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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
マイノリティ・ファシズム。
リベラル左派やエセ保守は、伝統的民族主義を目の敵として撲滅しようとしている。
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和服・着物は、民族固有の独自で特殊な衣装であり、大陸や半島や島嶼に類例のない特別な衣服であるが、優れてた衣服ではもなく、むしろ大地の最果て辺境の少数民族の土着衣服にすぎない。
民族衣装は、生きる自然環境と生活環境そして民族の人間性、価値観、その他、有りと有らゆるものを証明している。
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2015年2月14日 産経ニュース「大島紬は日本を象徴?! 「伝統に束縛」米紙報道、新風も紹介
鹿児島県・奄美大島の伝統工芸「大島紬」を紹介する現地ルポを、米紙ニューヨーク・タイムズが特集仕立てで掲載した。伝統に束縛されて複雑な流通過程を見直そうとせず低賃金に甘んじていると指摘しつつ、飛躍を目指す新しい試みも紹介している。
「泥染め」と呼ばれる特有の染色に従事する金井一人さん・志人さん親子らの仕事ぶりや大島紬の歴史などを紹介。本場奄美大島紬協同組合の話として、大島紬の生産量が過去20年間で激減したと報じている。
大島紬の和服は「東京では3千ドル(約36万円)から6千ドルもする」が、「織り手の月収は400ドル」にしかならないのは流通経路が複雑なためだと指摘。大島紬を取り巻く状況は「時代遅れの戦後経済(成長)モデルをあきらめようとしない日本を象徴している」と断じた。一方で若手の志人さんがTシャツやジーンズ、ギターなどを伝統的な手法で染め、インターネットを使った販売方法で新しい価値を生み出そうとしている姿も紹介した。(共同)」
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2022年9月22日 YAHOO!JAPANニュース クーリエ・ジャポン「本の着物がアジアの一部では「抑圧の象徴」となったわけ
「キモノ」と聞けば、世界中の多くの人が日本の伝統衣装を想像するだろう。日本人も滅多に着ることがないこの和服がじつは、国や地域によっては「抑圧の象徴」として今なお記憶されているという。
【画像】仏高級紙が変遷を紹介「『黒人』は日本のマンガでどう描かれてきたか」
着物は良くも悪くも「日本」の象徴
中国の蘇州で、ある女性が「トラブルを誘発した」ために拘束されたと報じられた。罪状は「着物(和服)姿で外にいたこと」。女性は漫画の登場人物を真似した服装をしていたという。
衣服は文化を象徴するものであり、多くの人にとって国のアイデンティティと誇りの象徴でもある。そして着物といえば、日本を思い浮かべるだろう。だが現在の日本では、伝統的な祭りや祝い事の時以外には着物を身につけることはほとんどない。着物業界は1980年代に同国でブームとなったものの、現在は大きな落ち込みを見せている。
着物はそもそも日本人が独自に作り出したものではない。7世紀、朝廷が中国の様式を取り入れた衣服を着用しはじめたことが始まりだ。それでも着物は世界的に見て日本の代表的な文化とされている。
そしてこれは多くのアジア諸国──特に日本によって残酷に植民地化された国々では、抑圧の象徴でもあるのだ。
着物は日本人の象徴に
日本と中国の服装の類似性には長い歴史がある。
紀元前3世紀頃、中国の探検家たちは日本の南部を訪れた。そこでシンプルなチュニック、ポンチョ型の衣服、プリーツ型のズボンと上着を身に着けている人々の姿を観察していたことが、記録からわかる。これは当時の中国の衣服とよく似ているものだ。また紀元4世紀の日本の巫女や女王、部族の長の肖像画を見れば、中国における漢の時代の衣服と同じようなものを身につけた人物が描かれている。
