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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
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天皇の正統性とは、最高神の女性神・天照大神の血・心・志を一系の一族が男系父系の血筋・血統・皇統として受け継ぐ事である。
天皇の正統性の源は、永遠に不変な民族宗教の民族神話であり、数万年の民族の歴史と数千年の伝統文化である。
そこに、女系母系は存在しない。
重要な事は、人の意思で法の正当性は変えられるが血の正統性は変えられない、と言う事である。
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現代の政治家や官僚は、昔の政治家や官僚と比べて歴史力・文化力・宗教力・科学理解力など全ての面で劣っている。
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2020年11月22日号 サンデー毎日「皇后の覚悟 工藤美代子
貞明皇后からたどるプリンセスたち
第4部 賢母 (5)国家の礎
病弱だった大正天皇を皇后として支え、若い昭和天皇を皇太后として支え、皇室の将来、この国の未来のためになすべきことを判断し実行してきた貞明皇后。連載の最後に、その核となる思いに迫る。
秩父宮、高松宮、三笠宮の妃殿下たちは、嫁として節子(さだこ)皇太后に心酔していた。では、昭和天皇の后(きさき)だった良子({ながこ}追号は香淳皇后)はどうだったのだろう。往年を知る人たちに聞いてみると、とくに波風は立たなかった、何より節子皇太后は両陛下を支える姿勢を常に示していたという言葉が返ってくる。
一方、『高松宮日記・第8巻』には気になる記述もある。昭和20(1945)年の2月になると、宮城(きゅうじょう)や皇太后の住む大宮御所周辺はアメリカ軍の空襲の標的となった。そして4月15日には大宮御所の庭に『百数十発焼夷弾ガオチテ大サワギ』の事態となる。皇太后や天皇皇后の疎開も検討されたが、3人とも動こうとはしなかった。
ついに5月25日の空襲で、大宮御所は全焼した。節子皇太后は御所から庭づたいに下りたところにある防空壕へ避難をして助かった。防空壕に移ろうと廂(ひさし)の下に入った直後、廂の上で焼夷弾が炸裂したというのだから、まさに危機一髪である。
炎上したのは両陛下のいる御所も三笠宮邸も同じだった。東京にあった秩父宮邸も日本館と倉庫のみ残して焼けた。高松宮邸だけがかろうじて被爆を免られたため、翌朝には喜久子妃が車で大宮御所に駆け付けた。市中の電線は垂れ下がり、御所の建物は跡形もなく、左横の庫からは、まだぼうぼうと火が燃え盛っている。御所から少し坂を下ったお茶畑の中にある防空壕に、節子皇太后が端座していた。宮城も大宮御所も焼け落ちたと喜久子妃が知らせたところ、皇太后は驚いたふうもなく、『これで国民といっしょになった』と、満足そうに言った。
それからは、秩父宮妃、高松宮妃、三笠宮妃の3人は、乏しい食材をやりくりして料理を作り、毎日のように皇太后に食事を届けた。この空襲で電気、水道、ガス、電気のインフラが破壊され、家を焼き出された人々は塗炭の苦しみを味わっている。皇族とて同じだが、嫁たちは助け合いながら姑(しゅうとめ)の身を案じる毎日。それはそのまま、どこにでもある普通の家庭の情景と変わらなかった。
その間、天皇皇后はどうしていたのだろう。5月28日の『高松宮日記』を引用してみたい。
『大宮ト御所トノ御仲ヨクスル絶好ノ機会ナレバオ上カラ御見舞ニ行ラツシヤルナリ赤坂離宮ニオ住ミニナル様御ススメナリ遊バシタ(ラ)ヨイトノ事カラ、マタ私手紙カイテソノ事申シ上グ』
