➰4)─5─大正12年、関東大震災(9月)と虎ノ門事件(12月)。摂政宮裕仁親王を襲う無政府主義テロリスト。~No.17 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昭和天皇は、歴代天皇の中で最も日本人に嫌われている天皇である。
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 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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 大正12(1923)年9月1日 関東大震災
 9月16日 甘粕事件。白色テロ
 12月27日 虎ノ門事件。無政府主義者の難波大助は皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)を狙撃したが暗殺に失敗した。
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 大正13(1924)年1月5日 朝鮮人テロリスト集団の義烈団による二重橋爆弾事件。
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 昭和6(1931)年9月18日 満州事変。
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 昭和7(1932)年1月8日 桜田門事件。上海系朝鮮人テロリストによる昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件。
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  ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「虎ノ門事件」の解説
 1923年 12月 27日に第 48帝国通常議会の開院式へ向う摂政宮裕仁親王の車が虎ノ門外においてテロリスト難波大助に狙撃された事件。弾丸は車の窓を射抜き入江為守侍従長が顔に負傷した。難波はその場で捕えられた。難波は山口の名家に生れ当時 25歳,19年上京してのち,貧民窟の実情を見てテロリストとなり,一時共産主義に近づいたが,関東大震災の渦中で大杉栄社会主義者在日朝鮮人が残忍な虐殺,迫害を受けるのをみ,報復テロを決意した。同事件の責任を負って山本権兵衛内閣は総辞職,警視総監湯浅倉平,警視庁警務部長正力松太郎は懲戒免職となった。難波に対する裁判は 24年 10月1日より大審院長横田秀雄を裁判長に開かれ,同年 11月 13日死刑を宣告された。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事
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 産経新聞昭和天皇の87年
 白昼のテロリズム 狙われた皇太子は、犯人家族を救おうとした
 2018/11/24 07:00
虎ノ門事件
 関東大震災から4カ月後、国民の心を、再び激震が襲った。
 大正12年12月27日午前10時40分、裕仁皇太子は帝国議会の開院式に臨席するため、車で議事堂へ移動中だった。その車列が虎ノ門交差点にさしかかったときだ。沿道の拝観者の中から一人の男が飛び出し、ステッキに仕込んだ散弾銃を発砲。弾丸は英国製の御召自動車の窓ガラスを貫通し、飛び散ったガラス片で同乗の東宮侍従長、入江為守が軽傷を負った。
 裕仁皇太子は無事だった。平然と議会の開院式に臨み、何事もなかったかのように振る舞ったと、宮相の牧野伸顕が日記に書いている(※1)。
 一方、政府と警察当局は上を下への大騒ぎとなった。白昼に皇太子が狙撃されたのだ。首相の山本権兵衛は恐懼(きょうく)戦慄し、同日中に全閣僚の辞表をまとめて提出。裕仁皇太子から辞職におよばずと慰留されたものの、間もなく総辞職した。
 ほかに警視総監と警視庁警務部長が懲戒免職、犯人の通った小学校校長と担当教諭も辞職、郷里の山口県知事は減俸、犯人が上京途中に立ち寄っただけという京都府の知事も譴責(けんせき)になるなど、裕仁皇太子の意思から離れて関係者総懺悔(ざんげ)の様相となった。そうしなければ治まらないほど、世情は騒然としたのである。 
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 犯人は難波大助、当時24歳の共産主義者だった。狙撃後に「革命万歳」と連呼しながら車を追いかけ、警官に取り押さえられた。
 動機は、関東大震災の混乱に乗じて惨殺された大杉栄無政府主義者共産主義者らへの弾圧に憤慨したからだとされる。翌13年11月13日、大審院で死刑判決を受けたとき、難波は「日本共産党万歳、ソビエト共和国万歳」と叫び、2日後に処刑された。
 難波は山口県周防村(現光市)の名家に生まれた。父の作之進は現職の代議士で、その父との反目が、難波をテロリストに走らせる一因にもなったという。
