✨2)─3─皇族との結婚で会津・松平家の賊軍汚名がすすがれた。皇室による会津の復権。〜No.7No.8No.9 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本の最高神は、天皇・皇室の祖先神である女性神天照大神伊勢神宮内宮)である。
 天照大神の正統な男系父系(縄文人の遺伝子・Y染色体)の血には、日本民族日本人の罪を「受け入れなだめ癒す力」がある。
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 受け入れなだめ癒す力は、ローカルな日本の皇室にあって、グローバルな儒教キリスト教共産主義にはない。
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 アメリカには、南北戦争のわだかまりが根強く残り、外国人移民の増加でわだかまりが細分化して増幅する。
 イギリスには、イングランドウエールズスコットランド北アイルランドのわだかまりが存在する。
 日本には、南北朝戊辰戦争でのわだかまりは少なかった。
 国家内のわだかまりは、大陸を分裂させるプレート‐テクトニクスのように、国家・国民を切り離し消滅させる。
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 中国共産党の陰謀によって、現代日本日本民族日本人、琉球人、アイヌ人のわだかまりが生まれ分断の気配がで始めている。
 日本のわだかまりに手を貸す日本人が少なからず存在している。
 外国人移民(主に中国人移民)が増えれば、日本国内のわだかまりの数も増え増加する。
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 ヤマト王権・大和王朝は、国内外の有力豪族に前方後円墳による宗教的埋葬儀式(死)の許可と大王家・皇室との婚姻(生)で平和裡に統一した。
 朝鮮半島南部には前方後円墳が幾つも存在する。
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 グローバル化した現代日本人の中には、ローカルな民族の伝統、文化、宗教が嫌いな日本人がいる。
 日本が好きな日本人が2割、日本が嫌いな日本人が3割、好きでも嫌いでもない何方でもない日本人が5割。
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 靖国神社に、戊辰戦争で朝敵として戦って戦死した幕臣会津藩士などの佐幕派を祭神として祀る必要はない。
 神として祀らないのは、天皇に弓を引いた大罪人・逆賊・不敬者だからではなく、娘を男系父系親王と結婚させ皇室の一員になったからである。
 2000年の皇室伝統文化において、社会的人間的事件性の問題を抱えた一般人の息子が男系父系内親王と結婚して女系母系皇族を生んだ例はない。
 何故なら、女系母系皇族は世襲制万世一系の男系父系天皇制度の破壊者だからである。
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 女性天皇女系天皇の即位に賛成が7割以上。
 国連の小委員会は、世襲制万世一系男系天皇制度を女性差別である、と非難し是正を要求している。
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 現代日本人とくに反天皇反日的日本人達は、歴史力はなく、分析力は弱いし、発想力も想像力も乏しい。
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 2020年11月8日号 サンデー毎日「皇后の覚悟 工藤美代子
 貞明皇后からたどるプリンセスたち」
 第4部賢母 (3)妃殿下選考
 4人の親王を産んだ貞明皇后にとって、親王の結婚とは、皇子たちの幸せだけでなく、天皇家、及びこの国の安寧と繁栄を願うものであった。妃殿下選びには、貞明皇后らしい周到な準備がなされていたのである。
 裕仁親王(後の昭和天王)の1歳年下の弟宮である雍仁親王(やすひと:後の秩父宮)が誕生したのは、明治35(1902)年6月25日だった。節子(さだこ)妃の18歳の誕生日でもあった。年子で男児を出産した喜びは大きかっただろう。しかも次男の体重は兄よりも重い約3,300グラムで、しっかりとした赤ちゃんだった。
