🏞123)─1─多くの藩は疫病が発生しても隔離・自粛を制度化していなかった。~No.487No.488 ㊺  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本は、補償がある至れり尽くせりの天国である。
 江戸時代の日本は、補償がない面倒を見ないほったらかしの地獄であった。
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 2020年6月10日 読売新聞「磯田道史の古今をちこち
 身代潰したす『給付なき隔離』
 新型コロナウイルスの流行で、我々は『自粛』生活を送った。江戸時代にも自粛は行われたのだろうか。
 若い時分、私は古文書さがしの全国行脚をした。山口県岩国藩の史料をみていたら、『疱瘡(ほうそう)遠慮定』という稀有(けう)な古文書に出くわしたのを憶(おぼ)えている。
 岩国藩(吉川領)では、武士や領民が疱瘡(天然痘)に感染すると『遠慮』といって登城や外出を自粛させた。そればかりか自宅療養を禁じ、『疱瘡退村』と特定の村を隔離区域に指定。きまった日数、そこに隔離していた。〝濃厚接触者〟に近い概念もあった。最初は、病人の看病人や病家の隣家までが濃厚接触の疑いで隔離。その範囲は次第に、病家を訪れた人や隔離先の村人などに拡大されいった。
 もっとも、普通の藩は、そこまでのことは、していない。岩国藩が異常に厳しい隔離政策をとっていた。
 近年、江戸期の隔離や天然痘の予防接種の研究は進んだ。昨年末には香西豊子『種痘という〈衛生〉』(東京大学出版会)という優れた研究書も出ている。最新に研究にも学び、江戸時代の『自粛』や隔離について説明しておく。
 そもそも江戸時代は『自粛』をする理由が現代とは大きく違った。現代は感染を拡(ひろ)げないためであるが、当時は、なんと殿様(藩主)にうつさないためであった。だから、殿様が不在の場合は『「遠慮」の制が適応されないこともあった』(香西前掲書)という。
 徳川幕府も、将軍の身体を守るため、法定伝染病の制度を設けていた(川部裕幸『江戸幕府の法定伝染病』日本医史学雑誌)。1680年から、疱瘡・麻疹(はしか)・水痘の3つにかかると、幕臣江戸城への登城を35日間『遠慮』した。
 江戸人の多くは幼時に天然痘にかかった。特に都市住民は、まず罹患(りかん)した。徳川将軍は周囲が遠慮=自粛して感染から守られたが、これでも歴代15人中14人が罹患した。かからなかったのは8歳で死んだ7代・家継おみである(香西前掲書)。
 江戸時代の天皇も、疱瘡の『ケガレ』から徹底して防護されていたが、それでも15名中7名が罹患した(川村純一『病いの克服──日本痘瘡史』思文閣出版)。
 しかし、岩国の殿様は、完璧な身体的距離戦略の『遠慮定』で天然痘ウイルスから遠ざけられた。そのためか、『歴代だれひとりとして痘瘡にかかっていない』(香西前掲書)という。
 君主の身体を守るため、自粛を強要したなら、江戸の『自粛』にも『給付』が伴ったのかが気になる。岩国藩の場合は『退散米』といって、病人・看病人・同居人等の隔離費用を生活費も含め領主が負担した。その費用、流行一回に付き、米200石(桂芳樹『岩国藩の「疱瘡遠慮定」』岩国徴古館)。
 現在、新型コロナ対策で、事実上の外出自粛や休業の要請をしながら、生活支援や給付が十分でないとの意見も多い。江戸時代の方が手厚かったと思われるかもしれない。
 しかし、岩国藩は例外である。第一、江戸時代は隔離自体を制度化していない藩が多かった。大村藩長崎県)も隔離を強制する珍しい藩であったが、岩国とは制度が違い、皆、ひどい目に遭っていた。長与専斎はこの大村藩の医師。内務省衛生局初代局長となった長与は、後にこう回想している。家族から疱瘡にかかると『其費用夥(おびただ)しく・・・疱瘡百貫と唱へ、中等以下の生計にては大抵身代(しんだい)を潰し累代(るいだい)の住家をも離るるもの少なからず』(長与称吉編『松香私志』下巻)。百貫は今の数百億円。『給付なき隔離』の恐ろしさを歴史は教えてくれている」
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 日本列島は、深刻な自然災害、恐怖の疫病感染爆発、地獄の飢饉・餓死、甚大な大火が複合的に多発し夥しい犠牲者を出す悲惨な災害地帯であった。
 考えに考えて智慧を出し、工夫に工夫をこらして技術を進歩させ、如何に努力し頑張ったところで、被害を完全にゼロに防ぐ事はできなかった。
 日本民族日本人は、毎年の如く発生する複合的災害多発地帯から逃げ出さず、「死」を身近なものとして、死ぬ事を前提として生きてきた。
 複合的災害多発地帯では、死と生は一体であった。
 災害による死は、誰が悪いというのではなく「やむおえない」不運・不幸であった。
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 江戸時代は、ブラック社会で、御上・御公儀、幕府・大名、寺社仏閣などは助けてはくれないため、自己責任・自助努力・自力救済で生きるも死ぬも自分しだいであった。
 日本には、困窮者・貧困者・病人など弱者を救済・生活支援するキリスト教会や無料でボランティア活動する民間団体もなかった。
 江戸時代の庶民には救いはなかく、絶望して諦めるしかなった。
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 日本社会は、いつの時代でも哀れなほどに脆弱であった。
