✨51)─1─三島由紀夫の「天皇論」。〜No.207 

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 三島由紀夫、1925年~1970年
   ・   ・   ・   
 天皇を否定し、天皇制度を廃絶する事は、命・血、心・想い・志の繋がった祖先を存在しなかったとして消し去り、祖先が命を犠牲にして子孫に残した伝統文化と叡智を無意味・無価値として破壊し捨て去る事である。
 つまり、祖先殺しである。
   ・   ・   ・   
 旧皇室典範とは、王権神授説・社会契約説・西洋的近代法律でもなければ儒教天帝説でもなく、有史以来、受け継いできた伝統の文化・宗教を基とした家訓・遺訓、家法・祖法を近代的に明文化した家内法であるがゆえに、国家の憲法とは別格の法律とされた。
   ・   ・   ・   
 中国共産党・中国軍は、抗日反日敵日反天皇を唯一絶対の正統性として存在する。
   ・   ・   ・   
 日本における、多数派とは天皇に敬愛の情を抱く者で、少数派とは天皇に憎悪の念を抱く者である。
 現代日本人権派良識派・常識派は、社会の多様性の為に、少数派に理解を示し配慮すべきだと主張している。
   ・   ・   ・   
 皇室祭祀・宮中祭祀の源流は、民族宗教としてローカル的な自然崇拝・大地母神崇拝の縄文文化にあり、さらに遡れば揚子江流域にあった長江文明に辿り着く。
 男性的な弥生文化黄河文明は、女性的皇室・宮中祭祀を補強したにすぎない。
 現代日本現代日本人の、少数派はそれを「尊い」と意識するが、多数派は無価値として無関心・無興味である。
 その証拠が、経済の為には自然破壊の開発は必要悪という考えである。
   ・   ・   ・   
 現皇室・皇族・家族の前で、昭和天皇肖像画御真影を焼き、その灰を踏み付ける行為を純粋な芸術表現と主張する少数派の日本人を擁護する高学歴出身知的エリートが各界に数多く存在する。
 追い詰められての言い訳ほど醜悪なものはない。
   ・   ・   ・   
 日本は、無宗教有神論であって無宗教多神教ではない。
   ・   ・   ・   
 天皇の祭祀・皇室祭祀・宮中祭祀とは、自分の祖先を神として祀る祖先神・氏神の人神崇拝である。
 祖先神・氏神の人神崇拝できるのは、血と魂・霊魂の繋がった子孫だけである。
 大嘗祭とは、即位した新天皇が血=血統・血筋と天皇霊=皇統で繋がった祖先神である天照大神との神聖な、一世一代の最重要な神事である。
 天皇が正統な天皇として認められるには、祖先の最高神である女性神天照大神との大嘗祭を執り行う必要がある。
 日本の世襲制とは、血の繋がった祖先から受け継がれた神事・奥義・伝統文化の一子相伝である。
 一連の祭祀に存在するのは、宗教や政治ではなく伝統文化を重んずる家族・家だけである。
 つまり、天皇とは、公的には「国家・国民の象徴」だが、私的には「皇室・皇族・親族の家長」である。
 日本の天皇・皇室が、西洋やその他の王侯貴族と根本から違うのはその点である。
   ・   ・   ・   
 2019年12月号 Hanada「三島由紀夫の『天皇論』再考
 三浦小太郎
 あらゆる戦後の偽善を拒否して
 ……
 自衛隊への檄文の核心
 ……
 三島が何よりも協調したのは、戦後憲法戦後民主主義体制を護るたの自衛隊という立場を受けいれれば、結局、『アメリカの傭兵』たる位置に自衛隊は甘んじなければならないという現実のことである。
 この言葉は、日米安保体制という片務条約、米軍基地の存在といった現実政治の面における戦後日本のアメリカ従属の構造について批判しているのではない。『平和と民主主義』を護る、国民の生命と財産を守るという自衛隊の存在意義そのものが、アメリカ由来の価値観にすぎず、日本の文化伝統とは異なった次元の価値を防衛するに過ぎない、と三島は指摘したのだ。
 『日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・傳統(でんとう)を守る」ことにしか存在しないのである』
 『(自衛隊が守るべきものは)自由でも民主主義でもない。日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に軀(からだ)をぶつけて死ぬ奴はいないのか』
