🏞122)─1─江戸後期のコレラ流行が日本国を近代国家へ急速に変えた。~No.485No.486 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 イギリスのインド植民地化とアヘン戦争が世界規模のコレラ感染爆発を招いた。
   ・   ・   ・   
 コレラやペストなど毒性の強い疫病・伝染病が数年で世界中に蔓延した原因は、産業革命による鉄道・蒸気船を利用した交通網の整備と大量の人と物を速度を上げて運べるようになったからである。
 つまり、感染爆発は西洋型グローバル化が元凶であった。
   ・   ・   ・   
 孝明天皇や朝廷が、西洋人を穢れとして嫌い、開国に反対したのは疫病・伝染病を持ち込んだからである。
 江戸時代のコレラの流行は3度あった。
 1度目は文政5(1822)年。清国から琉球を経由して九州に上陸して西日本に甚大なる被害をもたらした、東海道沿いを東進したが江戸には至らなかった。
 2度目は安政5(1858)年。感染源は、ペリー艦隊の艦船ミシシッピー号の乗組員が中国で感染し、長崎に持ち込んだ。人口100万人以上の江戸の町でも大流行し、約10万人が病死したが、文献では28万人とも30万人とも記録されている。廻船(かいせん)で東北など地方にも多くの感染者と死亡者が出た。
 翌年には、感染が治まらず甚大なる被害が出た。
 3度目は文久2(1862)年。江戸時代の流行で最も多くの犠牲者が出た。
   ・   ・   ・   
 攘夷派による外国人殺害。
 ・安政4(1857)年 ハリス襲撃未遂事件。
 ・安政6(1859)年 ロシア海軍軍人殺害事件。
 ・
 ・
 ・
 中国人・支那人への差別や嫌悪も、不衛生で、不潔で、疫病・伝染病をもたらすからであった。
   ・   ・   ・   
 飯島渉著『感染症の中国史 公衆衛生と東アジア』 中央公論新社
 第Ⅲ章 コレラマラリア・日本住血吸虫病 
 1 コレラ──19世紀の感染症
 インドからの感染
 19世紀から20世紀初期、世界各地でコレラが流行しました。コレラの原因となるのはコレラ菌で、これが消化器に入ると米のとぎ汁のような下痢が続き、脱水症状に陥ります。コレラには、アジア型とエルトール型などの種類があり、この時期流行したのは非常に致死率が高いアジア型でした。コレラ菌は食物や水を通じて経口感染するため、感染は世界各地に瞬く間に広がりました。
 中国や東アジアも例外ではなく、中国では1820年に南部の温州や寧波(ニンポー)などの沿岸部で、最初の流行が発生しています。その後、コレラは南京、山東省、北京へと北上し、1822年には全国的な流行となりました。朝鮮での最初の流行も中国と同じ1820年、日本や琉球での最初の流行は22年でした。
 これまで述べてきたように、中国には感染症の流行の記録が古くから残っています。歴代の王朝が編纂してきた正史には感染症の流行の記録がたくさんあります。また、省や府県を単位とする地方志にも感染症が流行したことが記されています。しかし、こうした記録は、そのほとんどが『大疫』あるいは『疫』などと記されるにとどまり、実際のところ、19世紀はじめに流行した感染症コレラであったかどうか確定することは困難です。けれども、症状を示す記述などとつきあわせていくと、コレラの可能性がきわめて高いと言えるのです。
 では、コレラはどこから中国や東アジアにやってきたのでしょうか。
 コレラ は、もともとインドのベンガル地方で流行していた感染症でした。1817年大規模な感染爆発が起こり、世界各地に広がります。インド洋地域では、1818年セイロン(現・スリランカ)、19年モーリシャス、20年アフリカ東海岸へと広がりました。その後、中東のペルシャメソポタミアからエジプトにも達します。そして、ロシアやヨーロッパへ、また北米やメキシコにまで広がりました。19世紀初期、インド起源のコレラは、グローバル化したのです。
 交通網の整備とグローバル化
 ベンガル地方の病気として恐れられていたとはいえ、コレラはそれまでインドの特定の地域でのみ発生する感染症でした。それがどうして突然グローバル化したのでしょうか。
 その背景には、ヨーロッパ諸国のアジア・アフリカへの積極的な進出とそれを支える交通網の整備がありました。イギリス植民地統治下のインドで進められた、その要とも言える鉄道網の整備と生態系のバランスを崩すような農業開発もコレラ の流行の背景となりました。さらには、ヒンドゥー教の巡礼がインド国内でのコレラの流行を拡大させたことも指摘されています。