 大逆罪(※2)の犯人を身内から出した家族のその後は悲惨だ。作之進は自宅の門を青竹で結んで閉門蟄居(ちっきょ)し、兄弟らも会社を辞め、世間の目を逃れるように隠栖(いんせい)した。
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 後日談がある。
 事件から2年半後、山口県に行啓した裕仁皇太子が、随行の入江に言った。
 「難波の家族は近頃どうしているだろうか」
 入江は、この言葉を山口県知事に伝え、そこに憐憫(れんびん)の情を読み取った知事は、難波家の救済に奔走した。
 これは、裕仁皇太子の意向に沿った、牧野や入江らの演出だった。政治問題化しないよう、さりげない形で難波の家族を救おうとしたのだ(※3)。
 皇室とともに、国民は関東大震災後の荒廃から、ようやく立ち直ろうとしていた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
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 (※1) この日の「牧野伸顕日記」には、「(事件後も)殿下には平常と毫(ごう)も御変はりなく、(中略)御渇きにても在らせられずやと飲物にても差上げてはと、武官長より伺はしめたるに、入用なしと被仰(おおせられ)、直に式場に臨ませられ、常よりは一層目立ちて御立派に勅語を賜はり、一同感激の状壇上より見受けたり」と書かれている
 (※2) 天皇太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太孫に対し危害を加え、または加えようとする罪。刑法73条により「死刑ニ処ス」とされていたが、日本国憲法施行後の昭和22年に削除された。戦前に大逆罪が適用されたのは、 (1)明治天皇の暗殺を計画したとして幸徳秋水ら多数の無政府主義者社会主義者らが検挙され、うち12人が処刑された明治43年の幸徳事件 (2)大正天皇の暗殺を計画したとして朝鮮人無政府主義者と内縁の日本人妻が検挙され、死刑判決を受けたが恩赦で無期懲役となった大正12年の朴烈事件 (3)同年末の虎ノ門事件 (4)朝鮮独立運動の活動家が昭和天皇の馬車列に向かって手榴弾を投げつけ、処刑された昭和7年の桜田門事件-の4例
(※3) 山口県知事の大森吉五郎はその後、難波の家族を別姓の親族に入籍させる手続きをとって社会に復帰させ、裕仁皇太子に報告した
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 【参考・引用文献】
宮内庁編「昭和天皇実録」10巻
牧野伸顕記、伊藤隆ほか編「牧野伸顕日記」(中央公論社
今井清一著「日本の歴史23 大正デモクラシー」(中央公論新社
○森長英三郎著「難波大助事件」(鶴見俊輔ら編「天皇百話 上の巻」〈筑摩書房〉所収)
○大塚有章著「難波大助と家族たち」(同)より
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 虎ノ門事件(とらのもんじけん)は、1923年(大正12年)12月27日に、東京都東京市麹町区虎ノ門外で、皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が無政府主義者の難波大助から狙撃を受けた暗殺未遂事件。
 関東大震災後に頻発したテロ事件の一つで、震災復興を進めていた第2次山本内閣は、引責による総辞職を余儀なくされた。
 概要
 1923年(大正12年)12月27日、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇、当時22歳)が摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、貴族院へ向かうため御料車(自動車)に乗り、午前10時35分に皇居を発った。
 ところが、10時40分頃、皇太子の御召自動車は虎ノ門外(虎ノ門公園側)を通過中、芝区琴平町一番地西洋家具商あめりか屋前の群衆の中にいた難波大助が警戒線を突破して接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃した[2]。銃弾は皇太子には命中しなかったが、車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長・入江為守(入江相政の父)が軽傷を負った。自動車はそのまま目的地の貴族院に到着[2]。その時点で周囲が初めて入江の出血に気づいた。
 なお、皇太子は事件後側近に「空砲だと思った」と平然と語ったとされている。皇太子は貴族院での開院式を終えて赤坂区東宮御所に戻り、内閣総理大臣山本権兵衛・警視総監湯浅倉平や皇族・武官・見舞客に引見したあと、午後には参殿した秩父宮雍仁親王および高松宮宣仁親王とテニスをおこなった。沼津御用邸滞在中の大正天皇貞明皇后には、東宮大夫珍田捨巳が派遣された。
 一方、難波も逃走を図ったが、警戒中の私服警察官が難波に飛びつくと、周囲の群衆が一斉に押し寄せて難波を袋叩きにした。警察官らは難波の身柄を確保するために群衆に制止を命じたが、最初に飛びついたのが私服警官だったため、自分たちが犯人を捕えたのだと思い込んでいた群衆はなかなか制止を聞かず、警察官が身をもって難波を殴打からかばわなければならなかった。
