこうごう))らによって継承された。皇族は、直宮(じきみや)(天皇の子や兄弟姉妹)である秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)、同妃勢津子(せつこ)、高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)、同妃喜久子(きくこ)、三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)、同妃百合子(ゆりこ)らがおり、直宮以外には、朝香宮(あさかのみや)、有栖川宮(ありすがわのみや)、華頂宮(かちょうのみや)、桂宮(かつらのみや)、賀陽宮(かやのみや)、閑院宮(かんいんのみや)、北白川宮(きたしらかわのみや)、久邇宮(くにのみや)、小松宮(こまつのみや)、竹田宮(たけだのみや)、梨本宮(なしもとのみや)、東久邇宮(ひがしくにのみや)、東伏見宮(ひがしふしみのみや)、伏見宮(ふしみのみや)、山階宮(やましなのみや)の15宮家があった。そのうち桂と小松の2宮家が明治年間に、有栖川と華頂の2宮家が大正年間に、それぞれ断絶などで廃された。[小田部雄次
 日本国憲法下の皇室
 第二次世界大戦後、日本国憲法の公布で天皇は国家の象徴となった。これに伴い1947年(昭和22)2月、皇室典範が改正され、皇族は嫡出子に限り、親王内親王は皇孫まで、三世以下は王、女王とするなどの変更が行われた。そして、皇子、皇弟の直宮以外のすべての11宮家は臣籍に降下し、皇族の範囲と特権は縮小した。日本国憲法下の皇族は、国民の一部ではあるが、皇室典範などの規定により、皇位継承、摂政(せっしょう)就任などの政治的特権があり、選挙権、被選挙権がなく、養子をすることができないなどの制約がある。
 つまり、戦後の皇族は、皇后、太皇太后、皇太后親王親王妃内親王、王、王妃、女王の身分の総称である。その身分も可動的で、一般国民は、立后(りっこう)(皇后の地位につくこと)や皇族男子との婚姻により皇族になれる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下)。
 第二次世界大戦前の莫大な皇室財産は、戦後、連合国最高司令官総司令部GHQ)によって解体された。終戦時の皇室財産総額は、総司令部発表で約16億円(美術品、宝石類を含まない)、1946年3月の財産税納付時の財産調査によれば約37億円と評価された。この結果、約33億円が徴収され、残りは国に帰属した。こうして戦後は、皇室財産は国有化され、皇室費用は予算に計上されて国会に統制された。1947年公布の皇室経済法は、皇室費用を宮廷費(儀式などの費用)、内廷費(日常費用)、皇族費(品位保持の費用)に区分し、さらに皇室の蓄財や特定者との経済的結合を防止している。ちなみに、2019年度における皇室費は、約117億円である。
 さらに、1947年、皇室関係の重要事項を審議する機関として皇室会議が置かれ、皇室経済に関する重要事項を審議する機関として皇室経済会議が設置された。皇室会議は、皇位継承の順序の変更、立后、皇族男子の婚姻、皇族の身分の離脱、摂政の決定などを審議する。構成員は、内閣総理大臣を議長とし、皇族2人、衆参両院の正副議長、宮内庁長官最高裁判所長官と同裁判官1人の計10人である。皇室経済会議は、皇室経済法に定められた皇室費経理、皇室財産の授受などを審議し、構成員は、内閣総理大臣を議長とし、衆参両院の正副議長、財務大臣宮内庁長官会計検査院長の8人である。