 それから2年半後の明治38(1905)年1月1日。国民の間に大きな不安をもたらした日露戦争で、日本がついに難攻不落といわれたロシアの旅順要塞を陥落させた。日本中が提灯行列や祝賀会に湧いた。そのわずか2日後の1月3日に、節子妃が3人目の皇孫を出産したのである。それは勝利を続ける帝国の隆盛と二重写しに見えたのではないだろうか。宣仁親王(のぶひと:後の高松宮)は兄宮たとより少し小柄だが、元気のよい新生児だった。3人の親王の母となった節子妃は、それでもやっと20歳という若さだった。
 明治45(1912)年に睦仁天皇(むつひと)が崩御して大正の御代となり、節子妃は節子皇后となった。大正4(1915)年に四男の崇仁親王(たかひと:後の三笠宮)が誕生する。
 崇仁親王は年齢が離れていたため、3人の兄ほどいつも一緒に育ったわけではなかった。崇仁親王が『おもうさま(お父様)私がすぐに物心つく頃からお具合が悪かった』とおっしゃるのを私は聞いたことがある。気のせいか少し寂しそうに響きがあった。家族揃って賑(にぎ)やかな団欒は、上の3兄弟だけの思い出なのだろう。
 さて、今回書いたように、長男の縁談は節子皇后にとって不本意なものであった。だから下の息子たちの結婚相手は、なんとしても自分で決めたいという強い意志を持っていたようだ。それが、いかに熟考を重ねた上での嫁選びであったかを、初めて私に教えてくれたのは、三笠宮の長男の、故寛仁親王(ともひと)だった。もう今から20年ほど前のことである。
 『工藤さん、貞明皇后がどれほど大変な方であったかということは、僕の伯父たちの結婚を見ればわかります。秩父の伯父さまには会津藩主だった松平家から、高松の伯父さんには徳川家から嫁を迎えたんですよ』
 『なるほど、明治維新以来の遺恨が、貞明皇后によって流されたわけですね』
 思えば私が答えると寛仁殿下が大きくうなずされたのをまだ覚えている。
 すでに何度も書いたが、当時の皇族にとって結婚は個人の問題ではなかった。皇室の弥栄(いやさか)を願うのは当然のことだが、さらに明治大帝が世界に発信した文明国としての地位を守り抜かなければならい。それは幾多の大戦を勝ち抜いた『神国』としての誇りでもあった。この誇りが後にとんでもない方向へと暴走する。だが、まだこの時代は神と天皇が確かに一体とみなされていて、国運はまさに神の掌(たなごころ)にあった。
 皇后の信任を得ていた母・信子
 秩父宮の結婚については、平成3(1991)年になって、勢津子妃が著した自伝といえる『銀のボンボニエール』に詳しい。
 勢津子妃は明治42(1909)年に松平恒雄の長女としてロンドンで生まれた。もともとは節子(せつこ)と名付けられてんだが、皇后の節子妃と字が同じなのは畏れ多いというので、結婚の直前に勢津子に改名した(本稿では勢津子妃で統一する)。
 まず先に松平恒雄について記すと、恒雄は旧会津藩松平容保の四男であった。祖父にあたる容保について勢津子妃は次のように書いている。
 『「勝てば官軍、負ければ賊軍」といわれるとおり、祖父はゆえなくして朝敵と呼ばれる身となった人なのです。白虎隊の悲劇をはじめ、若松城(一般的には鶴ヶ城)の内外で男に劣らず死力を尽くして戦った非戦闘員の娘子軍(ろうしぐん)も交えた会津戦争は、一ヵ月の攻防戦の後、ついに城内の北追手門に白旗を掲げ、このときから会津藩は苦難と屈辱の日々を送ったのでした』(『銀のボンボニエール』)
 これ以降は薩長勢が日本の政界を牛耳る時代が長く続いた。会津藩主のみならず、旧藩士や領民は筆舌に尽くしがたい辛酸を舐めたのである。日本列島にその後も長く深い亀裂が走った。
 明治35(1902)年に東京帝国大学を抜群の成績で卒業した恒雄は、トップで外交官試験に合格して、ロンドンに赴任。現地にいたまま迎えた妻が鍋島直大侯爵の四女の信子である。信子の姉は、梨本宮家や前田侯爵家など錚々(そうそう)たる名家に嫁いでいた。
 余談になるが、信子は節子皇后の信任が厚く、御用掛を長く勤めた。また恒雄は昭和11(1936)から20(1945)年まで宮内大臣として在職している。
 ……
 勝利や称賛のためではない
 娘時代の勢津子妃は、駐米大使となった父と共に一家でアメリカに住んでいた。ワシントンでフレンド・スクールに通って、猛勉強した時期である。この学校が戦後の日本の女子校と違うのは、競争心や成果主義を煽る教育をしないところだった。
