🌈9)─1・A─縄文文明は大陸から好戦的異民族が大量移動して衰退し崩壊した。⦅8⦆〜No.18 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 所詮、現代の日本人、特に1980年代後半以降の日本人で人類史的世界史的大陸的な「多様性」が理解できない。
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 縄文時代縄文人は、弥生時代弥生人とは違って血生臭とは無縁であった。
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2022-09-18
🔯19」─1─なぜ、古代人は“人間”を生贄に捧げたのか?その意外な理由。~No.59No.60 
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 歴史的事実として、日本・日本民族は被害者であって加害者ではない。
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 『縄文文明の環境』  安田喜憲 著  吉川弘館 
 ……
 「民族大移動と日本人のアイデンティティ
 民族大移動が縄文文明を崩壊させた
 3200年前の気候変動
 私は、3500年前から2500年前、つまり紀元前1500年から紀元前500年のあいだに、気候大変動があったのではないかと考えている。そしてその気候変動が、文明の盛衰にきわめて大きな影響を及ぼしたということを提示した(安田喜憲『気候が文明を変える』岩波書店、1993年)。その1000年間は激動の1000年であった。
 この問題を最初に指摘されたのは、鈴木秀夫氏である。鈴木氏は、1976年から78年にかけて、あいついで気候変動についての本をお書きになった。一番最初にお書きになったのは、『超越者と風土』(大明堂、1976年)、もうひとつは『気候と文明』(朝倉書店、1978年)である。そのなかで、鈴木氏は次のような見解を提示された。地中海の真ん中に、サントリーニ島という小さな島があり、紀元前1500年頃に大爆発を起こした。その大爆発によって、巨大な津波が起こり、それがクレタ島を襲ってミノア文明を崩壊させた。同時に、サントリーニ島の大爆発は、大気中に大量の火山灰を吹き上げ、これが気候の寒冷化をもたらした。この気候の寒冷化が、民族の大移動、あるいは文明の盛衰に大きな影響をもたらしたのではないか。さらに鈴木氏は、この気候の変動が唯一神つまり一神教の誕生をもたらした、というところまでおっしゃられた。
 しかし、鈴木氏がはじめてこの問題をお書きになった当時は、東大教授でありながらおかしなことを言い出した、といわれて地理学会では批判がまきおこった。学会のなかでは、先生の風土論は『環境決定論』として不当な批判を受けた。いまから20年ほど前には、気候の変動が文明の盛衰に大きな影響を与えた、というと、誰もが拒否反応を示した。人類の歴史は、気候変動などに左右されず、階級闘争や政治、経済が動かすのであって、気候の変動が、文明に影響を及ぼすはずなどあい、という考えが大半を占めていたからである。
 私は、鈴木氏の説に非常に強い影響を受け、それはおそらく正しいだろうと思った……。
 ……。鈴木氏がおっしゃっていた、サントリーニの大噴火が気候変動を引き起こしている可能性についても因果関係はまだ完全には解明されていない。……。
 ……。
 気候変動と民族移動
 この3200年前の気候変動を契機として、ヨーロッパではゲルマン民族の小移動が引き起こされたと鈴木氏(『気候の変化が言葉をかえた』NHKブックス、1990年)は指摘している。ゲルマン人が気候の寒冷化の中で南下し、ケルト人をライン川東岸から追い出した。こうしてヨーロッパにおける北から南への民族移動の波が、バルカン半島にも及んだ。それがドーリア人やフリギア人の移動となって表面化した。
 このドーリア人やフリギア人の移動が、ミケーネ文明やアナトリア高原のヒッタイト帝国の崩壊に決定的な意味をもたらした。東地中海沿岸部では海の民とよばれる民族の略奪が横行した。またこの時代、ユーラシア大陸の内陸部から地中海沿岸にむかって、スキタイ系諸族の大移動もみられた。