 現在、徳仁(なるひと)天皇を中心とする内廷は、雅子(まさこ)皇后と長女敬宮愛子(としのみやあいこ)、明仁(あきひと)上皇と美智子(みちこ)上皇后である。皇族は、1990年(平成2)6月に浩宮徳仁天皇)の弟である礼宮文仁(あやのみやふみひと)が結婚して秋篠宮(あきしののみや)となり、同妃紀子(きこ)と長女眞子(まこ)、次女佳子(かこ)、長男悠仁(ひさひと)がいる。そのほか、明仁上皇の弟である常陸宮正仁(ひたちのみやまさひと)、同妃華子(はなこ)、昭和天皇の弟である故三笠宮崇仁の妃百合子、三笠宮の男子である故三笠宮寛仁(ともひと)の妃信子(のぶこ)、故高円宮憲仁(たかまどのみやのりひと)の妃久子(ひさこ)らで構成される。昭和天皇の弟であった秩父宮家は同妃勢津子の1995年8月25日の逝去により、高松宮家は同妃喜久子が2004年12月18日に逝去して廃された。また、明仁の長女の紀宮清子(のりのみやさやこ)は2005年11月15日、結婚により皇族の身分を離れた。
 なお、皇室に苗字(みょうじ)や戸籍はなく、身分に関する事項は皇統譜(こうとうふ)に記載される。皇統譜には、天皇皇后に関する大統譜(だいとうふ)と、皇族に関する皇族譜があり、正本は宮内庁書陵部、副本は法務省が保管している。[小田部雄次
   ・   ・   ・   
 しょせん、現代日本人には縄文人以来の日本民族の心・気持ち・念いは理解できない。
 それは、リベラル派、革新派、保守派に関係なく、左翼・左派・ネットサハそして右翼・右派・ネットウハでも言える。
   ・   ・   ・   
 現代日本人が、欲しい天皇、理想とする天皇は、正当天皇であって正統天皇ではない。
   ・   ・   ・   
 正統と正当の違いは、民族固有の歴史・文明・文化・伝統・宗教・言語・風習・習慣その他諸々を内に秘めているかどうかである。
 正統はそれを内に秘めているが、正当は全てを排除している。
   ・   ・   ・   
 天皇即位の必須条件は、野心・野望、出世欲、金銭欲、上昇志向、欲得・強欲などの私欲・個人欲を持たない「無心の無欲」である。
 日本天皇制度、天皇家・皇室が、2000年以上の歴史を持ち、伝統文化として受け継がれてきた理由は、俗世から離れた所に存在していたからである。
 天皇の振る舞いは、俗事の政治や宗教ではなく神事の「まつりごと」であった。
   ・   ・   ・   
 日本神道最高神は、女性神天照大神である。
 天照大神は、現天皇家・皇室の祖先神である。
 天皇の正統は、天照大神から発する男系父系の血筋・血統・皇統で保証され、皇室に縁のない他家に嫁いだ女系母系の血筋は赤の他人の血で正統性はないとして皇統譜から排除されている。
 つまり、天皇の正統性は、一個人の教祖が修行の末に自分の思い込みで作り上げた創作宗教ではなく、民族中心神話にある。
 教祖宗教とは、血のつながらない赤の他人が信仰で教主になる宗教で簡単に滅びる。
 民族中心神話は、信仰に関係なく、民族が生存する限り、血が絶えない限り滅びない。
 民族中心神話とは、民族主義である。
 昭和天皇は、国體(正統な血統・皇統の男系父系天皇制度と神の裔である血統の現皇室)を守るべく、孤立無援の逆境の中で一人孤独に戦っていた。
   ・   ・   ・   
 昔の日本人と現代の日本人は、別人と言ってもいいほどの日本人である。
 現代日本人には、数千年受け継がれてきた民族の歴史力・文化力・宗教力はなく、数万年前の縄文人の素朴さも残っていない。
 国民の8割近くが天皇制度存続な為に、血(Y染色体)の神話に基づく正統な現皇室の男系父系天皇継承を廃止し、血の神話を否定した法理の憲法・法律に基づく正当な新皇室の女系母系継承を採用する事を求めている。
  ・   ・   ・   
 日本民族は、アイヌ人・琉球人同様に数万年前の縄文人から生まれて固有民族である。
 雑多な人種・民族・部族が、乱婚を繰り返して生まれた血が汚れた混血の雑種民族である。
   ・   ・   ・   
 日本文明は、揚子江流域にあった女系母系継承の長江文明の後継文明であって、黄河流域にあった男系父系継承の黄河文明の亜流文明ではなかった。