 一例として、学校でのテニス・トーナメントを挙げたい。勢津子妃は勝ち残って最後の決勝戦を迎えた。いよいよその日におそるおそるコートに行くと、待っていたのは決戦相手の生徒のみ。先生もアンパイアも見物人も誰もいない。ただお互いにカウントを取って勝負は進み、勢津子妃はついに優勝してしまった。といっても翌日、学校へ行き『こういうスコアで勝ちました』と報告するだけなのである。やや拍子抜けしていたら、学期末になって、その年の優勝者ということで、立派な銀のカップを授与された。学校側と生徒の間の強い信頼関係があればこそだと勢津子妃は心を打たれた。
 こうした体験は、後の勢津子妃の人柄の形成に役立ったのではないだろうか。学問もスポーツも他人に競り勝つため、称賛を得るためにやるものではないということを自然に学んだのである。
 そんな勢津子妃が自身に降りかかって来た縁談に驚愕したのは昭和2(1927)年のことだった。勢津子妃の親友の樺山正子(後の白洲次郎と結婚した白洲正子)の父である樺山愛輔伯爵が、突然ワシントンの大使公邸を訪れた。樺山の妻は裕仁、雍仁両親王の御養育掛だった川村純義の娘の常子。そして樺山と松平恒雄学習院の同級生で肝胆相照らす中だった。
 実は樺山は重い使命を帯びて来訪した。節子皇太后松平家の長女(勢津子妃)を秩父宮の妃殿下に迎えたいので、両親及び本人を説得して応諾させてほしいとの思し召しだった。
 しかし、松平家には、この縁談を断っても無理がない幾つかの理由があった。まず、父親の恒雄は子爵としての籍を賜った時に、『今もなお旧会津藩士ということだけで、有為の人々が世に出ることをはばまれている。爵位など拝受しては彼らに相すまぬ』と言って、弟の保男に譲り、自分は一介の平民となっていた。当時の皇室典範では平民の娘を妃に迎えるのは許されなかった。
 また、秩父宮は次男であり、皇位継承権第1位の立場にある。もしも裕仁天皇の身に何かがあれば、秩父宮天皇になる。まだ、現在の上皇が生まれる以前のことだった。したがって秩父宮妃になることは、皇后になる可能性を否定できなかった。
 『平凡でいわば野育ちの不出来な娘』だから務まるはずがないということだ、母の信子の辞退のの理由であった。もっともこの点に関しては、すでに信子はアメリカに発(た)つ前に、節子皇太后から直接に娘を秩父宮の妃殿下に迎えたいという内示を受けたという説もある。信子は『わたしはなるべくお受けしたいと思うのだけれどね・・・』と松平家に長く仕えた養育係の高橋たかに語っていたという(保阪正康秩父宮昭和天皇』)
 戊辰戦争の傷を縫い合わせた
 ……
 それでも勢津子妃は樺山伯爵の説得を受け付けず泣き続けた。だが、最後に養育係だった高橋たかの口から『会津魂』という言葉が漏れ出るのを耳にして、天啓のように決心がついた。
 昭和3(1928)年9月28日、結婚式が挙げられた。これで賊軍の汚名がすすがれたと会津の人々の喜びは一入(ひとしお)だったという。
 その意味では三男の宣仁親王の結婚では、節子皇太后は早々と手を打っていたといえる。高松宮喜久子妃の著書『菊と葵のものがたり』(中央公論社)によると、その結婚は、喜久子妃が2歳の時から決まっていたという。明治44(1911)年生まれの喜久子妃が2歳というのだから、大正2、3年だろうか。喜久子妃は最後の将軍、徳川慶喜の孫娘であり、母は有栖川宮家の出身である。もう両親からし公武合体の見本だった。さらに遡(さかのぼ)れば、徳川慶喜の母も有栖川宮家から迎えられている。節子皇太后にとっては、まさに理想的な家系だった。
 同書の中で喜久子妃が語った言葉で印象深い。
 『私たちの結婚は、貞明皇后様(大正天皇皇后)がお決めになったような気がする。秩父宮妃殿下も会津松平家からいらっしゃった方ですし、三笠宮妃殿下のご実家の高木正得子爵は幕臣でしょう。こっちは徳川慶喜の孫。だから嫁が3人寄ると、なんだかみんな、賊軍の娘ばかり揃ってるかたちじゃない。それだけに、会津でもご結婚が決まると、後家来衆はたいそう喜んだそうです』
 世にいう戊辰戦争で、日本全土に振るわれた大鉈(おおなた)の傷口を、節子皇太后は巧みに縫い合わせたのであった。静かな品性が漂う勢津子妃に比べて、喜久子妃は行動的で明るい女性だった。……」
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銀のボンボニエール―親王の妃として (講談社プラスアルファ文庫)
菊と葵のものがたり