 日本民族日本人は、どうしようもない程に精神力が弱く脆く、弱虫で、気弱で、ダメな人間であった。
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 江戸時代は、老人文化花盛りの庶民(百姓や町人)の時代であった。
 滅びの美学で死を美徳とする武士などは少数派であり、物の哀れを悟り世を捨て山野に籠もった隠遁者はいなかった。
 庶民は、夢も希望も持たない代わりに、その日その時の性の欲動と生の衝動で意欲満々と生きていた。
 庶民は、死を覚悟して勇敢に立ち向かって戦わず、生きる為に惨めに泣きわめきながら逃げ回った。
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 2020年6月11日号 週刊新潮「『常識』が喪われた『コロナ後』に戻るべき価値観の原点  佐伯啓思
 新型コロナウイルスとは何だったのか──。我々はウイルスそのものに戦慄した。同時に、それを、それすらも受け止めることができない現代社会の脆弱性も目の当たりにした。徐々に取り戻されつつある『日常』。だが、戻るべきは『これまで』の生活なのだろうか。 ……
 隣に倣えという基準
 結局、グローバリズムによって、我々は価値の確かな基準を喪失してしまった。ニヒリズムに陥ってしまったのである。だから戻るべきところが分からない。基準とすべき価値が見えないのだ。
 グローバリズムとはとどまるところのない『自由』の拡散である。自由主義、それは有り体に言えば『何でもあり』ということだ。裏を返すと、『何が良い』のか分からない。それを決める基準はない、だから全て状況次第。拠って立つものがないから、最終的に隣りに倣えとなり、それのみが基準となっていった。
 構造改革もそおうだし、ボーダーレス化も、IT革命も、グローバリズムも同じである。他がやっているから我々も、となる。要は世の中の『空気』で物事が動いていく。価値基準を持たないから、その流れに抗して歯止めをかけることができない。
 しかし本来、人間の中には、ここまで行ってしまったら行き過ぎだとか、そこまでやるのはおかしいといったバランス感覚があるはずだ。それを『常識』と呼ぶ。では『常識』とは何か。先のことは見えないのだから、昔からの積み重ねを拠りどころとし、変えるのであれば漸進的に変えていく。これが『常識』であり、保守の知恵であった。
 ところが90年代以降、グローバルスタンダードの名のもと、成長主義と改革主義だけが世界を覆うようになった。そして中国に負けてはならない、というような話になる。あが、改革、成長が正しいという根拠はない。他がやっているから我々も、ということで正当性を図っただけである。企業もそうだ。同調である。そして同調が同調を呼び、窮屈な社会が生まれた。
 物事には多方面な価値があり、画一的で合理的なひとつの価値基準で割り切れるものではない。つまるところ、『これで全て解決』というようなやり方は存在しない。多様なものに配慮し、異質な見方にも耳を傾けるという保守の基本的な考え方が喪われた。新保守と言われる改革論者も、逆にポリティカル・コネクトネス(PC)を振りかざす左翼も、両面から『常識』を壊していった。一元的な正義、一元的な価値だけで割り切ろうとし、それ以外は認めない。そんな両者の『空気』に人々はなんとなく従い振り回されてきた。こうして、現代社会は堅苦しく、ピリピリとしたものになってしまった。
 問われる死生観
 この一元的な価値観は、死生観にも少なからぬ影響を与えてきた。我々がコロナによってパニックに陥った大きな要因は、身近に『死』を感じたことにあろう。
 カミュの『ペスト』が売れたようだが、そこで描かれたのは、生は死と隣り合わせで不条理なものであるということだった。それを我々は忘れていた。一元的な価値観である科学的統計主義に支配され、不条理を排除できると思い込んできた。ゼロリスク信仰と言っても良いかもしれない。
 全てを画一的に数字に換算し、それだけで是非を語るのであれば、経済成長率は1%より2%が良いとなるし、コロナの致死率も3%の国より2%の国のほうがいいとなる。しかし、死とは一人の問題であって、確立の話ではない。人間の実在にかかわる。大事なことはどういう死に方をするかであるが、数字の話ばかりが語られる世の中になってしまっていた。
 また、日本人のかつての死生観には、災害などの自然現象に対してはある種の諦めがあった。自然現象には人知が及ばないものだという一種の諦念を持っておかないと、感染者数を減らすことができなかったのはなぜか、誰が責任を取るのかという際限のない責任追及の負のループに陥ってしまう。自然現象の前では人間は無力であり、いつかは死ぬ。その前に自分の生き方を定めておく以外にないのである。コロナは、死を前提にどう生きるかを改めて我々に問うたといえよう。
 とりわけ日本は、戦争の反動で戦後に平和主義が染みついた。平和であることが当然になり、自分たちで自分たちの生命をどうやって守っていくかという切迫感が喪われたのだ。阪神淡路と東日本の2度の大震災はあったものの、このまま普通に生きていけるだろうと。それが生命第一主義となり、生命の維持が絶対化されていった。
 もちろん、誰しも生命は大事である。しかし、かつては『太く短く生きる』とか、『義のためには命を惜しまず』といった武士道的なやせ我慢の道徳観も同時にあったのではなかったか。今回、医療関係者が差別の対象になったなどというのは論外だ。