 南方系海洋民の血を引く日本民族は、西方系草原の民の血を引く中華民族(中国人・朝鮮人)とは縁が薄い。
   ・   ・   ・   
 日本民族の祖先は、殺し合いを繰り返す地獄のような中国大陸や朝鮮半島を嫌悪し日本列島に逃げ込んできた、精神も体力もひ弱な弱い人間であった。
 弱い日本民族は、弥生の大乱以来長く続く殺し合い・戦い・争いを鎮め世を平らかにするするべく話し合い・談合で、「1人」の力が弱い無欲で賢い日本人を大王に祀り上げて一つにまとまり、その「御一人」に衆議で決めた案件を承認させ詔(みことのり)として発布した。
 その御一人が後の天皇であった。
 裁可の御墨付きを与える天皇位を争いのもとにしない為に、民族中心神話由来の一系統の豪族(大王家・天皇家・皇室)の男系父系による完全世襲とした。
 歴史的事実として、武力・財力を持つ有力豪族達(後には大名達)は、領地拡大や政治権力・宗教権威を巡って争い・殺し合いを繰り返していた。
 天皇の神聖不可侵とは、国内外に発する「詔」にあたえられたクレジットである。
 中国皇帝や朝鮮国王の勅は守られない事があったが、日本天皇の勅は絶対であった。
 その歴史的証拠が、8月15日の終戦詔勅である。
 天皇機関説とは、中国や朝鮮のような殺し合い・戦い・争いのない「平らかな世」を日本に生み出す為の古代天皇制度そのものである。
 それが正統天皇であって、正当天皇にはそれができない。
   ・   ・   ・   
 天皇家・皇室の血による世襲制とは、殺し合い・戦い・争いを鎮め世を平らかにする「和」の継承である。
 和とは、「世の平らか」を欲する天皇の御威光・御稜威・大御心・志であり、八百万の神々が発する神聖な言霊である。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、血に飢えた好戦的な尚武の民族ではない。
 日本民族とは、武士・サムライではなく百姓や職人(町人)の庶民である。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 皇室典範は、1889年(明治22年)から1947年(昭和22年)までの、皇位継承順位など皇室に関する制度・構成等について規定していた家憲である。大日本帝国憲法と同格の法規とみなされ、両者を合わせて「典憲」と称した。昭和22年5月2日に廃止され、新たに法律として制定された現行の皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)が、同年5月3日の日本国憲法と同時に施行された。
 概説
 1886年6月10日、宮内大臣 伊藤博文が、帝室典則案を内大臣 三条実美に提出した。 1887年3月20日 首相兼宮相伊藤博文・帝室制度取調局総裁柳原前光井上毅、伊東巳代治らが会合し、皇室典範・皇族条例の草案について討議。 1889年(明治22年)2月11日に裁定された旧皇室典範は、皇室の家法という性格が与えられていた(官報には登載せず)が、1907年(明治40年)2月11日裁定の皇室典範増補で宮内大臣および各国務大臣の副署がなされかつ公布の対象となり、国民も拘束するものとされた。もっとも、同年1月31日に制定された公式令明治40年1月31日勅令第6号)などで宮務法と国務法[5]の峻別が定められたことからもわかるように、旧皇室典範大日本帝国憲法の下にあるようになったというわけではない。