 このように3200年前頃にはじまる気候の寒冷化は、地中海沿岸を民族大移動の嵐にまき込んだ。こうした民族大移動の嵐は、インダス川流域にも及び、アーリア人が南下して先住民のドラヴィダ族をインド南方に追いやったのもこの頃である。
 ……近年の研究では、こうした古代文明は民族が移動・侵入する以前にすでに衰退期に入っていたことが明らかとなっている。
 ミケーネ文明は、森林を破壊した文明だった。かつてミケーネ文明は、大量のミケーネ式土器と、大量の青銅器を輸出していた。土器と青銅器をつくるには、大量の燃料としての薪が必要である。さらにそれを輸出するためには、船をつくらなければならない。それには木がないとできない。ところが、現在ミケーネに行くと、そこにはまったく森林はない。おそらく文明の末期には、森林資源の枯渇が引き起こされていたと考えられる。たとえば、ミケーネ式土器を焼く窯が、森林資源を求めてどんどん山奥に移動していくという痕跡があるからである。
 そのようにして、文明が森林を破壊することにより、また人口の増圧もあって、文明の末期には自然と人間の関係はぎりぎりの状態だったと思う。そこへ3200年前に気候変動が起こり、文明が弱体化した。そうした文明が弱体化したところに、気候の寒冷化によって異民族が流入してきた。このような仮説を、私(伊東俊太郎安田喜憲『文明と環境』学振新書、1995年)はクライマティック・ショックと名づけている。こうしてミケーネ文明は崩壊した。安定した状態ではクライマティック・ショックは起こらない。森林破壊、人口圧といった諸要因の上に気候変動と民族移動が重なって、はじめて文明はカタストロフフィックに崩壊する。
 東アジアにも存在した寒冷化と大民族移動
 私は地中海世界と同じことが東アジアでも引き起こされたと考えている。
 ……、阪口豊氏(『尾瀬ヶ原の自然史』中公新書、1989年)の、尾瀬ヶ原の花粉分析の結果である。阪口氏のデータによると、3400年前からやや寒くなり、3200年前頃に一度急激に寒くなる。
 ……こうした3200年前の日本列島の気候変動については、拙著『気候が文明を変える』(岩波書店、1993年)を参照されたい。
 鈴木氏はこのような説を唱えている。この気候の寒冷化により、北方から異民族が南下した。そのある一方は、東南アジアを通ってポリネシアのほうへ移動していった。別の一方は日本にやってきた。
 日本の稲作が始まったのは、これまでは2300年前、つまり紀元前3世紀頃であるといわれていた。ところが、唐津菜畑遺跡や、最近では岡山県の遺跡の調査から、稲作の起源は2700年前から3000年前くらい前に確実に遡ることがわかってきた。……ところが、縄文時代晩期から稲作があるわけだ。では、稲作をもたらした人は何者か、ということである。しかも、稲は非常に寒い時代に日本列島に伝播している。本来は南方的な作物だから、暖かい時代でなければならないはずだ。ところが、気候は明らかに3200年前から寒冷化の傾向を示している。南の作物が、なぜ寒冷期に伝播するのか、という矛盾を解決しなければならない。
 それは、民族大移動で説明できると思う。つまり、気候変動によって北から民族が南下してくる。中国は大混乱におちいり、殷・周革命・春秋戦国時代の混乱期がはじまる。そのなかで、おそらくは社会的な動乱を逃れた人々が、国を脱出するためにポート・ピープルになり、これが初期の稲作をもたらしたのではないかというのが私の仮説である(安田喜憲『日本文化の風土』朝倉書店、1992年)。
 ちょうどこの時代はまた漢民族の形成の時代に相当する。この漢民族の爆発的拡大が、多くの人々を海上に押し出し、その一派が日本列島に難民となって到達した。すでにのべたように、江南を中心とする航海技術は、この時代に大量の人々の渡海を可能にするまで発展していた。
 埴原和郎氏は、さらにその後弥生時代に入ると、朝鮮半島を経由して、北アジアツングース系の人々が大量に渡来し、移住したと指摘している。彼らは男性のみではなく女性をともなった組織的集団であり、渡来集団のみで独自にコロニーを作り、稲作の拠点集落を形成することが可能だった。
 こうした3200年前頃に顕著になる気候の寒冷化を契機として、大陸から大量の民族の移動があった。彼らは稲作という新しい生産手段をもった人々であり、かつ在来の縄文人と混血しなくても独自のコロニーを維持できるだけの集団の大きさを有していたとみなされた。
