🌏39)─1─廃仏毀釈。日本人による仏教迫害は同調圧力・空気圧であった。~No.114 ⑤ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本には3つの力が拮抗していた。
 政治権力=武士による幕府。中国の儒教=官学=朱子学
 宗教権威=外来宗教の仏教勢力。浄土真宗本願寺天台宗比叡山延暦寺日蓮宗諸派。国家鎮護=国家仏教。
 天皇の御威光=朝廷。皇室神道宮中神道吉田神道。日本の神道。 
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 奈良時代東大寺建立以来、日本には仏教迫害が数回起きていた。
 1回目は、キリシタンによる仏教破壊。
 戦国時代に北九州と河内北部で、攻撃的宣教師と狂信的キリシタンが仏教寺院と神社を襲撃して破壊した。
 一部の日本人キリシタンは、乱取りで捕らえた異教徒日本人(女性や子供)を中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人に奴隷として売って金を稼いだ。
 日本人の命は金で買えた。
 日本人は、金を稼ぐ為に日本人を外国人に売っていた。
 2回目は、江戸時代前期で、神道を篤く信仰する大名は神仏分離を行った。
 3回目は、江戸時代後期に、水戸藩の水戸学者(勤皇派)や朱子学者(儒学者)を中心として藩内で仏教寺院破壊を起こした。
 4回目は、明治初期に、朱子学者は無宗教国家神道を創ろうとした為に全国で廃仏毀釈が起きた。
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 久保紘之「日本人というのは、例えば仏像や浮世絵など日本画の多くが欧米の博物館で所蔵されているのを見てもわかるように、昔から海外で評価されてようやくその評価を理解する傾向があるでしょう。
 明治初期の廃仏毀釈令の時、全国で文化財クラスの仏像や仏画が廃棄された。奈良の興福寺では多くの仏像が叩き割られて薪(まき)になり、それで風呂を沸かした『仏(ほとく)風呂』で信者を喜ばせたなんて話もあるくらいです。
 手元にある〝お宝〟の価値が分からないんですよ。日本のアホなメディアや野党に踊らされる国民世論は。」
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 武士が、庶民(百姓や町人)を嫌い、差別していた。
 幕府や大名は、何を考えているか分からない底意地悪い庶民を信用せず「由(よ)らしむべし、知らしむべからず」の政治を行っていた。
 つまり、「生かさず殺さず、見捨てはしないが親身に深入りせず、打ち捨てておく、放置しておく」である。
 町人は、山や丘の上、河原の反対側などの安全な所で宴会しながら、武士達が殺し合う合戦を観戦していた。
 人足として狩り出された百姓は、戦場の屋敷を襲って金目の物を強奪し、合戦で混乱した村々で乱取りを行って女子供を捕らえて奴隷として売った。
 戦場となった村やその隣接の村の百姓は、合戦が終わるまで安全な場所に隠れ、合戦が終われば戦場荒らしとして死んだ武士の身包みを剥いで大きな穴に放り込んで埋め、敗れて逃げた武士を落ち武者狩りで惨殺して首を勝者に届けて恩賞にありついた。
 日本の合戦で負傷した武士で、勝者は百姓に助けられて無事に我が家に帰れたが、敗者は百姓に殺された。
 武士が、助からないような重傷で苦しむ敵の武士を「情け」で殺す事はなかった。
 日本の合戦は、西洋や東洋・中華など大陸の戦争とは違うのである。
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 しょせん日本人は、幾ら考えてもモノの価値や道理など理解できないし、如何に目を懲らしても真贋が見分けられない。
 自己判断力に自信がない為に、権威者の高説に頼り、海外の評価に頼った。
 贋作で無価値でも権威者が評価し海外で取り上げられると盲目的に信じ、誰かがそれは偽物で価値がないと正しく言っても誰も聞かず、逆に馬鹿で愚か者という烙印を押されて社会から追放される。
 日本において、話して通じ合う、話して解りあえる、話せば理解されるは、嘘である。
 権威者の発言や海外の評価は絶対真理となり、批判・否定すると村八分として除け者にされる。
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 しんぶん赤旗
 2008年11月15日(土)「しんぶん赤旗
 廃仏毀釈とは? その後の神道と仏教の関係は?
