🏯5)─1─徳川家康の日本は軍事大国であり武器輸出国であった。朱印船。~No.8No.9 

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 徳川家康一人の内政・経済・金融・土木・外交・交易・軍事など多方面での能力は、現代日本の政治家・官僚・司法官・報道官・自衛官・学者・企業家・経営者・メディアなど全ての分野の全ての人間に匹敵する。
 徳川家康を批判する日本人には歴史を正しく理解する歴史力がない。
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 歴史秘話ヒストリア「その一弾が戦国を変える 国友鉄砲」
 チャンネル [総合]
 2020年10月7日(水) 午後10:30~午後11:15(45分)
 ジャンル ドキュメンタリー/教養>歴史・紀行
 ドキュメンタリー/教養>ドキュメンタリー全般
 ドキュメンタリー/教養>カルチャー・伝統文化
 番組内容 戦国時代、偶然もたらされた「鉄砲」。この海外の未知の武器を当時の日本人が導入していく中、鉄砲の超絶技術集団「国友」が登場した。乱世を終わらせたのは彼らだった!?
 出演者ほか 【キャスター】渡邊佐和子
 詳細 戦国時代に偶然漂着した外国船からもたらされた「鉄砲」。この舶来で未知の武器を、日本人は工夫をかさねて瞬く間に国産化した。その中で生まれたのが近江国滋賀県)国友(くにとも)の鉄砲鍛冶職人の集団だった。「国友」の技術の高さは織田信長徳川家康も最優先で獲得に動くほど。しかも鉄砲は単なる武器である以上に太平の世への原動力でもあった。知られざる戦国と鉄砲の関わり、国友の鉄砲職人たちの活躍を紹介する。
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 その一弾が戦国を変える 国友鉄砲
 ●本放送 令和2年10月 7日(水) 22:30~23:15 総合  全国
 ※放送予定は変更されることがあります。地域によっては放送の有無もあります。当日の新聞・最寄りのNHKのHPなどでご確認下さい。
 エピソード1 鉄砲が日本にやって来る BAN!!BAN!BAN!
 日本で初めて鉄砲がもたらされた、すなわち「鉄砲伝来」の場所が九州・種子島です。島の若き領主・種子島時堯(ときたか)の好奇心と刀鍛冶・八板金兵衛(やいた・きんべえ)の悪戦苦闘が鉄砲の国産化、全国普及を実現しました。そしてもう一つ、あの「本能寺」もそれに深く関わっていたのです!
 エピソード2 鉄砲革命の陰に国友あり
 戦国鉄砲の生産地・国友(滋賀県)は戦国大名浅井氏のもと生まれ、鉄砲を多数受注、製作しました。鉄砲の大量投入が勝利のカギだった織田信長の長篠合戦でも、それを支えたのは国友の技術と生産力だったと考えられています。現在まで続く鉄砲作りの技とともに見る「国友」の始まり。
 大河ドラマ麒麟がくる』使用の国友製鉄砲
 エピソード3 国友を制する者 天下を制す
 大坂の陣でも活躍した国友鉄砲鍛冶
豊臣家との戦いに向け徳川家康が考えたのが鉄砲の大型化でした。家康は様々な手段で国友を掌握、国友の職人たちは「百目玉大筒」などの大型鉄砲を開発します。さらに徳川の陣中にもやって来て、戦闘下の支援もしたと考えられています。そして訪れた太平の江戸の世で、国友はどうなっていったのか――。
 参考文献
 『特別展 国友鉄炮鍛冶-その世界-』(長浜市長浜城歴史博物館
 『国友鉄砲の歴史』(湯次行孝 サンライズ印刷出版部)
 『歴史の中の鉄砲伝来』(国立歴史民俗博物館
 『長篠の戦い 信長の勝因・勝頼の敗因』(藤本正行 洋泉社
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 ウィキペディア
 火縄銃(英: Matchlock gun / Arquebus)は、初期の火器(火砲)の形態のひとつで、黒色火薬を使用し、前装式で滑腔銃身のマスケット銃の内で、マッチロック式(火縄式)と分類される点火方式のものをさす。通常、日本では小型のものを鉄砲、大型のものを大筒と称する。
マッチロック式は、板ばね仕掛けに火の付いた火縄を挟んでおき、発射時に引き金を引くと仕掛けが作動して、火縄が発射薬に接して点火する構造である。(詳細は#射法参照)
 火縄銃は、15世紀前半にヨーロッパで発明され、特にドイツにおいて発展した。最古の記録は1411年のオーストリア写本「Codex Vindobona 3069」にZ字型のサーペンタインロック式が見られる 。また1430年代に描かれたサーペンタインの金具の図が残っている。
 現代の日本では銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)の規制対象となっており、骨董品として所有するのにも登録が必要である。
 日本での火縄銃史
 鉄砲と戦国時代