 鈴木隆雄氏(『我が国の結核症の起源と初期流行についての古病理学的研究』埴原和郎編『日本人と日本文化の形成』朝倉書店、1993年)が指摘したように、彼らはまた結核のような新たな病気をもっていた。新たな稲作という生産手段と金属器そして結核のような恐ろしい病原菌をもった集団が、気候悪化の時代に日本列島に漂着したのである。その時がまた縄文文明崩壊の第一歩でもあった。渡来集団にとっては新天地への第一歩であっても、縄文人にとっては死滅への第一歩だった。それは白人がインディアンの文明を崩壊させる端初となったメイフラワー号の漂着と同じだった。
 戦争のはじまり
 新たにやって来た集団は、恐ろしい人々であった。彼らは他部族を信用しなかった。明白な階級支配と男性原理中心の社会制度を有していた。そして人を殺す武器を持っていた。村を作るには周囲を環濠でとりまき、厳重に防御柵が構築された。そして稲作で生まれた富を蓄積し、富をめぐる戦争や殺しあいが日常茶飯事となった。縄文人の村への略奪さえ行われた。特に女性はその標的になったことであろう。
 海岸に漂着し、突然姿をあらわしたこの新参者たちは、自らのテリトリーをはっきりと区画し、縄文人たちの自由な生活空間をつぎつぎとうばっていった。彼らは縄文人のみたこともない金属器を持ち、食べたこともないおいしいお米や餅を持っていた。
 新参者に関心を示し、近づいた縄文人たちはつぎつぎとえたいのしれない病魔にとりつかれて死んでいった。彼らが持ちこんだ病気は縄文人のあいだにまんえんした。結核などの流行病に対して抵抗力のなかった縄文人は、この時はじめて凄惨な大量死に直面した。
 たえかねた縄文人が時には反乱をくわだてたかもしれない。しかし、縄文人は新参者の敵ではなかった。石器しか持ったこともなく、戦争の体験もない縄文人は、金属器を持ち大陸での大動乱の中を生きぬいた百戦錬磨の新参者の敵ではなかった。
 こうして縄文文明は新たにやってきた大陸からの移住者によって崩壊させられていったのである。これまで私は気候悪化の中で縄文文化は自滅していったと考えていた。もちろん3200年前に顕著となる気候の寒冷化が、縄文時代晩期の人々の生活を苦しくし、縄文文化が衰退期に入ったことは事実だ。しかし、衰退期に入った縄文文明を崩壊に導いた決定的な要因は、稲作と金属器をたずさえた大量の渡来民たちであった。
 北米のインディアンの文明を、中南米のマヤやインカの文明を崩壊に導いたのは、鉄砲という新手の金属器とインフルエンザやハシカ、天然痘などの新手の流行病をもった白人たちであった。それと類したことが縄文文明の崩壊期にも引き起こされたにちがいあるまい。
 平和裏の融合
 弥生時代の土器の研究から家根祥多(やねよしまさ)氏(『縄文土器出現─歴史発掘2─』講談社、1996年)は、興味深い指摘を行っている。弥生土器朝鮮半島の無文土器の系譜をひいており、こうした無文土器を作る人々が稲作を持って渡来したことは確実である。その場合、福岡県曲り田遺跡では、朝鮮系の無文土器の甕(かめ)が30パーセント、縄文土器の深鉢が60パーセント存在する。このことから家根氏は、新たに渡来した人々は、縄文人と同じ集落に住み、村の住人の3人に1人は渡来人であったろうと推定している。
 このように争いをともなわず、新たに渡来した人々が、在地の縄文人と平和裏に融合して共に生活をした場合もあった。いなむしろその方が多かったかもしれない。在地の縄文人が積極的に渡来した人々を受け入れ、ともに仲良く暮らしていたと解釈できる事例が多い。古くから朝鮮半島との交流があった北九州では、言語の面においても十分に意志の疎通が可能であったかもしれない。
 縄文人弥生人が平和裏の内に共存し、生活していたとすればこれほど美しい話はない。曲り田遺跡は、異文明融合のシンボル的遺跡であるとみなすことができるかもしれない。
 少数の渡来集団を在地の縄文集団がとりかこみ、同化・吸収していく中で、新たな弥生時代が始まったのか、それとも大量のポート・ピープルが渡来し、彼らがコロニーを形成していく中で、縄文人アメリカ・インディアンのように辺境の地へと追いやられていったのか。
 二つの歴史の見方は、まったく異なっている。二つとも正しいのであろう。渡来民の数が少ない場合には前者の、そして渡来民の数が多い時には後者の形態をとる場合が多かったとみなされる。