 〈問い〉 奈良の山辺の道沿いに、法隆寺に匹敵するお寺が明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で壊されたという跡がありました。廃仏毀釈とはどんなものだったのですか?その後、神道と仏教の関係は?(埼玉・一読者)
 〈答え〉 廃仏毀釈(棄釈)とは、明治維新政府の神道国教化政策にともなっておきた仏教の抑圧・排斥をさします。
 1868(明治元)年3月、新政府が「祭政一致」の立場から神道の国教化をはかり、一連の神仏分離令をだしたのを契機に、政府が設置した神祇官(じんぎかん)や各地の神職に扇動された勢力が寺院を襲撃し、僧侶資格を奪うなど、仏教にたいする排撃運動がおこりました。寺院の廃止や仏像の破壊、仏事の禁止などもおこなわれました。奈良の興福寺では、五重塔を解体し薪(まき)として売却しようとする企てもすすめられました。それまで神仏習合(神と仏教とが混ざり合っていること)だった多くの神社では、仏教的なものをひきはがす動きがひろがりました。
 こうした仏教排斥にたいして、真宗門徒などの廃仏反対運動が起こり、政府も廃仏毀釈は朝廷の望むところではないと弁解するなど、政策的な手直しにつとめ、この騒動は鎮静化にむかいました。こうして神道国教化政策は変転しますが、政府は1872(明治5)年4月には、通達で仏教寺院に神道の布教を命ずるにいたります。
 その後、明治政府は、軍人勅諭(82年)、明治憲法(89年)、教育勅語(90年)によって、全国民に神格化された天皇への崇拝と神社参拝を強要しました。国家神道体制のもとで格付けされた神社の上級神職は公務員化しました。
 僧侶の多くは、仏教の教えとともに天皇への忠誠を説きながら、旧檀家(だんか)制度に依拠して寺院と教団を維持しました。国家神道体制のもとで、日本は軍国主義侵略戦争の道を歩み、戦時体制下では「皇道仏教」も主張されました。
 国家神道体制は第2次大戦の敗北で破たんします。祭政一致専制天皇制の否定にたち、内心・信教の自由と政教分離の原則が明記された現憲法が成立しました。国家から分離された多くの神社は、神社本庁を結成し、仏教寺院と対等の宗教法人となって現在にいたります。神社本庁指導部は神道国教化をふくむ改憲運動を推進しています。
 神道の束縛から解放された仏教では今日、靖国神社への首相の公式参拝に反対し、平和の声をあげている伝統仏教教団が少なくありません。(平)
 〔参考〕藤谷俊雄「国家神道の成立」(『日本宗教史講座』第一巻所収)三一書房安丸良夫『神々の明治維新岩波新書
 〔2008・11・15(土)〕
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 廃仏毀釈とは、反宗教の朱子学による日本の国家儒教化の過程で、インド由来仏教に対する空気圧・同調圧力で起きた宗教改革であった。
 国家神道の実態は、非宗教の国家儒教である。
 儒教が仏教を排斥した原因は、奈良・平安時代に外来宗教の仏教が天皇の発願によって国家鎮護の国家仏教の地位を得て日本を支配してきたからである。
 何故、廃仏毀釈が起きたかといえば、日本人は元来が無宗教として神も仏も信じていなかったからである。
 同時に、日本人には哲学も思想も主義主張もない。
 日本人にとって、馬の耳に念、牛に経文、そして儒教もしょせん犬に論語である。
 それは、キリスト教であれ、マルクス主義共産主義)であっても同じである。
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 DIAMOND online
 日本史の一大汚点
 「廃仏毀釈」は
 いかにして行われたか?
 原田 伊織
{原田伊織(Iori Harada)
 作家。クリエイティブ・プロデューサー。JADMA(日本通信販売協会)設立に参加したマーケティングの専門家でもある。株式会社Jプロジェクト代表取締役。1946(昭和21)年、京都生まれ。近江・浅井領内佐和山城下で幼少期を過ごし、彦根藩藩校弘道館の流れをくむ高校を経て大阪外国語大学卒。主な著書に『明治維新という過ち〈改訂増補版〉』『官賊と幕臣たち』『原田伊織の晴耕雨読な日々』『夏が逝く瞬間〈新装版〉』(以上、毎日ワンズ)、『大西郷という虚像』(悟空出版)など}

 三流の維新 一流の江戸
 2017.2.8 4:50
 江戸という時代は、明治近代政権によって「全否定」された。
 私たちは学校の教科書で、「明治の文明開化により日本の近代化が始まった」と教えられてきたが、はたして本当にそうなのか?