つまり大宮御所が焼けたとなると、皇太后がどこに御動座するかが問題だった。天皇が東京にいる限り自分は疎開しないと皇太后は決意している。しかし、敵軍の爆撃が帝都に雨霰(あめあられ)と降って御所も炎上するようでは、そんな建前を聞き入れてばかりはいられない。
国家の危機が家族の危機へと
これを機会に両陛下が防空壕の皇太后を御見舞いに上がれば、両者の関係が改善する絶好の機会だと高松宮は思って手紙を認(したた)めた。戦争末期となると、それぞれの皇族の緊張感も極限に達していて、天皇と皇太后の『御仲』も良好ではなかったのがわかる。それを取り持とうとする高松宮の努力は、残念ながら報われなかった。
5月31日の高松宮日記には、御所から連絡があり、両陛下が皇太后のところを訪れるか、あるいは皇太后を招待するかと提案した件は『宮相等も相談した結果、当分のうちは実行不可能となり』というすげない返事だった。赤坂離宮のこともやんわりと断られ、高松宮は大いに意気消沈する。時節柄、自分がややもすれば筋を離れていろいろ提言することに、天皇はことさら反対の意を示したのかもしれないと思った。
『悲シイ、眼ノ裏ガニジム心地ス』という言葉に、この時期の難しい家族関係が読み取れる。戦争によって、情と理が冷たく切り離されていた。国家の危機は家族の危機にも及んでいたのではないか。
とはいえ、天皇もいつまでも皇太后に会わないわけにはいかなかった。なんとしても皇太后に疎開を説得する必要があった。
両者の往来が急に活発になるのは6月14日からである。小田部雄次『昭憲皇太后・貞明皇后』には、この時期の流れが克明に記されている。すでに皇太后の疎開のために、軽井沢に近藤別邸の改造工事が始められていた。
空襲の合間を縫って天皇皇后が防空壕を訪ねたのは6月14日だった。ここで、軽井沢へ疎開の話が出たらしい。興味深いのは、同行した入江相政の日記に書き記された内容だ。午後1時半に出発して、3時半頃まで防空壕で話し合った。よほど天皇にとって負担だったようで、帰邸すると『夕方まで御寝、御気分がお悪さうである』と書いてある。6月25日の皇太后の誕生日も、入江日記には『午后大宮御所へ恐悦を申入に出る』とあるのみだ。特に両陛下が心を込めたお祝いを贈ったという記述はない。
ふたたび『昭憲皇太后・貞明皇后』に戻ると、6月28日に今度は皇太后が皇居に挨拶に行った。疎開についての返事だったろうとある。さらに7月19日に良子皇后が単身で皇太后のもとを訪ねた。その後、7月31日になって皇太后の疎開は8月20日に決まり、8月6日にはまた良子皇后が単独で大宮御所を行啓している。
こうして見ると、もちろん皇后が簡単に外出もできないのは理解するにしても、3人の弟宮の妃殿下たちに比べて、良子皇后との距離はかなり隔たっていたと推測できる。良子皇后は何事もおっとりとしていた。すべてにおいて万全を気配りをする皇太后とは、その性格に水と油ほどの違いがあった。
8月15日の玉音放送で国民に終戦が知らされた。衝撃、不安、悲哀、憤怒、悔恨などさまざまな情念が日本本土を駆け巡った。16日に高松宮は皇太后を訪れている。午後5時半に行って、9時40分に帰ったと記されているので、じっくりとこの先のことを話し合ったのだろう。他に誰が同席したかは不明だ。
予定通り20日に皇太后は軽井沢に出発した。午後2時40分、秩父宮妃、高松宮夫妻、三笠宮夫妻は、軽井沢へ旅立つ皇太后を見送り、それから御所へと向かった。
戦争に敗れたとなれば、待ち受けているのは苦難の日々である。それでも皇族としての絶対的な責務からはある意味で自由になった。国家を勝利に導くのが戦争中に課せられた皇族の義務だったからである。
『爆弾にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも』