 詳細は「鉄砲伝来」を参照
 戦国時代の日本では、瞬発力においても火薬の爆発力においてもヨーロッパ製のものより高性能のものが用いられていた。
 鉄砲が伝来した当初は、高価な武器であったため武士が用いたが、普及率が高まるにつれ足軽の主要武器の一つになっていったという説がある。
 戦国時代末期には日本は50万丁以上を所持していたともいわれ、当時世界最大の銃保有国であった。
 文禄・慶長の役では日本軍は火縄銃の集団使用で明軍を手こずらせた。明軍は日本軍の瞬発式火縄銃は命中率が高く飛ぶ鳥を落とすくらいだとして特に鳥銃と呼んで恐れた。のち趙士禎が『神器譜』(1598年(慶長3年)から1603年(慶長8年)以降にかけて成立)を執筆する。
 また、築城技術でも火縄銃の性能を活かした横矢掛かり(これ自体はすでに存在していた)などが発達し、赤穂城などに応用された。
 大坂の陣では塹壕戦が第一次世界大戦前に起きていたため日本には相当火縄銃が出回っていたことになる。
 江戸期以降
 大阪堺の鉄砲鍛冶の様子
 日本の銃器が伝来から幕末までの永きに渡り火縄銃の構造から進歩しなかった理由には以下があげられる。
 まず江戸時代に入り、徳川綱吉によって諸国鉄砲改めによる百姓の狩猟及び銃の原則所持禁止、銃器の移動制限がなされたことや、鎖国の影響による技術進歩の停滞という通説が存在する。
 しかしながら、外国で発達した燧発式の技術が当時の鉄砲鍛冶に受け入れられている。試作品も現存し、また応用技術としてその機構を流用したライターも製造されている。また、各大名諸藩で極秘裏に様々な銃器が研究されており、そのバリエーションは多岐にわたる。
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 朱印船は、16世紀末から17世紀初頭にかけて日本の支配者の朱印状(海外渡航許可証)を得て、海外交易を行った船を言う。朱印状を携帯する日本船は、当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船や東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができた。
 背景
 南北朝時代や戦国時代には九州・瀬戸内海方面の武士や海賊が中国、朝鮮沿岸を荒らしまわり、倭寇と恐れられた。16世紀後半になるとポルトガル船が日本に来航するようになって海外への関心が高まり、東南アジア方面にまで進出する日本人も現れた。
 天下統一による統一政権が日本に生まれると交易統制の必要性が発生し、近世ではじめに統一政権を樹立した豊臣秀吉は日本人の海外交易を統制し、倭寇(後期倭寇)を禁圧する必要から、1592年に初めて朱印状を発行してマニラ、アユタヤ、パタニになどに派遣したとされるが、この時のことはあまり資料がない。
 朱印船制度の創設
 関ヶ原の戦いで全国統一した徳川家康は海外交易に熱心な人物で、1600年豊後の海岸に漂着したオランダ船の航海士ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらを外交顧問として採用し、ガレオン船を建造させたほどである。1601年以降、安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャム、パタニなどの東南アジア諸国に使者を派遣して外交関係を樹立し、1604年に朱印船制度を実施した。これ以後、1635年まで350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航した。
 朱印船は必ず長崎から出航し、帰港するのも長崎であった。なお、明は日本船の来航を禁止していたので、(ポルトガル居留地マカオを除けば)朱印船渡航先とはならず、朝鮮との交易も対馬藩に一任されていたので、朱印状は発行されなかった。
 家康の主目的は薫物(香道)の用材に使用する伽羅(奇楠香)の入手で、特に極上とされた伽羅の買い付けに絞っていた(『異国近年御書草案』)。

 朱印船渡航
 交易品目
 東南アジア諸港へ赴く朱印船の多くは中国産の生糸や絹の輸入が目的であった。日本でも絹は古代から産出したが、中国産に比べると品質が悪く、太平の世の到来で高級衣料である中国絹に対する需要が増大したためである。他方、かつて倭寇に苦しんだ明は日本船の中国入港を禁止しており、朝鮮の役で敵対国となってからはなおさらであった。
 明は中国商船の日本渡航も禁止していたが、これは徹底せず、密かに来航する中国船もあったが、日本側の旺盛な需要を満たすには十分な量ではなかった。このため明国官憲の監視が及ばず、中国商船は合法的に来航できる東南アジア諸港で日本船との出会い貿易が行われたのである。中国製品以外にも武具に使用される鮫皮や鹿皮、砂糖など東南アジア産品の輸入も行われた。