 コロナ禍が、死の不条理を思いおこさせたのなら、コロナがもたらした約2ヵ月間の自粛期間は、どうやって生きるか、どうやって死ぬかを考えるいい機会であったはずだ。私自身はまだ書きたいことも知りたいこともあり、この2ヵ月間は貴重な時間でもあった。パチンコをやって死にたいのか、麻雀をやって死ねば良いのか、これは一人ひとりの選択の問題である。
 今回のコロナは、必ずしも強毒性とは言えないものの、それが経済を完全に破壊し、人間の精神にも大きなダメージを与えたというところに、これまでのパンデミックとは違う特色がある。こんなことで世界全体がパニックになってしまうほど、グローバリズムが骨の髄まで浸透した現代文明は薄っぺらものだったということである。……」
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 人に対する差別と迫害は、日本と西洋・中華などの世界とでは違う。
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 現代日本人は、歴史力がない為に歴史が理解できない。
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 一般庶民には、個人の墓・先祖代々の墓はなく、仏壇はあっても位牌はなかった。
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 日本の生き方は、西洋の生き方や中華(中国・朝鮮)の生き方とは全然違う。
 日本の生き方は、努力は報われないという「諦め」であった。
 西洋と中華の生き方とは、努力は報われるという「諦めない」であった。
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 日本文化は、自然と折り合いつけながら相互依存と補完共生であった。
 西洋文化中華文化は、自然を支配し管理する為に科学技術で改造することであった。
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 アジア、東洋と言っても、神道の日本、儒教の中華、ヒンズー教とその他のインド、イスラム教とその他の東南アジアでは全く違う。
 西洋は一枚岩だが、東洋は複数であった。
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 日本で最悪の「穢れ」とは、疫病である。
 日本で血と死・死体が忌避されるのは、疫病の感染爆発を怖れたからである。
 疫病死体・変死体を処理するのが、穢れた賤民(非人・穢多)や部落民の仕事であった。
 疫病は、海の外、中国大陸や朝鮮半島から入ってきた為に、中国人や朝鮮人を穢れた人間として嫌い、差別し、排除した。
 幕末、尊王攘夷で外国人を襲い殺したのはコレラの感染爆発が原因であった。
 孝明天皇が夷人を嫌い、公家が神戸開港に猛反対したのは、疫病感染を怖れたからである。
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 日本の姥婆捨て山物語は、年老いて働けなくなり無駄飯食いだからではなく、体が衰え免疫機能が低下し疫病に感染しやすいから、疫病に感染しないうちに家族から引き離す為であった。
 村は、村を疫病から救う為に老人を捨てる行為に目を瞑った。
 若い生娘を生け贄にする、という行為も疫病難から逃れたい一心で行われた。
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 日本のムラが、閉鎖的排他的で、外から訪れる余所者を受け入れなかったのは疫病の水際対策であった。
 不寛容に、病人が出た家を村八分的に関わりを持たないようにしたのは疫病の感染爆発を抑える為であった。
 その最悪の例が、癩病者=ハンセン病者に対する冷たい仕打ちであった。
 皮膚病や癩病ハンセン病を治し病人を癒やす奇跡は日本にはなかった。
 日本人は、病人を穢れた人間として追放した。
 日本人は惻隠の情があり、相身互い、お互いさま、相互扶助、助け合いの精神がある、はウソである。
 日本人は、いざとなれば見殺しにする、見捨てる、といった薄情・非情・冷酷・冷血さを心に秘めている。
 殊更、日本人を美しく持ち上げる話をする日本人は信用しない方が良い。
 松本清張が『砂の器』で描いた日本人像が、正しい日本人である。
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 大名・藩は自藩第一主義で、他の大名・藩がどんなに悲惨な状況に陥り夥し犠牲者を出そうとも食糧や医薬品などの救援物資を送る事はなかった。
 「敵に塩を来る」は、つくられた美談である。
 自分は自分、他人は他人、自分が助かって生き残れれば他人の生き死になど気にはしない、それが江戸時代の生き方であった。
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 江戸時代の庶民は、よく笑い、よく怒り、よく泣き、酒を飲んで楽しく踊り詠い喜んでいた。
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 昔の日本には、思想や哲学はあっても主義主張・イデオロギーはなく、祈り拝む信仰はあっても信じ込む宗教はなかった。
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種痘という〈衛生〉: 近世日本における予防接種の歴史
病いの克服―日本痘瘡史