 旧皇室典範の改正又は増補は、皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て勅定するものとされ(旧皇室典範第62条)、この手続きに帝国議会の協賛又は議決は要しないとされた(大日本帝国憲法第74条)。これは、現在の日本国憲法及び同憲法の下にある皇室典範(昭和22年法律第3号)にはない皇室自律主義の表れといってよい。旧皇室典範の改正又は増補は、法源としての「皇室典範」たる形式で行われた。増補は明治40年2月11日(皇族の臣籍降下など)と1918年(大正7年)11月28日(皇族女子は王族または公族に嫁し得る)に2度あるのみで、旧皇室典範本文を改正した例がないまま廃止された。1946年12月24日、枢密院は、皇室典範増補中改正の件を可決、つづいて皇族会議で可決(内親王・王・女王は勅旨・請願によって「臣籍降下」できる)。
 旧皇室典範および皇室典範増補は、1947年(昭和22年)5月1日勅定の「皇室典範皇室典範増補廃止ノ件」によって、新皇室典範日本国憲法が施行される前日の同年5月2日限りで廃止された。

 皇族の範囲規定
 旧皇室典範は皇子(1世)から皇玄孫(4世)までを親王、5世以下を王とした。これに従えば、親王宣下を受けて親王となっていた皇族(伏見宮貞愛親王東伏見宮依仁親王有栖川宮熾仁親王有栖川宮威仁親王)や、伏見宮出身の還俗した入道親王法親王北白川宮能久親王閑院宮載仁親王山階宮晃親王久邇宮朝彦親王小松宮彰仁親王華頂宮博経親王)についても王を称することとなるが、特例として旧皇室典範施行までに親王宣下を受けていた場合は従来の通り親王を称することとされた(旧皇室典範第57条)。さらに永世皇族制を採用し、皇族女子の婚姻による離脱以外は臣籍降下についての定めがなく、皇族の男系子孫は何世代後であっても皇族であり続けるとされた。
 しかし、皇族の増加による皇室財政の負担増などを背景に、1899年(明治32年)に成立した帝室制度調査局が対策案を練り上げ、明治40年2月11日に皇室典範増補が定められ、王は勅旨又は本人からの情願により、皇族会議と枢密顧問の諮詢を経て、家名を賜って華族になることができるとする臣籍降下制度が創設され、永世皇族制は事実上放棄された。ただし、この時は降下に関する具体的な基準は定められず、あくまでも“臣籍に下す可能性がある”と規定するに留められた。また、同時に「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」(皇室典範増補第6条)と皇籍復帰の禁止も定められた。
 この規定が設けられてもなお王の臣籍降下が進まなかったため、1920年大正9年)5月19日に皇室典範増補を適用する具体的な基準として、皇族会議と枢密顧問の諮詢を経て、「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定された(公布されず)。王は皇室典範増補第1条に基づく降下の情願をしなければ、長子孫の系統4世以内を除き勅旨により家名を賜い華族に列するとされた。伏見宮系の皇族は崇光天皇の16世孫である伏見宮邦家親王の子孫について、附則で邦家親王を皇玄孫と見做し、準則を準用した。
 ただし、一律的に華族に列することには異論もあり、枢密院での審議における政府側の説明では、その個々の場合においても大体準則の規定に準拠し、かつ事態の緩急に応じてその宜しきを斟酌すべきものとされ、この準則の性質は常例として準拠すべき大体のものであるとされた(『枢密院会議筆記』1920年3月17日)。いずれにしても、臣籍降下は情願によることが本則とされたので、この準則が効力を有した期間(1920年 - 1946年)の12件の臣籍降下は、すべて情願によるものであって、この準則が直接適用されたわけではない。
 「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」は、王だけでなく内親王と女王も勅旨・情願による臣籍降下を可能とする「皇室典範増補中改正ノ件」(昭和21年(1946年)12月27日勅定)の制定と同時に、「皇族ノ降下ニ関スル施行準則廃止ノ件」(公布されず)によって廃止された。