 いずれにしても、縄文文明の崩壊は、これまでにない渡来集団の移住があってはじめて引き起こされた〝縄文1万年目の大変革〟であった。その大変革は渡来集団の移住なくしては引き起こされなかったことだくは確かである。
 民族大移動の中で崩壊した縄文文明
 日本の縄文文化は、春は山菜、夏は魚貝類、秋には木の実、冬は狩猟という、森の季節の変化に歩調をあわせた自然=人間循環系の文明を長らく維持してきた。それはちょうどエジプト文明ナイル川の定期的洪水氾濫にたんたんと文明の歩調をあわせてきたのと同義であった。
 この日本の豊かで安定した生産性を保障する森の核として自然=人間循環系の文明は、たいへん永続的であった。もちろん、後氷期の気候変動による環境の悪化によって、縄文人の生活は大きなダメージをこうむった。中部山岳の縄文時代中期の文化の突然の崩壊、巨大な三内丸山遺跡の放棄など、気候悪化にともなって縄文時代の集落が廃絶した例は枚挙にいとまない。
 縄文時代草創期・早期・前期・中期・後期・晩期という土器型式と文化総体の変容は、日本列島を襲った気候変動期とじつにうまく対応している。草創期から早期への転換期は1万前の急速な地球温暖化の時代であり、早期から前期への転換期は6500年前のヒプシサーマルの高温期の到来の時代であり、前期から中期への転換期は、ヒプシサーマルの高温期の終焉にともなう寒冷化の開始期であり、中期から後期への転換は縄文再海進とよばれる高温期の開始期であり、後期から晩期への転換期は、縄文時代晩期の気候寒冷期の開始期に相当しているのである。
 このようにみれば日本の縄文文化は、後氷期の気候変動にほんろうされたということができる。ちょうどエジプト文明ナイル川の水位の変動にほんろうされたように、縄文文明は後氷期の気候変動にほんろうされたのである。
 しかし、ほんろうされても、日本の縄文文明は1万年以上にわたって永続した。その1万年以上にわたって永続し、なんどにもわたって気候悪化の危機をくりぬけてきた縄文文明が、なぜ3000年前頃の気候悪化を契機として衰退するのか。
 その背景にはすでに述べたように、この気候悪化が、大陸からの民族移動をともなっていたからである。縄文時代晩期の寒冷期に匹敵する寒冷期は過去にも7000年前、5000年前など何回もあった。にもかかわずこの3500年前から2500年前の激動の1000年間の寒冷期のみが縄文文明の崩壊を決定的な意味を持った。その理由はやはりこれまでに経験したことのない規模での大陸からの民族移動をこの時代の気候変動が引き起こしたからである。そしてその大陸からやって来た人々は、縄文時代の森を核とした自然=人間循環系の文明とはまったく異なった文明システムを持っていた。その新たな人々が持ち込んだ稲作という生産方式と人殺しの武器を持つ文明の価値体系が、縄文文明を崩壊させたのである。さらに、新たにやって来た人々が持っていた新手の病気などが、縄文人を直撃し、これが縄文文明のパワーを根底において減衰させたのである。
 このように日本の縄文文明の崩壊をもたらした最大の要因は、大陸から稲作というこれまでにはなかった新しい生産様式と、文明の価値体系と社会制度を持った人々の大量のであったと考えることができる。
 これまでにも気候の悪化によって縄文文明は何度も危機に直面した。そうした危機にもかかわず縄文文明は1万年以上の長きにわたって永続した。しかし、3500年前にはじまる激動の1000年間の気候の悪化が、縄文文明の崩壊に決定的な意味を持った。それは、この時代の気候の寒冷化が、縄文文明とはまったく異質の価値体系と生産様式をもった人々の大量の移住をもたらしたからにほかならない。
 こうした大陸からの大量の民族の結果、縄文文明は
崩壊せざるをえなかったのである。そしてその時、はじめて日本人は稲作農業を本格的に受け入れたのである。」
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縄文文明の環境 (歴史文化ライブラリー)
縄文vs.弥生 ――先史時代を九つの視点で比較する (ちくま新書)
日本の先史時代 旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす (中公新書)
知られざる弥生ライフ: え? 弥生土器なのに縄文がついたものがあるって本当ですか!?