 三島が自衛隊に呼びかけた檄文の核心は、この二つの点に尽きている。それは戦後民主主義のみならず、明治維新以後の近代化によって断絶させられた日本の文化伝統の継続性を復活することでもあった。しかし、ここでは論を急ぐことなく、まず三島と古林の対話に戻り、三島の戦後批判、もっと言えば『戦後天皇制』への批判が最も鋭い形で表れた部分を紹介したい。
 戦後の『天皇人間化』への批判
 ……
 この点を三島は、1968年に著(あらわ)した『文化防衛論』のなかですでに精緻(せいち)に論じていたが、ここでの三島の発言と読み比べていけば、さらに彼の論旨は明確になるだろう。
 文化概念として天皇
 三島由紀夫は『文化防衛論』において、日本文化とはオリジナルとコピーの弁別を持たないと指摘したうえで、次のように述べていた。
 『このもっとも端的な例を伊勢神宮の造営に見ることが出来る。持統帝以来59回に亙(わた)る20年毎の式年造営は、いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであって、オリジナルはその時点においてコピーにオリジナルの生命を託(たく)して滅びゆき、コピー自体がオリジナルとなるのである』(『文化防衛論』)
 これは、先に引用した古林との対談において三島が述べた『今上天皇はいつまでも今上天皇です。つまり、天皇の御子様が次の天皇になるとかどうかという問題じゃなくて、大嘗会と同時にすべて天照大御神と直結しちゃうんです』という言葉とまさに直結している。
 三島は本論で、和辻哲郎津田左右吉らの論説を紹介しつつ、和辻の日本国家が分裂解体していた時代においても天皇は厳然として存在していたのだから、『(天皇は)国家とは次元の異なるものと見られなくてはならない。したがってその統一は政治的な統一ではなくして文化的統一なのである』『文化共同体としての国民或いは民衆の統一、それを天皇が象徴するのである。日本の歴史を貫いて存する尊皇の伝統は、このような統合の自覚に他ならない』という言葉を共感を込めて引用したうえで、天皇の本質を『国と民族の不分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸』であり、それを日本の歴史と文化を貫く『文化概念としての天皇』と定義する。
 このような『文化概念としての天皇』は、天皇陛下の個人的人格を越えて、『時間的連続性が祭祀につながると共に、空間的連続性は時には政治的無秩序すら容認する』。
 『「文化概念としての天皇は、国家権力と秩序の側だけにあるのみではなく、無秩序の側へも手を差し伸べていたのである。もし国家権力や秩序が、国と民族を分離の状態においているときは、『国と民族との非分離』を回復せしめようとする変革の原理として、文化概念たる天皇が作用した」』(『文化防衛論』)
 ……
 さらに三島は、明治憲法体制以下の天皇制を次のような存在だとみなす。『祭政一致を標榜(ひょうぼう)することによって時間的連続性を充(み)たしたが、政治的無秩序を招来(しょうらい)する危険のある空間的連続性には関わらなかった』『政治概念としての天皇は、より自由でより包括的な文化概念としての天皇を、多分に犠牲に供(きょう)せざるをえなかった』
 これは、近代的国民国家の統一の象徴であった、明治時代の天皇の必然的な宿命だった。近代国家の建設の過程で、三島が考える、たとえ反逆者であれ、無政府主義者であれ、あらゆる反逆をも文化的に統合する天皇の姿は失われつつあったのである。
 『英霊の聲』における2・26事件の青年将校や特攻隊の英霊の嘆きは、日本が近代化とともに失わざるを得なかったものへの痛切な喪失感に他ならない。
 週刊誌的天皇制の域に
 そして戦後、政治概念としての天皇もいずれも無力化し、『俗流官僚や俗流文化人の対照的教養主義帰納として、大衆社会化に追随せしめられ、いわゆる「週刊誌的天皇制」の域にまでそのディグニティー(尊厳)が失墜せしめられ』た。その帰納が、先に三島が批判した天皇個人の人格にのみ、その尊厳を求めようとし、歴史も文化も切断してしまう小泉信三的な天皇観であった。
 そしてこの『週刊誌的天皇制』が、現在まさに週刊誌上において、反論権を持たぬ皇室に対するスキャンダル記事の氾濫という事態を迎えていることは言うまでもないだろう。
 三島はおそらくこのような未来を見据(みす)えたうえで、断固として文化概念としての天皇の復活を求め続けた。