 大礼(即位礼及び大嘗祭)の場所
 明治天皇は1877年(明治10年)に京都御所を訪れた際、その衰退を憂い、「旧都の保存」を命じ、翌年の1878年明治11年)には「将来わが朝の大礼は京都にて挙行せん」との意向を示し、1883年(明治16年)には京都を即位式・大嘗会の地と定め宮内省に京都宮保存を管理させた。これを受けて本皇室典範の第11条で「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都二於イテ之ヲ行フ」と規定された。
 譲位案の削除
 本皇室典範原案策定では、天皇の譲位に関する規定が盛り込まれていた。宮内省図書頭の井上毅は譲位容認を唱えていたが、伊藤博文がこれに異を唱え、この条文は典範から削除された。そのやりとりの会議は「高輪会議」と呼ばれ、内容は「草案談話要録」に記録が残っている。
 なお、1889年(明治22年)の皇室典範制定以後、譲位による皇位継承は行われていなかったが、2019年(平成31年/令和元年)に天皇の退位等に関する皇室典範特例法(2017年(平成29年)に制定)により、明仁から徳仁への皇位継承が譲位によって行われた。
  ・  ・  
 旧皇族とは、1947年(昭和22年)に皇籍離脱した11宮家51名以上の元皇族の総称。旧宮家ともいう。またこの皇籍離脱者の子孫も含めた総称で用いられることも増えている。天皇の男系子孫であるため、近年の後継者不足による皇位継承問題における解決策として話題となることが多い。
 概説
 昭和天皇旧宮家の面々
 旧皇族の出自
 南北朝時代以降、皇位継承権者を確保する目的で、伏見宮桂宮有栖川宮閑院宮世襲親王家が立てられ、いずれも男系で宮号が継承されてきた。宝永7年(1710年)に閑院宮が創立されて以降は、皇位を継承する皇統とあわせて5本の血統が、互いの継承者を融通しつつ存続した。それぞれの宮号の継承者は、その時々の天皇または上皇の猶子となることにより、擬制的な親子関係を構築し、そのことを根拠にして親王宣下により親王の地位と称号を与えられてきたのである。これらの皇統および宮号を継ぐ者以外は、その多くは仏門に入った。
 明治維新と前後して、伏見宮家の第19代貞敬親王および第20代・第23代邦家親王の王子が還俗して、新たな宮号を下賜され、あるいは継嗣のいない宮家を相続した。ただし、この時期に新立した宮家に関しては1代限りとして、2代目からは臣籍降下させて華族に列することとし、世襲は想定されていなかった。
 しかし、皇統を継いだ明治天皇の男子で成人したのが大正天皇一人で、さらに幕末から大正にかけて、閑院宮桂宮有栖川宮が相次いで断絶したため、安定的な皇位継承を果たすべく、新たな世襲親王家伏見宮の血統に求めたことにより、維新期に立てた宮号世襲されることになり、さらに明治天皇の皇女と婚姻した王が新たに宮号を下賜された。上述の昭和22年(1947年)に皇籍離脱した旧皇族は、全て邦家親王の血統の出身である。
 現在の皇室と旧皇室の男系での共通の祖先は、3代伏見宮貞成親王である。貞成親王の第一王子・彦仁王が、男子を儲けないまま崩御した称光天皇の後を受けて皇位を継承(後花園天皇)、弟の貞常親王が4代伏見宮を継承し、皇統および宮号がその子孫に継承されて現在に至っている。
 一方で、女系を含めると17世紀に在位した第112代霊元天皇(1654-1732)が全ての現皇族及び旧皇族の最も近い共通祖先である。霊元天皇第五皇女である福子内親王(1676-1707)が伏見宮邦永親王との間に貞建親王を儲けており、旧皇族はその子孫にあたる。
   ・   ・   ・   