弥生時代の歴史 (講談社現代新書)
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 縄文時代は、弥生時代に比べて未開で野蛮で貧しかったわけではなく、中国大陸や朝鮮半島に比べて平和で穏やかで独自の文化や宗教が存在していた。
 縄文人は、約1万年の間、意欲的に積極的にそして能動的に生き、独自文化を生み出し地域文明を築き、それら全てが現代の日本列島に息づいている。
 が、現代の日本国や日本人とは無関係に近い。
 縄文時代には、人種・民族において、日本民族・日本人は存在しなかったのと同様に、漢族・中国人も朝鮮人、韓国人も存在しない混沌とした人間社会であった。
 つまり、数万年前の石器時代縄文時代にせよ、数千年前の弥生時代古墳時代にせよ、日本は中国や朝鮮に感謝すべきであるが恩義を感じる必要はない。
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 人類史、文明史において、人口激減する先住民族世界に戦闘異民族が大量移住すれば、新参異民族は、先住民族から土地を奪い抵抗する者は根絶やしにし、従順に命令に従う者は奴隷とし生かし、新たな王国を築き新たな文明を興す為に古い先住民文明を地上から消滅させた。
 中国大陸や朝鮮半島から渡ってきた大量の渡来人移民達が、平和主義で人の好い縄文人を殺害して土地を奪い、戦争のない静かな縄文文明・縄文文化、縄文世界・縄文社会を滅ぼし、日本列島を中国大陸や朝鮮半島のような殺し合う地獄の様な弥生の大乱へと追い込んだ。
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 日本民族にとって縄文人(日本土人)も弥生人も同じ祖先であるが、琉球民族アイヌ民族の祖先は縄文人だけである。
 現代日本人は、日本国民として縄文人より弥生人に近い。
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 天皇・皇室は、縄文人の平和な心を弥生人の戦争の心の中に蘇らせる為に生まれた。
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 歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国、韓国・北朝鮮
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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 大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、第32代崇峻天皇を暗殺した。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
 894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
 『韓国人に不都合な半島の歴史』 著者 拳骨たくみ「太宰府が4月16日に送った報告書が『朝野群載』(巻20)に記載されている。
 その記述によると、彼らは畠を食いつくし、馬や牛、犬の肉まで食べたという。年寄りから子供らはみな惨殺され、壮年の男女400~500人は船に乗せられ拉致された。
 ……
 高麗海軍による攻撃を受ける最中、賊たちは日本人捕虜たちを殺したり、す巻きにして海に投げ込んだりした。
 高麗は日本人を救出し、300人余りが助かったと生存者の供述書に書かれているが、この時点で拉致された人々の80%近くが死亡していることがわかる。
 ……
 一方の日本は、高麗に対して不信の念を強くしていた。
 権大納言藤原実資は、『賊は刀伊ということだが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐために自分たちを派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか』との見解を示した(『小右記』)。
 この不信感には先述したように、かつて新羅による海賊行為がしばしば見受けられたことで、裏で高麗が糸をひいているのではないかと考えられたからに他ならない。
 これらの事例からも、日本が韓国を古来から尊敬していたなどという話は、まったくの架空であることがわかるだろう。
   ・   ・   ・   
 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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 1405年~1433年 明の永楽帝イスラム教徒で宦官の鄭和は、大艦隊を率いて南海遠征を行った。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
 朝鮮軍、227隻、1万7,285人。
 島民114人を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
 対馬守護代宗貞盛は反撃し、朝鮮軍2,500人(一説では3,700人)を撃ち取り、日本側の戦死者は123人。
 朝鮮軍は、台風を恐れて全軍撤退し、事実上の敗走であった。
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 1428年 世宗大王は、日本からコメ作りや水車の製造など多くの事を学んだ。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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