昭和20年に詠んだとされる天皇の御製(ぎょせい)だ。とにかく終戦に持ち込むことが目的であり、わが身はどうなってもよいと思ったという言葉に偽りはなかったろう。
やがてマッカーサー連合軍最高司令官が日本に乗り込んできて、社会は大きな変革を遂げる。それとは別に、皇太后にはやらなければならないことがあった。それは、戦争中にこじれてしまった家族関係の修復だった。それぞれの宮家に仕える職員たちも承知していたろう。
家長の天皇を仰ぎ見て歩んだ
皇太后は軽井沢に同年12月まで滞在した後、東京経由で沼津の御用邸に移っている。沼津滞在中の皇太后について、坊城俊良(皇太后宮大夫)が自著『宮中50年』の中で、きわめて印象的なエピソードを紹介している。
昭和21(1946)年6月のこと。天皇皇后による静岡県の戦災地への御巡行があった時、久々に沼津の御用邸で皇太后と対面した。その晩は良子皇后だけが沼津に残って一泊している。皇太后と皇后が一緒に泊まることは未(いま)だかつてなかった。2人は深夜までずっと話し込んだ。戦争中を知っていた職員たちは、特別な思いでその情景を見守っている。
『晴れ晴れと、そして柔く温い光のもれるお部屋を仰いでは、奉仕の者も、警衛の者も、その夜はひとしおもの静かに、それぞれもの思いにふけった』のだった。
翌日になって、行幸日程を終わられた天皇の乗ったお召し列車は沼津に停(と)まった。列車を降りた天皇は、駅で出迎える皇太后を中へ招き入れ、皇后と3人で食卓を囲んで話し始めた。
そんな姿が一般の人の目に触れるのはまさに前代未聞のことだつた。駅に集まっていた人々は万感胸に迫るものがあったのだろう。あの戦争が終わってまだ1年もたっていない。
やがて群集の中から『天皇陛下万歳』の叫びが聞こえ、誰かが歌い出すともなく『君が代』の大合唱が沼津駅のホームに響いた。天皇は立ち上がり、皇太后も皇后も一緒に群集の方へ向かった。気がつけば、歌っている人々も駅員たちも職員も、皆が滂沱(ぼうだ)の涙に暮れていた。とにもかくにも戦争は終わり、天皇一家が仲良く語らう姿が、平和の訪れを実感させたのだろう。著者の坊城には、これが天皇と皇太后との和解だと映ったのかもしれない。
皇太后が皇室に入内(じゅだい)したのは15歳の時だった。その後の生涯のすべてを懸けて、彼女が残したかったのは、親から子へと引き継がれる家族の形ではなかったろうか。
何があっても家族が支え合えば国家の礎となる。その家族の中には宗教、儀式、思想、道徳、言葉などさまざまな分野があった。それを載せた土台をより強固にするのが、自分の使命だと思っていた。なぜなら、皇太后は国家の母であり、国民の母だからである。時には狂信的と言われ、好戦的と評価され、権力志向が強いと批判されても皇太后は一途(いちず)の家長の天皇を仰ぎ見て歩んだのだろう。
あの明治維新で、皇室が目指したのは帝国の隆盛であり、西欧の先進国の仲間入りをして、アジアの盟主となることだった。その夢は敗戦によって空(むな)しく潰(つい)えたが、皇太后が最後まで守りたかった家族の絆は、ふたたび温かい情が通い合うようになっていた。
そして迎えた昭和22(1947)年10月、直宮(じきみや)以外の皇族の皇籍剥奪が決まった。実に11宮家・51人の皇族が一般人となったのである。残ったのは秩父宮、高松宮、三笠宮の3家だ。元皇族の将来はどうなるのか。暮らし向きはどうなるのだろうといった不安は募ったはずである。しかし、皇太后の態度は毅然としていた。
自分の言葉で語る
皇籍離脱を伝えるラジオ放送を聴いた時、皇太后宮職事務主管の筧素彦に言った。
『これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまは少し良すぎました』
