🏞98)─1─町人医師・小山肆成は鎖国下で国内初の国産天然痘ワクチンを開発した。~No.376No.378No.379 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・     
 昔の日本人は偉かったからといって現代の日本人も偉いとは限らない。
 昔の日本人が褒められるからといって、現代の日本人も褒められるとは限られない。
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 昔の医師は、医学と論語(道徳)を学んでいた。
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 江戸時代の日本人は、古今東西の過去の古典を学習し、自分の興味に従って経験を積み、オランダからの最新の西洋知識を学んでいた。
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 NHK知恵泉
 人たちの底力 知恵泉 「小山 肆成」「荻野吟子」
 先人たちの底力 知恵泉 医療の黎明!知られざる名医たち「小山 肆成(しせい)」「荻野吟子」
 NHK Eテレ 2021年3月16日(火)22:00~22:45
 再放送 翌週火曜 昼12:00~12:45
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 「小山 肆成(しせい) 国内初のワクチン開発者」
 【放送日時】2021年3月16日(火)22:00~22:45/再放送 3月23日(火)昼12:00~12:45
 江戸時代、猛威を振るう天然痘から人々の命を救うため、日本初となる国産ワクチンの開発に挑んだ町医者がいた。その名は小山肆成(しせい)。小山はどのようにしてワクチンを作り、どう広めていったのか。立ちはだかるいくつもの壁を乗り越える小山の知恵を、医師の二木芳人さんが読み解く。
 【出演】二木芳人(昭和大学医学部客員教授) 大石学(東京学芸大学名誉教授) 渡辺満里奈(タレント)
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 小山 肆成(こやま しせい、文化4年(1807年) - 文久2年9月6日(1862年10月28日))は、江戸時代後期の医師。日本で初の国産天然痘ワクチンの開発に成功した。号は蓬洲(ほうしゅう)。通称は敬介。和歌山県の医学界では華岡青洲と並び「北の青洲、南の蓬洲」と評価されている。
 生涯
 文化4年(1807年)、紀伊国牟婁郡久木村(現和歌山県西牟婁郡白浜町久木)の地士の家に生まれた。幼名は小文冶。若くして京都に出て、兄の文明の下で勉学に励んだ。兄の死後の文政6年(1823年)より医学を志し、儒学を岡田南涯、医学を宮廷医師・高階枳園に学んだ後、宮廷医師を経て烏丸に開業した。
 天保9年(1838年)から天保13年(1842年)にかけて熊野地方で猛威を振るった天然痘を目の当たりにしたため、家宝の刀など家財を売り払って実験用の牛を購入し、妻を実験台にして天然痘ワクチンの研究に没頭した。弘化4年(1847年)に牛痘法の書『引痘略』を校刻し、『引痘新法全書』を著した。
 牛痘を接種して効果を上げ、嘉永2年(1849年)には強い免疫性を持つ天然痘ワクチンの牛化人痘苗(ぎゅうかじんとうびょう)の開発に成功した。イギリスのエドワード・ジェンナーによる種痘開発から半世紀遅れたが、発病率はより低く世界的にも高評価を受けている。
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 AGARA 紀伊民報
 外相陸奥宗光に医師小山肆成 郷土の偉人から学ぶ
 (2020年11月27日 14時30分 更新) 和歌山 紀南 熊野灘 教育
 立谷誠一会長(奥左)から小山肆成の業績について話を聞く児童(26日、和歌山県串本町西向で)
 郷土の偉人から多くを学ぼうという学習会が26日、和歌山県串本町西向小学校であった。「『陸奥宗光外務大臣』の功績を教育に活かす実行委員会」が、天然痘ワクチンを開発した小山肆成と外交で活躍した陸奥宗光の業績を紹介。新型コロナウイルス感染症が広がる中、児童らは肆成らの取り組みに興味津々だった。
 「『生きる』―偉人に学び、生命(こころ)を強くする」と題して和歌山市や紀南各地で開いている。紀州光龍馬会共催。