現代の「着物」の起源が日本に登場したのは平安時代(794~1185)のことだ。当時は直線的な布を腰のところで細い帯で留めた形のもので、中国風の袴(はかま)と合わせられることが多かった。だが江戸時代(1603~1868)に進むと、現在の着物のように、裁断された布を縫い合わせた「小袖」と呼ばれる男女兼用の衣服が着られるようになる。
そして1600年代初頭、日本は徳川将軍によって、江戸を首都とする封建的な幕府に統一された。この時代の日本文化は外部からの影響をほとんど受けずに発展し、着物の前身である小袖は、日本人であることを象徴するようになってゆく。
民衆の衣服や作業着も、いまで言う着物の基本的な型に沿ったものだった。着物づくりにおける仕事も発展し、一部の着物は、貴重な美術品に匹敵するほど価値が高まる。
閉鎖的だった日本だが、明治時代に入ると急速に近代化し、外国の影響を受けるようになった。そして「着るもの」を意味する和服に「着物」という名称が与えられ、正式に誕生したのである。
これは、昔ながらの服装を「女々しい」「日本人らしくない」と否定する新たな勅令があったなかで起きたことだ。その結果、男性や政府関係者、軍人などは、伝統的な和服ではなく洋服を着るようになる。一方、日本がさまざまな面で根本的に変化していくなか、女性が着物をまとう姿は人々に安心感を与え、日本人らしさの象徴として人気を博した。
だが1923年の関東大震災以降、女性は洋装──特に女性用の下着を身につけるようになる。
震災が起きたとき、女性たちはビルの高層階から飛び降りたり、救助を受けたりすることを躊躇った。その原因のひとつは、慎まやかであるべきという羞恥心だったのではないかと考えられている。洋服を着ていたら、あるいはせめて着物の下に下着を着ていれば、震災で命を落とす女性はもっと少なかったかもしれない──そんな背景もあり、世間の洋装化が進んだ。
衣服がナショナリズムの象徴に
日本における昭和の時代は、1926年に始まる。二度の世界大戦と、文化的なウルトラナショナリズムの台頭が起きる時代だ。同国における最近の歴史の中で、最も重大かつ災難に見舞われ、成功があり、華やかな時代だと評されている。
第二次世界大戦後に流行した「日本独自主義」(日本人論)を信奉する人々にとっては特に、着物は(他の日本文化とともに)西洋の代替品より優れていると考えられた。着物を実際に着ることは少なくなったが、日本における着物の象徴的な地位は高まったのだ。
1930年代には、日本は植民地支配を進める大国となっている。1890年代の弱小封建社会から、近代工業国、軍事大国に変貌を遂げたのだ。そうして近隣諸国への領土征服に乗り出していたのである。
西洋からなめられまいと、日本人も日本国内では大胆な服装をしていた。一方、台湾や朝鮮半島では、日本の優位性と「大東亜共栄」をアピールするため、占領軍が現地の女性に着物を身につけるよう積極的に勧めていた。
1895年から1945年までの日本の植民地時代、台湾と韓国で着物がどのように受け止められていたかを、筆者は研究した。その結果、日本の着物は明らかに、同国の植民地支配や戦争責任のイメージと結びついていることがわかっている。武器化されてしまった美しくも優雅な衣服は、明らかにその痕跡を残しているのだ。
前述の中国で逮捕された女性は、次のような警告を受けたという。
「もしあなたが漢服(中国の伝統的な服装)を着ていたら、私だって決してこんなことは言わなかっただろう。だけどあなたは中国人でありながら『着物』を着ている。あなたは中国人だろう!」
着物は日本の伝統の象徴だ。戦時中の占領や残虐行為を受けた国にとっては、ナショナリズムの危険性を思い起こさせるものでもある。
だが日本は防衛予算の倍増を進め、戦後から続いてきた平和主義というアイデンティティに疑問を呈し、中国は香港や台湾で影響力をふるっている。そんな今、当局が心配すべきものは「着物を着た女性」より、ほかにもっとあるはずだ。
Ella Tennant」
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