同じく、三笠宮妃には『昔の4親王家になるわけですね』と言い切った。かつて有栖川宮、伏見宮、桂宮、閑院宮(かんいんのみや)の4家が代々親王の称号を与えられた時代があった。その頃に戻ればよいという意味である。
こうした言葉は、すでに皇太后が皇室の変転を予測していたと思わせる。あるいは、あの大空襲で大宮御所も宮城の賢所(かしこどころ)も豊明殿も紅蓮(ぐれん)の炎に包まれた時に、明治時代から続いた近代皇室もまた、燃え盛る火の中で滅亡したと感じ取っていたのかもしれない。後は、自分のあずかり知らぬ皇室となる。それは維新前に戻ったと考えればよいと自分自身を納得させたのではないだろうか。
戦後の皇太后は一般の人々との触れ合いを喜び、質素な生活すら楽しんでいるように見えた。昭和26(1951)年5月17日、突然この世を去っている。享年66.追号は貞明皇后と定められた。
この日から8年後の昭和34(1959)年4月10日、明仁皇太子と正田美智子さんの婚儀が執り行われた。現在の上皇、上皇后である。すでに皇族も直宮の家族しかいなくなり、華族制度も廃止になっていた。そこに一般家庭から入内した美智子さんに対する国民の期待は大きかった。美しく賢く、何よりも自分の言葉で思いを語る皇太子妃の出現に、誰もが感銘を受けた。
戦後の象徴天皇としての有りようを模索したのは昭和天皇だった。それをはっきりと国民の前に可視化して示したのが、平成の天皇と皇后である。新たな皇室には新たな時間が流れ始めた。天皇、皇后はこうあるべきだとか、妃殿下はこうすべきだといった規定を社会が押しつけるのは難しい時代に突入した。これからは、より自由に、より多彩に、それぞれの皇族が自分の人生観に沿った生き方をして、そこに幸せを見いだすようになるのだろう」
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天皇家・皇室を、敬意を持ち守り弥栄を願う日本人は2割、税金泥棒として憎む日本人は3割、好きでもなければ嫌いでもなくその時代の空気圧・同調圧力に流される中身のない日本人は5割。
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日本国民の7割以上が、民意はジェンダー・女性差別の元凶になっている、正統な血筋・血統・皇統を原則とする男系父系継承天皇を止め、皇統のみを正当性とする非血筋・非血統の女系母系継承天皇に変える事に賛成している。
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日本民族は縄文人の子孫として日本列島に住んできた。
天皇家・皇室は、制度としては約2000年と短い歴史だが、皇室祭祀は数万年前の縄文時代のアニミズム(自然崇拝・精霊崇拝・大地母神崇拝・産土神崇拝)から受け継がれている。
皇室祭祀とは、私的宗教儀式ではなく、公的宗教儀式でもなく、くだらない国家的政教分離の原則を遥かに超えた超次元の超時空の自然崇拝と生命讃歌の高尚な根源祭祀である。
現代日本から、愚かしい国家的政教分離の原則によって、皇室の根源祭祀が低俗な私的宗教祭祀として葬り去られようとしている。
現代の日本人のグローバルな思考力では、この重みは理解できなくなっている。
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特殊な一族(例えば天皇家・皇室)であっても、民族・国民であっても、生物の種・
族であっても、子孫を残す為には最小限の個体数が必要で、その最小限の個体数を割れば自然消滅する。
そうして死滅したのが、古くはネアンデルタール人であり、近くは北米大陸の空を飛んでいた旅行鳩である。
その運命は、日本民族でも同じである。