 西向小では、実行委の立谷誠一会長(71)が小山肆成、臼井康浩事務局長(55)が陸奥宗光について語り5、6年生18人が耳を傾けた。
 小山肆成は江戸後期の医師。1807年、当時の紀伊国牟婁郡久木村(現白浜町久木)で生まれた。儒医だった兄を頼って22年に京都に移住。医学者の高階枳園らに師事して医師の道を歩んだ。
 当時、天然痘は治療が難しい病気とされ、熊野地方でも猛威を振るった。治療方法が分からず、当時は鎖国中だったので海外から情報を得ることも容易ではなかった。
 肆成はある時、牛の乳を搾っている人は天然痘にかからないと聞き、それを契機に研究に没頭。苦労の末、強い免疫性を持つ牛痘苗を作り天然痘の予防に力を尽くした。
 立谷さんは肆成の活動を描いた紙芝居をスライドにし、絵を交えて分かりやすく説明。貧しい人からお金を取らなかったため、研究費に困って家宝の刀も売ったとも話し、児童に「こんなに素晴らしい人物がいたことを誇りにし、大人になっても思い返してほしい」と呼び掛けた。
 陸奥宗光は1844年に和歌山市で生まれた。青年時代は神戸海軍操練所で勝海舟の影響を受けた。坂本龍馬とともに活動し、海援隊副隊長として龍馬を支えた。龍馬亡き後は明治政府に入り、外務大臣になった時、江戸幕府が西欧列強と交わした不平等条約を改正。列強による植民地政策から日本を救った。
 臼井さんは、宗光は教養や訓練を通して自身の技能を高めたとし「皆さんもそのような人になって」と話した。
 6年生の児童は「天然痘で3人に1人が亡くなったと聞きびっくりした」「ワクチンができてよかった」などと口々に感想を話していた。
 この日は、串本町へのロケット発射場誘致に尽力した和歌山市出身の故上野精一氏の妻、敦子さんの話も聞く予定だったが、都合で欠席となった。
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 種痘とは、天然痘の予防接種のことである。ワクチンをY字型の器具(二又針)に付着させて人の上腕部に刺し、傷を付けて皮内に接種する。1980年に天然痘ウイルスは撲滅され、自然界に存在しないものとされているため、1976年を境に日本では行われていない。
ワクチン
 古くから西アジアや中国では、天然痘患者の膿を健康人に接種して軽度の天然痘を起こさせて免疫を得る人痘法が行なわれていたが、数%の重症化する例もあり、安全性は充分でなかった。1796年にイングランドの医師エドワード・ジェンナーは、ウシが飼育されている家や地域では牛痘にかかると天然痘にならないという伝聞に着目、これの膿を用いた安全な牛痘法を考案し、これが世界中に広まり、天然痘の流行の抑制に効果を発揮した。ワクチンという言葉もこの時用いられたものである。
 しかし、のちの研究で牛痘ウイルスと天然痘ウイルスには免疫交差の作用がないことが判明した。実際には牛痘の膿に混じっていた別のウイルスによるものであり、したがってジェンナーが天然痘ワクチンを生み出せたのは偶然によるものだった。このウイルスはのちに「ワクチニアウイルス」と命名されたが、由来については長年不明だった。しかし、近年に馬痘ウイルスもしくはその近縁種であったことが判明している。
 日本への伝来と普及
 日本では秋月藩藩医だった緒方春朔が1789年に大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘法で接種し成功させた。これはジェンナーが考案した牛痘を用いる方法ではなく、天然痘の瘡蓋(かさぶた)の粉末にして鼻孔に吹き入れる方法に、緒方自身が改良を加えたものだった。1810年にはロシアに拉致された中川五郎治が、帰国後に牛痘を用いた種痘法を伝えた。文政7年(1824年)、田中正右偉門の娘イクに施したのが日本初の種痘術である。この頃蝦夷地では天然痘の大流行が3度起っており、このとき彼が種痘を施したとみられる。しかし五郎治は種痘法を秘術とし、ほとんど伝えなかったために、知る者は少数であった。彼の入手した種痘書は幕府の訳官・馬場佐十郎によって文政3年(1820年)に和訳されている。その後種痘の技術は箱館の医師、高木啓蔵、白鳥雄蔵などにより、秋田、さらには京都に伝達された。これとは別に1813年に同じくロシアから帰国した安芸国の漂流民・久蔵が種痘法を覚え、種痘苗をガラスの器に入れて持ちかえっており、その効果を広島藩や藩主の浅野斉賢に進言しているが一笑され実現化に至らなかった。