 天佑ヲ享有シタル我カ日本帝國ノ寳祚ハ萬世一系歷代繼承シ以テ朕カ躬ニ至ル惟フニ祖宗肇國ノ初大憲一タヒ定マリ昭ナルコト日星ノ如シ今ノ時ニ當リ宜ク遺訓ヲ明徵ニシ皇家ノ成典ヲ制立シ以テ丕基ヲ永遠ニ鞏固ニスヘシ茲ニ樞密顧問ノ諮詢ヲ經皇室典範ヲ裁定シ朕カ後嗣及子孫ヲシテ遵守スル所アラシム
 御名御璽
 明治二十二年二月十一日
 皇室典範
 第一章  皇位繼承
第一條 大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス
第二條 皇位ハ皇長子ニ傳フ
第三條 皇長子在ラサルトキハ皇長孫ニ傳フ皇長子及其ノ子孫皆在ラサルトキハ皇次子及其ノ子孫ニ傳フ以下皆之ニ例ス
第四條 皇子孫ノ皇位ヲ繼承スルハ嫡出ヲ先ニス皇庶子孫ノ皇位ヲ繼承スルハ皇嫡子孫皆在ラサルトキニ限ル
第五條 皇子孫皆在ラサルトキハ皇兄弟及其ノ子孫ニ傳フ
第六條 皇兄弟及其ノ子孫皆在ラサルトキハ皇伯叔父及其ノ子孫ニ傳フ
第七條 皇伯叔父及其ノ子孫皆在ラサルトキハ其ノ以上ニ於テ最近親ノ皇族ニ傳フ
第八條 皇兄弟以上ハ同等內ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニシ長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス
第九條 皇嗣精神若ハ身體ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族會議及樞密顧問ニ諮詢シ前數條ニ依リ繼承ノ順序ヲ換フルコトヲ得
 第二章  踐祚卽位
第十條 天皇スルトキハ皇嗣卽チ踐祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク
第十一條 卽位ノ禮及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ
第十二條 踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ
 第三章  成年立后立太子
第十三條 天皇及皇太子皇太孫ハ滿十八年ヲ以テ成年トス
第十四條 前條ノ外ノ皇族ハ滿二十年ヲ以テ成年トス
第十五條 儲嗣タル皇子ヲ皇太子トス皇太子在ラサルトキハ儲嗣タル皇孫ヲ皇太孫トス
第十六條 皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス
 第四章  敬稱
第十七條 天皇太皇太后太后皇后ノ敬稱ハ陛下トス
第十八條 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃親王王王妃女王ノ敬稱ハ殿下トス
 第五章  攝政
第十九條 天皇未タ成年ニ達セサルトキハ攝政ヲ置ク
 天皇久キニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキハ皇族會議及樞密顧問ノ議ヲ經テ攝政ヲ置ク
第二十條 攝政ハ成年ニ達シタル皇太子又ハ皇太孫之ニ任ス
第二十一條 皇太子皇太孫在ラサルカ又ハ未タ成年ニ達セサルトキハ左ノ順序ニ依リ攝政ニ任ス
 第一 親王及王
 第二 皇后
 第三 皇太后
 第四 太皇太后
 第五 內親王及女王
第二十二條 皇族男子ノ攝政ニ任スルハ皇位繼承ノ順序ニ從フ其ノ女子ニ於ケルモ亦之ニ準ス
第二十三條 皇族女子ノ攝政ニ任スルハ其ノ配偶アラサル者ニ限ル
第二十四條 最近親ノ皇族未タ成年ニ達セサルカ又ハ其ノ他ノ事故ニ由リ他ノ皇族攝政ニ任シタルトキハ後來最近親ノ皇族成年ニ達シ又ハ其ノ事故既ニ除クト雖皇太子及皇太孫ニ對スルノ外其ノ任ヲ讓ルコトナシ
第二十五條 攝政又ハ攝政タルヘキ者精神若ハ身體ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族會議及樞密顧問ノ議ヲ經テ其ノ順序ヲ換フルコトヲ得
 第六章  太傅