 見返りとして、日本からは銀、銅、銅銭、硫黄、刀などの工芸品が輸出された。当時中国では銀が不足していたため、朱印船の主要な交易相手である中国商人は銀を欲した。しかも当時、日本では石見銀山などで銀が盛産されており、決済手段として最も適していた。ベトナムなどには日本の銅銭も輸出された。
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 世界史の窓
 世界史用語解説 授業と学習のヒントappendix list
 朱印船貿易
 16世紀末~17世紀初め、豊臣秀吉徳川家康が行った官制の海外貿易。
 豊臣秀吉朱印船貿易を開始したが、徳川家康がさらに積極的に海外貿易を推進し、朱印船貿易を展開した。貿易の利益を幕府が確保するために、海外渡航船には許可制とし、朱印状を発行し、そのような朱印状を持つ貿易船を御朱印船と言った。島津氏や細川氏などの西国の有力大名や、京都・大坂・堺・長崎の豪商が朱印状を受けて東南アジア各地に貿易船を派遣した。日本銀・銅・漆器などを輸出し、生糸・絹織物・鹿皮・蘇木・砂糖などを輸入した。著名な朱印船貿易家には長崎代官だった末次平蔵、大坂の住吉孫左右衛門、京都の角倉了以茶屋四郎次郎などがいる。
 鎖国政策がとられる直前の1635年まで、日本の御朱印船は台湾、フィリピン、ベトナムカンボジア、タイなどとの交易を行っていた。東南アジア各地に渡航した日本人は、アユタヤやマニラなどに日本町を作り、拠点とした。カンボジアのアンコール=ワットにはこのころに訪れた日本人の落書が残っている。
 徳川家康の時代までは盛んに朱印船貿易が行われたため、キリスト教宣教師の活動も黙認され、南蛮文化も長崎を中心にして拡がっていった。キリスト教禁教令は1587年の豊臣秀吉バテレン追放令以来だされていたので、布教禁止と貿易の矛盾が強まっていったが、1613年、幕府は全国に禁教令を出し、さらに1616年の家康の死によって急速に鎖国政策に傾き、1631年には海外渡航の船には朱印状のほか老中奉書を必要とすることにし(奉書船)、さらに33年には奉書船以外の海外渡航を禁止して朱印船貿易は行われなくなり、35年には日本人の海外渡航、海外からの帰国も全面的に禁止された。
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 和楽
 かつては世界屈指の武器輸出大国!日本人はなぜ鉄砲を捨て、刀を選んだのか?
 2020年03月20日
 澤田真一
 目次
 世界有数の陸軍を持っていた日本
 東アジア各国に武器を輸出
 刀剣と鉄砲の「格の違い」
 戦闘以外の意味合い
 戦国時代の日本は、世界有数の鉄砲保有国だった。
 応仁の乱の頃には影も形もなかった武器が、関ヶ原の戦いの頃になると「当たり前のもの」と化した。それがなければ戦に勝てない。もはや時計の針を戻すことはできなくなったのだ。
 鉄砲の火力を借りて、豊臣秀吉は唐入りを実行した。最終的には寸土も得られなかったとはいえ、鉄砲が失われたわけではない。フビライ・ハーンは2度の日本遠征失敗にもかかわらず、3度目の計画を思案していた。それと同じように、徳川家康が決断を下せばさらに大規模の対外侵攻が行われていたはずだ。
 が、実際にはそうならなかった。
 日本人は鉄砲を捨てたのだ。
 世界有数の陸軍を持っていた日本
 今回はノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人 日本に学ぶ軍縮(中公文庫)』を参考に、筆を進めていきたい。
 ……
 {本書が物語るのは、ほとんど世に知られていない歴史上の出来事である。高い技術をもった文明国が、自発的に高度な武器を捨てて、古くさい武器に逆戻りする道を選んだ。そしてその国日本はこの逆戻りの道を選びとって成功した。
(ノエル・ペリン『鉄砲を捨てた日本人 日本に学ぶ軍縮(中公文庫)』)}
 ……
 {日本人は武士と足軽の混合部隊で朝鮮に出兵したが、所持していた武器たるや、てんでんバラバラであった。部隊の大多数は武士で、伝統的な両刀のほかに少なくとも弓か槍を携えていた。他の兵隊の大多数は鉄砲をかついだ。最初の侵略隊十六万人のうちほぼ四分の一強が鉄砲隊であったとみられる。
(同上)}
 このような軍隊に真正面から戦って勝てる国は、アジアには存在しなかった。朝鮮半島の日本軍を苦しめたのは、極寒の冬と補給の停滞である。
 東アジア各国に武器を輸出
 そんな国だから、当然海外にも武器を輸出していた。
 現代であれば日本製の小銃が海外で販売されることはないが、16世紀はやはり容赦ない時代である。刀、具足、そして鉄砲。日本の兵器製造技術は莫大な利益をもたらし、同時に周辺諸国が日本製の兵器を必要としていた。
 この時の日本は、世界でも五指に入るほどの武器輸出大国でもあったのだ。このことを前提にしないと、以下の話も呑み込めないだろう。
 なぜ、日本の鍛冶師はたった1年で鉄砲という新兵器をコピーできたのか?