 古林との対談では三島は、『文化概念としての天皇』を日本における『絶対者』と言い換え、彼の共感する思想家、ジョルジュ・バタイユを引用しつつ別の方向から説明しているので、ここでは多少私の文責で自由に引用させていただく。
 まず三島は、バタイユから受けた影響として、死とエロティシズムの類縁関係を述べている。カトリック思想の深い影響下にあったバタイユは、逆に、絶対者の秩序なくして真のエロティシズムは成立しないと考えた。三島はそれを受けて、次のように述べる。
 三島『ヨーロッパなら、カトリシズムの世界にしかエロティシズムは存在しないんです。あそこには厳格な戒律があって、そのオキテを破れば罪になる。罪を犯した者は、いやでも神に直面せざるを得ない。エロティシズムというのは、そういう過程をたどって裏側から神に達することです。(中略)だから、もし神がなかったら神の復活させなければならない。神の復活がなかったら、エロティシズムは成就(じょうじゅ)しないんですからね』
 『ぼくは、その追及が、ぼくの文学の第一義的な使命だと覚悟しているんです』
 この視点に立つ三島にとって、戦後日本におけるエロティシズムとは、そのような絶対者や秩序を失ったことから、単なる相対主義的な何の抵抗もないフリーセックスを指すに過ぎない。
 これは、エロティシズムという言葉にこだわらなければ、日本の文化状況全体について言えることである。絶対者とは言わずとも、日本の歴史と文化伝統に対する敬意が保たれていれば、逆に、その価値観に反逆する対抗文化にも力が生まれる。
 しかし、文化相対主義、もっと言えば、あらゆる伝統や歴史を軽視し、自分が感情のままに発言し制作することが言論・表現の自由だという論理が社会全体を支配してしまえば、そこには今回『表現の不自由展』で表れたような、当人の貧しい政治意識のなかでしか通用しない『作品』や、無軌道で自らの理解できない他者の存在を全否定する罵倒(ばとう)的な言動しか生まれなくなる(これは、左右いずれの立場をも問わない。いや、そのような価値相対主義の社会では、政治的立場も文化的立ち位置も、すべて相対的な『好き嫌い』にすぎないものとなっていくだろう)。
 このような文化相対主義を否定し、絶対者を確立しなければ、自らの、いや日本の文学が真の意味で日本の文化伝統を引き継ぐこともなく、またそれに反逆することも出来はしないというのが、三島由紀夫にとっての切実な文学的課題でもあったのだ。三島にとって、文化伝統としての天皇を復活することは、おのれの文学を救済する唯一の道でもあった。
 三島由紀夫と現代
 三島は相対文化主義価値観の極限を、石原慎太郎が1957年に発表した短編小説『完全な遊戯』に見出している。
 ……三島からすれば、絶対者のいない世界において、人間の自由とはその行きつく果てには、このような虚無の世界を生み出すしかないものであった。この意識は、ドストエフスキーが近代社会を『神が存在しなければ、すべてが許される』世界であると認識したことに等しい。
 しかし、逆に絶対者が存在し、人々の精神のなかにそれへの敬意がもられていえば、逆に反逆も、時として犯罪ですらも、法律や道徳を越えて歴史伝説のなかで肯定され、位置づけられるものなのだ。
 そして、相対主義の空虚な地獄のなかには、伝統から遊離した極端な原理主義的信仰やカルト宗教、歪んだルサンチマンに満ちたファシズム的運動が逆に大衆を引き付けて、毒の花を咲かせる。三島やドストエフスキーの予言した社会は、まさにいま、わたしたちの目前に現れている。
 特攻隊の真の日本的武器
 だが同時に、三島の言葉は、ここアジアにおける未来への希望としても蘇(よみがえ)り始めているのだ。三島由紀夫は1967年の段階で、川端康成安部公房石川淳らとともに、中国の文化大革命に対する抗議声明を発表し、また、68年のチェコ侵攻に対しても『自由と権力の状況』という、チェコ知識人らの『2千語宣言』を高く評価する文書を発表している。
 そして、いま現在、ウイグルチベット中国共産党政府が行っている弾圧と、各民族の抵抗運動は、三島の言説の正しさを逆に証明しているように思える。
 三島は、文化概念としての天皇を守るためにも、一切の容共政権に反対し、議会制民主主義を限定的ではあるが認めた。逆に言えば、議会制民主主義が大衆民主主義に堕(だ)し、さらには悪(あ)しきポピュリズムに陥(おちい)らぬためにも、歴史伝統の維持と、文化統合の象徴としての天皇の存在は不可欠なのである。
