✨15)─1・A─昭和天皇と宮廷派による終戦工作。~No.50No.51 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本人には歴史力がない。あ
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 現代の日本人は昔の日本人とは違う、別人のような日本人である。
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 昭和天皇が、好きな日本人は2割、嫌いな日本人は3割、無関心・興味なしは5割。
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 国家・民族にも生物・人間同様に寿命が存在し、日本国・日本民族・日本皇室の寿命も尽きようとしているのかもしれない。
 その証拠が、少子高齢化による人口激減であり、正統性消滅の女系天皇即位・女系宮家新設である。
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 世界は、昭和天皇ヒロヒト天皇)をヒトラーと同罪の極悪非道な戦争犯罪者と認定している。
 日本国内の反天皇反日的日本人と中国共産党、韓国・北朝鮮は、昭和天皇を非人道的な虐殺者と糾弾している。
 現代日本歴史教育に、反昭和天皇の国際認識を子供達に広めるという意図が隠されている。
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 日本人共産主義テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派で、人種差別に反対し、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして東条英機に研究・開発・製造の即時中止を厳命し、戦争回避と平和維持に努力し、ヒトラーナチス・ドイツホロコーストから逃げて来きたポーランドユダヤ人難民達の保護救済(間接的人道貢献行使)をA級戦犯達に切望していた。
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 2020年11月15日号 サンデー毎日「皇后の覚悟
 貞明皇后からたどるプリンセスたち
 第4部 賢母 (4)終戦への道
 昭和天皇ポツダム宣言実諾を決めるまでの間、兄弟の中で話し合われたこと。そして貞明皇后の秘めた思い。そのただなかにいた三笠宮殿下と百合子妃の貴重な証言から、激動の時代を振り返る。
 貞明皇后の第4子である三笠宮崇仁(たかひと)親王が、100歳と11ヵ月の長寿を全うして旅立ったのは平成28(2016)年10月27日であった。眠るが如き大往生だったと聞いている。昭和天皇の3人の弟宮は、すべてこの世を去ったことになる。
 その10年ほど前に、私は三笠宮と百合子妃から貞明皇后についてのお話を伺う機会に恵まれた。幼少期から、母宮がどのように末の息子に接しておられたかなど子育てについてのお談話は貴重なものだった。それ以上に今でも深く印象に残っている体験談があった。
 それは戦争末期から昭和天皇玉音放送が流れるまで、4人の兄弟の上に流れた時間に関するものだ。
 すでに秩父宮雍仁(やすひと)親王結核のため御殿場で療養生活に入っていた。実際に軍人として動けるのは海軍の高松宮と陸軍の三笠宮の2人だけだった。高松宮天皇とは4歳違いと年齢が近く、戦局に関する意見も遠慮なく兄宮に語っている。その内容が『戦争指導』に関することだったため、『昭和天皇のご機嫌があまりよろしくなかった』という。
 一方、三笠宮はまだ29歳。天皇は44歳であるから、2人の兄ほど率直に話はできなかったのだろう。
 三笠宮によると、終戦の少し前に参謀という立場ではなく皇族として、高松宮と共に鈴木貫太郎首相に会った。
 『鈴木首相ももちろん講和しようという考えだったのですが、なんとしてもまだ陸軍が強いから鈴木さんとしても随分苦しかったと思います。高松宮はそれを側面から激励したんでしょうね。高松宮邸で空襲のさなかに鈴木首相と会って、大いに鈴木さんのネジを巻いた時のことは今でも印象深く残っています』
 日本全土がアメリカ軍の激しい空襲にさらされ、ついには、広島、長崎に新型爆弾(原爆)が投下される事態に至り、皇族たちも戦争の速やかな終息を求めていた。三笠宮も毎日のように高松宮や他の皇族たちと会って善後策を練っている。
 『昭和天皇は私的には兄弟に違いありませんが、公的には君臣でもあり、また、大元帥と一少佐という関係でもありました。公私の区別を峻別(しゅんべつ)される方でしたから、結果的には孤独で、寂しかったと推察いたします』