 それは初めて見た代物をそっくり真似することができるだけの高い技術力を持っていたということだが、技術力とは利益の下支えがなければすぐに枯れてしまうものでもある。鉄砲伝来の直前から、日本の刀剣は素晴らしい性能を誇る武器として東アジア各国に知れ渡っていた。
 戦争や騒乱があるから技術力が保たれ、西洋の新しい兵器にも対応できる。刀鍛冶は即ち兵器製造業者であることを念頭に置かなければならない。
 刀剣と鉄砲の「格の違い」
 徳川家康豊臣氏を滅ぼした大坂夏の陣は、1615年のことである。
 その3年後、ヨーロッパでは未曽有の大戦争が始まる。現代では「三十年戦争」と呼ばれる出来事だ。
 三十年戦争に介入したスウェーデン国王グスタフ・アドルフは、1632年のリュッツェン会戦で戦死している。霧と極度の近眼が災いし、敵軍の鉄砲隊の前に出てしまったのだ。17世紀のヨーロッパでは鉄砲の進化が著しく、それに並行して戦争が頻発するようになった。
 一方、日本では江戸時代という大平和期が到来していた。
 この時期、日本人は火縄銃をより使い勝手の良い兵器として進化させようとはしなかった。冒頭で書いた通り、日本人は鉄砲を捨てたのだ。
 ノエル・ペリンはその理由をいくつかに分けて書いているが、中でも筆者の目を引いた記述は以下の通り。
 {第三のかなり興味深い理由は、刀剣が日本ではヨーロッパよりもはるかに大きな象徴的意味をもっていたことである。それゆえ鉄砲が完全に刀剣にとってかわった場合、日本においてはヨーロッパにおけるよりも大きな損失を意味したであろう。
(同上)}
 領主が家臣に下賜するものといえば、昔から刀剣と相場が決まっていた。
 即ち、刀は「尊いもの」なのだ。それは鉄砲では果たすことができない役目でもある。
 {また日本刀は、封建ヨーロッパよりもはるかに重要な社会的意味をもっていた。帯刀の権利がなければ、名字さえも持てなかったのである。封建日本にあっては農民、町人は帯刀の権利もなければ、名字もなかった。ときには農民や町人が出世して武士身分を許されることがあった。これは名字帯刀の特権といわれた。
(同上)}
 刀が己の身分を表している以上、鉄砲よりも刀が尊ばれるのはむしろ当然の現象である。
 現に、鉄砲は平民でも所持することができた。江戸時代には裕福な商人の間で火縄銃射撃が流行したことすらある。その一方で、刀には「聖域」が存在した。平民が気軽に所持できるものではなかったのだ。
 さらに江戸時代の日本は、島原の乱や文化露寇という例外を除けば全くの無風状態だった。兵器としての鉄砲は、全くと言っていいほど需要がない。こうして日本人は、近世以降の戦争に必要不可欠な鉄砲を自発的に捨てたのだった。
 戦闘以外の意味合い
 戦国時代当時も、日本刀は実用目的より「お守り」としての役割が強かったようだ。
 実戦でも、じつは日本刀が用いられる場面は少ない。路上の喧嘩でもそうだが、格闘とは「殴り合い」よりも「取っ組み合い」になる可能性が高い。立っている相手にタックルを仕掛けてマウントポジションを取り、素早く短刀を取り出して止めを刺す……というプロセスの格闘術である。
 しかし、いや、だからこそ、長大な刀は戦闘以外の特殊な意味合いを帯びるようになったのだ。
 それが日本に2世紀半の平和時代をもたらしたことは、まさに逆説的な現象である。
 澤田真一
 ノンフィクションライター、グラップリング選手、刀剣評論家。各メディアでテクノロジー、ガジェット、ライフハック、ナイフ評論、スタートアップビジネス等の記事を手がける。
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