 これはmダライ・ラマ法王の存在あってこそ、たとえ国を失ってもチベットという文化概念は決して滅びることはなく、内外のチベット人のなかに生き続けるという点では、チベット問題と共通の構造を持つ。
 その意味では、ダライ・ラマ法王のチベット帰還(それは実質的なチベットの共産中国からの民族自決権の回復と文化的独立であり、だからこそ中国政府は決して許可しないのだが)を求めて焼身抗議を決行し、自らの命を賭すチベット人たちは、それがいかに痛ましい犠牲であったとしても、チベット人アイデンティティに殉(じゅん)じ、中国の支配下を脱して、チベットの文化伝統のなかに還(かえ)っていったのだ。
 三島は大東亜戦争について、……」
  ・   ・   ・  
 歴史的事実として、生物に寿命があるように、国家や民族、宗教や文化そして伝統にも寿命がある。
 当然、日本天皇、日本国、日本民族日本人、日本文明、日本文化、日本神道にも寿命がある。
 ただし、日本列島がある限り日本国家と日本国民日本人には寿命はない。
 つまり、血統・血筋の世襲制天皇制度がなくても日本国家と日本国民日本人は永遠に存在・生き続ける。
   ・   ・   ・   
 保守派や右翼・右派・ネットウヨクが全て天皇擁護派とは限らず、天皇打倒派や反天皇反日的日本人が本心を隠し偽って潜んでいる。
 突き詰めれば、熱心な天皇擁護派は1割、対する天皇打倒派・天皇廃止派・皇室嫌悪派などが2割、付和雷同して扇動されやすい中間派・無関心派が7割。
 それ故に世論調査をすれば、男系天皇堅持が2割、女子天皇女系天皇推進派と女系宮家創設が7割強である。
   ・   ・   ・    
 昔から、天皇・皇族・皇室は、国内外の反天皇反日テロリストに命を狙われている。
 日本人共産主義者テロリストやキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺しようとしてつけ狙っていた。
 反天皇反日テロリストとは、完全排他な過激派共産主義者・偏狭的マルクス主義者と絶対不寛容なキリスト教原理主義者そして血に餓えた狂信的なカルト宗教の事である。
 彼らは、天皇・皇族・皇室はもちろん日本民族日本人が歩み生きてきた歴史・伝統・文化・宗教・その他全てをこの世から抹殺し、地上から跡形もなく綺麗サッパリと消滅させようとしている。
   ・   ・   ・   
 日本を支配する空気・空気圧・同調圧力には、私的俗欲強欲に塗れた政治権力、宗教権威、公的無私無欲で神聖不可侵の天皇の御威光・御稜威・大御心の三つが存在する。
   ・   ・   ・   
 日本の世襲や家族主義は、日本神道・日本仏教・日本儒教・その他の交わりで成り立っていて、中華儒教による中国や韓国・北朝鮮世襲や家族主義とは根本的に異なる。
 では、何処がどう違うかと言えば、日本では中国や韓国のように権力者の家族・身内・親族で贈収賄などの不正をはたいて金儲けする者は少なかった。
   ・   ・   ・   
 天皇・皇族・皇室は、日本国憲法で人権・自由・プライバシーなどが奪われ、私有財産皇室経済法によって原則的に没収されている。
 現代のメディアは、天皇・皇族の一挙手一投足を事細かく白日の下に晒して報ずる事で、悪意に近い敵意に満ちた監視を続けている。
 特に、国民の間に俗悪・醜悪な関心事を持たせようとしているのが、皇室費宮廷費内廷費天皇の財布、皇族の生活費などの金銭情報である。
   ・   ・   ・   
 現代日本を洗脳し日本国を動かしているのは、政治家や官僚ではなくメディア関係者である。
   ・   ・   ・   
 王侯貴族は、キリスト教圏では王権神授説(帝王神権説)であり、立憲君主制では社会契約説であり、共和制では近代法律であり、黄河文明儒教圏では天帝説・人徳論である。
 絶対神に信認されれば、キリスト教会が承認すれば、フランス人でもイギリス国王に即位できた。
 国民・市民、民衆・大衆・人民との君臣契約が成立すれば、ドイツ人でもイギリス国王に即位できた。
 天帝が人徳者と認めれば、中国人が平伏して「天の子(天子)」として忠誠を誓えば、儒教は「天の理」に従いモンゴル人やチベット人あるいはウイグル人でも中国の中華皇帝と認めた。
 絶対主義価値観による王権神授説・社会契約説・天帝説などの人類的世界的大陸的な統治理論では、能力ある優れた支配者のみが評価され、血を唯一絶対の正統性とする世襲制を否定し滅ぼした。