 この思いは3人の弟宮が共通して持っていた認識ではなかったろうか。そして、たとえ実の兄弟であっても、『筋道を通すことを優先する』のが昭和天皇だったとも語っている。つまり、政治向きに関しては、たとえ弟といえども、横から口を挾ませない。意見は聞くが、それに左右されないという強い信念を天皇は持っていた。それがどれほどの孤独であったかも、三笠宮は承知していた。
 連係プレーのように兄を訪ねた
 終戦を急ぎたい弟として、思いが兄に伝わらないもどかしさは、平成19(2007)年になって、インタビューに応じてくれた時でさえも、まだ見受けられた。
 昭和20(1945)年8月10日の御前会議において、鈴木首相が天皇に『御聖断』を仰いだのはあまりにも有名な史実である。天皇東郷茂徳外務大臣の出した案に賛成を示す。それはポツダム宣言天皇の存続のみを条件として受諾するという内容だった。予期していた通り陸軍大臣阿南惟幾が激しく抵抗した。しかし、天皇の意思は固かった。
 どうにもあきらめきれない阿南は、8月14日の夕刻、焼け跡の防空壕三笠宮を訪れている。何とか天皇にもう一度考え直してもらいたいので、お力添えを戴きたいという願いだった。だが、1日も早く戦争を終結させたいという三笠宮の考えは変わらなかった。
 自分の頼みが受け入れられず、悄然(しょうぜん)と去る阿南の姿を百合子妃がこう語っている。
 『宮様とお話しが済んで、防空壕のある谷からの上り坂を阿南さんが肩を落として、なんともお寂しそうな後ろ姿で帰っていらっしゃるところを見たのですが、こちらまで感傷的になったのを忘れられません』
 この時、百合子妃は22歳、阿南は58歳だった。
 阿南はその後、陸相仮官邸に戻り遺書と辞世を記して夜半に1人で割腹自殺を遂げた。
 翌8月15日に天皇終戦詔勅が、ラジオで流されたのを三笠宮夫妻は防空壕の中で聞いた。そして16日に三笠宮は御殿場の秩父宮邸に向かったという。
 いわゆる玉音放送のあった当日は、高松宮と喜久子妃が揃(そろ)って御殿場を訪ねている。高松宮の日記によると『御殿場へ、0520出門、0840着、1400発』との記述がある。正午の放送に備えて、午前5時20分には東京を出たのがわかる。
 高松宮夫妻が御殿場へ向かった理由を秩父宮勢津子妃は次のように推し量る。
『今になって思いますと、わざわざ朝早く東京をご出発になっておいでになりましたのは、天皇陛下の初めてのご放送で生のお声を国民が伺うことなど未曽有(みぞう)の出来事でしたし、しかも歴史上かつてない重大な内容のご放送ですから、ご兄弟別々にお聞きになるに忍びないお気持ちがおありになぅたのでしょう』(『銀のボンボニエール』)
 病床の兄を気遣っての高松宮の来訪だった。実は秩父宮も戦況の悪化については、よく承知していた。開戦以来、三笠宮高松宮は頻繁に御殿場を見舞いに訪れ、いつも1泊して語り合った。新聞、ラジオは戦局の真相を報じなかったが、秩父宮は2人の弟からの電話や手紙、あるいは直接に会うことで情報を得ていた。いくら東條英機の権力が増大しても、さすがに憲兵隊は弟宮の電話や手紙の検閲はできなかった。玉音放送のあった翌日には、三笠宮が来て1泊して帰る。まるで兄弟が連係プレーのように病床の兄を訪ねたのは、どれだけ3人の絆が強かったかを物語っている。
 もはや負け戦ということを、貞明皇后は無論のこと、天皇を含む4人の兄弟は知っていた。そのために皇族たちが『終戦工作』に奔走した記録は『東久邇日記』『高松宮日記』『木戸幸一日記』『細川日記』などに詳しいが、紙幅の関係で割愛したい。
 それにしても、なぜ弟宮たちは早期の終戦を、もっと強引に天皇に提言しなかったのかったかという疑問が残る。しかし、その背景には貞明皇后の覚悟があったからだという推測ができるのではないか。
 国民の規範となる家庭を築く
 ふり返れば、昭和11(1936)年に起きた『2・26事件』の際の天皇の怒りは凄まじかった。この時期、秩父宮は決起した将校たちにある種のシンパシーを感じていたという説がある。実は、あの事件の翌日に秩父宮は将校たちのために弘前から上京したというデマが流れた。さらには『秩父宮天皇さまに代る』といった噂がささやかれた。2・26事件には当時の日本人の欲求不満にこたえる要素がいろいろと含まれていたので、『《秩父宮による昭和維新》という幻影を生んだ』のではないかと作家の安岡章太郎は書いている。(『僕の昭和史Ⅰ』)
 これに貞明皇后がどのように関与したか詳しい資料はないが、インタビューの途中で、百合子妃が何度か繰り返した言葉は忘れられない。
 『どんな時でも大宮さま(貞明皇后)は、まずは天皇陛下を「お上御一人」としてご尊敬でした。宮様方は陛下を助けて協力するようにというお気持ちにお変わりはありませんでした。』
 それでも、貞明皇后は実は秩父宮をご寵愛だったとか、あるいはご自身が実権を握りたいと考えておられたと書く文献もありますが、私がしつこく尋ねると、日ごろ穏やかな口ぶりの百合子妃が、はっきりと首を横に振られた。