一対のオス・メスから種は増えないし、一組の男女から民族は生まれない。
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貞明皇后は、シベリア出兵時に日本陸軍がロシア人共産主義者の虐殺から救出したポーランド人戦争孤児を収容した東京の施設を訪し、栄養不足と病気で衰弱していたポーランド人戦争孤児を慰め、祖国に帰った後の未来に夢・希望を持つように励ました。
ポーランド戦争孤児達は、皇室と軍国日本に感謝して「日の丸」の小旗を振り、帰国する船の上で涙を流しながら「君が代」を斉唱し別れを惜しんだ。
国旗「日の丸」と国歌「君が代」には、歴史的重みがあった。
日本人軍国主義者は、手弁当で、責任を持ってポーランド戦争孤児達を本国に送り届けた。
1939年9月のナチス・ドイツのポーランド侵攻に際して、ポーランドの日本大使館と陸軍武官は大きくなった元ポーランド戦争孤児達をドイツ軍から助けた。
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シベリア出兵時、ロシア人避難学童やユダヤ人やロシア人の難民も日本軍によって助け出された。
が、ロシアは、日本軍に感謝しないどころかその事実を認めず、日本を軍国主義であったと罵詈雑言を投げかけ、日本人(主に女性や子供)の大虐殺を謝罪せず、暴力的犯罪的に不法占拠した北方領土4島の返還を拒否し軍事要塞化している。
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昭和天皇は、親ユダヤ派で、人種差別に反対し、原爆に反対し、平和を望んで戦争に反対し、ヒトラーのファシズムとスターリンの共産主義が嫌いで、ナチス・ドイツから逃げてきた数万人のポーランド・ユダヤ人難民の保護を陸軍に望んだ。
昭和天皇は、日中戦争や対米英戦争=太平洋戦争を回避する事を望んだし、1945年6月の沖縄戦敗北により早期戦争終結を望んだ。
アメリカ・イギリス・ソ連は、昭和天皇が何を考え何を望んでいるかを全て知った上で、日本を戦争に追い込むべく対日強硬策を講じていた。
連合国側が、昭和天皇の降伏の意思を認めれば二発の原爆投下とソ連参戦前に戦争は終わっていた。
問題は、昭和天皇の命と天皇制度の存続、つまり2000年以上の歴史を持つ民族伝統文化である国體の護持であった。
国際世論は、日本文化を邪悪とし、昭和天皇を自殺したヒトラーと同罪の戦争犯罪者として死刑を含む極刑を強要し、天皇制度を廃絶する事を求めていた。
昭和天皇は、命の危険があろうとも国家元首・大元帥として一人毅然と立ち逃げ隠れせず、ウソ詭弁を労して言い訳せず、退位して逃げず、全ての責任と負うべき義務・果たすべき義務は全て引き受けた。
全ての責任や義務から解放されるのは退位する時で、退位する時は死ぬ時との覚悟から、国内外からの罵詈雑言に耐え、息を引き取るまで非難・批判という針のむしろを孤独に歩き続けた。
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日本民族は、昭和天皇・皇族・皇室を守る為(国體護持)に死を覚悟して絶望的な戦争を「最後の勝利」と「神風」を信じて戦った。
それが、靖国神社の心・志であった。
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東条英機・松岡洋右・松井石根らA級戦犯達は、親ユダヤ派の昭和天皇の想いを忖度して、自己犠牲精神でポーランド・ユダヤ人難民達をホロコーストから守り通した。
それが、靖国神社の精神である。
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その時、反天皇・反宗教無神論の日本人共産主義者や反天皇反日的日本人達は?