 ベストセラー『明治維新という過ち』が話題の原田伊織氏は、これまで「明治維新とは民族としての過ちではなかったか」と問いかけてきた。
 そして、今回さらに踏み込み、「2020年東京オリンピック以降のグランドデザインは江戸にある」と断言する。
 『三流の維新 一流の江戸』が話題の著者に、「廃仏毀釈」についてはじめて聞いた。
 「廃仏毀釈」という
 仏教文化の破壊活動
  そして、政権奪取に成功するや否や、日本史の一大汚点というべき「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という徹底した仏教文化の破壊活動を繰り広げたのである。
 仏教伝来から既に千四百年近く経っていた明治維新といわれるこの時点に於いて、仏教という宗教及びその影響を受けた文化的、精神的諸要素は、既にこの美しい島国の風土を創り上げている主たる要素といってもいいほど大地に、空間に、人びとの心に浸み込んでいる。
 その意味では、薩長新政権が惹き起こした「廃仏毀釈」というムーブメントは、歴史上例をみない醜い日本文化の破壊活動であった。
 これは、俗にいう明治維新の動乱の中で、明治元(1868)年に薩長新政権が打ち出した思想政策によって惹き起こされた、直接的には仏教施設への無差別な、また無分別(むふんべつ)な攻撃、破壊活動のことをいう。
 これによって、日本全国で奈良朝以来の夥(おびただ)しい数の貴重な仏像、仏具、寺院が破壊され、僧侶は激しい弾圧を受け、還俗(げんぞく)を強制されたりした。
 ひと言でいえば、薩摩、長州という新しい権力者による千年以上の永きに亘って創り上げられた我が国固有の伝統文化の破壊活動である。
 現代のイスラム原理主義勢力タリバーンイスラム国を思えば分かり易いであろう。
文化財の破壊という点のみでいえば、イスラム原理主義者による文化財の破壊より規模は遥かに大きかった。
 発端は、新政権が出した太政官布告神仏分離令」と明治三(1870)年に出された「大教宣布」にある。
 学者は、これ自体が直接仏教排斥を指示したり、煽(あお)ったりしていないとするが、それは文章面(づら)のことであって当たり前である。
 これを後ろ盾として、仏教弾圧の嵐が吹き荒れたことは否定のしようもないことなのだ。
 私ども大和民族は、それまで千年以上の永きに亘って「神仏習合」というかたちで穏やかな宗教秩序を維持してきた。
 平たくいえば、神社には仏様も祀(まつ)って別(わ)け隔てなく敬ってきたのである。
 多元主義と一元主義
 これは、極めて濃厚にアジア的多元主義を具現する習俗であったといえる。
 それをいきなり廃止せよと命じ、神社から仏教的要素を徹底的に排斥することを推進し、ご神体に仏像を使用することも禁止したのである。
 これが、全国的に大々的な廃仏運動を燃え盛らせたのだ(平成日本人は、「神仏習合」が大和的な、おおらかで自然な姿であったことも分からなくなっている)。
 今、近代と呼ばれている私たちの世界は、一元主義によって行き詰まりを迎えているといえるだろう。
 かつての東西冷戦も現代の西欧社会とイスラム社会の衝突も、一元主義と一元主義の対立である。
 一元主義同士の戦いを一元主義によって収束させることは、残念ながら無理なのだ。
薩長権力が一転して狂ったようにかぶれた西欧文明はまもなく確実に終焉を迎えるであろうが、それは言葉を換えれば一元主義の破綻といっていい。
 もともと大和民族は、多元主義的な生態を維持してきた故に、多少の混乱期を経験しながらも長期的には平穏な生存空間を、政治的な版図(はんと)を超越して維持してきたのである。
 単に島国であったから、という地勢的な理由だけに頼るのは余りにも稚拙というものであろう。
 ところが、薩摩長州の下層階級が最初にかぶれた思想とは実に浅薄なもので、単純な平田派国学を旗印に掲げ、神道国教、祭政一致を唱えたのである。
 これは、大和民族にとっては明白に反自然的な一元主義である。
 ここへ国学の亜流のような「水戸学」が重なり、もともと潜在的に倒幕の意思をもち続けてきた薩長勢力がこれにかぶれ、事の成就する段階に差しかかって高揚する気分のままに気狂い状態に陥ってしまったのだ。
 こういう現象は、時代の転換期には間々あることではある。
とはいえ、神聖政治を目指す、神道(しんとう)を国教とする、仏教はそもそも外来のものである、すべてを復古させるべきだというのだから、これはもう気狂い状態に陥ったというべきであろう。
 では、一体どこへ復古させるのが正しいのか……当然、五世紀以前ということになってしまうのである。
 そもそも薩摩長州は、徳川政権を倒すために天皇を道具として利用したに過ぎない。