 イギリス史家の見市雅俊は『コレラの世界史』のなかで、そのグローバル化の背景には、イギリスのインド支配を軸とする世界交通網の整備、言い換えれば、世界資本主義の展開があったと指摘しています。実際、この時期からヒトやモノの移動はスピード・アップし、その規模を飛躍的に大きくなりました。
 しかし、それだけでは、コレラがわずか数年のうちにインドから東南アジア、中国、朝鮮、琉球、日本へ広がり、また、アフリカ東海岸や中東へと広がった理由をうまく説明できません。
 19世紀初め、東アジアにおけるコレラの主要な発生地帯は、中国では沿海部の交易拠点や隋代に開削されてから南北を結ぶ動脈としての役割を果たしてきた大運河流域の商業都市でした。
 清朝中国は外国貿易港を広東省の広州1港に限定していました(海禁)。しかし、周辺の王朝(たとえばベトナム、朝鮮、琉球など)とのあいだでは朝貢に付随する形で盛んに交易が行われていました。また、正式な外交関係のなかった徳川時代の日本とのあいだでも、多くの中国商人が長崎を訪れることによって交易が行われていました。このように東シナ海では中国商人を中心とする商業活動が進められいました。これを東シナ海交易圏と呼びます。また、インド洋交易圏でのインド人商人の活動も盛んでした。
 19世紀初期のコレラグローバル化は、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国のアジア進出とインド人や中国人の交易圏が交錯した結果として、わずか数年のうちに日本にまでコレラが広がったと考えたほうがよさそうです。
 先述したように、コレラの日本での最初の発生は1822年のことであったと考えられています。このときの感染ルートには、朝鮮半島を経由して下関一帯へ広がったとする説、つまり中国・朝鮮経由説と、オランダの長崎貿易によってジャワから広がったとするジャワ経由説の2説があります。しかし、どちらが正しいかはまだ決着をみていません。
 アヘン戦争とインド兵
 19世紀にグローバル化したコレラは、人類史のなかで最も多くの人命を奪った感染症のひとつです。感染症の流行という視角から見ると、19世紀は『コレラの世紀』という事ができます。
 中国では、1822年の全国的な流行の後、40年、58年、62年、77年にコレラが流行しています。1840年や58年は、アヘン戦争やアロー戦争(第二次アヘン戦争)など、中国とイギリスなどの外国が戦火を交えた年です。コレラの流行と戦争はたしかに関係がありました。
 アヘン戦争は、第Ⅰ章で触れたように茶や絹などの中国産品の輸入による貿易赤字に苦しんでいたイギリスが、その赤字を埋めるためにインド産アヘンを密輸したことに対して、これを禁止しようとした清朝政府とのあいだに起こった戦争です。アヘンという麻薬の密輸に端を発した戦争にはイギリス国内にも強い反対がありました。しかし、イギリス政府は開戦に踏み切り、中国南部での海戦とともに広東省などでは清朝軍とのあいだで激しい地上戦も行われました。
 あまり知られていないことですが、アヘン戦争を戦ったイギリス軍の大部分は、実際には英領インド軍で、将校はイギリス人でしたが、兵士はインド人だったのです。それはアロー戦争でのイギリス軍も同様でした。こうして英領インド軍によって、中国にコレラが持ち込まれることになったのです。
 水道の整備
 細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見されるのは1884年のことです。原因となる病原菌が発見され適切な対応をとることができるようになると、その歴史には大きな転機が訪れます。
 コレラが国家や社会に与えた影響を考えるとき、最も重要なのがコレラ対策として進められた水道事業の整備です。これはヨーロッパ諸国から進められます。ロンドンでコレラが流行したのは1832年のことです。濾過器で給水した地域に患者が少ないことがわかると、各地で大規模な都市計画とともに水道が整備されていきますが、その目的のひとつはコレラ対策でした。