 牛痘苗の輸入
 1823年に長崎出島にやってきたオランダ商館の医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、直後にバタヴィアから持参した牛痘苗を用いて種痘を行ったが、成功しなかった。彼は翌年には鳴滝塾を開き、日本中から集まる医師たちに西洋医学を教授する。1826年の江戸参府の際には、再度輸入した痘苗を用いて種痘術を実演し、種痘の知識や具体的な手順を伝えたが、この際も痘苗が活着することはなかった。
 福井藩福井県)の町医者笠原良策は弘化3年(1846年)、藩に対し牛痘苗入手の請願書を出したが、不採用となっていた。嘉永元年(1848年)12月に再度請願書を出し、従来のようなオランダ船経由では痘苗が活着しないため、清国からの取寄せを進言した。藩主松平春嶽はこれを受け入れ幕府に請願した。老中阿部正弘長崎奉行大屋明啓にこれを伝達した。
 長崎奉行からオランダ商館に要望が伝達された。オランダ商館医オットー・モーニッケは嘉永元年の来日赴任の際に牛痘を持ち込むが、これは上手くいかず、翌年に再度バタヴィアから取り寄せた。
 一方、シーボルトの門人で鳴滝塾に学び、当時佐賀藩医であった伊東玄朴が痘苗の入手を藩に進言した。佐賀藩もまた長崎出島のオランダ商館にこれを依頼していた。
 嘉永2年(1849年)6月、バタヴィアから長崎に再度もたらされた牛痘苗を用いて、モーニッケによって佐賀藩医の楢林宗建やオランダ通詞らの息子たち計3人に種痘が施され、その一人が善感した。この痘苗は、長崎・佐賀を起点として複数の蘭方医たちを中心とするネットワークによって、6か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播した。京都の日野鼎哉と桐山元中から依頼を受けていた長崎の唐通詞頴川四郎八は、自分の孫に種痘を施した。そこから得られた痘痂8粒を瓶に納めて9月6日に京都の日野に向け発送し、同月16日に日野の手に届いた。これを日野は自分の孫に試すが上手く行かず、最後の一粒を桐山の息子に接種したところ、これは上手く行った。これを元に同年10月、笠原良策と日野鼎哉が京都に「除痘館」を開設。京都の噂を聞きつけた緒方洪庵が翌11月初めに京都を訪ねるが、前出の経緯により痘苗は「福井藩の所有物」であったため、医師の権限での安易なやり取りに問題があったが、日野や笠原らと緒方は話し合い、当時は人から人へ移し続けることでしか保存できなかった痘苗を途絶えさせないためにも、なるべく多くの場所で運営保存することによりこれを相互のバックアップとする、という大義名分を考え出した。これにより笠原・日野・緒方は6日に大坂に赴き、翌日の7日に「除痘館」を開設した。
 佐賀藩では、8月には佐賀藩医楢林宗建が痘母となる子どもをつれて佐賀に到着、藩医の子らに接種した後、藩主の子淳一郎(鍋島直大)にも接種した。同時期に種痘事業を担当する引痘方が設けられ、医師の出張・宿泊費を藩が支給し無料で藩領に接種が開始された。並行して熟達した医師に医業免札を発行する制度が導入された。10月に佐賀藩江戸藩邸の伊東玄朴に送られた痘苗から、関東・東北の各地に広がることになる。
 笠原良策は京都での種痘活動、大阪の「除痘館」の開設に関わったのち、福井藩への輸送を試みる。当時の種痘は子供から子供に7日目毎に植え継ぐ方法しかなかった。同年11月下旬、笠原らは子供とその親の総勢10数名を引き連れて京を出立、雪深い栃ノ木峠をかき分け越え、越前国へ痘苗を持ち帰った。笠原は福井城下自宅の隣家にて帰国した当日から種痘を開始し、接種と鑑定方法を熟知することを条件に、越前国内の府中・鯖江・大野・敦賀、隣国加賀(石川県)の大聖寺・金沢・富山などへと分苗していった。その後福井藩嘉永4年(1851年)10月、70名を超える藩医・町医を組織した「除痘館」を開設した。
 富山藩では、1840年代後半、前藩主である前田利保が種痘を聞くに及び、藩医の横地元丈を江戸に派遣、情報収集と種痘技術の習得を行わせた。1850年嘉永3年)、富山に戻った横地元丈は自分の子供に接種、翌年、藩内で天然痘が藩内で猛威を振るうと、前田利保自ら種痘の有効性を説き普及に努めた。