 そのために「尊皇攘夷」という大義名分が必要となった。
 これは、どこまでも大義名分に過ぎない。
 薩摩長州のリーダー層が純粋に尊皇精神をもっていたかとなると、幕末動乱期の行動、手法が明白に示す通り、そういう精神は微塵(みじん)ももち合わせていなかったとみるべきであろう。
 「尊皇攘夷」を方便として喚き続けているうちに本当に気狂いを起こし、「王政復古」を唱え、何でもかでも「復古」「復古」となり、大和朝廷時代が本来のあるべき姿であるとなってしまったのだ。
 その結果、寺を壊せ、仏像を壊せ、経典を焼け、坊主を成敗(せいばい)せよ、となってしまったのである。
 この「廃仏毀釈」を単なる民衆の行き過ぎた一時的なムーブメントとし、新政権の方針とは全く無関係であると学者はいい続けてきたが、それは違う。
 新政権政府は、僧侶に対して「肉食妻帯勝手なるべし」と、わざわざ命令している。
 僧侶に戒律を犯させ、仏法の教えにいうところの「破戒」をさせようと企図したことは明白である。
 凡(およ)そ政治施策を推進する上で、こういう手法は実(まこと)に知性、品性に欠ける下劣な手法であるといわざるを得ない。
 このようにして、俗にいう明治維新という動乱期に、日本の伝統文化、伝統芸術の根幹を担ってきた日本の風土に溶け込んで進化してきた仏教は、宗教としても文化的価値としても徹底的に弾圧されたのである。
 奈良興福寺と内山永久寺の惨状
 中でも奈良興福寺や内山永久寺の惨状は、筆舌(ひつぜつ)に尽くし難い。
興福寺だけで二千体以上の歴史を刻んできた仏像が、破壊されたり、焼かれたりしたことが分かっている。
 僧侶は、ほとんど全員が神官に、文字通り“衣替え”したり、還俗することを強制された。
 経典は、町方で包装紙として使われるというゴミ同然の扱いを受け、五重塔は二十五円(一説には十円)で売りに出された。
 薪(たきぎ)にするために売りに出されたのである。
 多くの宝物(ほうもつ)は、混乱に乗じた略奪等によって散逸し、二束三文で町方に出回ったのである。
 因みに、現在の奈良ホテル奈良公園は、当時の興福寺の敷地内である。興福寺と共に我が国四大寺の一つという格式を誇った内山永久寺に至っては、更に酷(ひど)いもので、徹底的に破壊され尽くし、今やその痕跡さえ見られない。
 姿を残していないのだ。この世から抹殺されてしまったのである。
 「廃仏毀釈」とは、それほど醜い仏教文化の殲滅(せんめつ)運動であったのだ。
「復古」「復古」と喚いて、激しく「尊皇攘夷」を口先だけで主張し、幕府にその実行を迫ってテロを繰り広げた薩摩長州人は、このように古来の仏教文化でさえ「外来」であるとして排斥したのだが、政権を奪うや否や一転して極端な西欧崇拝に走った。
 「尊皇攘夷」式にスローガンとしていうならば、今日からは「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」だと豹変したのである(後に福澤諭吉が唱えた「脱亜入欧」は、経緯、主旨が異なる)。
 これほど激しい豹変を、それも昨日と今日の価値観が逆転するといった具合に短期間に行った民族というものも珍しい。
 どちらの態度も、己のアイデンティティを破壊することに益するだけであることに、彼ら自身が気づいていなかったのである。
 日本人は、テンション民族だといわれる。
明治維新時に植え付けられたと思われるこの特性は、大東亜戦争敗戦時にも顕著に顕れた。
 その悪しき性癖は、今もそのまま治癒することなく慢性病として日本社会を食いつぶすほど悪化していることに気づく人は少ない。
 このことは、ほとんど近代政治家と官軍史観による教育の犯罪といってもいい過ぎではないだろう。
 文部官僚・岡倉天心のまごころ
 奈良興福寺の仏像修復に精魂を傾けたのは誰か。
 彼の努力がなかったら、今日私たちは興福寺で仏像を鑑賞することができないのである。
 それは、文部官僚岡倉天心である。彼が、長州人を中心とした西欧絶対主義者たちによって職を追われたことと、それにも拘わらずその後も地道に仏像修復に当たらなかったら、今日の興福寺さえ存在していなかったことを、私たちは肌身に刷り込んで知っておくべきであろう。
 『三流の維新 一流の江戸』
 著者・原田伊織からのメッセージ
 このたび、『三流の維新 一流の江戸――「官賊」薩長も知らなかった驚きの「江戸システム」』を渾身の気持ちをこめて書いた。江戸を描くのは初めてである。
 江戸という時代は、明治近代政権によって全否定された。
 歴史から抹殺されたといっても過言ではない位置づけをされて、今日に至っているのである。
 その存在力は、新政権の正統性を示すためだけに土深く埋められたといっていいだろう。