 水道事業の整備には莫大な資金が必要となります。この結果、衛生事業の役割がしだいに拡大し、政府が積極的に関与する体制になっていきます。これは『国家医療』(state medicine)と呼ばれます。感染症対策、とくにコレラ対策が政府の役割を肥大化させたことは、感染症が歴史に与えたインパクトとして見逃せことのできない事実です。
 現在の日本では、蛇口をひねれば安全な水が出てくるのが当たり前になっていますが、水道の整備は日本でもコレラ対策を目的として進められたものでした。近代的な水道の整備は、横浜や神戸などの居留地から開始されます(横浜:1887年、神戸:1900年)。それはコレラ対策だったのです。
 海港検疫
 水道整備とともに、19世紀半ば以後、コレラ対策として進められたのが海港検疫です。外国から入ってくる感染症を水際で防ぐための制度です。
 ……
 検疫の政治学
 東アジアや東南アジアでのコレラの流行のなかで、中国でも1873年から上海や厦門で海港検疫が開始されました。これは、東南アジアからコレラが持ち込まれることを防ぐための措置でした。実際に海港検疫を実施したのは、開港場に設置された海関(税関)で、海港検疫には外国領事も関与していました。
 アヘン戦争後の1842年に結ばれた南京条約で、海港検疫に関する事項が明示されていたわけではありません。しかし、実際には治外法権の拡大解釈によって、外国領事が自国船舶の検疫に深く関わっていました。そのため厳格な検疫の実施は期待できませんでした。すなわち、中国側の検疫権が条約によって制限されていたのです。
 第Ⅱ章で述べたように、19世紀後半、日本(江戸幕府と明治政府)も中国と同様に検疫権を制限されていました。検疫権の回収が明治政府の悲願のひとつとなったこともすでに述べましたが、それは中国でも同様でした。
 ……
 海港検疫は、開港場ごとに実施されていました。19世紀末から20世紀初頭のペストの流行への対応のなかで、中国側も海港検疫の制度を整備してきます。しかし、1911年の辛亥革命を経て、1920年代まで、中央政府の弱体化を背景として、海港検疫には引き続き外国領事が関与し、海関が実施する体制が維持されます。中国における衛生事業の整備が、なかなか進まなかったことも要因でした。そして、このことは周辺地域に大きな影響を与えることになります。
 中国は、商人や出稼ぎ労働者、また移民を送り出すことによって、周辺地域に対して一定の勢力圏を形成していました。これは、欧米や日本の植民地統治とは異なった秩序だったと見ることができます。しかしこの結果、中国で感染症が発生すると、周辺地域への伝播の危険も高まりました。
 こうしたなか、中国人への差別的な検疫も実施されるようになります。サンフランシスコでは、19世紀末、入港する船舶への検疫と同時に中国人(女性を含む)への裸体検疫が実施されます。この措置は裁判所の判断によって撤回されましたが、検疫は各地でさまざまな問題を引き起こしました。
 ……」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
コレラ(Cholera、虎列剌)は、コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とする経口感染症の一つ。治療しなければ患者は数時間のうちに死亡する場合もある。
 日本におけるコレラ
 日本で初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が日本に及んだ1822年(文政5年)のことである]。感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられているが、その経路は明らかでない。九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった。2回目の世界的流行時には波及を免れたが、3回目は再び日本に達し、1858年(安政5年)から3年にわたり大流行となった。
 1858年(安政5年)における流行では九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで10万人が死亡したという文献も存在するが、後者の死者数については過大で信憑性を欠くという説もある。1862年文久2年)には、残留していたコレラ菌により3回目の大流行が発生、56万人の患者が出た。この時も江戸には入らなかったという文献と、江戸だけでも7万3000人〜数十万人が死亡したという文献があるが、これも倒幕派が政情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多い。