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敗戦後の日本は、焦土の中からの戦後復興資金に、皇室・宮家の私有財産を没収してあてた。
皇室・宮家の私有財産とは、国民に重税を課して搾り取った財産でもなく、他国を侵略し暴力的に略奪した財産でもなく、まして賄賂・横領などの不法行為で貯めた財産でもなく、日本を世界レベルの近代国家にする為に築いた個人資産である。
つまり、明治後の近代国家日本も敗戦後の経済大国日本も、全て天皇家の上に皇室の私有財産を栄養源として築かれたのである。
それは、大正9(1920)年創建の明治神宮(祭神は明治天皇・昭憲皇太后)に国民による植林で生まれた人工森に似ている。
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歴史力・文化力・宗教力・科学力がない現代日本人には、知能指数が高くテストで高得点をとっても、昭和天皇の「文学的アヤ」発言の真意が理解できない。
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近代天皇家は、皇室の私有財産を使い、国内外で歴史的な人道貢献・人道支援を幾つも率先して行っていた。
明治天皇は、世界でも最優秀の理想的君主であろうとした。
昭憲皇后もまた、国民から愛され、世界から称賛される理想的皇后たらんと行動していた。
明治の日本が近代国家として世界に認められた、近代化に成功したからではなく、近代天皇家の存在があったがゆえである。
世界は、新参者である日本国の国家としての信用を万世一系の男系父系継承の近代天皇家が保持している不変の正統性で承認していた。
近代天皇家以前の700年軟禁天皇家は、武士政権(幕府)からの捨て扶持で貧困生活を強いられていた為に庶民を助ける財力がなかった。
日本を国際法を遵守する近代国家として世界に認めさせたのは、近代天皇家である。
が、現代日本のリベラル派・革新派そして一部の保守派が進めている歴史教育は、近代天皇家を軍国主義を生み出した元凶として完全否定し、近代天皇家が国内外でおこなった歴史的な人道貢献・人道支援を跡形もなく抹消している。
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日本共産党、左翼・左派・ネットサハ、人権派、反天皇反日的日本人達は、天皇制度を廃絶し、天皇家を消滅させる為の国民活動を続けている。
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現代の日本人は、昭和天皇や貞明皇后など明治から昭和前期にかけての近代天皇家・宮家・皇室、天皇・皇族に対する感謝の気持ちはない、若しくは極めて少ない。
特に、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者・学者らにそうした日本人が多い。
彼らの暗躍によって、最高神を女性神とする民族中心神話を源とした、神の裔の血筋・血統・皇統を正統とする万世一系の男系父系天皇家は風前の灯となっている。
女系母系継承には、不変の正統性は存在しない。
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現代の日本人は昔の日本人に比べて歴史力・文化力・宗教力がない。
その違いは、民族的皇国史観による愛国教育と世界的西洋史観による近代歴史学教育及び中華的近隣諸国史観による日本人凶悪重罪人歴史教育である。
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皇室とは波間に漂う粗末な小舟で、いつ荒波にのまれて転覆して沈んでしまいかわからない儚い存在である。
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現代日本人は、本心から天皇・皇族・皇室の事など考えてはいない。
三島由紀夫が、皇室の未来、日本の将来で怖れたのは時代の空気圧・同調圧力に流される中身のない日本人の急増であった。
現代日本は、三島由紀夫が命を捨ててまで警鐘した怖ろしい日本になり、その深刻度・悲惨度は日本人の無能に近い無自覚によって増している。
反天皇反日的日本人は、確実に増えている。
その証拠が、学校の歴史教育で昭和天皇の戦争責任や戦争犯罪が教え、メディア・報道機関も同様の特集を組んで報じている。
従軍慰安婦問題も、昭和天皇の非人道的犯罪とされている。
現代日本の歴史教育は、昭和天皇が関わった数々の歴史的人道貢献を歴史の表舞台から抹消し、周辺諸国に配慮し昭和天皇を諸悪の根源と子供達に教えている。
そうした反天皇的歴史教育を先頭に立って推し進めているのは、リベラル派・革新派ではなく保守派である。
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昭和22(1947)年10月、GHQによる11宮家・51人の皇族の皇籍離脱とは、強制的皇籍剥奪であり、天皇家・皇室を衰退させる為の皇族追放である。
その隠された意図は、マルクス主義・共産主義・共和主義による男系父系継承の天皇家・皇室を消滅させる事であった。