 『そんなことは、私が上がってからは、もちろん聞いたことも見たこともありません。その前から大宮さまはずっと陛下をご尊敬で、陛下のおためにと常におっしゃっていましたし、他の宮様たちにもそうおっしゃっておられました』と確信に満ちた声で語った。
 はっと背筋が伸びるような気持ちで、私は百合子妃の言葉を聞いた。
 4人の息子の母として、貞明皇后は何より家族の結束を強く願っていた。3人の弟たちが協力して兄の天皇を助けないで、何が皇族だ、何が皇室だという思いを強く秘めていたのではないだろうか。
 日本の国民の規範となるべき家庭を築くという信念のもとに、貞明皇后は生きてきたのである。だからこそ、こだわった息子たちの配偶者選びでもあった。
 三笠宮の幼少期、一緒に暮らすことは叶わなかったが、養育に関しては実に細かい気配りを見せている。叱るというよりは、本人に自覚させるように仕向ける育て方だ。
 自分でわら半紙に『投げててよきもの』『本当に投げてよきもの』などと細かく記す。
 幼い頃の三笠宮が、窓からなんでも投げてしまう。あまりに度が過ぎたので、皇后は決まりを作ったわけだ。
 貞明皇后の采配は見事だった
 では、何を投げてよいのかというと、枕のような柔らかいものはかまわない。しかし、カメラなど機械類はいけない。そんなふうにして、子供が自分で 考える余地を与えるのである。
 『何といっても母宮様のこまやかなご愛情とお叱りになるところはきっちりとおっしゃる、そういう諄々(じゅんじゅん)と諭されるようなご養育方針が素晴らしいものだったと思われますね』と百合子妃は語った。
 三笠宮の幼少期には、常に御養育掛長、御養育掛、御用掛といった大人たちが傍らに控えていた。成績は優秀で、心配を掛けることもなかった。これは秩父宮高松宮も同じだったらしい。
 ……
 その後70年以上の歳月を三笠宮は百合子妃と幸せな結婚生活を送ったのであるから、貞明皇后の采配は見事だったというしかないだろう。」
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 戦争を止めるか続けるかは、大国・戦勝国の専権事項であって小国・敗戦国には権利はなかった。
 つまり、白旗を掲げ降伏を表明し、武器を置き抵抗の意思のない事を示し、投降する為に両手をあげえて姿を現しても、勝者に生殺与奪の権が与えられている為に殺すも助けるも自由にできた。
 一切の権利が認められていない敗者には、たとえ殺されても文句は言えなかった。
 それが戦争である。
 日本人が好きな「負けて勝つ」は、世界戦史には存在しない。
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 昭和天皇や軍国日本が早期に戦争を終結させられなかったのは、アメリカのイギリスによるカサブランカ会談(1943年1月)で「無条件降伏の原則」が決定されたからである。
 無条件降伏によって、ヒトラーは自殺、ムッソリーニは市民による公開リンチ処刑、イタリア国王追放、その他の枢軸国指導者は戦犯として処刑もしくは国外追放(受け入れ国は存在しない)。
 つまり、無条件降伏とは負けた統治者・指導者に対する「死の強要」であった。
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 共産主義者は、戦争反対の平和主義者でではなく、天皇・皇室のない人民の平和主義であり、天皇制度廃止・皇室消滅の戦争は賛成し、事実、暴力的人民共産主義革命を画策していた。
 つまり、俗に言う「共産党の陰謀」である。
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 ワシントン、ホワイト・ハウス、フランクリン・ルーズベルト政権内には、スターリンの指示で動く共産主義者が多数潜み、反天皇反日本政策を誘導していた。
 アメリカにおける共産主義汚染は、後のレッド・パージが証明している。
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 昭和天皇明治天皇に匹敵する業績を残した優れた帝である以上、明治天皇同様に昭和天皇個人の独立した天皇が親拝する神格高い神宮があって然るべきである。
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 軍国日本はもちろん昭和天皇ヒロシマナガサキ原爆投下における責任は、一切なく、誰に対しても謝罪も賠償もする必要はない。
 何故なら、昭和天皇と軍国日本は8月10日まで連合国(国連)から降伏が認められていなかった、からである。
 その決定は、アメリカのルーズベルト大統領、トルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連スターリン書記長、アメリカ・ユダヤ人勢力(国際金融資本・世界的軍事産業、その他)らによる最高レベルの国際政治戦略であった。