 しかし、今、世界がこの「江戸」という時代とその様式、価値観に何かを求めて視線を当てている。
 国内でも、リーマンショックで覚醒させられたかのように、無意識であろうが「江戸」へ回帰する「時代の気分」が、特に「江戸」が何たるかを全く知らないであろう若年層を中心に充満している。
 私は、一連の著作に於いて、史実に忠実に従えば、明治維新とは民族としての過ちではなかったかと問いかけてきた。
 これは、一度国家を壊しながらも今もなお政権を維持している薩長政権に対する問いかけでもある。
 もし、明治維新が過ちであったとすれば、その最大の過ちが直前の時代である江戸を全否定したことである。
 或いは、少なくとも江戸を全否定したことだけは、明白な過ちであったといえるのではないか。
 本書は、その是非を問うことをメインテーマとするものではなく、埋められたままの江戸を一度掘り返してみて引き継ぐべきDNAを解き明かしてみようと試みるものである。
 しかし、江戸は多様であり、多彩である。
 この拙い一篇の書き物で解き明かせるような貧弱な仕組みで成り立っていたものではない。
 そのことを理解しながら、その一端でも掘り起こすことができれば、私たちが子どもたちの時代の「無事」のために何を為すべきかのヒントが得られるものと信じたい。
 そして、世の諸賢が“寄ってたかって”全容を解明すれば、江戸は確かに未来構築の一つの指針になるであろうことを、私自身が固く信じたいのである。
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 ウィキペディア
 廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を破毀(破棄)し、仏教を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。中国においては3世紀以来廃仏の動きが強く、唐の韓愈や宋以後の朱子学派の廃仏論が大きな影響力をもった。とりわけ中国仏教史においては三武一宗の法難が有名である。日本においては江戸時代から儒学の興隆でしばしば起きるようになったが、とりわけ明治初期に神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で、多年にわたり仏教に虐げられてきたと考えていた神職者や民衆が起こした一連の動きを指すことが多い。各地で仏像・経巻・仏具の焼却や除去が行なわれたが、この事件が仏教覚醒の好機ともなり、日本近代仏教は廃仏毀釈をてことして形成されていった。

 明治期以前の廃仏運動
 仏教が日本に伝来した当初は『日本書紀』の欽明天皇敏達天皇用明天皇の各天皇記をもとにすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われたが、仏教が浸透していくことによってこのような動きは見られなくなった。戦国時代および安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。
 江戸時代前期においては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まり、影響を受けた池田光政保科正之などの諸大名が、その領内において仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った。
 徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏も規模が大きく、領内の半分の寺が廃された。

 江戸時代後期の廃仏運動
 光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなり、徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖・会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した。幕末期に新政府を形成することになった人々は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていた。
 また同時期に勃興した国学においても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。中でも平田派は明治新政府の最初期の宗教政策に深く関与することになった。

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