 1858年(安政5年)の流行は相次ぐ異国船来航と関係し、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、中部・関東では秩父三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを眷属とし、憑き物落としの霊験を持つ眷属信仰が興隆した。眷属信仰の高まりは憑き物落としの呪具として用いられる狼遺骸の需要を高め、捕殺の増加はニホンオオカミ絶滅の一因になったとも考えられている。
 コレラが空気感染しないこと、そして幕府は箱根その他の関所で、旅人の動きを抑制することができたのが、江戸時代を通じてその防疫を容易にした最大の要因と考えられている。事実1868年(明治元年)に幕府が倒れ、明治政府が箱根関所を廃止すると、その後は2 - 3年間隔で数万人単位の患者を出す流行が続く。1879年(明治12年)と1886年明治19年)には死者が10万人の大台を超え、日本各地に避病院の設置が進んだ。1890年(明治23年)には日本に寄港していたオスマン帝国の軍艦・エルトゥールル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われた。また1895年(明治28年)には軍隊内で流行し、死者4万人を記録している。
 このような状況が改善され、患者数も1万人を切ってコレラの脅威が収まるのは、1920年代になってからである。その後は、第二次世界大戦直後にアジア各地から日本軍復員兵や引揚者の帰国が始まると、彼らによって持ち込まれたコレラで、多数の死者を出した。流行期には罹患者へ危害を加えたり、流言飛語が流布するなどの混乱も見られた。

   ・   ・   ・   
 日本も開国して外国人を受け入れる事で、海外起源の疫病・伝染病が国内で流行して多数の犠牲者を出した。
 日本にとって、疫病・伝染病の感染爆発による大量の病死者は近代国家へ発展する為のやむをえなき犠牲であった。
 攘夷派が外国人を穢れた存在として嫌悪した理由は、疫病・伝染病が少なかった浄き日本に死の病を持ち込んで流行させたからであって、日本民族日本人でないからではなかった。
 歴史的事実として、狂信的攘夷派が外国人を殺害し始めたのはコレラの流行からである。
 孝明天皇や朝廷が、神戸を開港するのに猛反対したも、外国人が持ち込む疫病・伝染病で浄き都が穢される事に恐怖したからである。
   ・   ・   ・   
 現代風にいえば、「新型コロナウイルス武漢肺炎を日本に持ち込んで日本人に死をもたらした中国人・武漢人は穢れている」という事になる。
 日本民族日本人が、排他的に外国人を嫌ったのは海の外から疫病・伝染病をもたらすからであって、人種・民族による差別ではなかった。
 何故なら、日本民族日本人とは多人種・多民族が乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族だからである。
   ・   ・   ・   
 現代の漢族系中国共産党と100年前の征服統一王朝である満州族モンゴル族清朝は違う中国である。
 ましてや、異民族王朝の隋や唐とも漢族系中国共産党は縁も所縁もない。
   ・   ・   ・   
 現代日本は、明治時代の近代的水道事業がコレラ対策であった事を忘れ、国家資産・インフラ整備のグローバル化財政赤字の補塡目的で国内外の民間企業・民間資本に水権利が売り払われている。
 国家赤字は約1,100兆円で、毎年約40兆円が増えていく。
 中国資本は、日本の各地の水源もしくは河川の上流域にある山林を爆買いしている。
 媚中派親中派の日本人は、中国資本による土地購入を支援している。
 海外で活躍している中国資本には民間資本はなく、全てが中国共産党系か中国軍系である。
 現代日本人は、歴史力が乏しく、歴史を学ぼうと為ず、なぜ先人がそれを行ったかを過去の事として捨てている。
   ・   ・   ・   
 現代日本は、国内での海外起源の疫病・伝染病が少ない為に、経費節約から税関における検疫人員が最低限度までに減らされている。
 そして長年培ってきたの職人的現場力は後継者不足から急速に失われ、人員不足を最新鋭機器で補っている。
   ・   ・   ・