 優れた支配者に必要な能力は、「生きている」間の安定と安全を保障し富を配分する政治・外交・軍事などの実力行使であって、「死んだ」後の安心・安らぎをもたらす宗教の神事・祭事・儀式ではなかった。
 現代日本現代日本人が目指す、理想な開かれた皇室や男女同権による女性天皇女系天皇容認とは、そうしたグローバル的姿である。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、国民は自由に国王を退位させるし、気にくわなければ国王・王妃を犯罪者として公開処刑した。
 中国では、廃止した王朝の一族全員を虐殺して地上から消し、その血筋が2度と復活しないように根絶した。
 故に、血筋・血統による世襲制は存在しない。
   ・   ・   ・   
 日本国憲法の隠された目的の一つは、天皇制度の廃絶と天皇家・皇室の消滅である。
 マッカーサーは、昭和天皇の発言と行動に感銘を受けて、アメリカや世界が求めた昭和天皇を戦犯として裁き有罪として、退位させ、処刑するか追放する事を阻止して、昭和天皇を命を守ったが、将来にわたって天皇制度・天皇家・皇室を存続させる意思はなかった。
 護憲派は、天皇制度の廃絶と天皇家・皇室の消滅という目的の為に存在し、その目的を成功させる為に活動を続けている。
 つまり、彼らは親米派である。
 反天皇反日的日本人の一部が護憲派に忍び込んでいる。
 反天皇反日的日本人には、不寛容の宗教的な、排他のイデオロギー的、虫酸が走る感情的の3種類が存在する。
 日本に於ける、多数派とは天皇擁護派であり、少数派とは天皇打倒派である。
 帰化人は天皇擁護派であり、渡来人は天皇打倒派である。
 現代の歴史は、反天皇反日的渡来人をクローズアップし、親天皇親日帰化人を切り捨てている。
   ・   ・   ・    
 天皇擁護派の中に、最下層民であった貧しい庶民(百姓や町人)、差別された芸能の民(歌舞伎役者・曲芸師・傀儡師・その他)、忌避された賤民(非人・エタ・河原乞食)、軽蔑された部落民(海の民・山の民・川の民)らがいた。
   ・   ・   ・   
 反天皇反日的日本人は、共産主義者マルクス主義者)同様に目的の達成の為には嘘も付くし相手を騙すような行動も平気で行う。
   ・   ・   ・   
 反天皇派高学歴出身知的エリートによって、明治天皇から昭和天皇が関与した歴史的人道貢献、日本人が奴隷として売り買いされいた、昭和天皇や皇族が惨殺されかけた、という幾つかの歴史的重大事件が意図的に抹消されている。
 現代日本で流布されている、日本史や東アジア史(中国史・韓国史朝鮮史など)は嘘が多い。
 子供たちが教えられている歴史教科書は、悪意に満ちた改竄・捏造・歪曲が施された欠陥だらけの教科書である。
 将来的、反天皇反日的に教育された多くの子供がどういう行動に走る・暴走するは分からない。
 彼らは、ソ連中国共産党などの共産主義マルクス主義)勢力が行った大虐殺を認めず非難せず、血の池や死体の山から目を逸らし、子供たちに知らせないように共産主義マルクス主義)社会と言う醜悪な理想社会を吹聴し、そして洗脳している。
 それが、国際社会が日本国内の少数民族と認めている琉球人(沖縄県民)やアイヌ人の間に広まり、琉球人やアイヌ人の反天皇反日独立派を後押ししている。
 彼らが目指しているのは、天皇制度廃絶と天皇・皇族・皇室の消滅、そして日本解体である。
 中国共産党・中国軍は、極秘に彼らを支援し、活動資金を与えている。
 日本国内には、外国人移民として中国人移民が増え始めている。
   ・   ・   ・   
 日本は、古代から日本を侵略しようとする反日派敵日派諸国に包囲されてきた。
 それが、中華の中国や朝鮮であり、キリスト教のロシアであり、共産主義マルクス主義ソ連中国共産党であった。
 そして、そうした敵日外国勢力に味方する反天皇反日的日本人達が少なからず存在してきた。
 その実例が、昭和天皇や皇族を惨殺しようとした日本人共産主義者テロリストやキリスト教朝鮮人テロリストである。
 国民世論は、反対も賛成も明確にせず、事勿れ主義的、我関せず的に沈黙、あるいは黙殺していた。
 沈黙は、賛成であって、反対ではない。
 沈黙の不同意、沈黙して反対する、などありえない。
 心ある日本民族日本人は、その事実を忘れるべきではない。
   ・   ・   ・