現代日本のメディア・報道機関は、そのお先棒を担ぎ、国民と天皇・皇室との絆を絶ち切るべく、天皇家・皇室、天皇・皇后や皇族の虚偽の報道や悪意あるスキャンダルを作って大量に垂れ流していた。
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戦後教育は、子供達を反天皇反日本へと洗脳し続けた。
現代の日本で、戦前の日本人、幕末時の日本人のように天皇・皇族・皇室を守る為ならば死んでも構わないという覚悟を持った日本人は、たぶんいない。
その証拠が、美智子上皇后・雅子皇后や皇女に対する悪意あるバッシングは、「ひどい」の一言であり、それを喜ぶ日本人が多かった。
そして、借金を踏み倒したK氏と眞子内親王との結婚問題であり、女系母系継承天皇制度変更問題である。
日本人の中に少なからず、女系母系継承天皇制度変更賛成が存在する。
現代の日本人は、昔の日本人、幕末期の日本人とは全然違う。
現代の日本人には、坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作など数多の幕末期の偉人を口にする資格はない。
その分岐点は、1980年代であった。
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あいちトリエンナーレ2019で、「昭和天皇の肖像画を焼いて灰を踏み付ける」映像を現代アートとして公開展示された。
現代日本や国際社会は、「昭和天皇の写真を焼いて灰を踏み付ける」映像に対する国内の少数派による猛反対に対して、「表現の自由」を守れと声を上げ擁護した。
昭和天皇の尊厳に対する冒瀆行為は、イスラム教原理主義者が2015年1月にフランスで起こした風刺週刊誌「シャルリーエブド」編集部襲撃テロ事件に通じるところがある。
マクロン仏大統領「表現の自由の下では宗教の冒瀆も許される」「フランスは風刺画を含む表現の自由を諦めるつもりはない」
日本のリベラル派と一部の保守派は、中江兆民以来、国王・王妃をフランス革命で公開ギロチン処刑したフランス革命精神(自由・平等・博愛)の影響を強く受けている。
安倍首相が伊勢志摩サミットでG7首脳を伊勢神宮に招いて参拝した事は、政治ショーとして成功であり失敗であった。
日本の革新派・左翼・左派のルーツは、アメリカ左派、ソ連・コミンテルンなどの国際共産主義ではなく亡命先の中国共産党にある。
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日本人共産主義者は、日本民族が天皇と国家を守る為に特攻や玉砕などで絶望的死闘を繰り返している時に、刑務所に収監されるか、中国共産党の下に逃げて庇護を受けていた。
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日本民族は、男はもちろん女性も子供も老人までも竹槍を振り回して絶対優位の連合軍に向けて突撃し、容赦なく殺されていった。
その姿は、ネズミの大群が崖から海に飛び込んで大量溺死するのににていた。
日本民族にとって、天皇と日本国は命を犠牲にしても守らねばならない存在であったからである。
一等国民である日本人は、赤紙一枚で戦場に送り出された。
二等国民の朝鮮人は、徴兵が免除され、戦場に送り出される事がなかった。
愛すべき夫・息子・父親が戦死した日本人は、目の前に、同じ年代の朝鮮人男性が家族に囲まれ幸せな家庭で平和に生きている姿を見ながら生きていた。
朝鮮人の多くは、心の中に反日・敵日の刃を隠し持っていた。
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近代以降、世界は黄禍論で日本国と日本天皇は滅ぼすべき悪の権化と見做していた。
日本に敵は幾万いても味方はいなかった。
世界中に、反天皇反日本が存在していた。
それは、現代においても変わってはいない。
日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている、はウソである。
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中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売る買いしていた。
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キリスト教系朝鮮人テロリストや日本人共産主義テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
キリスト教系朝鮮人テロリストの後ろには、蔣介石のファシスト中国(中国国民党)とアメリカ・キリスト教会がいた。
日本人共産主義テロリストの後ろには、ソ連・コミンテルン・中国共産党などの国際的共産主義勢力がいた。
ファシスト中国や国際的共産主義勢力の後ろに、ユダヤ系の国際金融資本や国際報道機関とアメリカ、イギリス、ナチス・ドイツ、イタリア、フランス、チェコスロバキアなどの世界的軍需産業がいた。
戦前の日本は、国際的反天皇反日本勢力に戦争へと追い込まれていった。