 難波は逮捕された後、大逆罪で起訴され1924年大正13年)11月13日に死刑判決を受けた。11月14日、皇太子と皇太子妃〔後の香淳皇后〕は裁判判決文を受け取る。11月15日、難波は死刑を執行された。
 この事件の背景には、関東大震災後の社会不安や大杉事件・亀戸事件・王希天事件などの労働運動弾圧に対する社会主義者達の反発、不満があったが、なぜそれが皇太子銃撃になったのかは不明のままである。
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 昭和天皇肖像画の写真を燃やす動画が日本の現代アートに、賛成する日本人が多数で、反対する日本人は少数であった。
 昭和天皇は、歴代天皇の中で最も日本人に嫌われている天皇である。
2020-02-18
🦲4〕─18─表現の自由。日本の現代アートは「人の写真(例えば皇族の写真)を燃やす」こと。〜No.19  
2020-11-07
🦲4〕─21─あいちトリエンナーレ2019。愛知県知事リコール運動敗北。〜No.22 
2021-10-14
🦲4〕─24─昭和天皇肖像燃やす動画と「表現の不自由展かんさい2021」。〜No.25 
 韓国・北朝鮮中国共産党アメリカ、ロシア、その他、多くの国々は昭和天皇ヒトラーと同罪の非人道的戦争犯罪と認めている。
 アメリカの一部では、昭和天皇が住んでいる東京・皇居の上に原爆を投下して焼き殺す事を望んでいた。
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 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 共産主義の5%支配理論。
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 有能な共産党員教師が3人いれば、日本の学校イデオロギー支配できる。
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 昭和天皇「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまう。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだ日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はない。そのためなら、自分はどうなっても構わない」(1945年8月10日聖断)
 天皇にとって民(日本民族)は「大御宝(おおみたから)」である。
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 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
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 靖国神社の心・志・精神とは、人道貢献と平和貢献の事である。
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 歴史的人道貢献とは。昭和天皇A級戦犯である東条英機松岡洋右松井石根らは、ソ連ポーランド侵略から逃げてきた数万人のポーランドユダヤ人を保護し、ナチス・ドイツゲシュタポと日本人の反ユダヤ派、親ドイツ派の上海ホロコーストを阻止しユダヤ人難民数万人を敗戦後まで守り続けた。
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 昭和天皇の平和貢献とは、戦争には不同意であったが政府と軍部が決定すれば裁可するが、戦争が始まれば早期に講和を行って戦争を止める事を求め続けた。
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 日本国内には、天皇制度を廃絶しようとしている反天皇反民族反日的日本人達が高学歴の知的エリートや進歩的インテリに数多く存在している。
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 現代の日本人、政治家・官僚・学者そしてメディア関係者も誰も重大問題とはせず、沈黙、つまりは黙認している。
 現代の学校歴史教育では、昭和天皇が行った数々の歴史的偉大な功績は否定され抹消されている。
 つまり、生徒・学生で昭和天皇は嫌いが大多数で、昭和天皇が好きだという子供は異常・おかしいとされている。
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 昔の日本人は、戦場で人殺しの戦争犯罪を行ったが、同時に戦場で人助けの人道貢献や平和貢献を行った。
 現代の日本人は、戦争犯罪を行わないが、人道貢献や平和貢献も行わない。
 事実、中国共産党ウイグル内モンゴルチベットで行っている人道に対する犯罪であるジェノサイドから目を逸らしている。
 興味も関心もないと公言する親中国派・媚中派の政治家や官僚が存在する。
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