第二十六條 天皇未タ成年ニ達セサルトキハ太傅ヲ置キ保育ヲ掌ラシム
第二十七條 先帝遺命ヲ以テ太傅ヲ任セサリシトキハ攝政ヨリ皇族會議及樞密顧問ニ諮詢シ之ヲ選任ス
第二十八條 太傅ハ攝政及其ノ子孫之ニ任スルコトヲ得ス
第二十九條 攝政ハ皇族會議及樞密顧問ニ諮詢シタル後ニ非サレハ太傅ヲ退職セシムルコトヲ得ス
 第七章  皇族
第三十條 皇族ト稱フルハ太皇太后太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃親王王王妃女王ヲ謂フ
第三十一條 皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ內親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス
第三十二條 天皇支系ヨリ入テ大統ヲ承クルトキハ皇兄弟姉妹ノ王女王タル者ニ特ニ親王親王ノ號ヲ宣賜ス
第三十三條 皇族ノ誕生命名婚嫁薨去ハ宮內大臣之ヲ公吿ス
第三十四條 皇統譜及前條ニ關ル記錄ハ圖書寮ニ於テ尚藏ス
第三十五條 皇族ハ天皇之ヲ監督ス
第三十六條 攝政在任ノ時ハ前條ノ事ヲ攝行ス
第三十七條 皇族男女幼年ニシテ父ナキ者ハ宮內ノ官僚ニ命シ保育ヲ掌ラシム事宜ニ依リ天皇ハ其ノ父母ノ選擧セル後見人ヲ認可シ又ハ之ヲ勅選スヘシ
第三十八條 皇族ノ後見人ハ成年以上ノ皇族ニ限ル
第三十九條 皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル
第四十條 皇族ノ婚嫁ハ勅許ニ由ル
第四十一條 皇族ノ婚嫁ヲ許可スルノ勅書ハ宮內大臣之ニ副署ス
第四十二條 皇族ハ養子ヲ爲スコトヲ得ス
第四十三條 皇族國疆ノ外ニ旅行セムスルトキハ勅許ヲ請フヘシ
第四十四條 皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ
 第八章  世傳御料
第四十五條 土地物件ノ世傳御料ト定メタルモノハ分割讓與スルコトヲ得ス
第四十六條 世傳御料ニ編入スル土地物件ハ樞密顧問ニ諮詢シ勅書ヲ以テ之ヲ定メ宮內大臣之ヲ公吿ス
 第九章  皇室經費
第四十七條 皇室諸般ノ經費ハ特ニ常額ヲ定メ國庫ヨリ支出セシム
第四十八條 皇室經費ノ豫算決算檢査及其ノ他ノ規則ハ皇室會計法ノ定ムル所ニ依ル
 第十章  皇族訴訟及懲戒
第四十九條 皇族相互ノ民事ノ訴訟ハ勅旨ニ依リ宮內省ニ於テ裁判員ヲ命シ裁判セシメ勅裁ヲ經テ之ヲ執行ス
第五十條 人民ヨリ皇族ニ對スル民事ノ訴訟ハ東京控訴院ニ於テ之ヲ裁判ス但シ皇族ハ代人ヲ以テ訴訟ニ當ラシメ自ラ訟廷ニ出ルヲ要セス
第五十一條 皇族ハ勅許ヲ得ルニ非サレハ勾引シ又ハ裁判所ニ召喚スルコトヲ得ス
第五十二條 皇族其ノ品位ヲ辱ムルノ所行アリ又ハ皇室ニ對シ忠順ヲ缺クトキハ勅旨ヲ以テ之ヲ懲戒シ其ノ重キ者ハ皇族特權ノ一部又ハ全部ヲ停止シ若ハ剝奪スヘシ
第五十三條 皇族蕩產ノ所行アルトキハ勅旨ヲ以テ治產ノ禁ヲ宣吿シ其ノ管財者ヲ任スヘシ
第五十四條 前ニ條ハ皇族會議ニ諮詢シタル後之ヲ勅裁ス
 第十一章  皇族會議
第五十五條 皇族會議ハ成年以上ノ皇族男子ヲ以テ組織シ內大臣樞密院議長宮內大臣司法大臣大審院長ヲ以テ參列セシム
第五十六條 天皇ハ皇族會議ニ親臨シ又ハ皇族中ノ一員ニ命シテ議長タラシム
 第十二章  補則
第五十七條 現在ノ皇族五世以下親王ノ號ヲ宣賜シタル者ハ舊ニ依ル
第五十八條 皇位繼承ノ順序ハ總テ實系ニ依ル現在皇養子皇猶子又ハ他ノ繼嗣タルノ故ヲ以テ之ヲ混スルコトナシ
第五十九條 親王親王王女王ノ品位ハ之ヲ廢ス
第六十條 親王ノ家格及其ノ他此ノ典範ニ牴觸スル例規ハ總テ之ヲ廢ス
第六十一條 皇族ノ財產歲費及諸規則ハ別ニ之ヲ定ムヘシ
第六十二條 將來此ノ典範ノ條項ヲ改正シ又ハ增補スヘキノ必要アルニ當テハ皇族會議及樞密顧問ニ諮詢シテ之ヲ勅定スヘシ
   ・   ・   ・