 国際的反天皇反日勢力の手先が、毛沢東中国共産党であった。
 彼らは、世界正義と世界平和の大義の為に、昭和天皇と軍国日本・軍部・陸軍が自己犠牲的に行った歴史的人道貢献を抹消した。
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 現代日本人は、皇室に対する敬愛は薄く、元皇族・元宮家に対して薄情・冷淡である。
 その証拠が、女系天皇即位・女系宮家新設賛成という国民世論が70%近くと多数派を占め、与野党の政治家や専門の学者・教育者の中にも正統性無視の女系天皇即位派が少なからず存在している。
 正統性消滅の女系天皇即位を主導しているのは、反天皇反的日本の共産主義者マルクス主義者)とキリスト教会である。
 一部のメディア・報道機関の皇室報道は、ウソ・捏造・歪曲が多く、尊厳を踏み躙り、敬意を無視し、一片の礼儀すら感じない、酷いと言うより敵意を含み、国民の間に天皇・皇室、皇族・宮家に対する憎悪・嫌悪を増幅させようとしている。
 その傾向は、リベラル派・革新派そして一部の保守派の高学歴出身知的エリートに強い。
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 昭和天皇と皇族は皇室として、覚悟を持ち、責任ある、責任から逃げず、責任を取る行動を取っていた。
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 アメリカ、イギリスなど自由・民主主義陣営とバチカンや国際赤十字社は、ホロコースト情報を得ていながら、ヨーロッパ・ユダヤ人約1,000万人を見捨て救おうとはしなかった。
 1939年5月のセントルイス号事件は、大統領の犯罪であり、カナダなども共犯であった。
 個人として、死の危険を冒してユダヤ人を助けた勇気ある人びとは数が少なかったが存在していた。
 が、国内の反ユダヤ勢力の反対を押し切って助けた国家はなく、むしろ国家権力・警察権力を行使し行政機関・公共機関を使ってホロコーストに協力した政府は幾つも存在した。
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 沖縄戦敗北後、政府と軍部は、主戦派に気付かれないように終戦交渉に入る事を決め、交渉の仲介者として期待したのがソ連スターリンであった。
 「鉄砲数撃てば一発は当たる」的に、外務省・海軍省陸軍省そして皇室は、個別に、スイスで思いつく第三者を仲介者に立ててアメリカの諜報機関OSSと極秘に終戦交渉を行った。
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 スターリンソ連は、日本への復讐と共産主義化の戦略から、南樺太、千島列島、北方領土4島、北海道半分を強奪する為に、日本側に期待を持たせて上手くあしらっていた。
 毛沢東中国共産党は、日本で人民革命を起こして転覆させ天皇制度を廃絶させるべく、アメリカ・ユダヤマルクス主義者を通じて日本人共産主義者と洗脳日本人元兵士を日本に送り込む手筈を整えつつあった。
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 アメリカ・ホワイトハウスアメリカ軍首脳部は、対ソの政治的理由と議会に対する軍事費に伴う財政的理由で、二発の原爆投下実験が終わるまでは日本の降伏を受け入れない事を決定していた。
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 アメリカ・イギリスは、日本の外交暗号解読で日本が早期降伏を望んでいる事を知っていた。
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 アメリカ軍もイギリス軍も、原爆投下を行わなくとも、米英の連合国が今すぐ決断すれば戦争は日本の敗北で終結する事を知っていた。
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 日本は戦争を止めるに止められない状態に追い込まれていた。
 日本には、原爆投下もソ連参戦も止める手立てがなかった。
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 アメリカを支配していたのは人種差別で、ユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、日系アメリカ人そして日本民族日本人は嫌われ迫害を受けていた。
 古代から中世にかけて、ユダヤ人はどれいであった。
 中世では、日本人とアフリカ人は奴隷であった。
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