日本を戦争に追い込んだ張本人は、ロシア人共産主義者であった。
ロシア人共産主義者の指示を実行したのが、中国共産党であった。
彼らが狙ったのは、ロシア革命の再演として、日本で暴力的人民革命を起こし、日本を反宗教無神論の共産主義国家に作り変え、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を皆殺しにし、日本文化など民族色を完全消滅させる事であった。
つまり、数万年の歴史を持つ日本民族の絶滅である。
それが、ロシア革命やドイツ革命などの敗戦革命である。
ロシア人もドイツ人も、自国の君主・皇帝を捨てた。
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韓国は、昭和天皇を戦争犯罪者と糾弾し、昭和天皇の子や孫に対し朝鮮人テロリストを処刑した事に対して、屈辱的な土下座をし心の底から謝罪する事を要求している。
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天皇皇后両陛下、皇太子同妃両殿下、皇族が公私共に訪問してはならい国が中国共産党政府、韓国、北朝鮮、ロシアでる。
その逆に是非とも訪問すべき国が台湾である。
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日本の男系父系継承は、中華儒教に基づく中国や朝鮮の男系父系継承とは違う。
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男系父系天皇の大権とは、弥生の大乱の中から生まれた戦争を鎮め平和を請来させる統治権である。
その為に必要だったのが、神聖不可侵にして変更不可能な神話の正統性であって、恣意的に変更可能な宗教の正当性ではなかった。
宗教は対立を生み消えるが、神話は対立を生まず消えない。
憲法・法律は、意図的に絶えず書き換えられる為に正当性はあっても正統性はない。
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昭和7(1932)年の上海事変第一次上海事変から昭和16(1941)年の太平洋戦争勃発までの日中戦争において。
ファシスト中国を軍事支援したのはナチス・ドイツの保守派と軍需産業で、抗日軍を世界最強レベルのの軍隊に育成したはドイツ軍であった。
ファシスト中国を金融・経済支援したのは、アメリカの金融資本と軍需産業であった。
アメリカ陸軍航空部隊とソ連軍は、日本軍と戦うファシスト中国軍に正規兵を派遣していた。
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日本と友好関係にあったのは、ソ連・コミンテルン・中国共産党などの国際的共産主義勢力に対抗するバチカン、ポーランド、フィンランド、トルコ、ペルシャなどの諸外国と中央アジアのイスラム教徒(ウイグル人ら)、モンゴル人、満州族などであった。
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獅子身中の虫として油断できなかったのは、日本支配下に住んでいる中国人(大陸系漢族)や朝鮮人であつた。
彼らは、信用して深く付き合える友人や親友ではなかったし、信頼して背後を任せて共に戦える戦友でもかった。
中国人や朝鮮人は、いつ何時、こっそりと忍び寄り「寝首を掻(か)きに来るか判らない」油断も隙もない恐ろしい敵であった。
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現代日本では、子は親を捨て、死んだ親の遺産を兄弟親族がより多く手に入れるべく奪い合う、親は子を愛玩具のように扱い、虐待し、育児放棄し、そして虐待死させている。
家・家庭・家族は崩壊している。
親は子を、子は親を、当てにしない、切り離して頼らない。
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現代の日本人が優先に考えているのは、今・現代の自分の事であり、未来・将来の子孫の事でもないし、ましてや昔・過去の祖先ではない。
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現代の日本国民日本人は、将来において、何時かは、神話からの血筋・血統・皇統を正統とする男系父系継承天皇から皇統のみを正当性とする非血筋・非血統の女系母系継承天皇に切り替え、最終的には物をゴミとして捨てるように天皇制度自体を無価値として廃止する。
そんな兆候が、日本国内に散見できる。
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生物はおろか地球・太陽・銀河そして宇宙まで、全てに寿命があり寿命が尽きれば絶滅・死滅・消滅し、生きていたという記憶も記録もなく痕跡もなく跡形もなく綺麗サッパリと消え失せる。
それは、日本国・日本民族そして天皇家・皇室も同様で、早いか近いかの時間の差だけである。
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