 江戸では嘉永2年(1849年)3月に、既得権益を守りたい、または用例が未だ少ない蘭方医学に対する不信感を持つ漢方医(多紀元堅ら医学館の関係者)らの働きかけから「蘭方医学禁止令」が布達された影響もあり、普及は遅れた。しかし種痘の需要は、下からの要望という形で増えていく。同年に医師の桑田立斎は『牛痘發蒙』という啓蒙書を出版している。立斎は江戸に牛痘苗が伝わるより前に、人痘法で種痘を行っていた桑田玄真の養子であり、坪井信道の門下生であった。
 幕臣世襲の伊豆韮山代官であった江川英龍蘭学知識人として知られていた。嘉永3年(1850年)1月、伊東玄朴に依頼して息子江川英敏と娘卓子に種痘を施させた。この結果を良好とみた江川は、部下の医師肥田春安にさらに試行を行わせた上で、伊豆地域の自身の支配領内に「西洋種痘法の告諭」を発した。肥田と助手が村々を回り、領民に種痘を施していった。この「西洋種痘法の告諭」の中で江川は、自身の子供二人にも施したことに触れた上で、当時の民衆の間で流布していた、種痘に対する得体の知れないものへの恐怖、迷信、噂などを打ち消そうとした。
 同じく幕府直轄領であった蝦夷地でもアイヌの間に度々大規模な流行があり、1807年の流行の際にはアイヌ総人口の4割強が死亡した、とも伝わる。これを阻止するため、箱館奉行の村垣範正が安政4年(1857年)に幕府に種痘の出来る医師の派遣を要請した。桑田立斎と深瀬洋春らが派遣され、国後場所にまで至る大規模かつ強制的な種痘が行われ、アイヌの人口の半数が種痘を受けたと伝わる。これが世界初の、ある地域を対象とした天然痘根絶のための強制・義務による一斉種痘施術、とされる。当時の状況を描いた平沢屏山筆の「種痘施行図」がある。
 このように、幕府支配地域での種痘に対する要望が増したこと、すなわち幕府として種痘医の養成が急務となったこと、および江戸での急速な開化ムードも後押しし、安政5年(1858年)に蘭方(蘭学)解禁となった。江戸幕府第13代将軍・徳川家定脚気による重態に際し、7月3日に漢方医の青木春岱・遠田澄庵と共に伊東玄朴・戸塚静海らの蘭方医奥医師(幕府の医官)に登用された。同7日には玄朴の戦略的な進言により伊東寛斎・竹内玄同の増員に成功した。これにより蘭方内科奥医師は4名となり、さらに同年10月16日、時のコレラ流行を利用し、松本良甫・吉田収庵・伊東玄圭らを公儀の蘭方医として採用させた。すなわち幕府(将軍)が自ら、蘭学蘭方医学にお墨付きを与えた形となった。これら蘭学解禁の世相の中で伊東玄朴・戸塚・箕作らは川路聖謨を通して幕閣に働きかけ、安政5年正月に種痘所開設の許可が下った。 伊東玄朴・戸塚・桑田・箕作阮甫・林洞海・石井宗謙・大槻俊斎・杉田玄端・手塚良仙ら蘭方医83名の資金拠出により、同年5月7日、神田松枝町(現・東京都千代田区神田岩本町2丁目)の川路聖謨の神田於玉ヶ池の屋敷内に「お玉が池種痘所」が設立された(東京大学の前身)。この種痘所は後に幕府直轄の「西洋医学所」とされた。
 上州舘林では長澤理玄が江戸に上り嘉永2年(1849年)に桑田立斎の弟子となり、嘉永4年(1851年)に種痘法を持ち帰ったが、藩主秋元志朝の命を受けてなお、皆は種痘を受けることを恐れた。理玄は普及を急き焦り、親の承諾も得ずに通りすがりの子供に施術するなどして益々反対派を増やしてしまった。翌年には藩飛び地の羽州漆山(山形県)へ赴き、同地でも種痘施術を行った。元々秋元家は同地から舘林に移されたばかりであり、山形では医師であった理玄の父の名声も高かったことから、種痘は普及した。また舘林では家老の岡谷瑳磨介が率先して自身の子供4人に受けさせた。この後、種痘に反対していた重臣の子供らは次々と天然痘に罹ったが、岡谷の子供らは大丈夫であった。効果を目の当たりにしたこれ以降、他の藩士や領民も進んで種痘を受けるようになった。のち藩は岡谷の献策により、理玄を中心とした大規模な医療施設を設け、さらに舘林藩は藩内の幼児全てに種痘を受けさせることを義務化した。
 こうして全国に広まっていくと同時に、もぐりのいい加減な施術を行う牛痘種痘法者が現れた。緒方洪庵らは「除痘館」のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走していた。安政5年4月24日(1858年6月5日)、洪庵の天然痘予防の活動に対し、大坂町奉行の戸田氏栄を通し幕府からの公認が行われ、牛痘種痘は免許制とされた。
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種痘医 小山肆成の生涯
「国産ワクチンの開発に挑め!小山肆成(しせい)」